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両大戦期のイギリス帝国に関する話題がメインです

「けものはいてものけものはいない しかし彼らは廃馬を撃った」―WW1シナイ・パレスチナ戦役におけるオーストラリア・ニュージーランドの軍用馬

 WW1シナイ・パレスチナ戦役は、戦車・毒ガス・航空機といった新兵器の投入が見られたという点では「20世紀の高度産業化時代の戦争」としての性格を有していたとはいえ、1917年のベエルシェバや1918年のメギドが象徴的あるように、エジプト派遣軍の作戦遂行において乗馬部隊が果たした役割は非常に大きなものだった (むしろこちらのイメージの方が著名である)。そして当たり前の話ではあるが、乗馬部隊の一連の軍事的成功は、兵士たちのみならず軍用馬たちの存在なくしては不可能であった。今回の記事では、シナイ・パレスチナ戦役に従軍したオーストラリア軍およびニュージーランド軍の乗馬部隊(アンザック乗馬師団とオーストラリア乗馬師団を構成した)の軍用馬たちに焦点をあて、かれらにとっての戦場体験が如何なるものであったのかを見ていくことにしたい。

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ベエルシェバの乗馬襲撃。出典:Australian War Memorial

 

 

 WW1でオーストラリアは120,000頭以上の軍用馬を海外へと送った。オーストラリア産軍用馬はウェラーWaler(ニューサウスウェールズが原産であることに因む)と呼ばれ、頑強で長距離移動に耐えられ、酷暑や水の少ない環境にも適応できるという評価を得ていた。そのうち約82,000頭はインド軍で、約10,000頭は西部戦線のオーストラリア軍歩兵師団で使用され、残りの約30,000頭はシナイ・パレスチナ戦役におけるオーストラリア軍あるいはその他のエジプト派遣軍部隊において使用された。ニュージーランドは1914年から1916年にかけて約10,000頭の軍用馬を海外へ送り、そのうち約3,000頭がシナイ・パレスチナ戦役で使用された。船舶の不足からニュージーランドからの軍用馬の供給は1916年11月で停止し、1917年以降の補充馬に関してはイギリス本国やアメリカ、アルゼンチン産のものが含まれるようになったが、アルゼンチン産はニュージーランド産に比べて能力が低いといったような声も一部では聞かれた。

 

 

 戦場での酷使や飼料不足、不充分な気候順化などにより約400,000頭の馬、ラバ、ロバの損失を出してしまった南アフリカ戦争の戦訓を踏まえ、イギリス帝国では軍用馬の世話に関しては大規模な改善が試みられていた。1914年11月のオーストラリア帝国軍(オーストラリア海外派遣軍の正式名称) の第一次海外派遣部隊には約7,800頭、ニュージーランド派遣軍には約3,800頭の軍用馬が含まれていた。輸送船においては馬房の清掃や空気の入れ替えに気が配られ、馬たちには定期的に甲板で運動(船によって差はあったが)をさせ、身体を洗いグルーミングを行うなどした。エジプトにいたるまでの船旅では肺炎などによりオーストラリアの軍用馬は224頭、ニュージーランドの軍用馬は77頭が死亡したが、当初は損害率が20%になることが懸念されていたこともあり、低い損害率で(3%程度)あったと評価された。

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輸送船上の馬たち。出典:Australian War Memorial

 

 長い船旅を経てエジプトにたどり着いた馬たちの気候順化にも注意が払われていた。長旅で身体が弱っている馬たちに対応するべく、波止場に砂やワラを敷いて柔らかい地盤にしたうえで陸揚げを行った。最初は水と飼料を与えたうえで短時間散歩をさせるに留め、健康状態が良好になってから短時間の乗馬を行っていった。1914年12月下旬には軍用馬たちはようやく訓練での使用が可能な状態になり、乗馬部隊は砂漠において下馬地点への迅速な移動訓練を実施し、馬たちには砲声にも慣れさせるようにした。しかし1915年4月25日に始まるガリポリ半島の地上戦では、戦場が軍用馬に適していない地形ということもあり、オーストラリア・ニュージーランド軍の乗馬旅団は乗馬部隊として起用されることは無く、もっぱら徒歩部隊として戦闘に従事した。しかしながら、これは結果的にエジプトに留め置かれた軍用馬たちにとっては気候順化を行う充分な時間を与えることとなり、シナイ・パレスチナ戦役を戦う上では大きなメリットとなった。

 

 

 1916年以降シナイ半島での作戦が本格化すると、暑い気候の下で砂漠を迅速に行軍することが困難な歩兵部隊に替わって、乗馬部隊が主導的な役割を果たすようになったが、その際日々の馬たちの世話は、乗馬部隊の兵士たちにとって非常に大切な任務となった。飼料や水を与えたり、病原菌と一緒に古い皮膚やたてがみを取り除くために2-3時間かけてグルーミングを―たとえ砂漠地帯で水が得られない場所であっても―行ったりするのは毎日の欠かせない作業であり、同時に連隊の軍用馬下士官や蹄鉄工は、毎日全ての馬の蹄鉄をチェックしてまわった。熟練の兵士になれば、馬たちの外見や振る舞いを見ただけですぐにその健康状態―眼が沈んでいる、耳が倒れている、毛に光沢が無い、鼻水を出しているといった要素は、異常の兆候であった―を把握することができた。厳しい軍務に耐えるために、馬たちには飼料として燕麦、トウモロコシ、ふすま、キビ、大麦に粗飼料(生草、干し草、バーシーム、ワラ)を混ぜたものがあてがわれた。疲労した馬が飼料を食べようとしない場合は、兵士たちが飼料を水で練ったうえで手で食べさせることもあった。

 

 

 乗馬部隊の乗馬は、小銃、弾帯、銃剣、水筒、飯ごう、雑のう、上着、洗面具、ブランケット、ロープ、ペグ、糧食、缶詰、飼い葉袋、携帯飼料などを完全装備した兵士を乗せた状態では、約130キロの重荷に耐えて行動することを強いられた。そのため募兵の段階では種々雑多で粗悪なものも含まれていた乗馬部隊のサドルは、より乗馬の負担を軽減する上で効率的とされた「ブリティッシュ式ユニバーサル1902型サドル」へと統一されていった。輓馬は砲兵部隊や補給部隊、救護部隊で主に使用され、火砲や補給馬車、救護馬車を牽引した。ただし4輪馬車の利用に適していないシナイ半島の砂漠では、2輪馬車Sand Cartが用いられたり、ラクダによる物資輸送や負傷者の搬送―乗り心地は最悪だったが―が行われた。駄馬は補給部隊および乗馬旅団に付属する機関銃大隊で主に使用され、機関銃大隊の駄馬は機銃や弾薬(1頭当たり6-8箱)、測距儀や回光信号機などの装備を攻撃目標の約2キロ手前まで運搬する任務にあたった。

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完全装備したオーストラリア乗馬兵。 出典:Australian War Memorial

 

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救護馬車を引く輓馬。出典:Australian War Memorial

