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「けものはいてものけものはいない しかし彼らは廃馬を撃った」―WW1シナイ・パレスチナ戦役におけるオーストラリア・ニュージーランドの軍用馬

 WW1シナイ・パレスチナ戦役は、戦車・毒ガス・航空機といった新兵器の投入が見られたという点では「20世紀の高度産業化時代の戦争」としての性格を有していたとはいえ、1917年のベエルシェバや1918年のメギドが象徴的あるように、エジプト派遣軍の作戦遂行において乗馬部隊が果たした役割は非常に大きなものだった (むしろこちらのイメージの方が著名である)。そして当たり前の話ではあるが、乗馬部隊の一連の軍事的成功は、兵士たちのみならず軍用馬たちの存在なくしては不可能であった。今回の記事では、シナイ・パレスチナ戦役に従軍したオーストラリア軍およびニュージーランド軍の乗馬部隊(アンザック乗馬師団とオーストラリア乗馬師団を構成した)の軍用馬たちに焦点をあて、かれらにとっての戦場体験が如何なるものであったのかを見ていくことにしたい。

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ベエルシェバの乗馬襲撃。出典:Australian War Memorial

 

 

 WW1でオーストラリアは120,000頭以上の軍用馬を海外へと送った。オーストラリア産軍用馬はウェラーWaler(ニューサウスウェールズが原産であることに因む)と呼ばれ、頑強で長距離移動に耐えられ、酷暑や水の少ない環境にも適応できるという評価を得ていた。そのうち約82,000頭はインド軍で、約10,000頭は西部戦線のオーストラリア軍歩兵師団で使用され、残りの約30,000頭はシナイ・パレスチナ戦役におけるオーストラリア軍あるいはその他のエジプト派遣軍部隊において使用された。ニュージーランドは1914年から1916年にかけて約10,000頭の軍用馬を海外へ送り、そのうち約3,000頭がシナイ・パレスチナ戦役で使用された。船舶の不足からニュージーランドからの軍用馬の供給は1916年11月で停止し、1917年以降の補充馬に関してはイギリス本国やアメリカ、アルゼンチン産のものが含まれるようになったが、アルゼンチン産はニュージーランド産に比べて能力が低いといったような声も一部では聞かれた。

 

 

 戦場での酷使や飼料不足、不充分な気候順化などにより約400,000頭の馬、ラバ、ロバの損失を出してしまった南アフリカ戦争の戦訓を踏まえ、イギリス帝国では軍用馬の世話に関しては大規模な改善が試みられていた。1914年11月のオーストラリア帝国軍(オーストラリア海外派遣軍の正式名称) の第一次海外派遣部隊には約7,800頭、ニュージーランド派遣軍には約3,800頭の軍用馬が含まれていた。輸送船においては馬房の清掃や空気の入れ替えに気が配られ、馬たちには定期的に甲板で運動(船によって差はあったが)をさせ、身体を洗いグルーミングを行うなどした。エジプトにいたるまでの船旅では肺炎などによりオーストラリアの軍用馬は224頭、ニュージーランドの軍用馬は77頭が死亡したが、当初は損害率が20%になることが懸念されていたこともあり、低い損害率で(3%程度)あったと評価された。

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輸送船上の馬たち。出典:Australian War Memorial

 

 長い船旅を経てエジプトにたどり着いた馬たちの気候順化にも注意が払われていた。長旅で身体が弱っている馬たちに対応するべく、波止場に砂やワラを敷いて柔らかい地盤にしたうえで陸揚げを行った。最初は水と飼料を与えたうえで短時間散歩をさせるに留め、健康状態が良好になってから短時間の乗馬を行っていった。1914年12月下旬には軍用馬たちはようやく訓練での使用が可能な状態になり、乗馬部隊は砂漠において下馬地点への迅速な移動訓練を実施し、馬たちには砲声にも慣れさせるようにした。しかし1915年4月25日に始まるガリポリ半島の地上戦では、戦場が軍用馬に適していない地形ということもあり、オーストラリア・ニュージーランド軍の乗馬旅団は乗馬部隊として起用されることは無く、もっぱら徒歩部隊として戦闘に従事した。しかしながら、これは結果的にエジプトに留め置かれた軍用馬たちにとっては気候順化を行う充分な時間を与えることとなり、シナイ・パレスチナ戦役を戦う上では大きなメリットとなった。

