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両大戦期のイギリス帝国に関する話題がメインです

「ブラック・アンザックス」―WW1シナイ・パレスチナ戦役におけるイギリス領西インド諸島連隊

 第一次世界大戦が勃発すると、西インド諸島各地のイギリス領植民地でも、オーストラリアやニュージーランド、カナダといった白人自治領(ドミニオン)と同様、イギリス本国への忠誠を示す集会が開かれるなど、戦争の大義への賛同を示す声が多く見られた。当初西インド諸島植民地の戦争貢献は、戦費の負担およびカカオ・砂糖等の物資供給といった分野でなされ、兵員の派遣は旧来からの常備兵力である西インド連隊West India Regiment, WIRの西アフリカへの派遣に限定されていたが、より本格的なイギリス本国への忠誠と戦争貢献を示すべく、植民地省は西インド諸島全域から集められた志願兵で構成された部隊の派遣を提案した。19世紀にはWIRがアシャンティ戦争やシエラレオネの反乱鎮圧に派遣されたという前例があったものの、当初陸軍省は「白人の戦争」に非白人部隊を投入することに対して難色を示していた。しかし兵員の不足が懸念されていたことや、帝国の連帯を国内外に示すべきだという国王ジョージ5世の意向もあって1915年5月に提案は容認され、派遣部隊は1915年10月にイギリス領西インド諸島連隊British West Indies Regiment, BWIR (※西インド連隊WIRとは別組織である)と命名された。BWIRの兵員はジャマイカ出身者が全体の6割以上を占めていたが、兵士たちの出身地はそのほかにもトリニダード・トバゴ(全体の1割程度)、ガイアナ、イギリス領ホンジュラス、バルバドス、バハマ諸島など広範にわたり、個々の社会的・経済的背景も多様なものとなった。BWIRには大戦を通して約16,000人が志願し、著名な参加者としてはコルシカ系移民出身でのちトリニダードの労働運動の指導者となるA・シプリアニ(BWIRの将校となり大尉まで出世した。『ブラック・ジャコバン』で知られるC・L・R・ジェームズによる伝記がある)などがいた。

 

 

 西インド諸島植民地の白人エリート層から見れば、西インド諸島全体から構成されるBWIRの派遣はイギリス本国との紐帯を示し、帝国内での地位向上および(全ての地域で賛同の声が見られたわけではなかったが)将来の西インド諸島連邦結成を図る上では恩恵をもたらすと考えられた。西インド諸島各地の新聞や募兵ポスター上では(※バハマの募兵ポスター)、階級や人種を越えた戦争貢献を呼びかけられたが、より厳密には初期の募兵においては、イギリス本国の文化や価値観を受容して教育水準が比較的高い、西インド諸島中流階級を形成する混血「カラード」(「ブラウン」とも呼称)の志願者の割合が高く、読み書きが出来ない黒人労働者階級を中心とする「ブラック」の志願者は、従来からのWIR―そのためBWIRの兵士たちの中には受動的で「コロニアル」な性格としてのWIRと自発的で「ブリティッシュ」「インペリアル」な性格としてのBWIRという、明確な区別を求める者もいた―にまわされる傾向にあったという。「カラード」の兵士たちの中には、国王への忠誠や「ドイツの軍国主義」に対する正戦といった戦争の大義に共鳴している者は少なからず見られ、またパン・アフリカ主義に触発されていた運動家の中には、戦争参加は黒人の卓越性を示して社会的地位向上を図る上での好機であると見なす者もいた(※ポートオブスペインの募兵集会の様子)。なお「カラード」および「ブラック」の志願兵たちは下士官まで昇進することは認められたものの、将校になることは許されず、将校は白人プランター階級が多数を占めていた。

 

 