 

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機関銃を運ぶ駄馬。出典:Australian War Memorial

 

 

 兵士や獣医たちによって日々の手入れを受け、入念な気候順化への配慮がなされていたとは言え、シナイ・パレスチナの戦場は軍用馬たちにとっても過酷なものとなった。身を隠す場所がない砂漠では砲弾や航空機の攻撃は馬たちにとっても大きな脅威で、1916年6月1日にオーストラリア第1乗馬旅団の宿営地が航空機による攻撃を受けた際には36頭が戦死、9頭が負傷、123頭が砂漠に向かって逃げ出してしまった。負傷馬は獣医の診察を受けて診療キャンプに移され、回復した後補充馬廠にまわされることになったが、あまりに酷い傷を負った馬に関しては、射殺して楽にさせてやる場合もあった。なおシナイ・パレスチナ戦役では西部戦線でしばしば見られるような毒ガス攻撃に晒される局面はなく、その点は馬たちにとってはせめてもの幸運だった。

 

 

 シナイ半島の砂漠では日中と日没後の寒暖差が激しく、加えて砂嵐(ハムシーン)やノミ・ハエの大量発生といった要素は、馬たちの身体を著しくむしばむこととなり、故郷の心地よい牧草地とはかけ離れた過酷な環境で過ごさなければならない馬たちに対して、憐れみの感情を示す兵士もいた。1916年8月5日のカティアの戦闘後には、兵士が下馬すると同時に疲労のあまり砂の上にそのまま横たわってしまう馬たちが見られたという。またビル・エル・バユドBir el Bayudで警戒任務にあったオーストラリア第6乗馬連隊では、将校4人と兵士30人が日射病のため後送されたのに加え、約500頭の軍用馬が任務に耐えられなくなり3日間の休養が必要とされた。

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1917年のシナイ半島、エル・アリシュの宿営地。出典:Australian War Memorial

 

 

 

 戦場がパレスチナに―シナイ半島よりは多少環境が改善されると期待されていた―移ってからも、1917年9月7日のアンザック乗馬師団の主任獣医は「師団の4分の3の馬たちは疲労が原因で砂や自分の糞を食べ始めている」と報告しており、E・チェイター師団長は馬たちの飼料を改善するよう命令を出さなければならなかった。平常時に馬が健康状態を維持するためには、1日あたり約30リットルの水を飲む必要があるとされているが、ベエルシェバでの作戦を控えた時期には行軍訓練などを経て30時間水を飲まなくても行動できるようにするなど、馬たちの戦場環境への順応が行われていた。しかしベエルシェバ占領後の11月の戦闘では、馬たちのほとんどが48時間水を飲むことができず、苦し紛れに廃棄された井戸やワジ(涸れ川)の汚水を飲むような馬もいた。ニュージーランド乗馬ライフル旅団の機関銃大隊の中には、72時間水を飲んでいない瀕死の状態の駄馬も生じたという。1917年11月のベエルシェバ戦後のオスマン帝国軍に対する追撃戦では多くの馬たちが疲労により体調を崩し、さらに南部パレスチナでは冬が到来すると雨にさらされて震える思いをしたり、低温の中泥沼と化した地面を移動したりすることを強いられた。1917年から1918年にかけての冬には補充馬が不足していたため、馬たちは休養を取ったうえで再び任務に就かなければならなかった。 

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 降雨により泥沼となった南部パレスチナ。出典:Australian War Memorial

 

 

 このようにシナイ・パレスチナ戦役の戦場は、兵士のみならず軍用馬にとっても非常に過酷なものとなったが、一方で馬たちは戦場で優れた運動能力を示して困難な任務を達成していったことも、戦果を踏まえれば事実であり、過酷な自然環境に耐えて軍務をこなす馬たちの「偉大で勇敢な」姿に兵士たちは多くの賛辞を送った。またI・イドリースの代表的戦記における、涙をもって重傷を負った馬たちを射殺したというエピソードが象徴的であるように、「ナイル川からアレッポに至るまで」自分たちを乗せてくれた良き戦友Friends, Comradesに対し、人間と同じかそれ以上の絆を感じている者―仰々しく表現するならば、オーストラリアの理想的国民像を示す「アンザック神話」において最も神聖な美徳とされる「メイトシップ」(仲間意識)が、人間だけでなく馬に対しても適用されていたということを意味していた―も見られた。大戦終結後は軍用馬にモチーフを取った戦争記念碑も複数建立されており、このような点からも、シナイ・パレスチナ戦役の戦争記憶における馬たちの存在が、決して小さなものではなかったことをうかがい知ることが出来る。

※ただしJ・ブウは、同時代の兵士たちの手紙や日記では自分たちの乗馬について言及している箇所は少なく、言及していたとしても大抵は感情的な文脈での言及ではない(≒あくまで「消耗品」としての位置づけ)ものなので、人馬の絆を強調するようなロマン主義的なエピソードは、戦後になって徐々に語られ増幅されていったものの方が多いのではないかという見解を提示している。

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愛馬と一緒に海水浴を楽しむ。出典:Australian War Memorial

 

 

 大戦終結後、乗馬部隊の兵士たちの中には愛馬と一緒に一刻も早く故郷に帰りたいと切望する者もいたが、その期待はただちに裏切られることになった。大戦終結時、イギリス帝国軍はエジプトおよびパレスチナに約60,000頭の軍馬を保有していたが、占領任務に継続して使用する馬は少数に留まったので、大量の余剰馬が発生した。しかしながら輸送コストや船舶の不足、家畜への伝染病拡散の問題から、かれらを故郷に送り返すことは不可能であると判断された。オーストラリア軍は終戦時にエジプトおよびパレスチナに9,751頭の軍用馬を有していたが、12歳を超えた乗馬および15歳を超えた輓馬、健康状態が悪く治療に数か月を要するような馬は殺処分されることになった。殺処分が決まった馬は、利用価値があるたてがみと尻尾が刈られて蹄鉄が外されたうえで獣医の監督下拳銃で射殺され、皮(これも利用価値があったので)は塩漬けにされた。1919年3月までに殺処分された馬は3,059頭に上った。一方、若年あるいは健康で任務に適しているとされた6,000頭以上の馬は、終戦後シリアで占領任務に従事するインド第4・第5騎兵師団の部隊に譲渡されるか、エジプトにある補充馬廠へと移された(1919年3月に発生したエジプト革命の際は再び任務に服する馬も生じたが、6月には再び補充馬廠へ戻された)が、72頭は現地で売却された。ニュージーランド軍も終戦時、約2,500頭の軍用馬をエジプトおよびパレスチナに有しており、そのうち1,680頭が補充馬廠へと移された(のち32頭が売却、25頭が殺処分された)が、売却ないし殺処分された馬の正確な頭数は不明とされる。しかしながら終戦時には売却されなかった馬たちでも、最終的には乗馬や軽量輓馬に関してはエジプトの現地住民に、エジプトでは需要が見込めない重量輓馬に関しては南フランスの業者に売却されることになったと見られている。