 

 

 1916年以降シナイ半島での作戦が本格化すると、暑い気候の下で砂漠を迅速に行軍することが困難な歩兵部隊に替わって、乗馬部隊が主導的な役割を果たすようになったが、その際日々の馬たちの世話は、乗馬部隊の兵士たちにとって非常に大切な任務となった。飼料や水を与えたり、病原菌と一緒に古い皮膚やたてがみを取り除くために2-3時間かけてグルーミングを―たとえ砂漠地帯で水が得られない場所であっても―行ったりするのは毎日の欠かせない作業であり、同時に連隊の軍用馬下士官や蹄鉄工は、毎日全ての馬の蹄鉄をチェックしてまわった。熟練の兵士になれば、馬たちの外見や振る舞いを見ただけですぐにその健康状態―眼が沈んでいる、耳が倒れている、毛に光沢が無い、鼻水を出しているといった要素は、異常の兆候であった―を把握することができた。厳しい軍務に耐えるために、馬たちには飼料として燕麦、トウモロコシ、ふすま、キビ、大麦に粗飼料(生草、干し草、バーシーム、ワラ)を混ぜたものがあてがわれた。疲労した馬が飼料を食べようとしない場合は、兵士たちが飼料を水で練ったうえで手で食べさせることもあった。

 

 

 乗馬部隊の乗馬は、小銃、弾帯、銃剣、水筒、飯ごう、雑のう、上着、洗面具、ブランケット、ロープ、ペグ、糧食、缶詰、飼い葉袋、携帯飼料などを完全装備した兵士を乗せた状態では、約130キロの重荷に耐えて行動することを強いられた。そのため募兵の段階では種々雑多で粗悪なものも含まれていた乗馬部隊のサドルは、より乗馬の負担を軽減する上で効率的とされた「ブリティッシュ式ユニバーサル1902型サドル」へと統一されていった。輓馬は砲兵部隊や補給部隊、救護部隊で主に使用され、火砲や補給馬車、救護馬車を牽引した。ただし4輪馬車の利用に適していないシナイ半島の砂漠では、2輪馬車Sand Cartが用いられたり、ラクダによる物資輸送や負傷者の搬送―乗り心地は最悪だったが―が行われた。駄馬は補給部隊および乗馬旅団に付属する機関銃大隊で主に使用され、機関銃大隊の駄馬は機銃や弾薬(1頭当たり6-8箱)、測距儀や回光信号機などの装備を攻撃目標の約2キロ手前まで運搬する任務にあたった。

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完全装備したオーストラリア乗馬兵。 出典:Australian War Memorial

 

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救護馬車を引く輓馬。出典:Australian War Memorial

 

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機関銃を運ぶ駄馬。出典:Australian War Memorial

 

 

 兵士や獣医たちによって日々の手入れを受け、入念な気候順化への配慮がなされていたとは言え、シナイ・パレスチナの戦場は軍用馬たちにとっても過酷なものとなった。身を隠す場所がない砂漠では砲弾や航空機の攻撃は馬たちにとっても大きな脅威で、1916年6月1日にオーストラリア第1乗馬旅団の宿営地が航空機による攻撃を受けた際には36頭が戦死、9頭が負傷、123頭が砂漠に向かって逃げ出してしまった。負傷馬は獣医の診察を受けて診療キャンプに移され、回復した後補充馬廠にまわされることになったが、あまりに酷い傷を負った馬に関しては、射殺して楽にさせてやる場合もあった。なおシナイ・パレスチナ戦役では西部戦線でしばしば見られるような毒ガス攻撃に晒される局面はなく、その点は馬たちにとってはせめてもの幸運だった。

 

 

 シナイ半島の砂漠では日中と日没後の寒暖差が激しく、加えて砂嵐(ハムシーン)やノミ・ハエの大量発生といった要素は、馬たちの身体を著しくむしばむこととなり、故郷の心地よい牧草地とはかけ離れた過酷な環境で過ごさなければならない馬たちに対して、憐れみの感情を示す兵士もいた。1916年8月5日のカティアの戦闘後には、兵士が下馬すると同時に疲労のあまり砂の上にそのまま横たわってしまう馬たちが見られたという。またビル・エル・バユドBir el Bayudで警戒任務にあったオーストラリア第6乗馬連隊では、将校4人と兵士30人が日射病のため後送されたのに加え、約500頭の軍用馬が任務に耐えられなくなり3日間の休養が必要とされた。

