Kia Ora Coo-ee

両大戦期のイギリス帝国に関する話題がメインです

1918年西部戦線におけるオーストラリア軍団の戦い① 1916年~オーストラリア軍団の誕生まで

 

 ガリポリ戦役の終了後、オーストラリアの海外派遣軍(オーストラリア帝国軍)はエジプトで兵力を再編・増強(2個師団から4個師団へ。最終的には5個師団となる)し、ニュージーランドの派遣軍とともに第1アンザック軍団(軍団司令官ウィリアム・バードウッド中将、参謀長はシリル・ブルードネル・ホワイト准将)と第2アンザック軍団(軍団司令官アレクサンダー・ゴッドリー中将、ニュージーランド海外派遣軍司令官を兼ねる)を編成した。ニュージーランド軍との混成でアンザック乗馬師団を編成した乗馬部隊は、引き続きエジプト・シナイ半島で任務を行うことになったが、第1および第2アンザック軍団は1916年3月よりエジプトから新たな戦場である西部戦線へと移動、ヨーロッパの戦争の洗礼を受けることになった。

 

 1916年7月1日の「悪名高い」ソンムの初日の攻勢にオーストラリア軍は参加しなかったが、その陽動としてフランドルで展開された7月19日のフロメルの戦いでは、第2アンザック軍団に属するオーストラリア第5師団が1日で5,533人の死傷者を出す(1日で出した死傷者数としては、オーストラリア軍事史上最悪とされる)という惨劇を経験した。ソンムにおいて展開された7月23日~9月初頭のポジエルの戦いでは、一定の戦術的成功を収めたと評価されたものの、作戦全体では第1アンザック軍団は17,000の死傷者を出す甚大な被害を受けた。1916-1917年のソンム地方の冬の厳しい気候も兵士たちの想像をこえたもので、多くの者が塹壕足などの症状に苦しんだ。

f:id:Saint__Monday:20180121152822j:plain

1916年7月19日、フロメルへの攻撃を前にした第53大隊の兵士たち。この後映っている全員が死傷(戦死5人、負傷3人)することになり、フロメルの惨劇を象徴する写真となった。なおこの日オーストラリア第5師団の相手となったドイツ軍のバイエルン第6予備師団第16予備連隊には、アドルフ・ヒトラーが伝令兵として勤務していた。出典:Australian War Memorial

 

 ガリポリ戦役の時期には志願熱は高まりを見せていたものの、ソンムで激戦が続く1916年の段階では兵役志願者が指標人数を下回っていることが問題視されるようになり、ビリー・ヒューズ首相は10月、徴兵制導入の是非をめぐる国民投票を実施した。新聞報道上では徴兵制賛成派の方が優勢だったものの、「強制的な兵役はドイツ的軍国主義につながる」という考え方や、労働組合社会主義者、女性を中心とする反戦運動家などの反対もあって、僅差で否決(反対51.61%)された。

 

f:id:Saint__Monday:20180121153944j:plain

徴兵制反対派によるリーフレット。オーストラリアの徴兵制論争はプロパガンダの応酬となり、特に戦争指導に関して強権的な姿勢を見せるビリー・ヒューズ首相は揶揄の対象となった。ヒューズは1917年11月29日にはクイーンズランドウォリックで反対派から卵をぶつけられる災難にもあっているが、これは連邦警察の創設のきっかけになったと言われている。出典:Australian War Memorial

 

 1917年になるとオーストラリア軍はヒンデンブルク線やイープルをめぐる戦いに投入された。しかし4月11日のブレクールの戦いにおける第4師団の攻撃は、新兵器の戦車の性能不足もあって前年の失敗を繰り返す(第4旅団は参加兵力3,000中2,339が死傷。5月の第二次作戦とあわせるとオーストラリア軍の人的損害は約10,000)という厳しい結果となった。第2アンザック軍団は6月のメシヌの戦いに参加し勝利を得ることが出来たが死傷者数は約6,800に上り、戦果に比してやはりその犠牲は大きかった。パッシェンデールの戦いでも、オーストラリア軍師団は9月20日のメニン・ロードや9月26日のポリゴン・ウッドといった戦いで攻撃部隊として投入されたが、決定的勝利は得られなかった。

 