 

 

 苦楽を共にした戦友を手放したり殺処分したりしなければならないことは、戦中の最も悲しい出来事であったという証言も数多く見られるなど、軍用馬たちの処遇に対する兵士たちの衝撃は大きかったが、殺処分に関しては「野蛮なアラブ人に売り渡されて酷使されるよりは望ましいことだ」と考えてその決定を受け入れたり、あるいはあくまで軍用馬を「家畜」「消耗品」と認識しているという者もいた。また売却されることになりそうな馬たちをこっそり宿営地から持ち出して、「野蛮なアラブ人に売却されることを防ぐために」愛馬を射殺した兵士たちが多く存在した、という逸話が後年まことしやかに語られるようになった。しかしJ・ブウは、これは事実誤認あるいは戦後に著された戦記の中での一次史料の裏付けがない表現が独り歩きした結果によるものであって、実際にはイギリス側もオーストラリア側も軍用馬たちの管理や処分は獣医たちの監督のもと厳密に実施していたのであり、このようなことが行われた明確な証拠は存在しないと論じている。

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殺処分された軍用馬たち。出典:Australian War Memorial

 

 

 結局シナイ・パレスチナ戦役で使用されたオーストラリア産軍用馬(ウェラー)のうち、再び故郷オーストラリアの土を踏んだものはなく、オーストラリア軍が使用した軍用馬全体を見ても故郷への帰還がかなったのは、オーストラリア第1師団長を務めガリポリ半島で負傷死したW・T・ブリッジズ少将の乗馬「サンディー」1頭だけだった。ニュージーランド産軍用馬に関しては、C・G・パウルス中佐の乗馬でシナイ・パレスチナ戦役を経験した「べス」―1914年の第一次派遣部隊とともに旅立った馬であった―が1918年10月にフランスへ移送された後、他の3頭のニュージーランド産軍用馬(ニュージーランド師団長を務めたA・ラッセル少将の乗馬「ドリー」など)とともに1920年4月に故郷ニュージーランドへ戻ることができたが、この計4頭が全てであった。「ベス」はエジプトのポートサイドに建立された乗馬部隊の記念碑のモデル(1956年のスエズ危機の際、記念碑は住民により破壊された)も務め、1934年に24歳で天寿を全うした。

 

参考文献

Jean Bou, 'They Shot the Horses - Didn't They?' https://www.awm.gov.au/wartime/44/page54_bou/

 

Jean Bou, Light Horse: A History of Australia’s Mounted Arm, Cambridge, Cambridge University Press, 2009.

Jean Bou, Australia’s Palestine Campaign, Canberra, Army History Unit, 2010.

Terry Kinloch, Echoes of Gallipoli: In the Words of New Zealand’s Mounted Riflemen, Auckland, Exisle Publishing, 2005.

Terry Kinloch, Devils on Horses: In the Words of the Anzacs in the Middle East 1916-1919, Auckland, Exisle Publishing, 2007.

 

NZ's First World War Horses  https://nzhistory.govt.nz/war/nz-first-world-war-horses

「ブラック・アンザックス」―WW1シナイ・パレスチナ戦役におけるイギリス領西インド諸島連隊

 第一次世界大戦が勃発すると、西インド諸島各地のイギリス領植民地でも、オーストラリアやニュージーランド、カナダといった白人自治領(ドミニオン)と同様、イギリス本国への忠誠を示す集会が開かれるなど、戦争の大義への賛同を示す声が多く見られた。当初西インド諸島植民地の戦争貢献は、戦費の負担およびカカオ・砂糖等の物資供給といった分野でなされ、兵員の派遣は旧来からの常備兵力である西インド連隊West India Regiment, WIRの西アフリカへの派遣に限定されていたが、より本格的なイギリス本国への忠誠と戦争貢献を示すべく、植民地省は西インド諸島全域から集められた志願兵で構成された部隊の派遣を提案した。19世紀にはWIRがアシャンティ戦争やシエラレオネの反乱鎮圧に派遣されたという前例があったものの、当初陸軍省は「白人の戦争」に非白人部隊を投入することに対して難色を示していた。しかし兵員の不足が懸念されていたことや、帝国の連帯を国内外に示すべきだという国王ジョージ5世の意向もあって1915年5月に提案は容認され、派遣部隊は1915年10月にイギリス領西インド諸島連隊British West Indies Regiment, BWIR (※西インド連隊WIRとは別組織である)と命名された。BWIRの兵員はジャマイカ出身者が全体の6割以上を占めていたが、兵士たちの出身地はそのほかにもトリニダード・トバゴ(全体の1割程度)、ガイアナ、イギリス領ホンジュラス、バルバドス、バハマ諸島など広範にわたり、個々の社会的・経済的背景も多様なものとなった。BWIRには大戦を通して約16,000人が志願し、著名な参加者としてはコルシカ系移民出身でのちトリニダードの労働運動の指導者となるA・シプリアニ(BWIRの将校となり大尉まで出世した。『ブラック・ジャコバン』で知られるC・L・R・ジェームズによる伝記がある)などがいた。

 

 

 西インド諸島植民地の白人エリート層から見れば、西インド諸島全体から構成されるBWIRの派遣はイギリス本国との紐帯を示し、帝国内での地位向上および(全ての地域で賛同の声が見られたわけではなかったが)将来の西インド諸島連邦結成を図る上では恩恵をもたらすと考えられた。西インド諸島各地の新聞や募兵ポスター上では(※バハマの募兵ポスター)、階級や人種を越えた戦争貢献を呼びかけられたが、より厳密には初期の募兵においては、イギリス本国の文化や価値観を受容して教育水準が比較的高い、西インド諸島中流階級を形成する混血「カラード」(「ブラウン」とも呼称)の志願者の割合が高く、読み書きが出来ない黒人労働者階級を中心とする「ブラック」の志願者は、従来からのWIR―そのためBWIRの兵士たちの中には受動的で「コロニアル」な性格としてのWIRと自発的で「ブリティッシュ」「インペリアル」な性格としてのBWIRという、明確な区別を求める者もいた―にまわされる傾向にあったという。「カラード」の兵士たちの中には、国王への忠誠や「ドイツの軍国主義」に対する正戦といった戦争の大義に共鳴している者は少なからず見られ、またパン・アフリカ主義に触発されていた運動家の中には、戦争参加は黒人の卓越性を示して社会的地位向上を図る上での好機であると見なす者もいた(※ポートオブスペインの募兵集会の様子)。なお「カラード」および「ブラック」の志願兵たちは下士官まで昇進することは認められたものの、将校になることは許されず、将校は白人プランター階級が多数を占めていた。

 

 

