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両大戦期のイギリス帝国に関する話題がメインです

1918年西部戦線におけるオーストラリア軍団の戦い④ アメル

 

 モナシュはこれまでの経験を踏まえ、現在直面している戦争を戦い抜くためには歩兵の心身の卓越や規律だけでは不足で、機銃、迫撃砲、火砲、戦車、航空機といったテクノロジーとの効率的な協同により、最小限の損害をもって戦果を得ることが不可欠であると考えていた。オーストラリア軍団はイギリス帝国軍の右翼の前線を担当していたが、モナシュはヴィレル・ブルトンヌの防衛を安定させるためには、隣接する小村アメルのドイツ軍突出部(オーストラリア第4師団の前線)を攻撃する必要があると判断した。6月18日、第4軍司令官ローリンソンはモナシュに対し、歩兵の損害を減らすためにもアメルの攻撃に際しては戦車を伴うべきだと指示、モナシュも同じころ、新型のマークⅤ型戦車(モナシュ曰く「奇異なモンスターたち」。兵士の中には「ワラジムシ」に例える者もいた)の有効性を把握していた。ブレイミーや第4軍参謀長アーチボルト・モントゴメリー少将らを交えて入念に検討した結果、作戦開始日は7月4日(アメリカ独立記念日であり、共に作戦に参加することが決まった新兵のアメリカ軍部隊に対する士気高揚の狙いもあった)と設定され、ヘイグも6月25日にこれを認可した。作戦にはイギリス軍第5戦車旅団の戦闘用戦車60輌と輸送用戦車4輌が加わり、火砲600門が作戦を支援し、航空隊も地上攻撃や補給物資の投下を行うこととされた。歩兵部隊としては第2師団の第6旅団、第3師団の第11旅団、第4師団の第4旅団およびアメリカ軍第33師団第131・第132連隊からの10個中隊を含めた、1個師団規模の戦力が充てられた。

 

 1917年4月のブレクールの戦いでは、マークⅠ型戦車の機械的信頼性が低かったこともありオーストラリア第4師団は多くの損害を受けており、このことから第4師団長のマクラガン少将をはじめとして、オーストラリア軍の中には戦車に対する否定的な印象を持つ者が少なくなかったが(参謀長のブレイミーも火砲の支援を重視して戦車に対しては過度の期待はしていなかった)、事前に諸大隊が戦車旅団と演習をする過程でそれを払しょくしていき、兵士たちは各戦車の車体に愛称を書きこむに至った。6月末日にかけては航空機による偵察や敵陣地に対するガス弾や煙幕の発射が行われ、重砲も前線に移動された。7月2日、ビリー・ヒューズ首相がオーストラリア軍団を訪問したが、その際兵士たちの作戦行動が近いことを知って、深い感慨を覚えたという。作戦前日の7月3日、機械音を航空機の爆音で紛らわしつつ戦車が前線まで移動し、歩兵の各大隊も配置が進められた。ところが同日午前、アメリカ軍部隊が他国の指揮官の下に置かれることをよしとしないジョン・パーシング大将の命令により、急きょアメリカ軍10個中隊のうち6個が前線から引き上げられてしまう。残りの4個中隊も午後4時には引き上げられるべきだとされたが、モナシュはここで命令を了承すればオーストラリア軍兵士たちは二度とアメリカ軍と作戦をしなくなるだろうと危惧し、午後5時にローリンソンに対して「軍司令官の地位を保つことよりもオーストラリア兵とアメリカ兵の信頼関係を保つことの方が」重要であり、もしアメリカ軍中隊を引き上げるのならば作戦を中止すると反論した。結局午後7時のヘイグからの指令もあって、作戦は残っているアメリカ軍中隊を含めて予定通り実施されることで落ち着いた。安心したモナシュは午後7時30分過ぎに一足早くベッドに入ったが、航空隊は午後10時から深夜にかけて夜間爆撃を実施、その間に戦車は最終位置まで移動を済ませた。

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戦いを前に兵士たちの前で演説するビリー・ヒューズ首相。出典:Australian War Memorial

 

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アメルにおけるオーストラリア兵とアメリカ兵。出典:Australian War Memorial

 

 7月4日午前3時2分、準備砲撃が開始され(流れ弾により味方歩兵にも損害が出るという不運も一部では発生した)、午前3時10分には主砲撃とともに各大隊の歩兵が戦車を伴って前進を開始した。この時オーストラリア第5師団の前線においても、第15旅団が北方のヴィル・シュル・アンクレへの陽動攻撃を実施していた。ドイツ軍側は不意を突かれて主攻勢がどこか把握できず、しかも銃砲火とともに張られた煙幕を毒ガスと警戒した兵士たちはガスマスクを装着する手間が生じ、これは攻撃側にとって有利に働いた。しかし第4旅団が攻撃したドイツ軍陣地においては、手りゅう弾や銃剣による肉薄攻撃を行うまで抗戦をやめない箇所が見られたり、モナシュの理想に反して戦車の支援が間に合わない局面が生じたりするなど、戦闘は血生臭いものとなって両軍には少なからず犠牲が生じた(第4旅団第15大隊は反撃によって死傷240という大きな損害を受けている)。それでも個々の兵士たちの中には目覚ましい奮闘を見せる者も見られ、第15大隊A中隊の兵士ヘンリー・ダルジエルは拳銃を手に塹壕に飛び込み、片手と頭部に傷を負いながらドイツ軍の銃座を制圧し目標の占領に寄与したとして1000人目のヴィクトリア勲章受章者となった(重傷だったが奇跡的に生還し、1965年に72歳で死去。1956年にはかつて自分が闘ったアメルの地も訪問した)。第4旅団第16大隊D中隊のトマス・アクスフォード兵長もまた、1916年のポジエル戦を経験した古参兵だったが、手りゅう弾と銃剣をもってドイツ兵10人を倒して塹壕を制圧、その奮戦は死傷者を軽減することにも繋がったとしてヴィクトリア勲章を授与された。

 

 一方、南方の前線を担当した第6旅団では砲撃と戦車の支援が上手くかみ合ったこともあり、第4旅団よりは少ない損害率で目標を制圧することが出来た。最も多い27輌(予備6輌)の戦車に支援されてアメルの村への攻撃を担当した第11旅団の作戦も概ね順調に進んだ。作戦開始から約93分後の午前4時43分には全ての部隊が目標地点に到達、周囲の掃討も数時間後には終了し、翌5日にかけて行われたドイツ軍の反撃も撃退に成功した。作戦全体を通しての損害はオーストラリア軍が死傷約1,200(第4旅団が最も多く、死傷504)、アメリカ軍が死傷176、戦車隊の損害は死傷13、戦車の損傷ないし破壊5輌(いずれも後日回収された)というものだった。一方ドイツ側に与えた損害は死傷約2,000、捕虜約1,600(若年の者が多く含まれており、西オーストラリアの鉱山に出稼ぎ経験があって英語が解る者もいたという)、鹵獲火砲2、機関銃177、迫撃砲32というものだったが、防衛側よりも低い損害で戦果が得られた点は、1917年のカンブレーの緒戦の成功に匹敵するものだとして評価された。

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アメルの戦いで撃破された戦車のうちの1輌。出典:Australian War Memorial

 

 

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アメルの占領後、負傷者の捜索に当たる兵士たち。出典:Australian War Memorial

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集められたドイツ軍捕虜。出典:Australian War Memorial

 

 アメルは1個師団以下の戦力による比較的小規模な作戦だったが、モナシュが言うところの「オーケストラ」を思わせる諸兵科連合は、「タイムテーブル通りに」申し分ない成功を見せることになった。オーストラリア軍兵士たちの多くは、歩兵の損害を軽減し機関銃陣地の制圧に大きく寄与したとして(「醜い外見と不格好な動き」という感想も見られたが)戦車の働きぶりを高く評価し、モナシュも自身の著作の中で、戦車旅団とその将校たちの活躍に対して賛辞を送った。輸送用戦車や航空機が進撃箇所に弾薬や必要資材の輸送・投下に努めた点も無視できない要素であり、これにより機関銃隊は戦闘力を維持し、新たな占領地の防備を早急に行うことが出来た。「サミー」「ダフボーイズ」とあだ名された新兵のアメリカ軍兵士たちも、ローリンソンからは「トラのような奮戦」、モナシュからは「果敢に任務を果たした」と称賛され、「オージー」「ディッガー」とあだ名されたオーストラリア軍兵士たちとの関係も(作戦開始前には小ばかにしてくる古参兵も存在したとは言え)概ね良好であった。

 

 1918年6月中旬にはフランス第10軍のシャルル・マンジャン大将がマーツ川の前線で既に戦車を用いた攻勢を既に成功させており、アメルの戦いやモナシュの作戦立案のみを特別視するのには慎重になるべきだという見方も存在する。しかしながらイギリス軍は、アメルから価値ある諸兵科連合のモデルを得ることが出来た。ジョン・フラーは「迅速さと完璧さにおいてアメルに比肩できる戦いはない」と評し、戦車隊の評価を高める上ではアメルはカンブレーよりもむしろ重要であったとも主張した。7月18日から8月初頭にかけて連合国軍がマルヌ川の前線で実施した、新型のルノー軽戦車を投入した大規模反撃 (連合国軍側の人的損害は10万以上、戦車の損失は100輌以上にのぼるなど相応の犠牲も出たが、捕虜を含めてドイツ側に与えた人的損害は16万以上、鹵獲火砲800という戦果が得られ、連合国側の士気に与えた影響から1918年の「ターニングポイント」とする見方もある)もまた、モナシュがアメルで示した理論を強化するものと見なされた。ヘイグの再評価を試みたことで知られる軍事史家ジョン・テレンもその著作でアメルを「模範的勝利」「傑作」と称賛、アメルは一部においては「最初の現代戦」として喧伝されるまでになった。

 

 

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オーストラリア軍団を訪問したクレマンソー首相。クレマンソーの隣は第4師団長のマクラガン少将、後ろにはモナシュ。出典:Australian War Memorial

 

 アメルの勝利がヴェルサイユに知らされると、フランスのジョルジュ・クレマンソー首相は7月7日に急きょオーストラリア軍団の第4師団司令部を訪問、兵士たちの前で英語による演説を行った。演説ではオーストラリア軍兵士たちの勇敢さや作戦の遂行が、ヨーロッパの人びとを驚かせ得る見事なものであったことが語られ、兵士たちは大歓声をもってこれに応えた。一方ドイツ軍側もアメルを契機に、オーストラリア軍団は(ヴィミーやパッシェンデールで見せたような)カナダ軍団に匹敵する練度を誇る手ごわい相手であることを認識するようになったといわれている。オーストラリアの新聞各紙にも、戦いから1週間以内にはアメルの詳細を伝える記事が掲載された。ビーンやマードックによる記事においては、兵士たちの卓越性はもちろんのこと、戦車がかつてない規模で活躍を見せた(あるいはブレクールの「悪夢」を払しょくした)こと、ポジエルやパッシェンデールに匹敵する戦いであったことなどが力説されていたが、諸兵科連合という作戦史上の意義については同時代の段階ではほとんど強調されず、ましてや「戦局のターニングポイント」として語られることもなかった。このような事情も関係してか、アメルは少ない犠牲で成し遂げることが出来た輝かしい勝利であったにもかかわらず、オーストラリア軍にとっての「ヴィミー・リッジ」とはなりえず、作戦史上の重要性とは裏腹に、少なくともオーストラリアの戦争の公的記憶においては(皮肉なことにより多くの犠牲を伴ったポジエルやブレクール、メシヌ、パッシェンデールといった戦いに比べて)周縁化されていく傾向が否めないものとなった。

 

 

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トマス・アルバート・ブレイミー(1884-1951) 出典:Australian War Memorial

