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「ラストクルセイダース」―WW1シナイ・パレスチナ戦役における十字軍レトリック

 第一次世界大戦時のシナイ・パレスチナ戦役は、映画『アラビアのロレンス』(1962)や『砂漠の勇者』 (1987)―今年はベエルシェバの乗馬襲撃から百周年にあたるので、本来なら「エミュー戦争」よりもこちらの方が注目されるべきなのだが―が象徴的であるように、T・E・ロレンスの伝説的活躍や乗馬部隊の輝かしい突撃といったロマンティシズムや英雄主義―実際のシナイ・パレスチナの戦場がどのようなものだったのかはともかく、西部戦線塹壕や泥沼とは著しく対照的なものと見なされた―に基づく一般化されたイメージをもってしばしば語られてきた。またイギリスのシナイ・パレスチナ戦役の公刊戦史では、作戦経過をトトメス3世、アレクサンドロス大王、ユダス・マカベウスといった歴史上の英雄たちになぞらえて著述している箇所が見られるなど、中東の歴史的・宗教的背景も、ロマンティシズムを喚起させるうえで大きな役割を果たしていた。

 

 

 シナイ・パレスチナ戦役の事件史的経過の中でも、とりわけ1917年12月のエジプト派遣軍Egyptian Expeditionary Forceによるエルサレム占領は、「異教徒に対する聖戦および十字軍の実践」というイメージやロマンティシズムを定着・拡散させるという、重大な影響をもたらすことになった。1917年10月-11月の作戦によって、エジプト派遣軍はガザ・ベエルシェバのオスマン帝国軍防衛線の突破に成功、12月9日にはエルサレム市がエジプト派遣軍に対し降伏した。2日後の12月11日、総司令官E・アレンビー大将のエルサレム入城式―ヤッファ門から徒歩で入城する形式は、1898年にドイツ皇帝ヴィルヘルム2世が訪問した際に騎乗に派手な軍服という「尊大な振る舞い」をもって入城したこととは好対照であると説明された―が実施され、聖地エルサレムは実に約700年ぶり―サラディンエルサレム奪還が1187年、フリードリヒ2世による一時回復後のアイユーブ朝による再占領が1244年なので、それ以来―にキリスト教国の軍隊により占領されることになった。

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E・アレンビーのエルサレム入城。出典:Imperial War Museum

 

 

 イギリスの『タイムズ』の記事では「聖地の異教徒からの解放」が強調され、『パンチ』には「最後の十字軍」と題したリチャード1世をモチーフにしたカリカチュアが掲載され、大戦終結後の1919年にも十字軍戦士に扮したアレンビーのカリカチュアが掲載された。D・ロイド・ジョージ首相は―アレンビーの司令官就任時には「クリスマスまでに聖地エルサレムを占領すること」を彼に期待し、支援を約束していた―エルサレムの占領を「イギリス国民へのクリスマスプレゼントである」と国内外に喧伝し、陸軍省は1918年2月にエルサレム占領に関するニュース映画を発表した。エジプト派遣軍に加わっていたイギリス本国の各連隊の本拠地の新聞上でも、勝利を表現する上で―1917年3-4月のガザでは2度の敗北を味わっていただけに、その喜びは大きかったという―十字軍のイメージは多用されており、地方紙レベルでも十字軍の表象やレトリックは健在であった。

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‘The Last Crusade’ 出典:Punch, 19 December 1917.

 

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‘The Return from the Crusade’ 出典:Punch, 17 September 1919.

 

 

 『パンチ』をはじめとする同時代における事例に留まらず、戦間期に出版されたロイド・ジョージの回顧録においても「クリスマス前の聖地エルサレムの占領」は1917年の重大事件として仰々しく語られ、1936年のアレンビー死去の際には、イギリスの多くの新聞が「偉大な十字軍の司令官」などと報じた。またシナイ・パレスチナ戦役の代表的な戦記物であるV・ギルバートのThe Romance of the Last Crusade(1923)の冒頭は、登場人物がリチャード1世を題材とした小説を読んでいる場面から始まっており、兵士たちが十字軍のイメージによって戦争参加の動機付けが成されていたということを明示するような構成となっていた。その他にも南アフリカの砲兵隊を題材にした Khaki Crusaders(1919)、ニュージーランド乗馬ライフル部隊を題材にしたThe Story of New Zealand’s Crusaders(1920)、オーストラリア乗馬部隊を題材にしたAussie Crusaders(1920)といったように、タイトルやカバーイラストに「十字軍」を掲げた戦記物は戦間期には数多く出版されていた。部隊史においても、例えばエセックス連隊史では「リチャード1世サラディンが戦った土地」で連隊が作戦中であったことが力説されていたり、オークランド乗馬ライフル連隊史では自分たちが「真の十字軍戦士」dinkum crusadersであったことが仰々しく語られたりするなどした。このような具体例を踏まえれば、戦中・戦後にかけて「シナイ・パレスチナ戦役=十字軍の実践」という認識がある程度浸透していたことは確かに事実であったと言える。またこれらを根拠として、「異教徒に対する聖戦や十字軍の実践が、エジプト派遣軍の従軍兵士たちの戦争参加の主要な動機づけを成していた」とする説明は、近年出版の軍事史的研究においてもしばしばなされることがある。