 BWIRの兵士たちは当初イギリス本国のシーフォードに集められて訓練を受けたが、初めて経験するヨーロッパの寒い気候にカリブ海地域で生まれ育った多くの兵士たちは苦しめられた。この影響もあって、BWIRは兵士たちにとってより過ごしやすい気候であると考えられたエジプトへの異動が決まり、1916年2月にアレクサンドリアに到着した。最初に充てられた任務はエジプト西部のサヌーシ―教団の反乱鎮圧だったが、これといった活動機会はなく、兵士たちはしばらくアレクサンドリア郊外のキャンプで訓練に専念し、将校や下士官たちもカイロ郊外のゼイトゥーンで教育を受けた。その後1916年夏にかけてBWIRの第3・第4大隊は後方支援任務にあたるために西部戦線へ派遣され、そのほか500人の兵員が東アフリカへ、100人の兵員がメソポタミアへそれぞれ派遣された。その結果、第1・第2・(予備戦力である)第5大隊のみがエジプト派遣軍の一員として、シナイ・パレスチナ戦役を戦うことになった。

 

 

 1916年後半から1917年にかけて、シナイ・パレスチナ戦役に従軍するBWIRの兵士たちは、占領地や補給路の警備、捕虜の護送、陣地の構築作業といった「二線級」任務を担当した(※陣地構築作業を行うBWIR兵士たち)。ただし後方の警備任務は決して平穏無事なものとは限らず、ドイツ製航空機による襲撃に遭遇したり、地元のベドウィンとの間で緊張関係が生じたりすることもあった。あくまで戦闘部隊としての起用を切望していたBWIRだったが、1917年7月20日に第1大隊の機関銃隊はガザ前面の「アンブレラ・ヒル」で戦闘部隊としてはじめて投入される機会が得られ、7月25日の戦闘では塹壕内での銃剣戦闘も経験した。銃砲火の下でも活発さと冷静さをもって任務を遂行した彼らの働きぶりは、共に戦ったイギリス軍の白人将校たちからも称賛されることになった。「アンブレラ・ヒル」の戦闘はBWIRが「二線級」任務に留まらず、戦闘任務にも適しているという評価を高める結果をもたらし、それは(増強が進められていたとは言え)限られた戦力でシナイ・パレスチナ戦役を戦わなければならないE・アレンビー総司令官にとっても都合が良いものと見なされた。アレンビーは後日、ジャマイカ総督に対し「アンブレラ・ヒル」においてBWIRの機関銃隊が示した勇敢さを称える書簡を送っている。

 

 

 1917年9月、BWIRの第1大隊はインド軍旅団およびイタリア・フランス軍部隊(※小規模ではあったが、イタリアはベルサリエーリ部隊300人、フランスはアルジェリア人騎兵部隊800人をパレスチナに派遣していた)との混成軍に加えられ、10-11月の第3次ガザ戦に参加した。この戦闘においても兵士たちはオスマン帝国軍の反撃に遭遇しても勇敢に戦い任務を遂行したことが評価され、複数の兵士たちに勲章も授与された。12月にエジプト派遣軍がヤッファ・エルサレム線まで到達した後は、BWIRの兵士たちはしばらくの間補給路の警備や戦死者の埋葬といった任務に従事したが、それと並行して銃剣戦闘や狙撃、偵察、機関銃に関する訓練も強化され、練度を高めていった。

www.iwm.org.uk 9:00~行軍するBWIRの兵士たちの映像。

 

 

 1918年8月、BWIRの第1・第2大隊はヨルダン渓谷の前線に配置され、アンザック乗馬師団、インド第20旅団、ユダヤ義勇兵部隊である第38・第39ロイヤル・フュージリアーズ大隊と共に、アンザック乗馬師団師団長のE・チェイター少将を総司令官とする混成軍、チェイター部隊Chaytor’s Forceを構成することになった。9月19日、パレスチナの平原地方の前線ではのちに「メギドの戦い」と呼ばれることになるアレンビーによる大規模攻勢が開始されたが、ヨルダン渓谷のチェイター部隊も主攻勢の側面を護るために作戦に移った。9月22日早朝、BWIRはニュージーランド乗馬ライフル旅団と共にヨルダン川にかかる主要な橋(Jisr-ed-Damieth)を確保するための戦闘に参加した。オスマン帝国軍が守りを固めている橋に対する攻撃は危険を伴うものだったが、兵士たちは機関銃隊が援護する中、むしろ陽気な雰囲気をもって大胆果敢に銃剣突撃を行ったという。オスマン帝国軍守備隊は彼らの突撃に驚き戸惑い、効果的な反撃を行うことが出来なかった。突撃によってBWIRは橋の確保に成功、ごく少数の負傷者と引き換えにオスマン帝国軍兵士200を殺傷し、110を捕虜として機関銃および軽砲14を鹵獲した。BWIRの兵士たちはその勇敢さを実証しただけでなく、ヨルダン川の交通路を押さえてオスマン帝国軍の退路を断ち、アンマン攻略への道を開くという戦略的な成功を収めたという点でも、その功績は大きかった。彼らの戦いぶりはイギリスの公式従軍記者W・T・マッセイによって同時代の新聞上でも触れられ、NZMR旅団の兵士たちの証言や戦闘日誌上でも称賛の声が寄せられた。BWIRの複数の兵士たちに勲章が授与され(※トリニダード出身のBWIR下士官に勲章を授与するチェイター)、10月のアレンビーの報告書でもその活躍が言及された。

 

 

 チェイター部隊は9月23日にエス・サルト、9月25日にはアンマンの攻略に成功し、その間BWIRはいくつかの小戦闘を経験したが、作戦中の死傷者数は約50人と少数だった。しかし寒暖の差が激しくマラリアが流行している地域での行軍によって、BWIRの兵士たちの戦病者は急増を見せるようになり、9-10月の間に第1大隊では1,187人の兵員中実に716人が病気のため後送され、10月の戦病死者数は42人に達した(チェイター部隊全体では9-11月における戦病者の延べ人数は6,920人に上り、その多くはマラリア患者だった)。大きな戦果が得られた一方でヨルダン渓谷での作戦はこのように過酷さを伴うものであったが、それでもチェイターは11月にBWIRを閲兵した際、アンザック乗馬師団の全ての部隊は、BWIRと共同で戦うことが出来たことを喜んでいる旨を兵士たちに語った。アレンビーも陸軍省に宛てた報告書の中で、BWIRの兵士たちが戦場で勇敢さや堅固さ、創意工夫を見せ、その軍紀は高い水準にあったことを称賛―ただし別の文書では、(BWIRを直接指しているのかは不明だが)非白人部隊を「ホッテントット」と表現しているものもあった―し、さらにエルサレムの軍病院を訪問した際にはBWIRの負傷者たちに対し、軍務に尽くしたことに感謝の意を示したという。

 

 