ニューサウスウェールズウォガ・ウォガ近郊の肉屋の家に生まれる。パブリックスクールで学んだ後当初は西オーストラリアで教職に就いたが、1906年に士官候補生試験に合格。1912年よりインドのクエッタの幕僚学校で学び翌年卒業、1914年にはさらなる研鑽を積むべくイギリスへと渡った。第一次世界大戦が勃発すると、少佐だったブレイミーはブルードネル・ホワイトに見出され、オーストラリア第1師団の幕僚となってガリポリ戦役を経験、1915年7月には中佐となりエジプトでの第2師団編成にも尽力した。西部戦線に移ってからは第1師団参謀長として1916年のポジエルの作戦立案などに携わり活躍する。1918年6月にモナシュによりオーストラリア軍団参謀長に抜擢され、アメルからヒンデンブルク線に至るまでの作戦でモナシュを補佐し、その勤勉さと参謀将校としての能力を高く評価された。大戦後の1919年には参謀次長を務め、オーストラリア空軍の創設に寄与。1922年よりロンドンでオーストラリア幕僚代表を務めた後、1925年にオーストラリアに戻ったが、彼の早すぎる出世に対する周囲の反発も影響して、同年退役することになった(ミリシア部隊での役職は継続)。その後ヴィクトリア警察長官のポストに収まったが、警察が捜査に踏み込んだ売春宿でブレイミーの警察バッジが見つかるというスキャンダルが間もなくして発生し、それまでの名声が大きく揺らいでしまった。警察長官としては警察犬や無線付き自動車などの新技術導入の業績をあげたが、労働党政権時代のブレイミーは保守的・権威主義的な人物であり、右翼団体「ホワイト・アーミー」との関係性が指摘され、労働運動に対処する姿勢も暴力的で冷酷なものと見なされていた。1935年にナイトの称号を得たが、翌年警察幹部の不祥事を擁護するための偽証が発覚。警察長官を辞職に追い込まれ、1937年には市民軍の指揮権も放棄した。しかしブレイミーの能力や軍隊経験を高くかっていたロバート・メンジーズらは彼の援助を続けており、メルボルンでラジオ放送事業を手掛けたことで収入も得ることが出来た。その後1938年に連邦兵力委員会の委員長を任されて復権し、世界でファシズムの台頭が騒がれる中での市民軍の規模拡大に貢献した。1939年に第二次世界大戦が勃発するとブレイミーは第2次オーストラリア帝国軍の司令官に就任し、中東に派遣された後には中東軍のアーチボルト・ウェーヴェル大将の下でオーストラリア軍団を指揮した。1941年のギリシアの戦いにおいて作戦への懸念をメンジーズ首相に伝えなかった点は大きな批判にさらされたが指揮は継続し、大きな損害を伴いつつも軍団をギリシアから撤退させた。その後中東のイギリス連邦軍司令補佐に就任、シリア攻略やトブルク防衛では成功を収め、大将に昇進する。小柄かつ肥満体だったことや「大酒飲みの女たらし」という悪評を伴っていたこともあり、オーストラリア軍将兵たちからの支持は必ずしも盤石なものとはならなかったブレイミーだが、ウェーヴェルは彼の指揮官としての能力や熱意を高く評価していた (ただしウェーヴェルの後任のオーキンレックはやや批判的な評価だった)。1942年にオーストラリアに戻り、オーストラリア陸軍総司令官に就任、日本からの本土防衛のための兵員の質的向上に尽力した。南西太平洋方面軍司令官のダグラス・マッカーサーの下で地上部隊を指揮することになり、1942-43年にかけてのニューギニアの戦いでは日本軍の進攻阻止に成功した(その際日本軍将兵に対する人種主義的発言も辞さなかった)。しかし1944年のブーゲンビル島やニューブリテン島での作戦では、その必要性をめぐって批判にさらされた。1945年9月の日本の降伏文書の調印式にはオーストラリア代表として出席したが、同年12月には軍を退役することが決まった。退役後は帰還兵の支援事業に専念する一方、1948年には日本を再訪問するなどしている。メンジーズ政権成立後の1950年6月、ブレイミーはオーストラリアの軍人としては初めて元帥に昇進することが決定した。しかしその決定直後にブレイミーは重病にかかってしまい、就任式は入院先のメルボルンハイデルバーグの病院内で行わなければならなかった。翌1951年5月27日、高血圧性脳出血のため死去。敵対者や世論への対応が不得手だったこともあり、同時代においては悪評も常に付きまとっていたブレイミーではあったが、「オーストラリア史上最大の軍事的脅威」に立ち向かった将軍の死を悼んで、メルボルンで行われた葬儀には約25万人が参列した。1960年にはブレイミーの銅像がモナシュの銅像に対置する形(モナシュが乗馬姿なのに対し、ブレイミーはジープに乗って起立している姿)で、メルボルンのキングズ・ドメインに建立された。

 

 

 

※①~④までの主要参考文献:

 

オーストラリア辞典 

Australian Dictionary of Biography 

Australian War Memorial 

 

津田博司『戦争の記憶とイギリス帝国―オーストラリア、カナダにおける植民地ナショナリズム』刀水書房、2012年。

津田博司「オーストラリアとカナダにおける徴兵制論争」山室信一岡田暁生・小関隆・藤原辰史編『現代の起点 第一次世界大戦 第2巻 総力戦』岩波書店、2014年。

藤川隆男編『オーストラリアの歴史―多文化社会の歴史の可能性を探る』有斐閣、2004年。

Eric Andrews, The Anzac Illusion: Anglo-Australian Relations during World War I, Cambridge, Cambridge University Press, 1993.

C.E. W. Bean, The Official History of Australia in the War of 1914-1918: Volume V – The Australian Imperial Force in France during the Main German Offensive, 1918 (8th edition, 1941)

C. E. W. Bean, The Official History of Australia in the War of 1914-1918: Volume VI – The Australian Imperial Force in France during the Allied Offensive, 1918 (1st edition, 1942)

John Bentley, Champion of Anzac: General Sir Brudenell White, the First Australian Imperial Force and the Emergence of the Australian Military Culture 1914–18, PhD thesis, University of Wollongong, 2003.

John Connor, Anzac and Empire: George Foster Pearce and the Foundation of Australian Defense, Cambridge, Cambridge University Press, 2011.

Bill Gammage, The Broken Years: Australian Soldiers in the Great War, Carlton, Melbourne University Publishing, 2010[first published 1974].

Jeffrey Grey, A Military History of Australia, 2nd edition, Cambridge, Cambridge University Press, 1999.

Peter Pedersen, Battleground Europe: Hamel, Barnsley, Pen & Sword, 2003.

Peter Pedersen, Battleground Europe: Villers-Bretonneux, Barnsley, Pen & Sword, 2004.

Geoffrey Serle, John Monash: A Biography, Carlton, Melbourne University Press, 1982.

Robert Stevenson, To Win the Battle: The 1st Australian Division in the Great War, 1914-1918, Cambridge, Cambridge University Press, 2013.

John F. Williams, Anzacs, Media and the Great War, Sydney, University of New South Wales Press, 1999.

John F. Williams, German Anzacs and the First World War, Sydney, University of New South Wales Press, 2003.

1918年西部戦線におけるオーストラリア軍団の戦い③ ジョン・モナシュの司令官就任

 3月21日から5月初旬にかけてオーストラリア軍が受けた人的損害は死傷15,000人にのぼり、割合としては前年度までと遜色なく大きく(第3師団の第9旅団、第4師団の第12・第13旅団では損害を受けた大隊の解隊が行われている)、これ以上の作戦継続による戦闘力低下も懸念されていたが、ともあれ兵士たちは最後の勝利への予感を感じ取っていた。一方5月12日、ヘイグはバードウッドに対し、「ミヒャエル」作戦を防ぐことが出来なかったヒューバート・ゴフに替わってイギリス第5軍を指揮するよう命じた。バードウッドはオーストラリア帝国軍司令官の地位は継続することになったが、ここでオーストラリア軍団司令官の後任には誰が就任するべきかという問題が発生する。ヘイグとバードウッドは、オーストラリア第3師団長のジョン・モナシュ少将が相応しいと推薦していた。

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ジョン・モナシュ肖像。ジョン・ロングスタッフ画。 出典:Australian War Memorial

 

 ジョン・モナシュは1865年、ユダヤ系ドイツ移民(父ルイスはプロイセン領ポーゼン州の出身で1854年メルボルンに移住した。なおルーデンドルフもポーゼン州出身であり、モナシュと同じ1865年生まれである)の両親のもとにメルボルンで生まれた。メルボルンのスコッチ・カレッジで学んだ後メルボルン大学に進学し、工学と文学を専攻したが、学業の一時中断などもあり(1年目は落第も経験している)実際に学位を取得したのはしばらく経ってからの1893年(工学)および1895年(文学)だった。土木エンジニアの仕事に就き、1890年代には鉄道・架橋事業などを手掛けたが、のち1905年にコンクリート事業を成功させ、1913年までに約30,000ポンドの財を成すまでになった。一方で1884年メルボルン大学中隊に入隊したことを契機に軍歴もスタートさせており、南ア戦争には参加しなかったもののメルボルンミリシア部隊の砲兵指揮官を務めて出世を重ね、地図作製を行ったりシドニー大学軍事学を学んだりするなどして士官としての基礎を身に着けた。戦史の研究にも励み1911年には南北戦争の荒野の戦いをテーマにした懸賞論文を発表し、金メダルを受賞している。エンジニアとしての知識や経験を踏まえた深慮、柔軟性、協同、経済、時間的効率といった考え方は、モナシュの作戦立案にも影響を与えたと言われ、大戦前の1914年2月にオーストラリアを視察したイアン・ハミルトンは彼の資質を評価し、大戦中は将兵から「兵士というよりも教授という印象を受けた」と評されたこともあった。青少年期より文学やピアノ演奏にも関心を寄せており、ブルワー・リットンとチャールズ・ディケンズの作品は生涯のお気に入りであった。

 

 第一次世界大戦が勃発するとモナシュは大佐として第4旅団長に就任、第二陣派遣部隊として12月にオーストラリアを出立した。第4旅団はアレクサンダー・ゴッドリー少将のニュージーランド・オーストラリア師団の一員となり、1915年4月よりガリポリ戦役を経験したが、8月攻勢における971高地の戦いでは多くの犠牲を払ったにもかかわらず目標を達成できずモナシュは苦杯をなめさせられた。この時のモナシュの前線指揮官としての能力については批判的な声も聞かれ、公式従軍記者のチャールズ・ビーンからは「旅団長よりは師団長に、師団長よりは軍団司令官に向いている人物」と評された。なおガリポリ戦役の時期、オーストラリアの銃後ではその出自ゆえに「モナシュはドイツのスパイとして射殺されようとしている」という風聞まで流れ(戦中のオーストラリアではドイツ人の抑留が実施されていた。モナシュ自身はドイツ語も理解したが、イギリス帝国としてのアイデンティティが強かったので青年期の頃からドイツ系コミュニティとは距離を置いていた)、ジョージ・ピアース防衛相がわざわざ否定コメントを出すという事態にもなった。

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第4旅団長時代。右は副官のジョン・マクグリン少佐。出典:Australian War Memorial

 

 ガリポリ戦役が終了後の1916年7月、少将となったモナシュは新編のオーストラリア第3師団長に就任する。イギリスのソールズベリーで訓練にあたった後、12月にゴッドリーの第2アンザック軍団の前線へと移動し(開戦時は100キロ超の肥満体だったモナシュだが、激務や摂生に努める過程でこの時期には体重を約20キロ減らした。ただし白髪と薄毛の進行は見られ、終戦後は一人娘のバーサにそのことを突っ込まれた)、翌1917年1月よりドイツ軍との交戦が始まった。モナシュはメシヌやブルードサインデの戦いにおいて大隊規模の指揮官とも協議するなど綿密な作戦指揮を行い、それまでの戦訓を踏まえた新兵器や戦術の検討にも熱心であった。この時期に新兵器の戦車を初めて視察し試乗した際は、「とても素晴らしく、とても酷い兵器」と評している。1917年の一連の戦いで、第3師団は他のオーストラリア軍や第2軍の師団に比べて規律が良好で疾病者の割合も低く、「良く潤滑油が差された機械のように働く」作戦能力の高い師団であるという評価を得るに至った。ヘイグはメシヌの戦いに際してモナシュのことを「聡明で決然とした指揮官」と称賛し、第2軍司令官のプルーマーは一時イタリアに派遣されることになった際、モナシュの第3師団もぜひ一緒に連れていきたいと考えたほどだったという。1918年3月21日に始まるドイツ軍の「ミヒャエル」作戦(この直前の休暇では、モナシュはパリを観光したりバーナード・ショーの評論を読んだりして過ごしていた)に際しては、モナシュは第3師団を迅速に移動させてアンクレ川に生じたイギリス軍前線の隙間を埋め、3月30日にはモルランクールでドイツ軍の進攻を阻止(なお4月下旬の同地区における撃墜王マンフレート・フォン・リヒトホーフェンの戦死に関しては、モナシュは同時代の段階でオーストラリア機関銃兵による撃墜と断言していた。乗機の破片も「戦利品」として収集していた)してアミアンの救援に一役買っていた。

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第3師団長時代。出典:Australian War Memorial

 

 ヘイグらの推薦もあって1918年6月1日、モナシュは中将に昇進し、オーストラリア軍団司令官に正式就任した。第9旅団長のエリオット准将が「最も嬉しい出来事」と語り、第3師団長時の部下だったローゼンタールも就任を歓迎したことが象徴的であるように、オーストラリア出身将官が軍団司令官となる(パレスチナではハリー・ショーヴェル中将が既に砂漠乗馬軍団司令官に就任していたが)ことを、前線の兵士たちも銃後の人びとも概ね好意的に受け止めた。しかし将校たちの中には、「ユダヤ系」「ミリシア出身者」が軍団のトップに座ることを快く思わないという者もしばしば見られた。そして公式従軍記者のチャールズ・ビーンは5月下旬の段階から、同じオーストラリアの新聞記者で友人のキース・マードック(ビリー・ヒューズ首相の代弁者として、オーストラリア軍団の編成をイギリス政府に働きかけるのに一役買っていた。ルパート・マードックの父でもある)を誘って、バードウッドの参謀長を務めており自身と懇意だったシリル・ブルードネル・ホワイト少将の方が司令官に相応しいとして、モナシュの司令官就任の決定に異議を唱えていた(※二人は1917年にオーストラリア軍団が編成された時も、カナダ軍団はカナダ出身将官であるアーサー・カリーが率いていることを根拠として、軍団司令官をバードウッドからホワイトに替えるべきだという主張を展開したことがあった)。

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公式従軍記者チャールズ・エドワード・ウッドロー・ビーン。ビーンはこのサイン入り写真をホワイトに贈呈した。 出典:Australian War Memorial

 