 BWIRの兵士たちは当初イギリス本国のシーフォードに集められて訓練を受けたが、初めて経験するヨーロッパの寒い気候にカリブ海地域で生まれ育った多くの兵士たちは苦しめられた。この影響もあって、BWIRは兵士たちにとってより過ごしやすい気候であると考えられたエジプトへの異動が決まり、1916年2月にアレクサンドリアに到着した。最初に充てられた任務はエジプト西部のサヌーシ―教団の反乱鎮圧だったが、これといった活動機会はなく、兵士たちはしばらくアレクサンドリア郊外のキャンプで訓練に専念し、将校や下士官たちもカイロ郊外のゼイトゥーンで教育を受けた。その後1916年夏にかけてBWIRの第3・第4大隊は後方支援任務にあたるために西部戦線へ派遣され、そのほか500人の兵員が東アフリカへ、100人の兵員がメソポタミアへそれぞれ派遣された。その結果、第1・第2・(予備戦力である)第5大隊のみがエジプト派遣軍の一員として、シナイ・パレスチナ戦役を戦うことになった。

 

 

 1916年後半から1917年にかけて、シナイ・パレスチナ戦役に従軍するBWIRの兵士たちは、占領地や補給路の警備、捕虜の護送、陣地の構築作業といった「二線級」任務を担当した(※陣地構築作業を行うBWIR兵士たち)。ただし後方の警備任務は決して平穏無事なものとは限らず、ドイツ製航空機による襲撃に遭遇したり、地元のベドウィンとの間で緊張関係が生じたりすることもあった。あくまで戦闘部隊としての起用を切望していたBWIRだったが、1917年7月20日に第1大隊の機関銃隊はガザ前面の「アンブレラ・ヒル」で戦闘部隊としてはじめて投入される機会が得られ、7月25日の戦闘では塹壕内での銃剣戦闘も経験した。銃砲火の下でも活発さと冷静さをもって任務を遂行した彼らの働きぶりは、共に戦ったイギリス軍の白人将校たちからも称賛されることになった。「アンブレラ・ヒル」の戦闘はBWIRが「二線級」任務に留まらず、戦闘任務にも適しているという評価を高める結果をもたらし、それは(増強が進められていたとは言え)限られた戦力でシナイ・パレスチナ戦役を戦わなければならないE・アレンビー総司令官にとっても都合が良いものと見なされた。アレンビーは後日、ジャマイカ総督に対し「アンブレラ・ヒル」においてBWIRの機関銃隊が示した勇敢さを称える書簡を送っている。

 

 

 1917年9月、BWIRの第1大隊はインド軍旅団およびイタリア・フランス軍部隊(※小規模ではあったが、イタリアはベルサリエーリ部隊300人、フランスはアルジェリア人騎兵部隊800人をパレスチナに派遣していた)との混成軍に加えられ、10-11月の第3次ガザ戦に参加した。この戦闘においても兵士たちはオスマン帝国軍の反撃に遭遇しても勇敢に戦い任務を遂行したことが評価され、複数の兵士たちに勲章も授与された。12月にエジプト派遣軍がヤッファ・エルサレム線まで到達した後は、BWIRの兵士たちはしばらくの間補給路の警備や戦死者の埋葬といった任務に従事したが、それと並行して銃剣戦闘や狙撃、偵察、機関銃に関する訓練も強化され、練度を高めていった。

www.iwm.org.uk 9:00~行軍するBWIRの兵士たちの映像。

 

 