 

 

 しかしながら同時代の史料や証言を踏まえれば、「シナイ・パレスチナ戦役=十字軍の実践」という認識はかなり一般化されたものであって、その実像は決して単純なものではなかったことも、先行研究では指摘されている。イギリス帝国の戦争政策上の次元での話で言えば、1917年11月15日にイギリスのプレス・ビューローは、帝国内部のムスリム臣民たちの忠誠心が揺らぐことを懸念して「トルコとの戦争を聖戦や十字軍といった宗教的な事柄をもって表現することは不適切である」旨の通達を出していた。これはメディアに対する強制力としてはあまり効果がなかった模様で、メディア上で十字軍のイメージが独り歩きしていくことは避けられなかったが、インド軍兵士やアラブ反乱民を多く抱えているエジプト派遣軍にとっては、ムスリムたちの忠誠心やモラルといった事柄は、非常にデリケートな問題であり続けていた。またインドおよび中東の事情に通じていたカーゾン卿やM・サイクスの提言もあって、12月11日のアレンビーのエルサレム入城式の式典内容や声明文は、体裁としては征服を記念することよりもユダヤ・キリスト・イスラームの3宗教の融和や尊厳に重きを置くものとなっていた。「岩のドーム」の警護にはインド人ムスリム部隊が充てられる旨も大々的に報じられていたが、これは帝国内外のムスリムとの融和を促しうるものであり、イギリス帝国の国益につながるもの―1918年春以降エジプト派遣軍はインド軍部隊の割合が増加することになったが、その際にムスリム兵士たちのディシプリンが大きな問題とならなかったのは、その所産の一つであった―と見なされた。

 

 

 よりミクロな視点―実際に従軍した兵士たちの同時代における証言の検討などを通しても、聖戦や十字軍のイメージは退けられることになるという。J・E・キッチンは自身の研究においてシナイ・パレスチナ戦役に従軍した兵士たちの手紙や日記を検証したところ、聖戦や十字軍の精神を強く訴えたり、聖地エルサレムを訪問して大きな感激を覚えたりしたという内容のものは確かに見られた。総司令官であるアレンビーの場合でも、夫人や母親に宛てた手紙においてパレスチナの歴史や宗教に関わることに詳しく言及しているものは少なからず見られた。しかしながら従軍兵士全体から見れば、聖戦や十字軍の実践を明確に打ち出しているのは信仰心の厚い兵士や従軍牧師といったごく一部の者に限定されていた。軍隊生活では従軍牧師やYMCAの活動を通じてパレスチナの歴史・宗教的背景に触れる機会があったり、兵士たちが休暇でエルサレムを訪れた際には従軍牧師がガイド役を務めるといったこともあったが、その影響力はあくまで限定的―兵士たちにとってはYMCAのレクリエーション施設で提供されるケーキやお茶の方が、礼拝よりも重要であった―だったという。「日曜学校のお説教や讃美歌、家庭用聖書」に基づいた知識しかないような大多数の兵士たちは、聖戦や十字軍の実践といった仰々しい概念ではなく、もっと素朴なイメージをもって自分たちの戦場を認識していたと考えられている。

 

 