 ビーンとマードックはモナシュをバードウッドに替わってオーストラリア帝国軍司令官にまつりあげてイギリスに追いやり、前線のオーストラリア軍団はホワイトを司令官に就任させて指揮させようと画策、実際にヒューズ首相やピアース防衛相にも電報を送って働きかけを行った。大戦以前からアングロサクソンの人種の卓越性を主張するような記事や著作を発表してきたビーンには、ユダヤ系のモナシュがオーストラリア軍前線部隊のトップに立つことが容認できなかった(実際には事実誤認だったのだが、ローゼンタールに対してもユダヤ系であるとして敵視するような発言をしている)。一方マードックの考えは反ユダヤ主義的というよりも、1917年のブレクールをはじめとするそれまでの作戦指揮でバードウッドへの信望が揺らいでいる現状では、オーストラリア出身のモナシュが司令官におさまる方がいずれにせよ国益上望ましいだろうというものだった。しかし結局ホワイトはこの策謀に動かされることはなく(ただしホワイト自身は反ユダヤ的感情は持っていたとされ、モナシュが死去した後年にはモナシュは過大評価されているという趣旨の発言も残している)、バードウッドの第5軍の参謀長の地位におさまった。バードウッドもまた、自らの地位の保持のためには今まで通りホワイトの力添えが必要であると考えていた。しかしこの決定後の7月以降になっても、ビーンは報告書において第4軍司令官ローリンソンの名前を出すに留めて軍団司令官であるモナシュの名前を敢えて出さないことがあるなど、モナシュとの対立は継続することになった。ビーンは後年、これら一連の軽率な行為を悔いることになるが、公刊戦史においてはモナシュの明晰な部分を称賛しつつも「オーストラリア軍兵士たちが司令官に求めるような身体的勇敢さに欠ける」と評していた。ビーンが1957年に発表した自身最後の著書はホワイト(およびブリッジズ)の伝記的作品であり、後年にいたるまで彼のアイドルはあくまでもホワイトだった。

 

 従軍記者たちによるこのような干渉騒ぎが発生したものの、ともあれモナシュのオーストラリア軍団司令官への就任は決定事項であった。モナシュはオーストラリア軍団参謀長として、第1師団参謀長を務めその能力が高く評価されていたトマス・ブレイミー准将を選出した。両者の関係は良好で、モナシュは後年の著作においてブレイミーに対し多くの賛辞を送っている。またこの時期、新師団長として第1師団長にウィリアム・グラスゴー少将、第2師団長にチャールズ・ローゼンタール少将、第3師団長にジョン・ジェリーブランド少将というオーストラリア出身の将官が相次いで就任し、首脳陣の「オーストラリア化」が強化されることになった(留任の第4師団長イーウェン・マクラガン少将はスコットランド出身だったが、モナシュはオーストラリア人の気質を充分に有していると評した。第5師団長のタルボット・ホッブズ少将はロンドン出身だったが、1887年以来西オーストラリアに移住しており建築家としても知られていた)。

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オーストラリア軍団首脳陣。モナシュの真後ろに立っているのがトマス・ブレイミー。出典:Australian War Memorial

 

 ドイツ軍は5月末より「ブリュッヒャー」および「グナイゼナウ」作戦を実施、パリまで80キロの地点まで前進したが、戦略的な勝利は得られず戦力の消耗を重ねてしまい、逆にフランス軍のフォッシュは反撃体制を整えていた。5月から7月にかけてのモルランクールや(第1師団の)アズブルックをはじめとするオーストラリア軍団の前線においても、砲爆撃に加え比較的小規模な部隊による奇襲を伴った前進行動や威力偵察peaceful penetrationが展開され、ドイツ軍にじわじわと打撃を与えて士気低下を狙い、獲得した捕虜(小規模作戦でも約1,000人の捕虜が得られることもあった)からの証言も活用しつつ大規模な反撃の機会をうかがっていた。

 

 

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シリル・ブルードネル・ホワイト(1876-1940) 出典:Australian War Memorial

ヴィクトリアのセント・アーノウのアイルランド移民で元軍人(父ジョン・ウォーレン・ホワイトは1854年ユリーカ砦の反乱の際に鎮圧軍側として参加していたといわれる)の家に生まれる。1881年に家族はクイーンズランドに移住した。パブリックスクールで学んだ後、銀行員として働きながら弁護士を目指して勉学に励んだ。しかし友人のウィリアム・グラスゴーの影響もあって次第に軍人を志望するようになり、1896年にクイーンズランド連隊に入隊。翌年将校試験に合格し、1899年には砲兵隊中尉となり木曜島に駐留。1902年には戦闘の機会は少なかったものの南ア戦争も経験した。1904年、1年間のみだがオーストラリア陸軍総司令官エドワード・ハットン少将の幕僚となり、参謀将校としてのキャリアが始まると同時に、用兵や防衛問題について彼から手ほどきを受けた。ハットンの推薦もあって1906年からはオーストラリア軍将校としては初めてキャンベリー幕僚学校で学ぶ機会を得た。のちにイギリス軍参謀総長になるヘンリー・ウィルソンからはその資質を評価され、同時期のイギリスにおける陸軍改革にも参与する過程で、ホールデンやフレンチ、ハミルトンらとも交流した。1911年にオーストラリアに召還されると、同じく参謀将校として頭角を現していたウィリアム・ブリッジズ大佐とともに軍制改革にあたり(ウィリアム・クレスウェルのオーストラリア海軍創設構想にはブリッジズとともに反対だった)、有事の際の海外派兵を含めた帝国の防衛構想について議論した。第一次世界大戦が勃発するとブリッジズの参謀長としてオーストラリア帝国軍の募兵と編成に尽力し、ガリポリ戦役ではガバ・テペへの上陸作戦を立案。8月にはローン・パインへの攻撃を成功させたが戦略的目標は達成できず、病気による戦線離脱も経験した。1915年10月に准将、アンザック軍団参謀長となり、撤退作戦をほぼ無傷で成功させた。ガリポリ戦役後のエジプトでオーストラリア軍師団の増設に尽力、師団長候補にもなったが結局第1アンザック軍団参謀長におさまり、西部戦線でもバードウッドの片腕として作戦立案に努めた。1916年7月のポジエルの戦いに際してはヘイグ元帥から戦術面の失敗をとがめられたが、ホワイトは的確に弁明に努めてヘイグを納得させ、彼から高評価を得た。1916-17年にかけては装備や戦術面の試行錯誤だけでなく兵舎や塹壕の居住環境の改善、補給の充実に関しても検討し、兵士たちの士気の維持に努めた。バードウッドが第5軍司令官となると中将に昇進し、第5軍参謀長を務める。第一次世界大戦終結後は復員事業の監督は任されなかったが(戦中の軍団司令官の件もあり、モナシュがライバル視したためと言われる)これまでの功績からナイトに叙された。1920年にはオーストラリア陸軍参謀長に就任、陸軍の再編と市民軍の組織化に努め、将来のイギリス帝国と日本の戦争の可能性についても指摘した。1923年に参謀総長を辞任した後は連邦公共事業委員会の委員長に就任、1927年にヨーク公(のちジョージ6世)夫妻がオーストラリアを訪問した際には接待役も務めた。1920-30年代にかけては右翼団体「ホワイト・アーミー」との関係性が指摘されたが、ホワイトは否定している。第二次世界大戦勃発後の1940年3月、63歳のホワイトは「キンキナトゥスの心境で」陸軍参謀長に再起用され大将に昇進、トマス・ブレイミーを第二次オーストラリア帝国軍の軍団司令官に推薦するなどした。しかし1940年8月13日、メルボルンからのキャンベラに向かう途中の飛行機事故により死亡してしまった(ジェフリー・オースティン陸相、ジェームズ・フェアバーン航空相、ヘンリー・ガレット科学産業相も同乗していたがいずれも死亡)。今日のオーストラリア軍事史ではモナシュやブレイミーほど注目されることが少ない感があるホワイトではあるが、イギリス軍のウィルソン参謀総長からは「オーストラリア帝国軍の頭脳」と評され、その人柄や学識の豊かさ、勤勉さ、あらゆる問題に対する迅速な決断力は、ビーンやロバート・メンジーズが同時代において認めるところであった。また第二次世界大戦勃発後、第二次オーストラリア帝国軍の動員と編成に際して参考にされたのは、ホワイトが先の大戦で築き上げたノウハウであった。プロフェッショナルの参謀将校としてオーストラリア陸軍の発展を黎明期の段階から支え続け、オーストラリアの"ミリタリー・カルチャー"の基盤を築くことになったホワイトの力量と功績は、決して見過ごされるべきではないだろう。

1918年西部戦線におけるオーストラリア軍団の戦い② ヴィレル・ブルトンヌ

 1918年3月21日、ドイツ軍の参謀次長エーリヒ・ルーデンドルフは大きな賭けに出た。アメリカ軍の本格的到着を前に戦争の決着を図るべく、カンブレー~ラ・フェール間のイギリス軍の前線に対し、ドイツ軍の大攻勢「ミヒャエル」作戦が開始された。緒戦でイギリス第5軍の前線は突破されてソンム川の後方まで下がり、捕虜を含めて4万近くの損害を受け、ドイツ軍は5日間のうちに前年までの喪失地をほぼ奪回した。しかしイギリス第3軍はアラスを堅守して崩壊を免れ、ドイツ軍は北西に回り込んでこれをせん滅することが出来なかった。パッシェンデール戦以後休養と兵力の補充を済ませていたオーストラリア軍団の各師団は、前線に生じた隙間を埋め、戦略的重要地であるアミアンの失陥を防ぐために急派された。3月25日より移動を始めた第3・第4師団は28日にはデルナンクールやモルランクールでドイツ軍と交戦を始めた。オーストラリアの公式従軍記者チャールズ・エドワード・ウッドロー・ビーンは、強行軍にもかかわらず師団の兵士たちは陽気に振る舞って戦意は高く、オーストラリア兵「ディッガー」たちの到来を地域住民たちは「オーストラリア万歳Vive les Australiens」と歓迎したことを新聞記事で仰々しく報じた。「帝国とブリテンの人種の存亡のために」前線で勇敢に戦うオーストラリア軍兵士に関する記事はイギリスの新聞でも紹介されており、ヨーロッパでもオーストラリア軍に対する関心は高まりを見せてきた。

 

 ドイツ軍は3月30日、アミアンから約10マイル東に位置し18世紀以来織物業を産業としていた小村、ヴィレル・ブルトンヌに迫っていた。4月4日午前5時過ぎ、霧雨の中ヴィレル・ブルトンヌの前線に対してガス弾を含めた砲撃が開始され、1時間後にはドイツ軍第11・第14軍団の歩兵の進撃がそれに続いた。この時ヴィレル・ブルトンヌにはイギリス軍第3軍団(第14・第18・第58師団)とオーストラリア第3師団から分遣されていたチャールズ・ローゼンタール准将の第9旅団が防衛にまわっていた。最前線にいた第9旅団第35大隊(大隊長ヘンリー・ゴダード中佐はガリポリ戦役では最前線のクインズ・ポストで闘い続けたことで知られ、ローゼンタールから信頼されていた)はドイツ軍バイエルン第9予備師団の攻撃に耐えていたが、北方のアメルの近隣に配置された第14師団は(それまでの戦いで疲弊していたという事情もあるが)ドイツ軍第228師団の攻撃に持ちこたえられず後退したため、第35大隊もヴィレル・ブルトンヌの郊外まで下がり、イギリス軍部隊の支援を受けつつ戦闘を継続した。しかし午後になると南方の第18師団もドイツ軍第19師団の攻撃に押されはじめ、ドイツ軍は郊外まで迫るに至った。

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第一次ヴィレル・ブルトンヌ戦後の廃墟となった村の様子。出典:Australian War Memorial

 

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第一次ヴィレル・ブルトンヌ戦開始時点まで村に留まっていたという女性。出典:Australian War Memorial

 

 午後5時過ぎ、第9旅団第36大隊が第35大隊や第58師団ロンドン第6大隊の兵とともに反撃を敢行し、疲れが生じていたドイツ軍を後退させることに成功した。この後第9旅団第33大隊(大隊長は弱冠28歳のレスリー・モースヘッド中佐。のち第二次世界大戦において「トブルクのネズミ」で知られる第9師団を率いることになる)・第34大隊が第17槍騎兵連隊に支援されて北方に前進、失地を回復し前線を安定させる役割を果たした。第9旅団の各大隊は5日の深夜にも反撃を行い、その後午前11時にはアメルの西方にハロルド・"ポンペイ"・エリオット准将の第15旅団(オーストラリア第5師団)が第10軽騎兵連隊とともに展開、「104高地」の確保に努めドイツ軍の攻撃を撃退した。一連の戦いで第9旅団は参加兵力2,200人のうち665人が死傷し、その損害は軽微ではなかったが、ともあれアミアンは守られることになった[第1次ヴィレル・ブルトンヌの戦い]。この戦いは数日後、オーストラリアの新聞上では「我々の人種・慈愛・文明のために懸命に戦う」オーストラリア軍は勝利の栄光を手にしたと報じられ、地元フランスの新聞上でも、4月4日にアミアンの東でイギリス・オーストラリア軍がドイツ軍の猛攻に耐え抜いたことは何よりも重要な出来事であったと報じられた。

 

 オーストラリアの一部の「ナショナリスト史観」に基づく歴史叙述の中には、1918年の春期攻勢において敗走する「弱体な」イギリス軍徴募兵「トミー」の姿を、心身ともに卓越したオーストラリア軍志願兵「ディッガー」と対比する(あるいは「粗野な植民地人」と見下してくるイギリス軍将兵たちとの対立を強調する)ような内容のものがしばしば見られる。第1次ヴィレル・ブルトンヌ戦においても、当時第3師団長だったジョン・モナシュ少将は妻に宛てた手紙の中で第14師団の指揮官兵士の質を批判する発言をしており、将兵の中には「イギリス軍師団の中には中国人労働部隊と同程度の戦闘力しかないものもある」とまで揶揄する者も存在した(ただしこの日の第14師団に対する批判自体はローリンソンはじめイギリス軍側からもなされており、オーストラリア側よりもむしろ痛烈であったという見方もある)。オーストラリア軍団司令官のバードウッドは、オーストラリア軍兵士とイギリス軍兵士の資質を不必要に比較することに関して、苦言(≒批判の労力をむしろドイツ軍に向けるべきである)を呈したこともあった。