 「西インド諸島の黒人たちは、熱帯気候で生まれ育ったために規律や創意工夫が欠落している野蛮人であり、勇敢な兵士となることは出来ない」という人種偏見は大戦以前から見られ、西部戦線やイタリアに派遣されたBWIRの兵士たちは戦闘部隊として起用されることはついにかなわず、軍隊生活では宿舎や医療、給料といった様々な面で差別に遭遇した。シナイ・パレスチナ戦役におけるBWIRの兵士たちも戦闘部隊として起用される機会に恵まれたとは言え、白人兵士との待遇差があったことは否めず、差別的な言葉をもって表現されたり、人種偏見を背景として素行をとがめられる者―ただし軍法会議では、白人兵士と比べて特別に不利な立場に追い込まれた事例は少数であったとする見解もある―がいたりするなど、イギリス帝国内部の人種的ヒエラルキーは明らかに反映されていた。しかし人種偏見の存在にもかかわらず、BWIRの兵士たちはイギリス帝国への忠誠や戦争の大義に疑問を抱くようなことはなく、シナイ・パレスチナ戦役においては、後述のターラントの事例のように反乱を起こすことも無かった。またBWIRの兵士たちと白人兵士たちとの間では、場合によっては人種的ヒエラルキーに必ずしも左右されない、対等に近い関係が築かれることもあった。アンザック乗馬師団の白人兵士たち―アラブ系の現地住民に対しては強い人種偏見を抱いていたことで知られる―の多くは1918年のヨルダン渓谷の戦闘において、苦楽を共にしてイギリス帝国の戦争の大義に賛同している者同士として、BWIRの兵士たちに戦友愛や尊敬の念を抱いていたという。BWIRの兵士たちもまた、アンザック乗馬師団の兵士たちの心身の卓越性を称賛して模範とし、同時の自分たちのことを「黒いアンザック」Black Anzacsと称して彼らとの連帯を強調していた。またエジプト派遣軍の部隊間の余暇活動においては、クリケットラグビーフットボールといったスポーツ競技もしばしば開催されていたが、BWIRから選抜された選手たちは人種的隔たりをあまり感じずにそれらに参加することが出来―この経験もあって、1919年の復員途中に寄港したターラントにおいて白人選手とのスポーツ競技の禁止を命じられた際は、彼らの衝撃は大きかったという―、競技会で彼らが示した身体能力の高さ―とりわけクリケットでは非常に好成績を収めた―は、白人兵士たちの大きな注目を集めていた。

※「黒いアンザック」Black Diggers, Black Anzacs という語句自体は、出自を偽ってオーストラリア軍に入隊した先住民兵士たちを指すことの方が多い。詳しく取り上げた論考としては

第26回オーストラリア学会全国研究大会 シンポジウムII シンポジウム報告 新自由主義時代における歴史表象と国民統合―アンザック・デイを中心に―

 

 

 しかしながら、シナイ・パレスチナ戦役におけるBWIRの兵士たちの体験―時としてイギリス帝国の人種的ヒエラルキーを超越するものにもなった―がただちに報われて、強い影響力を持った戦争記憶として語り継がれたのかと言えば、残念ながらそうはならなかった。陸軍省はシナイ・パレスチナ戦役におけるBWIR の兵士たちに関することよりも、終戦直後の1918年12月に発生したイタリアのターラントで労働部隊として差別・酷使されていたBWIRの諸大隊(第9・第10大隊)の兵士たちによる反乱の方をむしろ問題視しており、非白人の卓越性よりもその危険性に関心が向けられていた。またシナイ・パレスチナ戦役に従事したBWIRの兵士たちは1919年の復員途中に寄港したターラントにおいて、YMCAの施設や映画館の利用を禁じられたリ、現地の病院での医療を断られたり、外出日時を制限されたりするといった扱いを受け、武功をあげたにもかかわらず以前と何ら変わらない人種偏見が継続していることに対する落胆の声は大きかった。このようなこともあり、BWIRの兵士たちがシナイ・パレスチナ戦役で見せた勇敢さや卓越性、白人の司令官から寄せられた称賛の声、白人兵士たちとの対等に近い関係性は、戦間期の段階で早くも忘れ去られる傾向にあった。後年のカリブ海地域を扱った歴史叙述においても、WW1経験(そもそもWW1ではなく、WW2やその後のナショナリズムの展開・独立への動きの方にむしろ比重が置かれることも多い)に関しては西部戦線における差別的待遇やターラントにおける兵士たちの反乱―この事件およびBWIRの下士官たちによる反植民地・帝国主義を掲げる団体「カリビアン・リーグ」の結成は、カリブ海地域の新たなアイデンティティ探求や帝国の人種的ヒエラルキーへの挑戦の第一歩として、高く評価されてはいるが―が紹介されることはあっても、シナイ・パレスチナ戦役における兵士たちの体験が取り上げられることは、近年に至るまでほとんどなかった。

 

 

参考文献

井野瀬久美惠「帝国の逆襲―ともに生きるために―」井野瀬久美惠編『イギリス文化史』昭和堂、2010年。

Julian Thiesfeldt Saltman,  "Odds and Sods" : Minorities in the British Empire's Campaign for Palestine, 1916-1919

http://digitalassets.lib.berkeley.edu/etd/ucb/text/Saltman_berkeley_0028E_13737.pdf

Richard Smith, Jamaican Volunteers in the First World War: Race, Masculinity and the Development of National Consciousness, Manchester, Manchester University Press, 2004.

「ラストクルセイダース」―WW1シナイ・パレスチナ戦役における十字軍レトリック

 第一次世界大戦時のシナイ・パレスチナ戦役は、映画『アラビアのロレンス』(1962)や『砂漠の勇者』 (1987)―今年はベエルシェバの乗馬襲撃から百周年にあたるので、本来なら「エミュー戦争」よりもこちらの方が注目されるべきなのだが―が象徴的であるように、T・E・ロレンスの伝説的活躍や乗馬部隊の輝かしい突撃といったロマンティシズムや英雄主義―実際のシナイ・パレスチナの戦場がどのようなものだったのかはともかく、西部戦線塹壕や泥沼とは著しく対照的なものと見なされた―に基づく一般化されたイメージをもってしばしば語られてきた。またイギリスのシナイ・パレスチナ戦役の公刊戦史では、作戦経過をトトメス3世、アレクサンドロス大王、ユダス・マカベウスといった歴史上の英雄たちになぞらえて著述している箇所が見られるなど、中東の歴史的・宗教的背景も、ロマンティシズムを喚起させるうえで大きな役割を果たしていた。

 

 

 シナイ・パレスチナ戦役の事件史的経過の中でも、とりわけ1917年12月のエジプト派遣軍Egyptian Expeditionary Forceによるエルサレム占領は、「異教徒に対する聖戦および十字軍の実践」というイメージやロマンティシズムを定着・拡散させるという、重大な影響をもたらすことになった。1917年10月-11月の作戦によって、エジプト派遣軍はガザ・ベエルシェバのオスマン帝国軍防衛線の突破に成功、12月9日にはエルサレム市がエジプト派遣軍に対し降伏した。2日後の12月11日、総司令官E・アレンビー大将のエルサレム入城式―ヤッファ門から徒歩で入城する形式は、1898年にドイツ皇帝ヴィルヘルム2世が訪問した際に騎乗に派手な軍服という「尊大な振る舞い」をもって入城したこととは好対照であると説明された―が実施され、聖地エルサレムは実に約700年ぶり―サラディンエルサレム奪還が1187年、フリードリヒ2世による一時回復後のアイユーブ朝による再占領が1244年なので、それ以来―にキリスト教国の軍隊により占領されることになった。

