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バルディア―忘れられた大勝利

 1940年12月9日、西方砂漠軍Western Desert Force(のち第8軍団)司令官R・オコンナー中将はエジプトに進攻していたイタリア軍に対する反撃作戦「コンパス」の開始を命じた。エジプト領内のシディ・バラニにあるイタリア軍前線基地は12月11日には陥落し、イギリス連邦軍が獲得した捕虜は約20,000に上った。その後イタリア軍に対する追撃戦が展開され、イギリス連邦軍は12月18日にはエジプト国境から25km離れた場所に位置するキレナイカの小港バルディアに迫った。イギリス連邦軍側としては、今後キレナイカへ深く進出していくための補給拠点として、この地を何としても押さえる必要があった。一方イタリアのB・ムッソリーニ統帥はイギリス連邦軍のこれ以上のキレナイカへの進撃を食い止めるためにも、「ファシズムの防波堤」たるバルディアの死守をR・グラツィアーニ元帥およびバルディアを防衛するイタリア第23軍団司令官A・ベルゴンツォーリ中将に厳命していた。

 

 ベルゴンツォーリ中将指揮下の戦力は、エジプトから撤退してきたものを含めた約45,000の兵員、戦車131、火砲460というものだった。一方攻撃側のイギリス連邦軍側の戦力は、これが大戦における初の実戦となるオーストラリア第6師団(師団長はI・マッケイ少将)を中心とした約20,000の兵員、火砲122、戦車26(王立第7戦車連隊のマチルダ戦車)だった。オーストラリア第6師団は12月27日にはバルディア前面で配置につき、兵士たちは偵察任務を入念に行った。この時点では迫撃砲、対戦車砲、対戦車銃といった師団の装備は不足気味で、第17旅団ではワイヤーカッターやグローブといった基本装備でさえ、攻撃前日までは揃わなかったという。また昼間の暑さと日没後の寒さ、時折やってくる砲撃や空襲、粗末な糧食、水不足などは兵士たちを悩ませていた。兵士たちは1940年2月にパレスチナに到着して以来訓練に従事していたものの、その軍事的能力に関しては未知数であった。

 

 年が明けた1941年1月3日の午前5時30分、バルディア攻略作戦は開始された。弱点とされた西側陣地からの主攻撃は第16旅団が担当し、工兵隊が突破口を開くべく対戦車壕を埋め、爆薬筒を用いて鉄条網の除去に努めた。1時間ほどのち、歩兵大隊と戦車の前進が開始された。イタリア軍砲兵隊からの精密な射撃や戦車隊による反撃に遭遇する場面もあったが、火砲や戦車の支援もあって陣地は次々に制圧され、日中には防衛線を突破することに成功した。すぐさま投降するというイタリア軍兵士も多くみられたが、そのような背景としては、訓練不足のイタリア軍徴募兵たちには襲来するオーストラリア軍兵士たちの姿が「モンスターのように」―作戦が早朝に開始されたこともあり多くの兵士がオーバーコートやジャーキン、バラクラヴァなどの防寒具を身にまとっていた点も、「異様な姿」を助長する結果となった―映っていた、という逸話も伝わっている。しかしながら、陣地を突破されるまで果敢に砲撃を行ってオーストラリア軍部隊に大きな損害を与えたイタリア軍砲兵隊も存在し、これに対してはオーストラリア兵からも、称賛の声が寄せられた。

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バルディアに向かって前進する兵士たち 出典:Australian War Memorial

 

 一方イタリア軍の防衛が強固だったバルディアの南側から攻撃を仕掛けた第17旅団は、火砲や戦車の支援が不足していたことも重なって苦戦を強いられ、第2/6大隊のジョー・ガレット軍曹が率いる小隊は「ポスト11」の陣地に攻撃をかけたが撃退された。参加した兵士48人中無傷だったのは2人だけで、ガレット自身も重傷を負ったが、その戦闘場面は後年戦争画に描かれて(Australian War Memorial)伝説化されることになった。第2/6大隊では損害は戦死22、負傷51に及んでいた。

 

 それでも第6師団は1月3日中にバルディア周辺のイタリア軍陣地の半分以上を制圧しており、バルディアの村内にも迫っていた。1月4日未明、第16旅団は第6師団騎兵連隊のブレンガン・キャリアーに支援されて攻撃を再開、午後には村の占領に成功し、イタリア軍の防衛線は分断された。南側でも予備戦力だった第19旅団が加わって、陣地の掃討を行った。1月5日正午過ぎ、最後まで抗戦していた「ポスト11」―3日にガレット軍曹の小隊が大きな損害を受けた場所であった―の陣地が降伏した。第2/6大隊長のA・ゴッドフリー中佐は降伏したイタリア軍の指揮官―第一次世界大戦時のイギリスの武功十字章をつけていたという―と握手し、最後まで粘り強く戦ったことを称賛した。イタリア軍の抗戦は13時30分ごろには完全に終わり、約55時間にわたった戦闘は正式に終了した。オーストラリア第6師団は戦死130、負傷326という損害を受けたが、イタリア軍に与えた損害は戦死約1,000、負傷約3,000で、捕虜は約36,000に上り、そのほか沿岸砲26、中型砲7、野砲216、対空砲213、戦車130、車両700などが鹵獲された。イタリア軍の司令官ベルゴンツォーリ中将は既に逃亡していたが、ベンガジが占領された後の2月7日、イギリス連邦軍の捕虜となった。