 

 しかし一方で、ローゼンタール旅団長が反撃に参加した第58師団の兵士たちの戦意が高かったことを称賛し、モースヘッド大隊長が「真のイギリス軍兵士」たる軽騎兵連隊の騎兵の奮闘に勇気づけられたと証言していたことが象徴的であるように、政治外交や作戦の次元であれ個人の体験の次元であれ、同時代において英豪間の対立が鮮明なものとなった(それが国家としてのアイデンティティの覚醒に繋がった)と結論付けることには、やはり慎重であるべきだろう。オーストラリア軍にはイギリス本国式の訓練や戦術が採用され、装備や補給面においてイギリス軍とは緊密な関係であった。将兵の中にはイギリス出身の者も多く存在し、スポーツやミュージックホールといった本国と同様の大衆文化も共有されていた。

 

 「ミヒャエル」作戦の行き詰まりを感じたルーデンドルフは4月9日、突撃師団のみならず二線級師団をも投入してリース川方面での「ゲオルゲッテ」作戦を開始する。ドイツ軍はポルトガル軍師団をすぐに破り(機関銃兵アニバル・ミハイスが単身ドイツ軍大隊相手に闘い続けたという武功話もあるのだが)、鉄道拠点のアズブルックを脅かそうとしたため、ヘイグは「背水の陣」の命令を出すに至った。オーストラリア第1師団(師団長ハロルド・ウォーカー少将)はこの時ソンムの前線に到着したばかりであったが、4月12日、この救援のために急きょオーストラリア軍団からイギリス軍第15軍団へと分遣された。第1師団は4月30日までドイツ軍の攻撃に耐え、戦線を安定させた。以後第1師団は8月初頭まで第15軍団の下に置かれ、攻勢防御を展開して戦術的成功を収め、第2軍司令官ハーバート・プルーマー大将からイギリス帝国軍最良の師団の一つと称賛された。

 

 「ゲオルゲッテ」作戦を展開する一方で、ルーデンドルフアミアン方面でも現状打破に乗り出す。4月17日以降、ヴィレル・ブルトンヌに対しガス攻撃が行われ、捕虜の証言なども加わってドイツ軍の再度の攻撃が懸念されるようになった。この時点ではヴィレル・ブルトンヌはイギリス軍第3軍団第8師団が防衛していたが、「ミヒャエル」作戦で損害を受けて未熟な徴募兵で補充中であり、戦力低下が著しい点は第4軍司令官ヘンリー・ローリンソン大将も危惧するところであった。4月24日早朝、ドイツ軍は新兵器A7V戦車13輌を含めた総計4個師団の戦力をもって攻撃を開始する。A7V戦車や火炎放射器、機関銃の攻撃もあって当初ドイツ軍は順調に進攻し、第8師団を破って午前8時ごろにはヴィレル・ブルトンヌの村を占領した。しかし午前9時30分ごろにはイギリス軍戦車中隊が駆けつけ、A7V戦車との間で史上初の戦車戦が展開される。ドイツ側は結果的にマークⅣ戦車を3輌、ホイペット戦車4輌を損傷ないし撃破(砲兵によるものも含める)する損害を与えたものの、A7V戦車3輌が放棄され、ホイペット戦車によって歩兵への損害も少なからず生じた。午後には戦車を伴ったイギリス軍各旅団は態勢を立て直し始めるが、村に対する本格的反撃はまだ行えなかった。第3軍団司令官リチャード・バトラー中将と第8師団長ウィリアム・ヘネカー少将は予備とされていたオーストラリア軍旅団の増援を当初却下していたが、第4軍司令官ローリンソンはアミアンの防衛のためにはヴィレル・ブルトンヌの奪回は不可欠であるとして、午前9時30分にウィリアム・グラスゴー准将の第13旅団(オーストラリア第4師団)およびエリオット准将(戦力に不安があるイギリス軍師団が突破されることを見越して、数日前から反撃作戦に備えていたといわれる)の第15旅団に対しヴィレル・ブルトンヌへの反撃に加わるよう命じ、バトラーも午前11時にはその命令を了承していた。

 

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メフィスト」。現存する唯一のA7V戦車として知られる。第二次ヴィレル・ブルトンヌの戦いで砲撃によるクレーターにはまって立ち往生してしまい放棄されたが、7月にオーストラリア軍第26大隊(クイーンズランド)に回収され、アミアンの近くにあるイギリス軍演習場に送られた。オリジナルの車体にはドイツ軍によって赤いメフィストフェレスのイラストが描かれていたが、終戦までに連合国軍兵士たちによって書き込みやイラスト(A7Vで遊んでいるライオンの絵が有名)が数多く付け加えられた。1919年に戦利品としてオーストラリアが獲得し、ブリスベンクイーンズランド博物館の展示品となった。重い戦車の運搬には相当苦労したようで、博物館に着くまでに道路や建物が少なからず傷つけられることになったという。書き込みやイラストの多くが長年の展示で風化してしまったこともあり、1988年には再塗装(現在の状態)がなされている。

出典:Australian War Memorial

 

 第8師団長ヘネカーが午後8時より(ローリンソンはより早期の反撃を要求していたが、彼とバトラーがこの時間に妥協させていた)反撃作戦を開始するとしたのに対し、第13旅団長グラスゴーは夜が深まってからの午後10時30分にするべきだと反論、バトラーも加えて交渉した結果、最終的に午後10時開始に落ち着いた。ビーンは公刊戦史において、このグラスゴーの機転がイギリス帝国軍を作戦の成功に導くことになったと力説している(ただし同時代の日記では、強行軍の末に作戦参加しなければならない第13旅団に対し率直な不安感も吐露していた)。午後10時、第13旅団は南方、第15旅団は北方よりヴィレル・ブルトンヌの包囲攻撃を開始、第18師団第54旅団も攻撃に加わった。識別のために白い腕章をつけた第15旅団第59大隊の兵士たちは、敵陣が近くなるにつれ「ヴァイキングバーサーカーのように」高揚し、その声は1マイル南方で戦う第13旅団からも聞こえたといわれる。ヴィレル・ブルトンヌの郊外ではドイツ軍の機関銃による反撃が激しくなったが、兵士たちは果敢にも銃剣による刺突(エリオット曰くthroat jab)を実施し、その凄惨さと容赦のなさにドイツ兵に憐憫を感じた者さえいた。ドイツ側は反撃の機会を逸してしまい、翌25日の午前までに村の奪回は成功した(ただしフランス軍部隊も加わった近隣の掃討作戦は4月27日までかかり、モロッコ師団などはドイツ軍の反撃で大きな損害を受けている) [第2次ヴィレル・ブルトンヌの戦い]。4月24-25日とそれに伴う作戦でオーストラリア軍は2,473人の死傷者を出し、イギリス軍第3軍団は捕虜を含めて9,529人の損害を出していた(ドイツ側の損害の合計は8,000人以上といわれる)。オーストラリア視点では村への反撃作戦を主導した第13・第15旅団の役割ばかりが強調されてしまうが、イギリス軍が態勢を立て直し、大きな犠牲を出しつつも戦線を維持し続けていた点も、決して見過ごされてはならないだろう。

 

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第13旅団のヴィレル・ブルトンヌ攻撃(ウィル・ロングスタッフ画) 出典:Australian War Memorial

 

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第15旅団による戦利品。出典:Australian War Memorial

 

 アミアンは再び守られることになったが、ヴィレル・ブルトンヌの奪回を成し遂げた4月25日は折しもガリポリ半島上陸から3年目の記念日「アンザック・デイ」であった。この1918年の「アンザック・デイ」は3年前のような「英雄的悲劇」ではなく、「輝かしい勝利」をもって飾られることになった。ヴィレル・ブルトンヌの戦いの経過は、イギリス・フランス双方の公式声明を引用しつつリアルタイムでオーストラリアでも報じられており、前線のみならず銃後の人びとをも熱狂させた。イギリスの『タイムズ』でも「ドイツ軍に対して一騎当千な」オーストラリア軍兵士たちの作戦への貢献が紹介されるなどした。フランス軍のフェルディナン・フォッシュはオーストラリア軍兵士たちが見せた「驚くべき勇敢さ」について言及し、ヘイグもバードウッドに対しオーストラリア軍団のソンムの前線における成功を称えるメッセージを送った。モナシュは妻に宛てた手紙の中で「アンザック・デイ」における勝利について喜びをもって伝え(ただし後退を強いられたイギリス軍師団を皮肉ったりもしている)、さらに後年には「決定的な勝利の機会はなくなった」というヒンデンブルクの発言を根拠にして、ヴィレル・ブルトンヌは春季攻勢におけるターニングポイントであったと確信していた。この評価がどこまで妥当なのかはともあれ、ソンムとフランドルにおけるドイツ軍のイギリス軍に対する攻勢は行き詰まりを見せ、ルーデンドルフは5月以降、フランス軍に攻撃目標に変換することを余儀なくされた。

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輝かしい勝利と喧伝されたヴィレル・ブルトンヌの戦いだが、4月中の両軍の攻撃によって村は完全に破壊されてしまった。しかし勝利の立役者である第15旅団の各大隊の編成地がヴィクトリアであったこともあり、大戦後のヴィクトリアではヴィレル・ブルトンヌの村の再建のための寄付金が集められ、1923年にはヴィクトリアの子どもたちからの寄付金による小学校も開校した。1970年代以降この小学校にはアンザックミュージアムも併設されている。1984年にはヴィレル・ブルトンヌとヴィクトリアのロビンヴェールが姉妹都市となっている。出典:Australian War Memorial

 

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トマス・ウィリアム・グラスゴー(1876-1955) ※左端の人物

クイーンズランドのティアロの北アイルランド移民の農家に生まれる。グラマースクールで学んだ後、1890年代にはギンピーで鉱山会社の事務員や銀行員といった仕事に就き、のちアンザック軍団参謀長となるブルードネル・ホワイトとはこの頃から友人であった。その後クイーンズランドの乗馬部隊に入隊し、1897年にはヴィクトリア女王のダイヤモンド・ジュビリーにハリー・ショーヴェル大尉とともにクイーンズランド代表の儀仗隊として派遣される栄誉を授かった。南ア戦争には中尉として参加し、キンバリーやブルームフォンテーンの戦いを経験。オーストラリアに戻ってからもギンピーのミリシア部隊で指揮官を務め、1912年までに少佐となった。第1次世界大戦が勃発すると第2乗馬連隊指揮官に就任。1915年5月よりガリポリ戦役に参加し、8月7日のデッドマンズ・リッジの戦いでは前線で負傷した部下を助ける活躍を見せたと伝えられる。「プラッガー・ビルPlugger Bill」とあだ名されており、ガリポリ戦役後の1916年3月には新編の第13旅団長に就任する。ポジエル、メシヌ、パッシェンデールといった激戦を闘い抜き、ビーンからは公刊戦史の中でグラスゴーを猛々しさと冷静さを兼ね備えた「第4師団の旅団長の中では最も力強い男」と称えられ、後年ロバート・メンジーズからも「オーストラリア帝国軍を完全に具現化した人物」と評された。ヴィレル・ブルトンヌの戦いの後、1918年6月に少将に昇進、第1師団長に抜擢され、8月以降のリオンやシュイニュの攻略作戦を指揮した。終戦後の1919年にはナショナリスト党の上院議員となり、スタンリー・ブルース政権で内相、1927-29年までは防衛相を務め市民軍の人員拡大やオーストラリア空軍の近代化に尽力したが、労働党スカリン政権が成立すると議席を失った。その後牧畜経営などに関心を寄せたが、第2次大戦中の1939年に駐カナダの初代高等弁務官に就任。カナダのマッケンジー・キング首相から信頼を得た一方、オーストラリアの戦争貢献を宣伝する役目も果たした。1945年に帰国し、以後はクイーンズランドで牧畜やビジネスに専念。1955年にブリスベンで死去した。出典:Australian War Memorial

 

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ハロルド・エドワード・"ポンペイ"・エリオット(1878-1931)

ヴィクトリアのウェスト・チャールトンに生まれる。メルボルン大学オーモンド・カレッジに進学、法学を学んだがスポーツでも優秀な成績をあげる文武両道な人物で、のちに(同時代のフットボール選手フレッド・"ポンペイ"・エリオットにちなみ)「ポンペイ」とあだ名された。1900年に学業を中断して南ア戦争に参加。復学した後1906年に法学学位、翌年弁護士資格を得る。その一方でミリシア部隊にも参加し大隊指揮官を務め中佐まで昇進、戦史の研究にも熱心であった。第一次世界大戦勃発後は第2旅団第7大隊長としてガリポリ戦役に参加、4月25日の上陸作戦では負傷も経験したが、復帰後の8月のローン・パインでは最前線で奮闘を見せた。部下からはヴィクトリア勲章受章者が複数輩出されたが、エリオット自身の軍功は評価されず、以後不満を抱えることになる。西部戦線に移ってからは第5師団第15旅団長となる。1916年7月のフロメルの戦いでは(エリオットは攻撃に異議を呈していたが)自らの旅団から1,452の死傷者を出してしまい、その惨劇に思わず泣き叫んだと伝えられている。しかしながら、1917年9月のポリゴン・ウッドや1918年4月のヴィレル・ブルトンヌでの作戦指揮はビーンも公刊戦史の中で高く評価しており(彼の指揮する第15旅団を「クロムウェル鉄騎隊のよう」とも評した)、前線では積極的に行動し度胸を示すような逸話も多かった。その一方で人事や作戦に関してバードウッドやホワイトら上官たちへの率直な批判的発言も辞さず、戦中は師団長に就任することが出来なかった。終戦後はナショナリスト党の連邦上院議員を務めて帰還兵の支援や防衛問題などについて積極的に発言、在郷軍人会にも影響力を持った。1923年にはメルボルンで発生した警察ストライキに際しては特別警察官の組織に寄与した。自身の軍歴が正しく評価されないことには以前から不満を感じており、ホワイトとは(その能力は称賛しつつも)戦間期も対立を続いていたが、ショーヴェルが参謀総長となった後の1927年には少将に昇進し、第3師団長に就任した。しかしこのような自身の評価・立場の問題や戦中の凄惨な体験も影響してか、次第に心身を病むようになり、1931年3月23日、自殺を遂げた。出典:Australian War Memorial