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E・アレンビーのエルサレム入城。出典:Imperial War Museum

 

 

 イギリスの『タイムズ』の記事では「聖地の異教徒からの解放」が強調され、『パンチ』には「最後の十字軍」と題したリチャード1世をモチーフにしたカリカチュアが掲載され、大戦終結後の1919年にも十字軍戦士に扮したアレンビーのカリカチュアが掲載された。D・ロイド・ジョージ首相は―アレンビーの司令官就任時には「クリスマスまでに聖地エルサレムを占領すること」を彼に期待し、支援を約束していた―エルサレムの占領を「イギリス国民へのクリスマスプレゼントである」と国内外に喧伝し、陸軍省は1918年2月にエルサレム占領に関するニュース映画を発表した。エジプト派遣軍に加わっていたイギリス本国の各連隊の本拠地の新聞上でも、勝利を表現する上で―1917年3-4月のガザでは2度の敗北を味わっていただけに、その喜びは大きかったという―十字軍のイメージは多用されており、地方紙レベルでも十字軍の表象やレトリックは健在であった。

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‘The Last Crusade’ 出典:Punch, 19 December 1917.

 

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‘The Return from the Crusade’ 出典:Punch, 17 September 1919.

 

 

 『パンチ』をはじめとする同時代における事例に留まらず、戦間期に出版されたロイド・ジョージの回顧録においても「クリスマス前の聖地エルサレムの占領」は1917年の重大事件として仰々しく語られ、1936年のアレンビー死去の際には、イギリスの多くの新聞が「偉大な十字軍の司令官」などと報じた。またシナイ・パレスチナ戦役の代表的な戦記物であるV・ギルバートのThe Romance of the Last Crusade(1923)の冒頭は、登場人物がリチャード1世を題材とした小説を読んでいる場面から始まっており、兵士たちが十字軍のイメージによって戦争参加の動機付けが成されていたということを明示するような構成となっていた。その他にも南アフリカの砲兵隊を題材にした Khaki Crusaders(1919)、ニュージーランド乗馬ライフル部隊を題材にしたThe Story of New Zealand’s Crusaders(1920)、オーストラリア乗馬部隊を題材にしたAussie Crusaders(1920)といったように、タイトルやカバーイラストに「十字軍」を掲げた戦記物は戦間期には数多く出版されていた。部隊史においても、例えばエセックス連隊史では「リチャード1世サラディンが戦った土地」で連隊が作戦中であったことが力説されていたり、オークランド乗馬ライフル連隊史では自分たちが「真の十字軍戦士」dinkum crusadersであったことが仰々しく語られたりするなどした。このような具体例を踏まえれば、戦中・戦後にかけて「シナイ・パレスチナ戦役=十字軍の実践」という認識がある程度浸透していたことは確かに事実であったと言える。またこれらを根拠として、「異教徒に対する聖戦や十字軍の実践が、エジプト派遣軍の従軍兵士たちの戦争参加の主要な動機づけを成していた」とする説明は、近年出版の軍事史的研究においてもしばしばなされることがある。

 

 

 しかしながら同時代の史料や証言を踏まえれば、「シナイ・パレスチナ戦役=十字軍の実践」という認識はかなり一般化されたものであって、その実像は決して単純なものではなかったことも、先行研究では指摘されている。イギリス帝国の戦争政策上の次元での話で言えば、1917年11月15日にイギリスのプレス・ビューローは、帝国内部のムスリム臣民たちの忠誠心が揺らぐことを懸念して「トルコとの戦争を聖戦や十字軍といった宗教的な事柄をもって表現することは不適切である」旨の通達を出していた。これはメディアに対する強制力としてはあまり効果がなかった模様で、メディア上で十字軍のイメージが独り歩きしていくことは避けられなかったが、インド軍兵士やアラブ反乱民を多く抱えているエジプト派遣軍にとっては、ムスリムたちの忠誠心やモラルといった事柄は、非常にデリケートな問題であり続けていた。またインドおよび中東の事情に通じていたカーゾン卿やM・サイクスの提言もあって、12月11日のアレンビーのエルサレム入城式の式典内容や声明文は、体裁としては征服を記念することよりもユダヤ・キリスト・イスラームの3宗教の融和や尊厳に重きを置くものとなっていた。「岩のドーム」の警護にはインド人ムスリム部隊が充てられる旨も大々的に報じられていたが、これは帝国内外のムスリムとの融和を促しうるものであり、イギリス帝国の国益につながるもの―1918年春以降エジプト派遣軍はインド軍部隊の割合が増加することになったが、その際にムスリム兵士たちのディシプリンが大きな問題とならなかったのは、その所産の一つであった―と見なされた。

 

 

 よりミクロな視点―実際に従軍した兵士たちの同時代における証言の検討などを通しても、聖戦や十字軍のイメージは退けられることになるという。J・E・キッチンは自身の研究においてシナイ・パレスチナ戦役に従軍した兵士たちの手紙や日記を検証したところ、聖戦や十字軍の精神を強く訴えたり、聖地エルサレムを訪問して大きな感激を覚えたりしたという内容のものは確かに見られた。総司令官であるアレンビーの場合でも、夫人や母親に宛てた手紙においてパレスチナの歴史や宗教に関わることに詳しく言及しているものは少なからず見られた。しかしながら従軍兵士全体から見れば、聖戦や十字軍の実践を明確に打ち出しているのは信仰心の厚い兵士や従軍牧師といったごく一部の者に限定されていた。軍隊生活では従軍牧師やYMCAの活動を通じてパレスチナの歴史・宗教的背景に触れる機会があったり、兵士たちが休暇でエルサレムを訪れた際には従軍牧師がガイド役を務めるといったこともあったが、その影響力はあくまで限定的―兵士たちにとってはYMCAのレクリエーション施設で提供されるケーキやお茶の方が、礼拝よりも重要であった―だったという。「日曜学校のお説教や讃美歌、家庭用聖書」に基づいた知識しかないような大多数の兵士たちは、聖戦や十字軍の実践といった仰々しい概念ではなく、もっと素朴なイメージをもって自分たちの戦場を認識していたと考えられている。

 

 

 また同時代の証言や戦記等のタイトルで示された「十字軍」という語句の全てが、宗教的情熱に基づいた文脈で用いられていたとは限らない、という問題もある。戦記物の中には、たとえ「十字軍」という語句をタイトルで掲げていても、本文中でそれについて深い意味を込めて言及している箇所はほとんど見られないというものも少なくなかった。兵士たちの手紙の中には、たとえ「乳と蜜の流れる地」「かつて十字軍が戦った土地」などと言及している場合でも、あくまで自分たちが過ごしている土地の状況説明をしているだけであり、それ以上の意図はないと思われるようなものもあった。アレンビーが家族に宛てた手紙に関しても、パレスチナの歴史・宗教的背景よりも、動植物に関することの方がむしろ詳しく書かれているものも含まれており、「十字軍の司令官」よりも「博物学者」の方がアレンビーの人物像としては近かったのではないかという見方さえある。そもそもアレンビー自身は、エジプト派遣軍がムスリム兵士やアラブ反乱民を多く抱えていた事情から、シナイ・パレスチナ戦役を「十字軍」「聖戦」と表現することについては終始慎重―興味深いことに、歴史や宗教を引き合いに出した証言は家族に宛てた手紙に多く、公的文書ではほとんど見られないのだという―であったとも言われている。