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1917年のシナイ半島、エル・アリシュの宿営地。出典:Australian War Memorial

 

 

 

 戦場がパレスチナに―シナイ半島よりは多少環境が改善されると期待されていた―移ってからも、1917年9月7日のアンザック乗馬師団の主任獣医は「師団の4分の3の馬たちは疲労が原因で砂や自分の糞を食べ始めている」と報告しており、E・チェイター師団長は馬たちの飼料を改善するよう命令を出さなければならなかった。平常時に馬が健康状態を維持するためには、1日あたり約30リットルの水を飲む必要があるとされているが、ベエルシェバでの作戦を控えた時期には行軍訓練などを経て30時間水を飲まなくても行動できるようにするなど、馬たちの戦場環境への順応が行われていた。しかしベエルシェバ占領後の11月の戦闘では、馬たちのほとんどが48時間水を飲むことができず、苦し紛れに廃棄された井戸やワジ(涸れ川)の汚水を飲むような馬もいた。ニュージーランド乗馬ライフル旅団の機関銃大隊の中には、72時間水を飲んでいない瀕死の状態の駄馬も生じたという。1917年11月のベエルシェバ戦後のオスマン帝国軍に対する追撃戦では多くの馬たちが疲労により体調を崩し、さらに南部パレスチナでは冬が到来すると雨にさらされて震える思いをしたり、低温の中泥沼と化した地面を移動したりすることを強いられた。1917年から1918年にかけての冬には補充馬が不足していたため、馬たちは休養を取ったうえで再び任務に就かなければならなかった。 

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 降雨により泥沼となった南部パレスチナ。出典:Australian War Memorial

 

 

 このようにシナイ・パレスチナ戦役の戦場は、兵士のみならず軍用馬にとっても非常に過酷なものとなったが、一方で馬たちは戦場で優れた運動能力を示して困難な任務を達成していったことも、戦果を踏まえれば事実であり、過酷な自然環境に耐えて軍務をこなす馬たちの「偉大で勇敢な」姿に兵士たちは多くの賛辞を送った。またI・イドリースの代表的戦記における、涙をもって重傷を負った馬たちを射殺したというエピソードが象徴的であるように、「ナイル川からアレッポに至るまで」自分たちを乗せてくれた良き戦友Friends, Comradesに対し、人間と同じかそれ以上の絆を感じている者―仰々しく表現するならば、オーストラリアの理想的国民像を示す「アンザック神話」において最も神聖な美徳とされる「メイトシップ」(仲間意識)が、人間だけでなく馬に対しても適用されていたということを意味していた―も見られた。大戦終結後は軍用馬にモチーフを取った戦争記念碑も複数建立されており、このような点からも、シナイ・パレスチナ戦役の戦争記憶における馬たちの存在が、決して小さなものではなかったことをうかがい知ることが出来る。

※ただしJ・ブウは、同時代の兵士たちの手紙や日記では自分たちの乗馬について言及している箇所は少なく、言及していたとしても大抵は感情的な文脈での言及ではない(≒あくまで「消耗品」としての位置づけ)ものなので、人馬の絆を強調するようなロマン主義的なエピソードは、戦後になって徐々に語られ増幅されていったものの方が多いのではないかという見解を提示している。

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愛馬と一緒に海水浴を楽しむ。出典:Australian War Memorial

 

 