1918年西部戦線におけるオーストラリア軍団の戦い① 1916年~オーストラリア軍団の誕生まで

 

 ガリポリ戦役の終了後、オーストラリアの海外派遣軍(オーストラリア帝国軍)はエジプトで兵力を再編・増強(2個師団から4個師団へ。最終的には5個師団となる)し、ニュージーランドの派遣軍とともに第1アンザック軍団(軍団司令官ウィリアム・バードウッド中将、参謀長はシリル・ブルードネル・ホワイト准将)と第2アンザック軍団(軍団司令官アレクサンダー・ゴッドリー中将、ニュージーランド海外派遣軍司令官を兼ねる)を編成した。ニュージーランド軍との混成でアンザック乗馬師団を編成した乗馬部隊は、引き続きエジプト・シナイ半島で任務を行うことになったが、第1および第2アンザック軍団は1916年3月よりエジプトから新たな戦場である西部戦線へと移動、ヨーロッパの戦争の洗礼を受けることになった。

 

 1916年7月1日の「悪名高い」ソンムの初日の攻勢にオーストラリア軍は参加しなかったが、その陽動としてフランドルで展開された7月19日のフロメルの戦いでは、第2アンザック軍団に属するオーストラリア第5師団が1日で5,533人の死傷者を出す(1日で出した死傷者数としては、オーストラリア軍事史上最悪とされる)という惨劇を経験した。ソンムにおいて展開された7月23日~9月初頭のポジエルの戦いでは、一定の戦術的成功を収めたと評価されたものの、作戦全体では第1アンザック軍団は17,000の死傷者を出す甚大な被害を受けた。1916-1917年のソンム地方の冬の厳しい気候も兵士たちの想像をこえたもので、多くの者が塹壕足などの症状に苦しんだ。

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1916年7月19日、フロメルへの攻撃を前にした第53大隊の兵士たち。この後映っている全員が死傷(戦死5人、負傷3人)することになり、フロメルの惨劇を象徴する写真となった。なおこの日オーストラリア第5師団の相手となったドイツ軍のバイエルン第6予備師団第16予備連隊には、アドルフ・ヒトラーが伝令兵として勤務していた。出典:Australian War Memorial

 

 ガリポリ戦役の時期には志願熱は高まりを見せていたものの、ソンムで激戦が続く1916年の段階では兵役志願者が指標人数を下回っていることが問題視されるようになり、ビリー・ヒューズ首相は10月、徴兵制導入の是非をめぐる国民投票を実施した。新聞報道上では徴兵制賛成派の方が優勢だったものの、「強制的な兵役はドイツ的軍国主義につながる」という考え方や、労働組合社会主義者、女性を中心とする反戦運動家などの反対もあって、僅差で否決(反対51.61%)された。

 

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徴兵制反対派によるリーフレット。オーストラリアの徴兵制論争はプロパガンダの応酬となり、特に戦争指導に関して強権的な姿勢を見せるビリー・ヒューズ首相は揶揄の対象となった。ヒューズは1917年11月29日にはクイーンズランドウォリックで反対派から卵をぶつけられる災難にもあっているが、これは連邦警察の創設のきっかけになったと言われている。出典:Australian War Memorial

 

 1917年になるとオーストラリア軍はヒンデンブルク線やイープルをめぐる戦いに投入された。しかし4月11日のブレクールの戦いにおける第4師団の攻撃は、新兵器の戦車の性能不足もあって前年の失敗を繰り返す(第4旅団は参加兵力3,000中2,339が死傷。5月の第二次作戦とあわせるとオーストラリア軍の人的損害は約10,000)という厳しい結果となった。第2アンザック軍団は6月のメシヌの戦いに参加し勝利を得ることが出来たが死傷者数は約6,800に上り、戦果に比してやはりその犠牲は大きかった。パッシェンデールの戦いでも、オーストラリア軍師団は9月20日のメニン・ロードや9月26日のポリゴン・ウッドといった戦いで攻撃部隊として投入されたが、決定的勝利は得られなかった。

 

 パッシェンデールの作戦期間全体ではオーストラリア軍の死傷者は約38,000に達しており、西部戦線では現状兵力を維持できないことへの懸念(この時期の入隊志願者数の平均は毎月約2,500人であり、指標とされた毎月約7,000人を大幅に下回っていた)が前年に増して高まりを見せており、これ以上の新師団の編成も困難になっていた。ヒューズ首相は徴兵制支持派議員とともに労働党を脱党し、ジョセフ・クック自由党と合流して新たにナショナリスト党を結成するという奇策に出て、改めて徴兵制導入を訴えかけたが、メルボルンカトリック大司教アイルランド系のダニエル・マニックスが徴兵制反対キャンペーンを強化したことも影響して、12月に行われた2度目の国民投票はまたしても否決されてしまった(ただし徴兵制反対派であっても、戦争の大義自体を否定するような人は少数派だった)。この結果オーストラリアは志願兵のみによる軍隊で大戦を戦いぬくことを余儀なくされた。

 

 オーストラリア国内で徴兵制をめぐる議論が続く最中の1917年10月、ダグラス・ヘイグ元帥は西部戦線ではそれまでの第1・第2アンザック軍団に属するオーストラリアの5個師団を一つの軍団にまとめる案を認可した(※バードウッドは1916年、ニュージーランド軍をあわせたアンザック"軍"の編成を提案したことがあったが、却下されていた)。翌11月、新たにオーストラリア軍団が編成され、軍団司令官には第1アンザック軍団司令官のバードウッドが就任、オーストラリア帝国軍の司令官にも留任となった(オーストラリア軍師団が抜けたゴッドリーの第2アンザック軍団は、第22軍団に改められた)。オーストラリアの名前を冠した軍団の誕生はオーストラリア軍兵士の一体性や戦意を高める上でも、自治領としての戦争貢献や地位向上をアピールする国益上の意味でも、効果があるものと見なされた。

 

 1917年にはフランス軍内部の反乱、パッシェンデールの長期消耗戦、カポレットでのイタリアの敗北など、連合国にとって悪いニュースが続いており、ロシアの戦争離脱によって東部戦線から兵力を移動させるであろうドイツ軍が翌年には攻勢に出てくることも懸念されていた。しかし古参・新兵問わず前線のオーストラリア軍兵士たちの勝利への意志は未だに高かった。1916-17年の戦いの教訓を踏まえ、将校や下士官兵の育成、小隊ごとの軽機関銃の配備増や自動車および無線の導入といった装備の充実、戦術の試行錯誤も地道に進められており、休養の時間を取りつつオーストラリア軍団の各師団は戦力回復に努めていた。

 

 

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ウィリアム・リデル・バードウッド(1865-1951) 出典:Australian War Memorial

インドのカドキーに生まれ、サンドハースト士官学校を卒業後はインド軍で出世を重ねた。南ア戦争ではキッチナーの参謀を務め、キッチナーがインド軍総司令官となってからも彼との関係は緊密であった。大戦勃発後は中将としてオーストラリア・ニュージーランド(アンザック)軍団司令官に就任しガリポリ戦役に参加、ウィリアム・ブリッジズ少将が死去した後はオーストラリア帝国軍の総司令官を兼ね、参謀長にはブルードネル・ホワイトを抜擢、以後終戦までコンビを組んだ。ガリポリでは5月や8月の攻勢において必ずしも有効な作戦を展開できなかったが、撤退作戦の指揮はほぼ無傷で成功させることが出来、西部戦線に移ってからは第1アンザック軍団、次いでオーストラリア軍団を指揮した。「スピリット・オブ・アンザック」「バーディー」とあだ名されたが、ガリポリ西部戦線将兵に多くの死傷者が出したことから戦術面での評価は分かれ、作戦内容やその犠牲についてイギリス軍将官に強く抗議するようなことは無かったこと、時としてオーストラリア軍将官よりもイギリス軍将官を抜擢する人事を行ったことなどから、彼の指揮能力を批判するような動きも同時代より見られた。大戦後はインド軍に戻って1925年には元帥、インド軍総司令官となった。1930年に退役し、オーストラリア総督の候補として有力視されたが、当時のジェームズ・スカリン政権の働きかけもあって実際に就任したのはオーストラリア出身のアイザックアイザックスだった。1938年に男爵となる。1940年代に自伝と回顧録の著述に努めた後、1951年に死去。ハリー・ショーヴェルとジョン・モナシュとは同じ1865年生まれだったが、バードウッドが一番の長命であった。

「けものはいてものけものはいない しかし彼らは廃馬を撃った」―WW1シナイ・パレスチナ戦役におけるオーストラリア・ニュージーランドの軍用馬

 WW1シナイ・パレスチナ戦役は、戦車・毒ガス・航空機といった新兵器の投入が見られたという点では「20世紀の高度産業化時代の戦争」としての性格を有していたとはいえ、1917年のベエルシェバや1918年のメギドが象徴的あるように、エジプト派遣軍の作戦遂行において乗馬部隊が果たした役割は非常に大きなものだった (むしろこちらのイメージの方が著名である)。そして当たり前の話ではあるが、乗馬部隊の一連の軍事的成功は、兵士たちのみならず軍用馬たちの存在なくしては不可能であった。今回の記事では、シナイ・パレスチナ戦役に従軍したオーストラリア軍およびニュージーランド軍の乗馬部隊(アンザック乗馬師団とオーストラリア乗馬師団を構成した)の軍用馬たちに焦点をあて、かれらにとっての戦場体験が如何なるものであったのかを見ていくことにしたい。

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ベエルシェバの乗馬襲撃。出典:Australian War Memorial

 

 

 WW1でオーストラリアは120,000頭以上の軍用馬を海外へと送った。オーストラリア産軍用馬はウェラーWaler(ニューサウスウェールズが原産であることに因む)と呼ばれ、頑強で長距離移動に耐えられ、酷暑や水の少ない環境にも適応できるという評価を得ていた。そのうち約82,000頭はインド軍で、約10,000頭は西部戦線のオーストラリア軍歩兵師団で使用され、残りの約30,000頭はシナイ・パレスチナ戦役におけるオーストラリア軍あるいはその他のエジプト派遣軍部隊において使用された。ニュージーランドは1914年から1916年にかけて約10,000頭の軍用馬を海外へ送り、そのうち約3,000頭がシナイ・パレスチナ戦役で使用された。船舶の不足からニュージーランドからの軍用馬の供給は1916年11月で停止し、1917年以降の補充馬に関してはイギリス本国やアメリカ、アルゼンチン産のものが含まれるようになったが、アルゼンチン産はニュージーランド産に比べて能力が低いといったような声も一部では聞かれた。

 

 

 戦場での酷使や飼料不足、不充分な気候順化などにより約400,000頭の馬、ラバ、ロバの損失を出してしまった南アフリカ戦争の戦訓を踏まえ、イギリス帝国では軍用馬の世話に関しては大規模な改善が試みられていた。1914年11月のオーストラリア帝国軍(オーストラリア海外派遣軍の正式名称) の第一次海外派遣部隊には約7,800頭、ニュージーランド派遣軍には約3,800頭の軍用馬が含まれていた。輸送船においては馬房の清掃や空気の入れ替えに気が配られ、馬たちには定期的に甲板で運動(船によって差はあったが)をさせ、身体を洗いグルーミングを行うなどした。エジプトにいたるまでの船旅では肺炎などによりオーストラリアの軍用馬は224頭、ニュージーランドの軍用馬は77頭が死亡したが、当初は損害率が20%になることが懸念されていたこともあり、低い損害率で(3%程度)あったと評価された。

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輸送船上の馬たち。出典:Australian War Memorial

 

 長い船旅を経てエジプトにたどり着いた馬たちの気候順化にも注意が払われていた。長旅で身体が弱っている馬たちに対応するべく、波止場に砂やワラを敷いて柔らかい地盤にしたうえで陸揚げを行った。最初は水と飼料を与えたうえで短時間散歩をさせるに留め、健康状態が良好になってから短時間の乗馬を行っていった。1914年12月下旬には軍用馬たちはようやく訓練での使用が可能な状態になり、乗馬部隊は砂漠において下馬地点への迅速な移動訓練を実施し、馬たちには砲声にも慣れさせるようにした。しかし1915年4月25日に始まるガリポリ半島の地上戦では、戦場が軍用馬に適していない地形ということもあり、オーストラリア・ニュージーランド軍の乗馬旅団は乗馬部隊として起用されることは無く、もっぱら徒歩部隊として戦闘に従事した。しかしながら、これは結果的にエジプトに留め置かれた軍用馬たちにとっては気候順化を行う充分な時間を与えることとなり、シナイ・パレスチナ戦役を戦う上では大きなメリットとなった。

 

 