 また同時代の証言や戦記等のタイトルで示された「十字軍」という語句の全てが、宗教的情熱に基づいた文脈で用いられていたとは限らない、という問題もある。戦記物の中には、たとえ「十字軍」という語句をタイトルで掲げていても、本文中でそれについて深い意味を込めて言及している箇所はほとんど見られないというものも少なくなかった。兵士たちの手紙の中には、たとえ「乳と蜜の流れる地」「かつて十字軍が戦った土地」などと言及している場合でも、あくまで自分たちが過ごしている土地の状況説明をしているだけであり、それ以上の意図はないと思われるようなものもあった。アレンビーが家族に宛てた手紙に関しても、パレスチナの歴史・宗教的背景よりも、動植物に関することの方がむしろ詳しく書かれているものも含まれており、「十字軍の司令官」よりも「博物学者」の方がアレンビーの人物像としては近かったのではないかという見方さえある。そもそもアレンビー自身は、エジプト派遣軍がムスリム兵士やアラブ反乱民を多く抱えていた事情から、シナイ・パレスチナ戦役を「十字軍」「聖戦」と表現することについては終始慎重―興味深いことに、歴史や宗教を引き合いに出した証言は家族に宛てた手紙に多く、公的文書ではほとんど見られないのだという―であったとも言われている。

 

 

 さらに兵士たちの中には、宗教的情熱よりもむしろ聖地エルサレムへの幻滅の感情の方が先行していたという者や、シナイ・パレスチナ戦役の性格そのものが聖戦や十字軍のイメージにそぐわないという点を指摘する者もいた。エルサレムを実際に訪問したところ、「黄金の都」には程遠い市内のみすぼらしさや汚らしさ―それは時として現地住民への人種偏見を助長することにも繋がったが―に失望したという兵士たちの証言は少なからず見られ、プロテスタントの価値観から見ればパレスチナの東方キリスト教会の教会様式や慣習は違和感しか覚えられず、神聖さが感じられないという声も聞かれた。またドーセットシャー連隊の将校は自身の戦記の中で、エジプト派遣軍にはインド人ムスリム兵士が数多く含まれていたこと、オスマン帝国の背後にはキリスト教国であるドイツの存在があったことを挙げて、この戦争を十字軍と表現することは誤りであると主張していた。その他にも、オスマン帝国軍との激しい戦闘や過酷な自然環境の中では十字軍の精神を感化されることは無かったと明言する者や、「我々がリチャード1世みたいな格好で闘っている姿を想像していれば期待外れになるだろう」と吐露する者までいた。

 

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「ツーリスト」の感覚でスフィンクスとピラミッドの前で記念写真を撮る。

出典:Australian War Memorial

 

 

 以上の同時代の証言の数々を踏まえれば、聖戦や十字軍の実践がシナイ・パレスチナ戦役の従軍兵士たちの戦争参加への動機づけを成していたという説明は、必ずしも適切ではないと言える。では戦場で兵士たちを動かしていたものは、果たして何であったのか。その答えの一つとしてキッチンが挙げているのは、「大衆的オリエンタリズム」と呼称されるものである。戦前までは「アラビアンナイトや学校教科書の挿絵」の中でしか中東世界に触れたことがなかった大多数の兵士たちは、初めて体験するエジプト・パレスチナの古代遺跡やイスラーム文化、現地住民たちの慣習に強い衝撃を受け、大いに魅了される―現地住民に対しては時として人種偏見や暴力に基づいた関係が生じていたことは否定できないけれども―ことになった。カイロの博物館を見学してアラブの歴史に関心を持った1/5サフォーク連隊の将校は、バザールでクルアーンを購入したという。エルサレムの「岩のドーム」(ウマル・モスク)は「最も美しくて神聖な」「マホメット教徒たちによる世界中で最良の」建造物であるとして、多くの兵士たちが称賛するところとなった。兵士たちがパレスチナで作成したクリスマスカードの中には、キリスト教に関連する文言やイラストは何も描かれておらず、現地住民の村落の情景やイスラームのモスクを描いているようなものさえあった。このようなエジプト派遣軍兵士たちの言動から、「宗教的情熱に感化された十字軍戦士」の姿を見出すことは、おそらく不可能であろう。そういった意味では、兵士たちは「十字軍戦士」ではなく、むしろトマス・クック社のパッケージツアーのような「ツーリスト」としての性格を有していたのだと言える。

 

 

参考文献

小関隆「第一次世界大戦研究の現段階 ―京都大学人文科学研究所の共同研究を中心に―」『西洋史学』245号、2012年。

Matthew Hughes(ed.), Allenby in Palestine: the Middle East Correspondence of Field Marshal Viscount Allenby June 1917-October 1919, Thrupp, Sutton Publishing Ltd/Army Record Society, 2004.

James E. Kitchen, The British Imperial Army in the Middle East: Morale and Military Identity in the Sinai and Palestine Campaigns, 1916-18, London, Bloomsbury, 2014.