 1918年8月、BWIRの第1・第2大隊はヨルダン渓谷の前線に配置され、アンザック乗馬師団、インド第20旅団、ユダヤ義勇兵部隊である第38・第39ロイヤル・フュージリアーズ大隊と共に、アンザック乗馬師団師団長のE・チェイター少将を総司令官とする混成軍、チェイター部隊Chaytor’s Forceを構成することになった。9月19日、パレスチナの平原地方の前線ではのちに「メギドの戦い」と呼ばれることになるアレンビーによる大規模攻勢が開始されたが、ヨルダン渓谷のチェイター部隊も主攻勢の側面を護るために作戦に移った。9月22日早朝、BWIRはニュージーランド乗馬ライフル旅団と共にヨルダン川にかかる主要な橋(Jisr-ed-Damieth)を確保するための戦闘に参加した。オスマン帝国軍が守りを固めている橋に対する攻撃は危険を伴うものだったが、兵士たちは機関銃隊が援護する中、むしろ陽気な雰囲気をもって大胆果敢に銃剣突撃を行ったという。オスマン帝国軍守備隊は彼らの突撃に驚き戸惑い、効果的な反撃を行うことが出来なかった。突撃によってBWIRは橋の確保に成功、ごく少数の負傷者と引き換えにオスマン帝国軍兵士200を殺傷し、110を捕虜として機関銃および軽砲14を鹵獲した。BWIRの兵士たちはその勇敢さを実証しただけでなく、ヨルダン川の交通路を押さえてオスマン帝国軍の退路を断ち、アンマン攻略への道を開くという戦略的な成功を収めたという点でも、その功績は大きかった。彼らの戦いぶりはイギリスの公式従軍記者W・T・マッセイによって同時代の新聞上でも触れられ、NZMR旅団の兵士たちの証言や戦闘日誌上でも称賛の声が寄せられた。BWIRの複数の兵士たちに勲章が授与され(※トリニダード出身のBWIR下士官に勲章を授与するチェイター)、10月のアレンビーの報告書でもその活躍が言及された。

 

 

 チェイター部隊は9月23日にエス・サルト、9月25日にはアンマンの攻略に成功し、その間BWIRはいくつかの小戦闘を経験したが、作戦中の死傷者数は約50人と少数だった。しかし寒暖の差が激しくマラリアが流行している地域での行軍によって、BWIRの兵士たちの戦病者は急増を見せるようになり、9-10月の間に第1大隊では1,187人の兵員中実に716人が病気のため後送され、10月の戦病死者数は42人に達した(チェイター部隊全体では9-11月における戦病者の延べ人数は6,920人に上り、その多くはマラリア患者だった)。大きな戦果が得られた一方でヨルダン渓谷での作戦はこのように過酷さを伴うものであったが、それでもチェイターは11月にBWIRを閲兵した際、アンザック乗馬師団の全ての部隊は、BWIRと共同で戦うことが出来たことを喜んでいる旨を兵士たちに語った。アレンビーも陸軍省に宛てた報告書の中で、BWIRの兵士たちが戦場で勇敢さや堅固さ、創意工夫を見せ、その軍紀は高い水準にあったことを称賛―ただし別の文書では、(BWIRを直接指しているのかは不明だが)非白人部隊を「ホッテントット」と表現しているものもあった―し、さらにエルサレムの軍病院を訪問した際にはBWIRの負傷者たちに対し、軍務に尽くしたことに感謝の意を示したという。

 

 

 「西インド諸島の黒人たちは、熱帯気候で生まれ育ったために規律や創意工夫が欠落している野蛮人であり、勇敢な兵士となることは出来ない」という人種偏見は大戦以前から見られ、西部戦線やイタリアに派遣されたBWIRの兵士たちは戦闘部隊として起用されることはついにかなわず、軍隊生活では宿舎や医療、給料といった様々な面で差別に遭遇した。シナイ・パレスチナ戦役におけるBWIRの兵士たちも戦闘部隊として起用される機会に恵まれたとは言え、白人兵士との待遇差があったことは否めず、差別的な言葉をもって表現されたり、人種偏見を背景として素行をとがめられる者―ただし軍法会議では、白人兵士と比べて特別に不利な立場に追い込まれた事例は少数であったとする見解もある―がいたりするなど、イギリス帝国内部の人種的ヒエラルキーは明らかに反映されていた。しかし人種偏見の存在にもかかわらず、BWIRの兵士たちはイギリス帝国への忠誠や戦争の大義に疑問を抱くようなことはなく、シナイ・パレスチナ戦役においては、後述のターラントの事例のように反乱を起こすことも無かった。またBWIRの兵士たちと白人兵士たちとの間では、場合によっては人種的ヒエラルキーに必ずしも左右されない、対等に近い関係が築かれることもあった。アンザック乗馬師団の白人兵士たち―アラブ系の現地住民に対しては強い人種偏見を抱いていたことで知られる―の多くは1918年のヨルダン渓谷の戦闘において、苦楽を共にしてイギリス帝国の戦争の大義に賛同している者同士として、BWIRの兵士たちに戦友愛や尊敬の念を抱いていたという。BWIRの兵士たちもまた、アンザック乗馬師団の兵士たちの心身の卓越性を称賛して模範とし、同時の自分たちのことを「黒いアンザック」Black Anzacsと称して彼らとの連帯を強調していた。またエジプト派遣軍の部隊間の余暇活動においては、クリケットラグビーフットボールといったスポーツ競技もしばしば開催されていたが、BWIRから選抜された選手たちは人種的隔たりをあまり感じずにそれらに参加することが出来―この経験もあって、1919年の復員途中に寄港したターラントにおいて白人選手とのスポーツ競技の禁止を命じられた際は、彼らの衝撃は大きかったという―、競技会で彼らが示した身体能力の高さ―とりわけクリケットでは非常に好成績を収めた―は、白人兵士たちの大きな注目を集めていた。