 1916年以降シナイ半島での作戦が本格化すると、暑い気候の下で砂漠を迅速に行軍することが困難な歩兵部隊に替わって、乗馬部隊が主導的な役割を果たすようになったが、その際日々の馬たちの世話は、乗馬部隊の兵士たちにとって非常に大切な任務となった。飼料や水を与えたり、病原菌と一緒に古い皮膚やたてがみを取り除くために2-3時間かけてグルーミングを―たとえ砂漠地帯で水が得られない場所であっても―行ったりするのは毎日の欠かせない作業であり、同時に連隊の軍用馬下士官や蹄鉄工は、毎日全ての馬の蹄鉄をチェックしてまわった。熟練の兵士になれば、馬たちの外見や振る舞いを見ただけですぐにその健康状態―眼が沈んでいる、耳が倒れている、毛に光沢が無い、鼻水を出しているといった要素は、異常の兆候であった―を把握することができた。厳しい軍務に耐えるために、馬たちには飼料として燕麦、トウモロコシ、ふすま、キビ、大麦に粗飼料(生草、干し草、バーシーム、ワラ)を混ぜたものがあてがわれた。疲労した馬が飼料を食べようとしない場合は、兵士たちが飼料を水で練ったうえで手で食べさせることもあった。

 

 

 乗馬部隊の乗馬は、小銃、弾帯、銃剣、水筒、飯ごう、雑のう、上着、洗面具、ブランケット、ロープ、ペグ、糧食、缶詰、飼い葉袋、携帯飼料などを完全装備した兵士を乗せた状態では、約130キロの重荷に耐えて行動することを強いられた。そのため募兵の段階では種々雑多で粗悪なものも含まれていた乗馬部隊のサドルは、より乗馬の負担を軽減する上で効率的とされた「ブリティッシュ式ユニバーサル1902型サドル」へと統一されていった。輓馬は砲兵部隊や補給部隊、救護部隊で主に使用され、火砲や補給馬車、救護馬車を牽引した。ただし4輪馬車の利用に適していないシナイ半島の砂漠では、2輪馬車Sand Cartが用いられたり、ラクダによる物資輸送や負傷者の搬送―乗り心地は最悪だったが―が行われた。駄馬は補給部隊および乗馬旅団に付属する機関銃大隊で主に使用され、機関銃大隊の駄馬は機銃や弾薬(1頭当たり6-8箱)、測距儀や回光信号機などの装備を攻撃目標の約2キロ手前まで運搬する任務にあたった。

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完全装備したオーストラリア乗馬兵。 出典:Australian War Memorial

 

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救護馬車を引く輓馬。出典:Australian War Memorial

 

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機関銃を運ぶ駄馬。出典:Australian War Memorial

 

 

 兵士や獣医たちによって日々の手入れを受け、入念な気候順化への配慮がなされていたとは言え、シナイ・パレスチナの戦場は軍用馬たちにとっても過酷なものとなった。身を隠す場所がない砂漠では砲弾や航空機の攻撃は馬たちにとっても大きな脅威で、1916年6月1日にオーストラリア第1乗馬旅団の宿営地が航空機による攻撃を受けた際には36頭が戦死、9頭が負傷、123頭が砂漠に向かって逃げ出してしまった。負傷馬は獣医の診察を受けて診療キャンプに移され、回復した後補充馬廠にまわされることになったが、あまりに酷い傷を負った馬に関しては、射殺して楽にさせてやる場合もあった。なおシナイ・パレスチナ戦役では西部戦線でしばしば見られるような毒ガス攻撃に晒される局面はなく、その点は馬たちにとってはせめてもの幸運だった。

 

 

 シナイ半島の砂漠では日中と日没後の寒暖差が激しく、加えて砂嵐(ハムシーン)やノミ・ハエの大量発生といった要素は、馬たちの身体を著しくむしばむこととなり、故郷の心地よい牧草地とはかけ離れた過酷な環境で過ごさなければならない馬たちに対して、憐れみの感情を示す兵士もいた。1916年8月5日のカティアの戦闘後には、兵士が下馬すると同時に疲労のあまり砂の上にそのまま横たわってしまう馬たちが見られたという。またビル・エル・バユドBir el Bayudで警戒任務にあったオーストラリア第6乗馬連隊では、将校4人と兵士30人が日射病のため後送されたのに加え、約500頭の軍用馬が任務に耐えられなくなり3日間の休養が必要とされた。

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1917年のシナイ半島、エル・アリシュの宿営地。出典:Australian War Memorial

 

 

 

 戦場がパレスチナに―シナイ半島よりは多少環境が改善されると期待されていた―移ってからも、1917年9月7日のアンザック乗馬師団の主任獣医は「師団の4分の3の馬たちは疲労が原因で砂や自分の糞を食べ始めている」と報告しており、E・チェイター師団長は馬たちの飼料を改善するよう命令を出さなければならなかった。平常時に馬が健康状態を維持するためには、1日あたり約30リットルの水を飲む必要があるとされているが、ベエルシェバでの作戦を控えた時期には行軍訓練などを経て30時間水を飲まなくても行動できるようにするなど、馬たちの戦場環境への順応が行われていた。しかしベエルシェバ占領後の11月の戦闘では、馬たちのほとんどが48時間水を飲むことができず、苦し紛れに廃棄された井戸やワジ(涸れ川)の汚水を飲むような馬もいた。ニュージーランド乗馬ライフル旅団の機関銃大隊の中には、72時間水を飲んでいない瀕死の状態の駄馬も生じたという。1917年11月のベエルシェバ戦後のオスマン帝国軍に対する追撃戦では多くの馬たちが疲労により体調を崩し、さらに南部パレスチナでは冬が到来すると雨にさらされて震える思いをしたり、低温の中泥沼と化した地面を移動したりすることを強いられた。1917年から1918年にかけての冬には補充馬が不足していたため、馬たちは休養を取ったうえで再び任務に就かなければならなかった。 

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 降雨により泥沼となった南部パレスチナ。出典:Australian War Memorial

 

 

 このようにシナイ・パレスチナ戦役の戦場は、兵士のみならず軍用馬にとっても非常に過酷なものとなったが、一方で馬たちは戦場で優れた運動能力を示して困難な任務を達成していったことも、戦果を踏まえれば事実であり、過酷な自然環境に耐えて軍務をこなす馬たちの「偉大で勇敢な」姿に兵士たちは多くの賛辞を送った。またI・イドリースの代表的戦記における、涙をもって重傷を負った馬たちを射殺したというエピソードが象徴的であるように、「ナイル川からアレッポに至るまで」自分たちを乗せてくれた良き戦友Friends, Comradesに対し、人間と同じかそれ以上の絆を感じている者―仰々しく表現するならば、オーストラリアの理想的国民像を示す「アンザック神話」において最も神聖な美徳とされる「メイトシップ」(仲間意識)が、人間だけでなく馬に対しても適用されていたということを意味していた―も見られた。大戦終結後は軍用馬にモチーフを取った戦争記念碑も複数建立されており、このような点からも、シナイ・パレスチナ戦役の戦争記憶における馬たちの存在が、決して小さなものではなかったことをうかがい知ることが出来る。

※ただしJ・ブウは、同時代の兵士たちの手紙や日記では自分たちの乗馬について言及している箇所は少なく、言及していたとしても大抵は感情的な文脈での言及ではない(≒あくまで「消耗品」としての位置づけ)ものなので、人馬の絆を強調するようなロマン主義的なエピソードは、戦後になって徐々に語られ増幅されていったものの方が多いのではないかという見解を提示している。

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愛馬と一緒に海水浴を楽しむ。出典:Australian War Memorial

 

 

 大戦終結後、乗馬部隊の兵士たちの中には愛馬と一緒に一刻も早く故郷に帰りたいと切望する者もいたが、その期待はただちに裏切られることになった。大戦終結時、イギリス帝国軍はエジプトおよびパレスチナに約60,000頭の軍馬を保有していたが、占領任務に継続して使用する馬は少数に留まったので、大量の余剰馬が発生した。しかしながら輸送コストや船舶の不足、家畜への伝染病拡散の問題から、かれらを故郷に送り返すことは不可能であると判断された。オーストラリア軍は終戦時にエジプトおよびパレスチナに9,751頭の軍用馬を有していたが、12歳を超えた乗馬および15歳を超えた輓馬、健康状態が悪く治療に数か月を要するような馬は殺処分されることになった。殺処分が決まった馬は、利用価値があるたてがみと尻尾が刈られて蹄鉄が外されたうえで獣医の監督下拳銃で射殺され、皮(これも利用価値があったので)は塩漬けにされた。1919年3月までに殺処分された馬は3,059頭に上った。一方、若年あるいは健康で任務に適しているとされた6,000頭以上の馬は、終戦後シリアで占領任務に従事するインド第4・第5騎兵師団の部隊に譲渡されるか、エジプトにある補充馬廠へと移された(1919年3月に発生したエジプト革命の際は再び任務に服する馬も生じたが、6月には再び補充馬廠へ戻された)が、72頭は現地で売却された。ニュージーランド軍も終戦時、約2,500頭の軍用馬をエジプトおよびパレスチナに有しており、そのうち1,680頭が補充馬廠へと移された(のち32頭が売却、25頭が殺処分された)が、売却ないし殺処分された馬の正確な頭数は不明とされる。しかしながら終戦時には売却されなかった馬たちでも、最終的には乗馬や軽量輓馬に関してはエジプトの現地住民に、エジプトでは需要が見込めない重量輓馬に関しては南フランスの業者に売却されることになったと見られている。

 

 

 苦楽を共にした戦友を手放したり殺処分したりしなければならないことは、戦中の最も悲しい出来事であったという証言も数多く見られるなど、軍用馬たちの処遇に対する兵士たちの衝撃は大きかったが、殺処分に関しては「野蛮なアラブ人に売り渡されて酷使されるよりは望ましいことだ」と考えてその決定を受け入れたり、あるいはあくまで軍用馬を「家畜」「消耗品」と認識しているという者もいた。また売却されることになりそうな馬たちをこっそり宿営地から持ち出して、「野蛮なアラブ人に売却されることを防ぐために」愛馬を射殺した兵士たちが多く存在した、という逸話が後年まことしやかに語られるようになった。しかしJ・ブウは、これは事実誤認あるいは戦後に著された戦記の中での一次史料の裏付けがない表現が独り歩きした結果によるものであって、実際にはイギリス側もオーストラリア側も軍用馬たちの管理や処分は獣医たちの監督のもと厳密に実施していたのであり、このようなことが行われた明確な証拠は存在しないと論じている。

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殺処分された軍用馬たち。出典:Australian War Memorial

 

 

 結局シナイ・パレスチナ戦役で使用されたオーストラリア産軍用馬(ウェラー)のうち、再び故郷オーストラリアの土を踏んだものはなく、オーストラリア軍が使用した軍用馬全体を見ても故郷への帰還がかなったのは、オーストラリア第1師団長を務めガリポリ半島で負傷死したW・T・ブリッジズ少将の乗馬「サンディー」1頭だけだった。ニュージーランド産軍用馬に関しては、C・G・パウルス中佐の乗馬でシナイ・パレスチナ戦役を経験した「べス」―1914年の第一次派遣部隊とともに旅立った馬であった―が1918年10月にフランスへ移送された後、他の3頭のニュージーランド産軍用馬(ニュージーランド師団長を務めたA・ラッセル少将の乗馬「ドリー」など)とともに1920年4月に故郷ニュージーランドへ戻ることができたが、この計4頭が全てであった。「ベス」はエジプトのポートサイドに建立された乗馬部隊の記念碑のモデル(1956年のスエズ危機の際、記念碑は住民により破壊された)も務め、1934年に24歳で天寿を全うした。

 

参考文献

Jean Bou, 'They Shot the Horses - Didn't They?' https://www.awm.gov.au/wartime/44/page54_bou/

 

Jean Bou, Light Horse: A History of Australia’s Mounted Arm, Cambridge, Cambridge University Press, 2009.

Jean Bou, Australia’s Palestine Campaign, Canberra, Army History Unit, 2010.

Terry Kinloch, Echoes of Gallipoli: In the Words of New Zealand’s Mounted Riflemen, Auckland, Exisle Publishing, 2005.

Terry Kinloch, Devils on Horses: In the Words of the Anzacs in the Middle East 1916-1919, Auckland, Exisle Publishing, 2007.