 

 

 さらに兵士たちの中には、宗教的情熱よりもむしろ聖地エルサレムへの幻滅の感情の方が先行していたという者や、シナイ・パレスチナ戦役の性格そのものが聖戦や十字軍のイメージにそぐわないという点を指摘する者もいた。エルサレムを実際に訪問したところ、「黄金の都」には程遠い市内のみすぼらしさや汚らしさ―それは時として現地住民への人種偏見を助長することにも繋がったが―に失望したという兵士たちの証言は少なからず見られ、プロテスタントの価値観から見ればパレスチナの東方キリスト教会の教会様式や慣習は違和感しか覚えられず、神聖さが感じられないという声も聞かれた。またドーセットシャー連隊の将校は自身の戦記の中で、エジプト派遣軍にはインド人ムスリム兵士が数多く含まれていたこと、オスマン帝国の背後にはキリスト教国であるドイツの存在があったことを挙げて、この戦争を十字軍と表現することは誤りであると主張していた。その他にも、オスマン帝国軍との激しい戦闘や過酷な自然環境の中では十字軍の精神を感化されることは無かったと明言する者や、「我々がリチャード1世みたいな格好で闘っている姿を想像していれば期待外れになるだろう」と吐露する者までいた。

 

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「ツーリスト」の感覚でスフィンクスとピラミッドの前で記念写真を撮る。

出典:Australian War Memorial

 

 

 以上の同時代の証言の数々を踏まえれば、聖戦や十字軍の実践がシナイ・パレスチナ戦役の従軍兵士たちの戦争参加への動機づけを成していたという説明は、必ずしも適切ではないと言える。では戦場で兵士たちを動かしていたものは、果たして何であったのか。その答えの一つとしてキッチンが挙げているのは、「大衆的オリエンタリズム」と呼称されるものである。戦前までは「アラビアンナイトや学校教科書の挿絵」の中でしか中東世界に触れたことがなかった大多数の兵士たちは、初めて体験するエジプト・パレスチナの古代遺跡やイスラーム文化、現地住民たちの慣習に強い衝撃を受け、大いに魅了される―現地住民に対しては時として人種偏見や暴力に基づいた関係が生じていたことは否定できないけれども―ことになった。カイロの博物館を見学してアラブの歴史に関心を持った1/5サフォーク連隊の将校は、バザールでクルアーンを購入したという。エルサレムの「岩のドーム」(ウマル・モスク)は「最も美しくて神聖な」「マホメット教徒たちによる世界中で最良の」建造物であるとして、多くの兵士たちが称賛するところとなった。兵士たちがパレスチナで作成したクリスマスカードの中には、キリスト教に関連する文言やイラストは何も描かれておらず、現地住民の村落の情景やイスラームのモスクを描いているようなものさえあった。このようなエジプト派遣軍兵士たちの言動から、「宗教的情熱に感化された十字軍戦士」の姿を見出すことは、おそらく不可能であろう。そういった意味では、兵士たちは「十字軍戦士」ではなく、むしろトマス・クック社のパッケージツアーのような「ツーリスト」としての性格を有していたのだと言える。

 

 

参考文献

小関隆「第一次世界大戦研究の現段階 ―京都大学人文科学研究所の共同研究を中心に―」『西洋史学』245号、2012年。

Matthew Hughes(ed.), Allenby in Palestine: the Middle East Correspondence of Field Marshal Viscount Allenby June 1917-October 1919, Thrupp, Sutton Publishing Ltd/Army Record Society, 2004.

James E. Kitchen, The British Imperial Army in the Middle East: Morale and Military Identity in the Sinai and Palestine Campaigns, 1916-18, London, Bloomsbury, 2014.

バルディア―忘れられた大勝利

 1940年12月9日、西方砂漠軍Western Desert Force(のち第8軍団)司令官R・オコンナー中将はエジプトに進攻していたイタリア軍に対する反撃作戦「コンパス」の開始を命じた。エジプト領内のシディ・バラニにあるイタリア軍前線基地は12月11日には陥落し、イギリス連邦軍が獲得した捕虜は約20,000に上った。その後イタリア軍に対する追撃戦が展開され、イギリス連邦軍は12月18日にはエジプト国境から25km離れた場所に位置するキレナイカの小港バルディアに迫った。イギリス連邦軍側としては、今後キレナイカへ深く進出していくための補給拠点として、この地を何としても押さえる必要があった。一方イタリアのB・ムッソリーニ統帥はイギリス連邦軍のこれ以上のキレナイカへの進撃を食い止めるためにも、「ファシズムの防波堤」たるバルディアの死守をR・グラツィアーニ元帥およびバルディアを防衛するイタリア第23軍団司令官A・ベルゴンツォーリ中将に厳命していた。

 

 ベルゴンツォーリ中将指揮下の戦力は、エジプトから撤退してきたものを含めた約45,000の兵員、戦車131、火砲460というものだった。一方攻撃側のイギリス連邦軍側の戦力は、これが大戦における初の実戦となるオーストラリア第6師団(師団長はI・マッケイ少将)を中心とした約20,000の兵員、火砲122、戦車26(王立第7戦車連隊のマチルダ戦車)だった。オーストラリア第6師団は12月27日にはバルディア前面で配置につき、兵士たちは偵察任務を入念に行った。この時点では迫撃砲、対戦車砲、対戦車銃といった師団の装備は不足気味で、第17旅団ではワイヤーカッターやグローブといった基本装備でさえ、攻撃前日までは揃わなかったという。また昼間の暑さと日没後の寒さ、時折やってくる砲撃や空襲、粗末な糧食、水不足などは兵士たちを悩ませていた。兵士たちは1940年2月にパレスチナに到着して以来訓練に従事していたものの、その軍事的能力に関しては未知数であった。

 