 大戦終結後、乗馬部隊の兵士たちの中には愛馬と一緒に一刻も早く故郷に帰りたいと切望する者もいたが、その期待はただちに裏切られることになった。大戦終結時、イギリス帝国軍はエジプトおよびパレスチナに約60,000頭の軍馬を保有していたが、占領任務に継続して使用する馬は少数に留まったので、大量の余剰馬が発生した。しかしながら輸送コストや船舶の不足、家畜への伝染病拡散の問題から、かれらを故郷に送り返すことは不可能であると判断された。オーストラリア軍は終戦時にエジプトおよびパレスチナに9,751頭の軍用馬を有していたが、12歳を超えた乗馬および15歳を超えた輓馬、健康状態が悪く治療に数か月を要するような馬は殺処分されることになった。殺処分が決まった馬は、利用価値があるたてがみと尻尾が刈られて蹄鉄が外されたうえで獣医の監督下拳銃で射殺され、皮(これも利用価値があったので)は塩漬けにされた。1919年3月までに殺処分された馬は3,059頭に上った。一方、若年あるいは健康で任務に適しているとされた6,000頭以上の馬は、終戦後シリアで占領任務に従事するインド第4・第5騎兵師団の部隊に譲渡されるか、エジプトにある補充馬廠へと移された(1919年3月に発生したエジプト革命の際は再び任務に服する馬も生じたが、6月には再び補充馬廠へ戻された)が、72頭は現地で売却された。ニュージーランド軍も終戦時、約2,500頭の軍用馬をエジプトおよびパレスチナに有しており、そのうち1,680頭が補充馬廠へと移された(のち32頭が売却、25頭が殺処分された)が、売却ないし殺処分された馬の正確な頭数は不明とされる。しかしながら終戦時には売却されなかった馬たちでも、最終的には乗馬や軽量輓馬に関してはエジプトの現地住民に、エジプトでは需要が見込めない重量輓馬に関しては南フランスの業者に売却されることになったと見られている。

 

 

 苦楽を共にした戦友を手放したり殺処分したりしなければならないことは、戦中の最も悲しい出来事であったという証言も数多く見られるなど、軍用馬たちの処遇に対する兵士たちの衝撃は大きかったが、殺処分に関しては「野蛮なアラブ人に売り渡されて酷使されるよりは望ましいことだ」と考えてその決定を受け入れたり、あるいはあくまで軍用馬を「家畜」「消耗品」と認識しているという者もいた。また売却されることになりそうな馬たちをこっそり宿営地から持ち出して、「野蛮なアラブ人に売却されることを防ぐために」愛馬を射殺した兵士たちが多く存在した、という逸話が後年まことしやかに語られるようになった。しかしJ・ブウは、これは事実誤認あるいは戦後に著された戦記の中での一次史料の裏付けがない表現が独り歩きした結果によるものであって、実際にはイギリス側もオーストラリア側も軍用馬たちの管理や処分は獣医たちの監督のもと厳密に実施していたのであり、このようなことが行われた明確な証拠は存在しないと論じている。

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殺処分された軍用馬たち。出典:Australian War Memorial

 

 

 結局シナイ・パレスチナ戦役で使用されたオーストラリア産軍用馬(ウェラー)のうち、再び故郷オーストラリアの土を踏んだものはなく、オーストラリア軍が使用した軍用馬全体を見ても故郷への帰還がかなったのは、オーストラリア第1師団長を務めガリポリ半島で負傷死したW・T・ブリッジズ少将の乗馬「サンディー」1頭だけだった。ニュージーランド産軍用馬に関しては、C・G・パウルス中佐の乗馬でシナイ・パレスチナ戦役を経験した「べス」―1914年の第一次派遣部隊とともに旅立った馬であった―が1918年10月にフランスへ移送された後、他の3頭のニュージーランド産軍用馬(ニュージーランド師団長を務めたA・ラッセル少将の乗馬「ドリー」など)とともに1920年4月に故郷ニュージーランドへ戻ることができたが、この計4頭が全てであった。「ベス」はエジプトのポートサイドに建立された乗馬部隊の記念碑のモデル(1956年のスエズ危機の際、記念碑は住民により破壊された)も務め、1934年に24歳で天寿を全うした。

 

参考文献

Jean Bou, 'They Shot the Horses - Didn't They?' https://www.awm.gov.au/wartime/44/page54_bou/

 

Jean Bou, Light Horse: A History of Australia’s Mounted Arm, Cambridge, Cambridge University Press, 2009.

Jean Bou, Australia’s Palestine Campaign, Canberra, Army History Unit, 2010.

Terry Kinloch, Echoes of Gallipoli: In the Words of New Zealand’s Mounted Riflemen, Auckland, Exisle Publishing, 2005.

Terry Kinloch, Devils on Horses: In the Words of the Anzacs in the Middle East 1916-1919, Auckland, Exisle Publishing, 2007.

 

NZ's First World War Horses  https://nzhistory.govt.nz/war/nz-first-world-war-horses