 

NZ's First World War Horses  https://nzhistory.govt.nz/war/nz-first-world-war-horses

「ブラック・アンザックス」―WW1シナイ・パレスチナ戦役におけるイギリス領西インド諸島連隊

 第一次世界大戦が勃発すると、西インド諸島各地のイギリス領植民地でも、オーストラリアやニュージーランド、カナダといった白人自治領(ドミニオン)と同様、イギリス本国への忠誠を示す集会が開かれるなど、戦争の大義への賛同を示す声が多く見られた。当初西インド諸島植民地の戦争貢献は、戦費の負担およびカカオ・砂糖等の物資供給といった分野でなされ、兵員の派遣は旧来からの常備兵力である西インド連隊West India Regiment, WIRの西アフリカへの派遣に限定されていたが、より本格的なイギリス本国への忠誠と戦争貢献を示すべく、植民地省は西インド諸島全域から集められた志願兵で構成された部隊の派遣を提案した。19世紀にはWIRがアシャンティ戦争やシエラレオネの反乱鎮圧に派遣されたという前例があったものの、当初陸軍省は「白人の戦争」に非白人部隊を投入することに対して難色を示していた。しかし兵員の不足が懸念されていたことや、帝国の連帯を国内外に示すべきだという国王ジョージ5世の意向もあって1915年5月に提案は容認され、派遣部隊は1915年10月にイギリス領西インド諸島連隊British West Indies Regiment, BWIR (※西インド連隊WIRとは別組織である)と命名された。BWIRの兵員はジャマイカ出身者が全体の6割以上を占めていたが、兵士たちの出身地はそのほかにもトリニダード・トバゴ(全体の1割程度)、ガイアナ、イギリス領ホンジュラス、バルバドス、バハマ諸島など広範にわたり、個々の社会的・経済的背景も多様なものとなった。BWIRには大戦を通して約16,000人が志願し、著名な参加者としてはコルシカ系移民出身でのちトリニダードの労働運動の指導者となるA・シプリアニ(BWIRの将校となり大尉まで出世した。『ブラック・ジャコバン』で知られるC・L・R・ジェームズによる伝記がある)などがいた。

 

 

 西インド諸島植民地の白人エリート層から見れば、西インド諸島全体から構成されるBWIRの派遣はイギリス本国との紐帯を示し、帝国内での地位向上および(全ての地域で賛同の声が見られたわけではなかったが)将来の西インド諸島連邦結成を図る上では恩恵をもたらすと考えられた。西インド諸島各地の新聞や募兵ポスター上では(※バハマの募兵ポスター)、階級や人種を越えた戦争貢献を呼びかけられたが、より厳密には初期の募兵においては、イギリス本国の文化や価値観を受容して教育水準が比較的高い、西インド諸島中流階級を形成する混血「カラード」(「ブラウン」とも呼称)の志願者の割合が高く、読み書きが出来ない黒人労働者階級を中心とする「ブラック」の志願者は、従来からのWIR―そのためBWIRの兵士たちの中には受動的で「コロニアル」な性格としてのWIRと自発的で「ブリティッシュ」「インペリアル」な性格としてのBWIRという、明確な区別を求める者もいた―にまわされる傾向にあったという。「カラード」の兵士たちの中には、国王への忠誠や「ドイツの軍国主義」に対する正戦といった戦争の大義に共鳴している者は少なからず見られ、またパン・アフリカ主義に触発されていた運動家の中には、戦争参加は黒人の卓越性を示して社会的地位向上を図る上での好機であると見なす者もいた(※ポートオブスペインの募兵集会の様子)。なお「カラード」および「ブラック」の志願兵たちは下士官まで昇進することは認められたものの、将校になることは許されず、将校は白人プランター階級が多数を占めていた。

 

 

 BWIRの兵士たちは当初イギリス本国のシーフォードに集められて訓練を受けたが、初めて経験するヨーロッパの寒い気候にカリブ海地域で生まれ育った多くの兵士たちは苦しめられた。この影響もあって、BWIRは兵士たちにとってより過ごしやすい気候であると考えられたエジプトへの異動が決まり、1916年2月にアレクサンドリアに到着した。最初に充てられた任務はエジプト西部のサヌーシ―教団の反乱鎮圧だったが、これといった活動機会はなく、兵士たちはしばらくアレクサンドリア郊外のキャンプで訓練に専念し、将校や下士官たちもカイロ郊外のゼイトゥーンで教育を受けた。その後1916年夏にかけてBWIRの第3・第4大隊は後方支援任務にあたるために西部戦線へ派遣され、そのほか500人の兵員が東アフリカへ、100人の兵員がメソポタミアへそれぞれ派遣された。その結果、第1・第2・(予備戦力である)第5大隊のみがエジプト派遣軍の一員として、シナイ・パレスチナ戦役を戦うことになった。

 

 

 1916年後半から1917年にかけて、シナイ・パレスチナ戦役に従軍するBWIRの兵士たちは、占領地や補給路の警備、捕虜の護送、陣地の構築作業といった「二線級」任務を担当した(※陣地構築作業を行うBWIR兵士たち)。ただし後方の警備任務は決して平穏無事なものとは限らず、ドイツ製航空機による襲撃に遭遇したり、地元のベドウィンとの間で緊張関係が生じたりすることもあった。あくまで戦闘部隊としての起用を切望していたBWIRだったが、1917年7月20日に第1大隊の機関銃隊はガザ前面の「アンブレラ・ヒル」で戦闘部隊としてはじめて投入される機会が得られ、7月25日の戦闘では塹壕内での銃剣戦闘も経験した。銃砲火の下でも活発さと冷静さをもって任務を遂行した彼らの働きぶりは、共に戦ったイギリス軍の白人将校たちからも称賛されることになった。「アンブレラ・ヒル」の戦闘はBWIRが「二線級」任務に留まらず、戦闘任務にも適しているという評価を高める結果をもたらし、それは(増強が進められていたとは言え)限られた戦力でシナイ・パレスチナ戦役を戦わなければならないE・アレンビー総司令官にとっても都合が良いものと見なされた。アレンビーは後日、ジャマイカ総督に対し「アンブレラ・ヒル」においてBWIRの機関銃隊が示した勇敢さを称える書簡を送っている。

 

 

 1917年9月、BWIRの第1大隊はインド軍旅団およびイタリア・フランス軍部隊(※小規模ではあったが、イタリアはベルサリエーリ部隊300人、フランスはアルジェリア人騎兵部隊800人をパレスチナに派遣していた)との混成軍に加えられ、10-11月の第3次ガザ戦に参加した。この戦闘においても兵士たちはオスマン帝国軍の反撃に遭遇しても勇敢に戦い任務を遂行したことが評価され、複数の兵士たちに勲章も授与された。12月にエジプト派遣軍がヤッファ・エルサレム線まで到達した後は、BWIRの兵士たちはしばらくの間補給路の警備や戦死者の埋葬といった任務に従事したが、それと並行して銃剣戦闘や狙撃、偵察、機関銃に関する訓練も強化され、練度を高めていった。

www.iwm.org.uk 9:00~行軍するBWIRの兵士たちの映像。

 

 

 1918年8月、BWIRの第1・第2大隊はヨルダン渓谷の前線に配置され、アンザック乗馬師団、インド第20旅団、ユダヤ義勇兵部隊である第38・第39ロイヤル・フュージリアーズ大隊と共に、アンザック乗馬師団師団長のE・チェイター少将を総司令官とする混成軍、チェイター部隊Chaytor’s Forceを構成することになった。9月19日、パレスチナの平原地方の前線ではのちに「メギドの戦い」と呼ばれることになるアレンビーによる大規模攻勢が開始されたが、ヨルダン渓谷のチェイター部隊も主攻勢の側面を護るために作戦に移った。9月22日早朝、BWIRはニュージーランド乗馬ライフル旅団と共にヨルダン川にかかる主要な橋(Jisr-ed-Damieth)を確保するための戦闘に参加した。オスマン帝国軍が守りを固めている橋に対する攻撃は危険を伴うものだったが、兵士たちは機関銃隊が援護する中、むしろ陽気な雰囲気をもって大胆果敢に銃剣突撃を行ったという。オスマン帝国軍守備隊は彼らの突撃に驚き戸惑い、効果的な反撃を行うことが出来なかった。突撃によってBWIRは橋の確保に成功、ごく少数の負傷者と引き換えにオスマン帝国軍兵士200を殺傷し、110を捕虜として機関銃および軽砲14を鹵獲した。BWIRの兵士たちはその勇敢さを実証しただけでなく、ヨルダン川の交通路を押さえてオスマン帝国軍の退路を断ち、アンマン攻略への道を開くという戦略的な成功を収めたという点でも、その功績は大きかった。彼らの戦いぶりはイギリスの公式従軍記者W・T・マッセイによって同時代の新聞上でも触れられ、NZMR旅団の兵士たちの証言や戦闘日誌上でも称賛の声が寄せられた。BWIRの複数の兵士たちに勲章が授与され(※トリニダード出身のBWIR下士官に勲章を授与するチェイター)、10月のアレンビーの報告書でもその活躍が言及された。

 

 

 チェイター部隊は9月23日にエス・サルト、9月25日にはアンマンの攻略に成功し、その間BWIRはいくつかの小戦闘を経験したが、作戦中の死傷者数は約50人と少数だった。しかし寒暖の差が激しくマラリアが流行している地域での行軍によって、BWIRの兵士たちの戦病者は急増を見せるようになり、9-10月の間に第1大隊では1,187人の兵員中実に716人が病気のため後送され、10月の戦病死者数は42人に達した(チェイター部隊全体では9-11月における戦病者の延べ人数は6,920人に上り、その多くはマラリア患者だった)。大きな戦果が得られた一方でヨルダン渓谷での作戦はこのように過酷さを伴うものであったが、それでもチェイターは11月にBWIRを閲兵した際、アンザック乗馬師団の全ての部隊は、BWIRと共同で戦うことが出来たことを喜んでいる旨を兵士たちに語った。アレンビーも陸軍省に宛てた報告書の中で、BWIRの兵士たちが戦場で勇敢さや堅固さ、創意工夫を見せ、その軍紀は高い水準にあったことを称賛―ただし別の文書では、(BWIRを直接指しているのかは不明だが)非白人部隊を「ホッテントット」と表現しているものもあった―し、さらにエルサレムの軍病院を訪問した際にはBWIRの負傷者たちに対し、軍務に尽くしたことに感謝の意を示したという。

 

 

 「西インド諸島の黒人たちは、熱帯気候で生まれ育ったために規律や創意工夫が欠落している野蛮人であり、勇敢な兵士となることは出来ない」という人種偏見は大戦以前から見られ、西部戦線やイタリアに派遣されたBWIRの兵士たちは戦闘部隊として起用されることはついにかなわず、軍隊生活では宿舎や医療、給料といった様々な面で差別に遭遇した。シナイ・パレスチナ戦役におけるBWIRの兵士たちも戦闘部隊として起用される機会に恵まれたとは言え、白人兵士との待遇差があったことは否めず、差別的な言葉をもって表現されたり、人種偏見を背景として素行をとがめられる者―ただし軍法会議では、白人兵士と比べて特別に不利な立場に追い込まれた事例は少数であったとする見解もある―がいたりするなど、イギリス帝国内部の人種的ヒエラルキーは明らかに反映されていた。しかし人種偏見の存在にもかかわらず、BWIRの兵士たちはイギリス帝国への忠誠や戦争の大義に疑問を抱くようなことはなく、シナイ・パレスチナ戦役においては、後述のターラントの事例のように反乱を起こすことも無かった。またBWIRの兵士たちと白人兵士たちとの間では、場合によっては人種的ヒエラルキーに必ずしも左右されない、対等に近い関係が築かれることもあった。アンザック乗馬師団の白人兵士たち―アラブ系の現地住民に対しては強い人種偏見を抱いていたことで知られる―の多くは1918年のヨルダン渓谷の戦闘において、苦楽を共にしてイギリス帝国の戦争の大義に賛同している者同士として、BWIRの兵士たちに戦友愛や尊敬の念を抱いていたという。BWIRの兵士たちもまた、アンザック乗馬師団の兵士たちの心身の卓越性を称賛して模範とし、同時の自分たちのことを「黒いアンザック」Black Anzacsと称して彼らとの連帯を強調していた。またエジプト派遣軍の部隊間の余暇活動においては、クリケットラグビーフットボールといったスポーツ競技もしばしば開催されていたが、BWIRから選抜された選手たちは人種的隔たりをあまり感じずにそれらに参加することが出来―この経験もあって、1919年の復員途中に寄港したターラントにおいて白人選手とのスポーツ競技の禁止を命じられた際は、彼らの衝撃は大きかったという―、競技会で彼らが示した身体能力の高さ―とりわけクリケットでは非常に好成績を収めた―は、白人兵士たちの大きな注目を集めていた。

※「黒いアンザック」Black Diggers, Black Anzacs という語句自体は、出自を偽ってオーストラリア軍に入隊した先住民兵士たちを指すことの方が多い。詳しく取り上げた論考としては

第26回オーストラリア学会全国研究大会 シンポジウムII シンポジウム報告 新自由主義時代における歴史表象と国民統合―アンザック・デイを中心に―

 

 

 しかしながら、シナイ・パレスチナ戦役におけるBWIRの兵士たちの体験―時としてイギリス帝国の人種的ヒエラルキーを超越するものにもなった―がただちに報われて、強い影響力を持った戦争記憶として語り継がれたのかと言えば、残念ながらそうはならなかった。陸軍省はシナイ・パレスチナ戦役におけるBWIR の兵士たちに関することよりも、終戦直後の1918年12月に発生したイタリアのターラントで労働部隊として差別・酷使されていたBWIRの諸大隊(第9・第10大隊)の兵士たちによる反乱の方をむしろ問題視しており、非白人の卓越性よりもその危険性に関心が向けられていた。またシナイ・パレスチナ戦役に従事したBWIRの兵士たちは1919年の復員途中に寄港したターラントにおいて、YMCAの施設や映画館の利用を禁じられたリ、現地の病院での医療を断られたり、外出日時を制限されたりするといった扱いを受け、武功をあげたにもかかわらず以前と何ら変わらない人種偏見が継続していることに対する落胆の声は大きかった。このようなこともあり、BWIRの兵士たちがシナイ・パレスチナ戦役で見せた勇敢さや卓越性、白人の司令官から寄せられた称賛の声、白人兵士たちとの対等に近い関係性は、戦間期の段階で早くも忘れ去られる傾向にあった。後年のカリブ海地域を扱った歴史叙述においても、WW1経験(そもそもWW1ではなく、WW2やその後のナショナリズムの展開・独立への動きの方にむしろ比重が置かれることも多い)に関しては西部戦線における差別的待遇やターラントにおける兵士たちの反乱―この事件およびBWIRの下士官たちによる反植民地・帝国主義を掲げる団体「カリビアン・リーグ」の結成は、カリブ海地域の新たなアイデンティティ探求や帝国の人種的ヒエラルキーへの挑戦の第一歩として、高く評価されてはいるが―が紹介されることはあっても、シナイ・パレスチナ戦役における兵士たちの体験が取り上げられることは、近年に至るまでほとんどなかった。

 

 

参考文献

井野瀬久美惠「帝国の逆襲―ともに生きるために―」井野瀬久美惠編『イギリス文化史』昭和堂、2010年。

Julian Thiesfeldt Saltman,  "Odds and Sods" : Minorities in the British Empire's Campaign for Palestine, 1916-1919

http://digitalassets.lib.berkeley.edu/etd/ucb/text/Saltman_berkeley_0028E_13737.pdf

Richard Smith, Jamaican Volunteers in the First World War: Race, Masculinity and the Development of National Consciousness, Manchester, Manchester University Press, 2004.