 年が明けた1941年1月3日の午前5時30分、バルディア攻略作戦は開始された。弱点とされた西側陣地からの主攻撃は第16旅団が担当し、工兵隊が突破口を開くべく対戦車壕を埋め、爆薬筒を用いて鉄条網の除去に努めた。1時間ほどのち、歩兵大隊と戦車の前進が開始された。イタリア軍砲兵隊からの精密な射撃や戦車隊による反撃に遭遇する場面もあったが、火砲や戦車の支援もあって陣地は次々に制圧され、日中には防衛線を突破することに成功した。すぐさま投降するというイタリア軍兵士も多くみられたが、そのような背景としては、訓練不足のイタリア軍徴募兵たちには襲来するオーストラリア軍兵士たちの姿が「モンスターのように」―作戦が早朝に開始されたこともあり多くの兵士がオーバーコートやジャーキン、バラクラヴァなどの防寒具を身にまとっていた点も、「異様な姿」を助長する結果となった―映っていた、という逸話も伝わっている。しかしながら、陣地を突破されるまで果敢に砲撃を行ってオーストラリア軍部隊に大きな損害を与えたイタリア軍砲兵隊も存在し、これに対してはオーストラリア兵からも、称賛の声が寄せられた。

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バルディアに向かって前進する兵士たち 出典:Australian War Memorial

 

 一方イタリア軍の防衛が強固だったバルディアの南側から攻撃を仕掛けた第17旅団は、火砲や戦車の支援が不足していたことも重なって苦戦を強いられ、第2/6大隊のジョー・ガレット軍曹が率いる小隊は「ポスト11」の陣地に攻撃をかけたが撃退された。参加した兵士48人中無傷だったのは2人だけで、ガレット自身も重傷を負ったが、その戦闘場面は後年戦争画に描かれて(Australian War Memorial)伝説化されることになった。第2/6大隊では損害は戦死22、負傷51に及んでいた。

 

 それでも第6師団は1月3日中にバルディア周辺のイタリア軍陣地の半分以上を制圧しており、バルディアの村内にも迫っていた。1月4日未明、第16旅団は第6師団騎兵連隊のブレンガン・キャリアーに支援されて攻撃を再開、午後には村の占領に成功し、イタリア軍の防衛線は分断された。南側でも予備戦力だった第19旅団が加わって、陣地の掃討を行った。1月5日正午過ぎ、最後まで抗戦していた「ポスト11」―3日にガレット軍曹の小隊が大きな損害を受けた場所であった―の陣地が降伏した。第2/6大隊長のA・ゴッドフリー中佐は降伏したイタリア軍の指揮官―第一次世界大戦時のイギリスの武功十字章をつけていたという―と握手し、最後まで粘り強く戦ったことを称賛した。イタリア軍の抗戦は13時30分ごろには完全に終わり、約55時間にわたった戦闘は正式に終了した。オーストラリア第6師団は戦死130、負傷326という損害を受けたが、イタリア軍に与えた損害は戦死約1,000、負傷約3,000で、捕虜は約36,000に上り、そのほか沿岸砲26、中型砲7、野砲216、対空砲213、戦車130、車両700などが鹵獲された。イタリア軍の司令官ベルゴンツォーリ中将は既に逃亡していたが、ベンガジが占領された後の2月7日、イギリス連邦軍の捕虜となった。

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戦利品のイタリア軍将校の礼服で仮装するオーストラリア兵たち。バルディアに乗り込んだ彼らは、イタリア軍将校たちが物持ちがよく贅沢に過ごしていたことに驚いたという。一方で、イタリア軍の一般兵士たちの暮らしぶりは、将校たちに比べれば遥かにみすぼらしいものであった。出典:Australian War Memorial

 

 

 バルディアの戦闘はキレナイカ全土を制圧することになったイギリス連邦軍の「コンパス」作戦全体から見れば一局面ではあったが、その反響は予想外に大きかった。大戦勃発以来、ドイツの強大な軍事力がヨーロッパを席巻するという悪いニュースが続き、同時にアジア太平洋での日本の動向も気がかりとなっていたオーストラリアでは、バルディアの勝利は熱狂をもって迎えられた。そして何よりも、オーストラリアの陸軍部隊(※海軍は軽巡洋艦シドニー」などが既に地中海で作戦に従事して戦果をあげていた)にとっての初の実戦において、軍事的成功を収めたという点は大きかった。1940年の時点ではオーストラリア軍部隊は練度や装備は決して充分なものではなく、WW1に従軍した兵士たちが見せたような勇敢さや卓越性―ガリポリ上陸作戦にちなんだ4月25日はアンザック・デイとして既に記念日となり、伝説化されていた―を示すことが出来るかどうかを不安視する向きもあった。このような背景もあって、オーストラリアの新聞上ではバルディアは戦闘の経過や戦果そのものが詳細に報じられるだけでなく、この勝利が「ガリポリ、パッシェンデール、ベエルシェバ、ヴィレル・ブルトンヌetcに並ぶべきもの」「先の大戦の兵士たちと同様の卓越性を戦場で示し、世界を驚かせた」点も強調されていた。1941年4月25日のシドニーのアンザック・デイ―この時期には既にアフリカ軍団による反撃が展開されていたのだが―では、バルディアを経験した帰還兵たちがWW1の帰還兵たちと一緒にパレードに参加する光景も見られ、彼らが旧い世代のアンザック兵士たちの後継者(「アンザックの息子たち」とも形容される)たりうることが認められるに至った。やや仰々しく表現するならば、バルディアの勝利は「アンザック神話が「第一次世界大戦」という時代的文脈や「ガリポリ」という空間的文脈から飛躍して、新たな戦争の記憶を包摂しようと」(津田博司『戦争の記憶とイギリス帝国』113頁)する、一つの端緒を成すものであったと言える。

 

 しかし結論から言えば、「アンザックの息子たち」のデビュー戦たるバルディアが、オーストラリアの戦争記憶として強く残ることは無かった。1941年3-4月、E・ロンメル中将のアフリカ軍団の反撃によってイギリス連邦軍はキレナイカからの撤退を余儀なくされ、バルディアも枢軸国側の手に渡った。オーストラリア第6師団と交替して北アフリカの戦闘に従事していたオーストラリア第9師団は、この後苦難のトブルク攻囲戦を戦うことになるが、戦中・戦後にかけてオーストラリア軍兵士たちの卓越性を示すものとして知名度を得たのは、むしろ「トブルクのねずみ」(※簡単な解説は以下

http://www.let.osaka-u.ac.jp/seiyousi/bun45dict/dict-html/00986_RatsofTobruk.html)

とあだ名された彼らの方であった。大戦中盤にかけての戦局―ギリシアクレタ島シンガポールダーウィン空襲、ニューギニアなどにおいてオーストラリア軍が苦戦を強いられたことも、バルディアの輝かしい勝利の記憶の周縁化に拍車をかけた。今日のオーストラリアでは、WW2の戦争記憶においてトブルクやココダが想起されることはあっても、バルディアについて知っているという人は(軍事史に特別な関心を持っている人を除けば)ほとんどいないという。

 

参考文献

津田博司『戦争の記憶とイギリス帝国―オーストラリア、カナダにおける植民地ナショナリズム』刀水書房、2012年。

アラン・ムーアヘッド(平井イサク訳)『砂漠の戦争』ハヤカワ文庫、1977年。

Craig Stockings, The Battle of Bardia, Canberra, Army History Unit, 2011.

Glenn Wahlert, The Western Desert Campaign 1940-1941, Canberra, Army History Unit, 2009[first published 2006].