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戦利品のイタリア軍将校の礼服で仮装するオーストラリア兵たち。バルディアに乗り込んだ彼らは、イタリア軍将校たちが物持ちがよく贅沢に過ごしていたことに驚いたという。一方で、イタリア軍の一般兵士たちの暮らしぶりは、将校たちに比べれば遥かにみすぼらしいものであった。出典:Australian War Memorial

 

 

 バルディアの戦闘はキレナイカ全土を制圧することになったイギリス連邦軍の「コンパス」作戦全体から見れば一局面ではあったが、その反響は予想外に大きかった。大戦勃発以来、ドイツの強大な軍事力がヨーロッパを席巻するという悪いニュースが続き、同時にアジア太平洋での日本の動向も気がかりとなっていたオーストラリアでは、バルディアの勝利は熱狂をもって迎えられた。そして何よりも、オーストラリアの陸軍部隊(※海軍は軽巡洋艦シドニー」などが既に地中海で作戦に従事して戦果をあげていた)にとっての初の実戦において、軍事的成功を収めたという点は大きかった。1940年の時点ではオーストラリア軍部隊は練度や装備は決して充分なものではなく、WW1に従軍した兵士たちが見せたような勇敢さや卓越性―ガリポリ上陸作戦にちなんだ4月25日はアンザック・デイとして既に記念日となり、伝説化されていた―を示すことが出来るかどうかを不安視する向きもあった。このような背景もあって、オーストラリアの新聞上ではバルディアは戦闘の経過や戦果そのものが詳細に報じられるだけでなく、この勝利が「ガリポリ、パッシェンデール、ベエルシェバ、ヴィレル・ブルトンヌetcに並ぶべきもの」「先の大戦の兵士たちと同様の卓越性を戦場で示し、世界を驚かせた」点も強調されていた。1941年4月25日のシドニーのアンザック・デイ―この時期には既にアフリカ軍団による反撃が展開されていたのだが―では、バルディアを経験した帰還兵たちがWW1の帰還兵たちと一緒にパレードに参加する光景も見られ、彼らが旧い世代のアンザック兵士たちの後継者(「アンザックの息子たち」とも形容される)たりうることが認められるに至った。やや仰々しく表現するならば、バルディアの勝利は「アンザック神話が「第一次世界大戦」という時代的文脈や「ガリポリ」という空間的文脈から飛躍して、新たな戦争の記憶を包摂しようと」(津田博司『戦争の記憶とイギリス帝国』113頁)する、一つの端緒を成すものであったと言える。

 

 しかし結論から言えば、「アンザックの息子たち」のデビュー戦たるバルディアが、オーストラリアの戦争記憶として強く残ることは無かった。1941年3-4月、E・ロンメル中将のアフリカ軍団の反撃によってイギリス連邦軍はキレナイカからの撤退を余儀なくされ、バルディアも枢軸国側の手に渡った。オーストラリア第6師団と交替して北アフリカの戦闘に従事していたオーストラリア第9師団は、この後苦難のトブルク攻囲戦を戦うことになるが、戦中・戦後にかけてオーストラリア軍兵士たちの卓越性を示すものとして知名度を得たのは、むしろ「トブルクのねずみ」(※簡単な解説は以下

http://www.let.osaka-u.ac.jp/seiyousi/bun45dict/dict-html/00986_RatsofTobruk.html)

とあだ名された彼らの方であった。大戦中盤にかけての戦局―ギリシアクレタ島シンガポールダーウィン空襲、ニューギニアなどにおいてオーストラリア軍が苦戦を強いられたことも、バルディアの輝かしい勝利の記憶の周縁化に拍車をかけた。今日のオーストラリアでは、WW2の戦争記憶においてトブルクやココダが想起されることはあっても、バルディアについて知っているという人は(軍事史に特別な関心を持っている人を除けば)ほとんどいないという。

 

参考文献

津田博司『戦争の記憶とイギリス帝国―オーストラリア、カナダにおける植民地ナショナリズム』刀水書房、2012年。

アラン・ムーアヘッド(平井イサク訳)『砂漠の戦争』ハヤカワ文庫、1977年。

Craig Stockings, The Battle of Bardia, Canberra, Army History Unit, 2011.

Glenn Wahlert, The Western Desert Campaign 1940-1941, Canberra, Army History Unit, 2009[first published 2006].