 パッシェンデールの作戦期間全体ではオーストラリア軍の死傷者は約38,000に達しており、西部戦線では現状兵力を維持できないことへの懸念(この時期の入隊志願者数の平均は毎月約2,500人であり、指標とされた毎月約7,000人を大幅に下回っていた)が前年に増して高まりを見せており、これ以上の新師団の編成も困難になっていた。ヒューズ首相は徴兵制支持派議員とともに労働党を脱党し、ジョセフ・クック自由党と合流して新たにナショナリスト党を結成するという奇策に出て、改めて徴兵制導入を訴えかけたが、メルボルンカトリック大司教アイルランド系のダニエル・マニックスが徴兵制反対キャンペーンを強化したことも影響して、12月に行われた2度目の国民投票はまたしても否決されてしまった(ただし徴兵制反対派であっても、戦争の大義自体を否定するような人は少数派だった)。この結果オーストラリアは志願兵のみによる軍隊で大戦を戦いぬくことを余儀なくされた。

 

 オーストラリア国内で徴兵制をめぐる議論が続く最中の1917年10月、ダグラス・ヘイグ元帥は西部戦線ではそれまでの第1・第2アンザック軍団に属するオーストラリアの5個師団を一つの軍団にまとめる案を認可した(※バードウッドは1916年、ニュージーランド軍をあわせたアンザック"軍"の編成を提案したことがあったが、却下されていた)。翌11月、新たにオーストラリア軍団が編成され、軍団司令官には第1アンザック軍団司令官のバードウッドが就任、オーストラリア帝国軍の司令官にも留任となった(オーストラリア軍師団が抜けたゴッドリーの第2アンザック軍団は、第22軍団に改められた)。オーストラリアの名前を冠した軍団の誕生はオーストラリア軍兵士の一体性や戦意を高める上でも、自治領としての戦争貢献や地位向上をアピールする国益上の意味でも、効果があるものと見なされた。

 

 1917年にはフランス軍内部の反乱、パッシェンデールの長期消耗戦、カポレットでのイタリアの敗北など、連合国にとって悪いニュースが続いており、ロシアの戦争離脱によって東部戦線から兵力を移動させるであろうドイツ軍が翌年には攻勢に出てくることも懸念されていた。しかし古参・新兵問わず前線のオーストラリア軍兵士たちの勝利への意志は未だに高かった。1916-17年の戦いの教訓を踏まえ、将校や下士官兵の育成、小隊ごとの軽機関銃の配備増や自動車および無線の導入といった装備の充実、戦術の試行錯誤も地道に進められており、休養の時間を取りつつオーストラリア軍団の各師団は戦力回復に努めていた。

 

 

f:id:Saint__Monday:20180121155508j:plain

ウィリアム・リデル・バードウッド(1865-1951) 出典:Australian War Memorial

インドのカドキーに生まれ、サンドハースト士官学校を卒業後はインド軍で出世を重ねた。南ア戦争ではキッチナーの参謀を務め、キッチナーがインド軍総司令官となってからも彼との関係は緊密であった。大戦勃発後は中将としてオーストラリア・ニュージーランド(アンザック)軍団司令官に就任しガリポリ戦役に参加、ウィリアム・ブリッジズ少将が死去した後はオーストラリア帝国軍の総司令官を兼ね、参謀長にはブルードネル・ホワイトを抜擢、以後終戦までコンビを組んだ。ガリポリでは5月や8月の攻勢において必ずしも有効な作戦を展開できなかったが、撤退作戦の指揮はほぼ無傷で成功させることが出来、西部戦線に移ってからは第1アンザック軍団、次いでオーストラリア軍団を指揮した。「スピリット・オブ・アンザック」「バーディー」とあだ名されたが、ガリポリ西部戦線将兵に多くの死傷者が出したことから戦術面での評価は分かれ、作戦内容やその犠牲についてイギリス軍将官に強く抗議するようなことは無かったこと、時としてオーストラリア軍将官よりもイギリス軍将官を抜擢する人事を行ったことなどから、彼の指揮能力を批判するような動きも同時代より見られた。大戦後はインド軍に戻って1925年には元帥、インド軍総司令官となった。1930年に退役し、オーストラリア総督の候補として有力視されたが、当時のジェームズ・スカリン政権の働きかけもあって実際に就任したのはオーストラリア出身のアイザックアイザックスだった。1938年に男爵となる。1940年代に自伝と回顧録の著述に努めた後、1951年に死去。ハリー・ショーヴェルとジョン・モナシュとは同じ1865年生まれだったが、バードウッドが一番の長命であった。