「ラストクルセイダース」―WW1シナイ・パレスチナ戦役における十字軍レトリック

 第一次世界大戦時のシナイ・パレスチナ戦役は、映画『アラビアのロレンス』(1962)や『砂漠の勇者』 (1987)―今年はベエルシェバの乗馬襲撃から百周年にあたるので、本来なら「エミュー戦争」よりもこちらの方が注目されるべきなのだが―が象徴的であるように、T・E・ロレンスの伝説的活躍や乗馬部隊の輝かしい突撃といったロマンティシズムや英雄主義―実際のシナイ・パレスチナの戦場がどのようなものだったのかはともかく、西部戦線塹壕や泥沼とは著しく対照的なものと見なされた―に基づく一般化されたイメージをもってしばしば語られてきた。またイギリスのシナイ・パレスチナ戦役の公刊戦史では、作戦経過をトトメス3世、アレクサンドロス大王、ユダス・マカベウスといった歴史上の英雄たちになぞらえて著述している箇所が見られるなど、中東の歴史的・宗教的背景も、ロマンティシズムを喚起させるうえで大きな役割を果たしていた。

 

 

 シナイ・パレスチナ戦役の事件史的経過の中でも、とりわけ1917年12月のエジプト派遣軍Egyptian Expeditionary Forceによるエルサレム占領は、「異教徒に対する聖戦および十字軍の実践」というイメージやロマンティシズムを定着・拡散させるという、重大な影響をもたらすことになった。1917年10月-11月の作戦によって、エジプト派遣軍はガザ・ベエルシェバのオスマン帝国軍防衛線の突破に成功、12月9日にはエルサレム市がエジプト派遣軍に対し降伏した。2日後の12月11日、総司令官E・アレンビー大将のエルサレム入城式―ヤッファ門から徒歩で入城する形式は、1898年にドイツ皇帝ヴィルヘルム2世が訪問した際に騎乗に派手な軍服という「尊大な振る舞い」をもって入城したこととは好対照であると説明された―が実施され、聖地エルサレムは実に約700年ぶり―サラディンエルサレム奪還が1187年、フリードリヒ2世による一時回復後のアイユーブ朝による再占領が1244年なので、それ以来―にキリスト教国の軍隊により占領されることになった。

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E・アレンビーのエルサレム入城。出典:Imperial War Museum

 

 

 イギリスの『タイムズ』の記事では「聖地の異教徒からの解放」が強調され、『パンチ』には「最後の十字軍」と題したリチャード1世をモチーフにしたカリカチュアが掲載され、大戦終結後の1919年にも十字軍戦士に扮したアレンビーのカリカチュアが掲載された。D・ロイド・ジョージ首相は―アレンビーの司令官就任時には「クリスマスまでに聖地エルサレムを占領すること」を彼に期待し、支援を約束していた―エルサレムの占領を「イギリス国民へのクリスマスプレゼントである」と国内外に喧伝し、陸軍省は1918年2月にエルサレム占領に関するニュース映画を発表した。エジプト派遣軍に加わっていたイギリス本国の各連隊の本拠地の新聞上でも、勝利を表現する上で―1917年3-4月のガザでは2度の敗北を味わっていただけに、その喜びは大きかったという―十字軍のイメージは多用されており、地方紙レベルでも十字軍の表象やレトリックは健在であった。

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‘The Last Crusade’ 出典:Punch, 19 December 1917.

 

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‘The Return from the Crusade’ 出典:Punch, 17 September 1919.

 

 

 『パンチ』をはじめとする同時代における事例に留まらず、戦間期に出版されたロイド・ジョージの回顧録においても「クリスマス前の聖地エルサレムの占領」は1917年の重大事件として仰々しく語られ、1936年のアレンビー死去の際には、イギリスの多くの新聞が「偉大な十字軍の司令官」などと報じた。またシナイ・パレスチナ戦役の代表的な戦記物であるV・ギルバートのThe Romance of the Last Crusade(1923)の冒頭は、登場人物がリチャード1世を題材とした小説を読んでいる場面から始まっており、兵士たちが十字軍のイメージによって戦争参加の動機付けが成されていたということを明示するような構成となっていた。その他にも南アフリカの砲兵隊を題材にした Khaki Crusaders(1919)、ニュージーランド乗馬ライフル部隊を題材にしたThe Story of New Zealand’s Crusaders(1920)、オーストラリア乗馬部隊を題材にしたAussie Crusaders(1920)といったように、タイトルやカバーイラストに「十字軍」を掲げた戦記物は戦間期には数多く出版されていた。部隊史においても、例えばエセックス連隊史では「リチャード1世サラディンが戦った土地」で連隊が作戦中であったことが力説されていたり、オークランド乗馬ライフル連隊史では自分たちが「真の十字軍戦士」dinkum crusadersであったことが仰々しく語られたりするなどした。このような具体例を踏まえれば、戦中・戦後にかけて「シナイ・パレスチナ戦役=十字軍の実践」という認識がある程度浸透していたことは確かに事実であったと言える。またこれらを根拠として、「異教徒に対する聖戦や十字軍の実践が、エジプト派遣軍の従軍兵士たちの戦争参加の主要な動機づけを成していた」とする説明は、近年出版の軍事史的研究においてもしばしばなされることがある。

 

 

 しかしながら同時代の史料や証言を踏まえれば、「シナイ・パレスチナ戦役=十字軍の実践」という認識はかなり一般化されたものであって、その実像は決して単純なものではなかったことも、先行研究では指摘されている。イギリス帝国の戦争政策上の次元での話で言えば、1917年11月15日にイギリスのプレス・ビューローは、帝国内部のムスリム臣民たちの忠誠心が揺らぐことを懸念して「トルコとの戦争を聖戦や十字軍といった宗教的な事柄をもって表現することは不適切である」旨の通達を出していた。これはメディアに対する強制力としてはあまり効果がなかった模様で、メディア上で十字軍のイメージが独り歩きしていくことは避けられなかったが、インド軍兵士やアラブ反乱民を多く抱えているエジプト派遣軍にとっては、ムスリムたちの忠誠心やモラルといった事柄は、非常にデリケートな問題であり続けていた。またインドおよび中東の事情に通じていたカーゾン卿やM・サイクスの提言もあって、12月11日のアレンビーのエルサレム入城式の式典内容や声明文は、体裁としては征服を記念することよりもユダヤ・キリスト・イスラームの3宗教の融和や尊厳に重きを置くものとなっていた。「岩のドーム」の警護にはインド人ムスリム部隊が充てられる旨も大々的に報じられていたが、これは帝国内外のムスリムとの融和を促しうるものであり、イギリス帝国の国益につながるもの―1918年春以降エジプト派遣軍はインド軍部隊の割合が増加することになったが、その際にムスリム兵士たちのディシプリンが大きな問題とならなかったのは、その所産の一つであった―と見なされた。

 

 

 よりミクロな視点―実際に従軍した兵士たちの同時代における証言の検討などを通しても、聖戦や十字軍のイメージは退けられることになるという。J・E・キッチンは自身の研究においてシナイ・パレスチナ戦役に従軍した兵士たちの手紙や日記を検証したところ、聖戦や十字軍の精神を強く訴えたり、聖地エルサレムを訪問して大きな感激を覚えたりしたという内容のものは確かに見られた。総司令官であるアレンビーの場合でも、夫人や母親に宛てた手紙においてパレスチナの歴史や宗教に関わることに詳しく言及しているものは少なからず見られた。しかしながら従軍兵士全体から見れば、聖戦や十字軍の実践を明確に打ち出しているのは信仰心の厚い兵士や従軍牧師といったごく一部の者に限定されていた。軍隊生活では従軍牧師やYMCAの活動を通じてパレスチナの歴史・宗教的背景に触れる機会があったり、兵士たちが休暇でエルサレムを訪れた際には従軍牧師がガイド役を務めるといったこともあったが、その影響力はあくまで限定的―兵士たちにとってはYMCAのレクリエーション施設で提供されるケーキやお茶の方が、礼拝よりも重要であった―だったという。「日曜学校のお説教や讃美歌、家庭用聖書」に基づいた知識しかないような大多数の兵士たちは、聖戦や十字軍の実践といった仰々しい概念ではなく、もっと素朴なイメージをもって自分たちの戦場を認識していたと考えられている。

 

 

 また同時代の証言や戦記等のタイトルで示された「十字軍」という語句の全てが、宗教的情熱に基づいた文脈で用いられていたとは限らない、という問題もある。戦記物の中には、たとえ「十字軍」という語句をタイトルで掲げていても、本文中でそれについて深い意味を込めて言及している箇所はほとんど見られないというものも少なくなかった。兵士たちの手紙の中には、たとえ「乳と蜜の流れる地」「かつて十字軍が戦った土地」などと言及している場合でも、あくまで自分たちが過ごしている土地の状況説明をしているだけであり、それ以上の意図はないと思われるようなものもあった。アレンビーが家族に宛てた手紙に関しても、パレスチナの歴史・宗教的背景よりも、動植物に関することの方がむしろ詳しく書かれているものも含まれており、「十字軍の司令官」よりも「博物学者」の方がアレンビーの人物像としては近かったのではないかという見方さえある。そもそもアレンビー自身は、エジプト派遣軍がムスリム兵士やアラブ反乱民を多く抱えていた事情から、シナイ・パレスチナ戦役を「十字軍」「聖戦」と表現することについては終始慎重―興味深いことに、歴史や宗教を引き合いに出した証言は家族に宛てた手紙に多く、公的文書ではほとんど見られないのだという―であったとも言われている。

 

 

 さらに兵士たちの中には、宗教的情熱よりもむしろ聖地エルサレムへの幻滅の感情の方が先行していたという者や、シナイ・パレスチナ戦役の性格そのものが聖戦や十字軍のイメージにそぐわないという点を指摘する者もいた。エルサレムを実際に訪問したところ、「黄金の都」には程遠い市内のみすぼらしさや汚らしさ―それは時として現地住民への人種偏見を助長することにも繋がったが―に失望したという兵士たちの証言は少なからず見られ、プロテスタントの価値観から見ればパレスチナの東方キリスト教会の教会様式や慣習は違和感しか覚えられず、神聖さが感じられないという声も聞かれた。またドーセットシャー連隊の将校は自身の戦記の中で、エジプト派遣軍にはインド人ムスリム兵士が数多く含まれていたこと、オスマン帝国の背後にはキリスト教国であるドイツの存在があったことを挙げて、この戦争を十字軍と表現することは誤りであると主張していた。その他にも、オスマン帝国軍との激しい戦闘や過酷な自然環境の中では十字軍の精神を感化されることは無かったと明言する者や、「我々がリチャード1世みたいな格好で闘っている姿を想像していれば期待外れになるだろう」と吐露する者までいた。

 

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「ツーリスト」の感覚でスフィンクスとピラミッドの前で記念写真を撮る。

出典:Australian War Memorial

 

 

 以上の同時代の証言の数々を踏まえれば、聖戦や十字軍の実践がシナイ・パレスチナ戦役の従軍兵士たちの戦争参加への動機づけを成していたという説明は、必ずしも適切ではないと言える。では戦場で兵士たちを動かしていたものは、果たして何であったのか。その答えの一つとしてキッチンが挙げているのは、「大衆的オリエンタリズム」と呼称されるものである。戦前までは「アラビアンナイトや学校教科書の挿絵」の中でしか中東世界に触れたことがなかった大多数の兵士たちは、初めて体験するエジプト・パレスチナの古代遺跡やイスラーム文化、現地住民たちの慣習に強い衝撃を受け、大いに魅了される―現地住民に対しては時として人種偏見や暴力に基づいた関係が生じていたことは否定できないけれども―ことになった。カイロの博物館を見学してアラブの歴史に関心を持った1/5サフォーク連隊の将校は、バザールでクルアーンを購入したという。エルサレムの「岩のドーム」(ウマル・モスク)は「最も美しくて神聖な」「マホメット教徒たちによる世界中で最良の」建造物であるとして、多くの兵士たちが称賛するところとなった。兵士たちがパレスチナで作成したクリスマスカードの中には、キリスト教に関連する文言やイラストは何も描かれておらず、現地住民の村落の情景やイスラームのモスクを描いているようなものさえあった。このようなエジプト派遣軍兵士たちの言動から、「宗教的情熱に感化された十字軍戦士」の姿を見出すことは、おそらく不可能であろう。そういった意味では、兵士たちは「十字軍戦士」ではなく、むしろトマス・クック社のパッケージツアーのような「ツーリスト」としての性格を有していたのだと言える。

 

 

参考文献

小関隆「第一次世界大戦研究の現段階 ―京都大学人文科学研究所の共同研究を中心に―」『西洋史学』245号、2012年。

Matthew Hughes(ed.), Allenby in Palestine: the Middle East Correspondence of Field Marshal Viscount Allenby June 1917-October 1919, Thrupp, Sutton Publishing Ltd/Army Record Society, 2004.

James E. Kitchen, The British Imperial Army in the Middle East: Morale and Military Identity in the Sinai and Palestine Campaigns, 1916-18, London, Bloomsbury, 2014.