※「黒いアンザック」Black Diggers, Black Anzacs という語句自体は、出自を偽ってオーストラリア軍に入隊した先住民兵士たちを指すことの方が多い。詳しく取り上げた論考としては

第26回オーストラリア学会全国研究大会 シンポジウムII シンポジウム報告 新自由主義時代における歴史表象と国民統合―アンザック・デイを中心に―

 

 

 しかしながら、シナイ・パレスチナ戦役におけるBWIRの兵士たちの体験―時としてイギリス帝国の人種的ヒエラルキーを超越するものにもなった―がただちに報われて、強い影響力を持った戦争記憶として語り継がれたのかと言えば、残念ながらそうはならなかった。陸軍省はシナイ・パレスチナ戦役におけるBWIR の兵士たちに関することよりも、終戦直後の1918年12月に発生したイタリアのターラントで労働部隊として差別・酷使されていたBWIRの諸大隊(第9・第10大隊)の兵士たちによる反乱の方をむしろ問題視しており、非白人の卓越性よりもその危険性に関心が向けられていた。またシナイ・パレスチナ戦役に従事したBWIRの兵士たちは1919年の復員途中に寄港したターラントにおいて、YMCAの施設や映画館の利用を禁じられたリ、現地の病院での医療を断られたり、外出日時を制限されたりするといった扱いを受け、武功をあげたにもかかわらず以前と何ら変わらない人種偏見が継続していることに対する落胆の声は大きかった。このようなこともあり、BWIRの兵士たちがシナイ・パレスチナ戦役で見せた勇敢さや卓越性、白人の司令官から寄せられた称賛の声、白人兵士たちとの対等に近い関係性は、戦間期の段階で早くも忘れ去られる傾向にあった。後年のカリブ海地域を扱った歴史叙述においても、WW1経験(そもそもWW1ではなく、WW2やその後のナショナリズムの展開・独立への動きの方にむしろ比重が置かれることも多い)に関しては西部戦線における差別的待遇やターラントにおける兵士たちの反乱―この事件およびBWIRの下士官たちによる反植民地・帝国主義を掲げる団体「カリビアン・リーグ」の結成は、カリブ海地域の新たなアイデンティティ探求や帝国の人種的ヒエラルキーへの挑戦の第一歩として、高く評価されてはいるが―が紹介されることはあっても、シナイ・パレスチナ戦役における兵士たちの体験が取り上げられることは、近年に至るまでほとんどなかった。

 

 

参考文献

井野瀬久美惠「帝国の逆襲―ともに生きるために―」井野瀬久美惠編『イギリス文化史』昭和堂、2010年。

Julian Thiesfeldt Saltman,  "Odds and Sods" : Minorities in the British Empire's Campaign for Palestine, 1916-1919

http://digitalassets.lib.berkeley.edu/etd/ucb/text/Saltman_berkeley_0028E_13737.pdf

Richard Smith, Jamaican Volunteers in the First World War: Race, Masculinity and the Development of National Consciousness, Manchester, Manchester University Press, 2004.