Kia Ora Coo-ee

両大戦期のイギリス帝国に関する話題がメインです

1918年西部戦線におけるオーストラリア軍団の戦い② ヴィレル・ブルトンヌ

 1918年3月21日、ドイツ軍の参謀次長エーリヒ・ルーデンドルフは大きな賭けに出た。アメリカ軍の本格的到着を前に戦争の決着を図るべく、カンブレー~ラ・フェール間のイギリス軍の前線に対し、ドイツ軍の大攻勢「ミヒャエル」作戦が開始された。緒戦でイギリス第5軍の前線は突破されてソンム川の後方まで下がり、捕虜を含めて4万近くの損害を受け、ドイツ軍は5日間のうちに前年までの喪失地をほぼ奪回した。しかしイギリス第3軍はアラスを堅守して崩壊を免れ、ドイツ軍は北西に回り込んでこれをせん滅することが出来なかった。パッシェンデール戦以後休養と兵力の補充を済ませていたオーストラリア軍団の各師団は、前線に生じた隙間を埋め、戦略的重要地であるアミアンの失陥を防ぐために急派された。3月25日より移動を始めた第3・第4師団は28日にはデルナンクールやモルランクールでドイツ軍と交戦を始めた。オーストラリアの公式従軍記者チャールズ・エドワード・ウッドロー・ビーンは、強行軍にもかかわらず師団の兵士たちは陽気に振る舞って戦意は高く、オーストラリア兵「ディッガー」たちの到来を地域住民たちは「オーストラリア万歳Vive les Australiens」と歓迎したことを新聞記事で仰々しく報じた。「帝国とブリテンの人種の存亡のために」前線で勇敢に戦うオーストラリア軍兵士に関する記事はイギリスの新聞でも紹介されており、ヨーロッパでもオーストラリア軍に対する関心は高まりを見せてきた。

 

 ドイツ軍は3月30日、アミアンから約10マイル東に位置し18世紀以来織物業を産業としていた小村、ヴィレル・ブルトンヌに迫っていた。4月4日午前5時過ぎ、霧雨の中ヴィレル・ブルトンヌの前線に対してガス弾を含めた砲撃が開始され、1時間後にはドイツ軍第11・第14軍団の歩兵の進撃がそれに続いた。この時ヴィレル・ブルトンヌにはイギリス軍第3軍団(第14・第18・第58師団)とオーストラリア第3師団から分遣されていたチャールズ・ローゼンタール准将の第9旅団が防衛にまわっていた。最前線にいた第9旅団第35大隊(大隊長ヘンリー・ゴダード中佐はガリポリ戦役では最前線のクインズ・ポストで闘い続けたことで知られ、ローゼンタールから信頼されていた)はドイツ軍バイエルン第9予備師団の攻撃に耐えていたが、北方のアメルの近隣に配置された第14師団は(それまでの戦いで疲弊していたという事情もあるが)ドイツ軍第228師団の攻撃に持ちこたえられず後退したため、第35大隊もヴィレル・ブルトンヌの郊外まで下がり、イギリス軍部隊の支援を受けつつ戦闘を継続した。しかし午後になると南方の第18師団もドイツ軍第19師団の攻撃に押されはじめ、ドイツ軍は郊外まで迫るに至った。

f:id:Saint__Monday:20180131000307j:plain

第一次ヴィレル・ブルトンヌ戦後の廃墟となった村の様子。出典:Australian War Memorial

 

f:id:Saint__Monday:20180130233907j:plain

第一次ヴィレル・ブルトンヌ戦開始時点まで村に留まっていたという女性。出典:Australian War Memorial

 

 午後5時過ぎ、第9旅団第36大隊が第35大隊や第58師団ロンドン第6大隊の兵とともに反撃を敢行し、疲れが生じていたドイツ軍を後退させることに成功した。この後第9旅団第33大隊(大隊長は弱冠28歳のレスリー・モースヘッド中佐。のち第二次世界大戦において「トブルクのネズミ」で知られる第9師団を率いることになる)・第34大隊が第17槍騎兵連隊に支援されて北方に前進、失地を回復し前線を安定させる役割を果たした。第9旅団の各大隊は5日の深夜にも反撃を行い、その後午前11時にはアメルの西方にハロルド・"ポンペイ"・エリオット准将の第15旅団(オーストラリア第5師団)が第10軽騎兵連隊とともに展開、「104高地」の確保に努めドイツ軍の攻撃を撃退した。一連の戦いで第9旅団は参加兵力2,200人のうち665人が死傷し、その損害は軽微ではなかったが、ともあれアミアンは守られることになった[第1次ヴィレル・ブルトンヌの戦い]。この戦いは数日後、オーストラリアの新聞上では「我々の人種・慈愛・文明のために懸命に戦う」オーストラリア軍は勝利の栄光を手にしたと報じられ、地元フランスの新聞上でも、4月4日にアミアンの東でイギリス・オーストラリア軍がドイツ軍の猛攻に耐え抜いたことは何よりも重要な出来事であったと報じられた。

 

 オーストラリアの一部の「ナショナリスト史観」に基づく歴史叙述の中には、1918年の春期攻勢において敗走する「弱体な」イギリス軍徴募兵「トミー」の姿を、心身ともに卓越したオーストラリア軍志願兵「ディッガー」と対比する(あるいは「粗野な植民地人」と見下してくるイギリス軍将兵たちとの対立を強調する)ような内容のものがしばしば見られる。第1次ヴィレル・ブルトンヌ戦においても、当時第3師団長だったジョン・モナシュ少将は妻に宛てた手紙の中で第14師団の指揮官兵士の質を批判する発言をしており、将兵の中には「イギリス軍師団の中には中国人労働部隊と同程度の戦闘力しかないものもある」とまで揶揄する者も存在した(ただしこの日の第14師団に対する批判自体はローリンソンはじめイギリス軍側からもなされており、オーストラリア側よりもむしろ痛烈であったという見方もある)。オーストラリア軍団司令官のバードウッドは、オーストラリア軍兵士とイギリス軍兵士の資質を不必要に比較することに関して、苦言(≒批判の労力をむしろドイツ軍に向けるべきである)を呈したこともあった。

 

 しかし一方で、ローゼンタール旅団長が反撃に参加した第58師団の兵士たちの戦意が高かったことを称賛し、モースヘッド大隊長が「真のイギリス軍兵士」たる軽騎兵連隊の騎兵の奮闘に勇気づけられたと証言していたことが象徴的であるように、政治外交や作戦の次元であれ個人の体験の次元であれ、同時代において英豪間の対立が鮮明なものとなった(それが国家としてのアイデンティティの覚醒に繋がった)と結論付けることには、やはり慎重であるべきだろう。オーストラリア軍にはイギリス本国式の訓練や戦術が採用され、装備や補給面においてイギリス軍とは緊密な関係であった。将兵の中にはイギリス出身の者も多く存在し、スポーツやミュージックホールといった本国と同様の大衆文化も共有されていた。

 

 「ミヒャエル」作戦の行き詰まりを感じたルーデンドルフは4月9日、突撃師団のみならず二線級師団をも投入してリース川方面での「ゲオルゲッテ」作戦を開始する。ドイツ軍はポルトガル軍師団をすぐに破り(機関銃兵アニバル・ミハイスが単身ドイツ軍大隊相手に闘い続けたという武功話もあるのだが)、鉄道拠点のアズブルックを脅かそうとしたため、ヘイグは「背水の陣」の命令を出すに至った。オーストラリア第1師団(師団長ハロルド・ウォーカー少将)はこの時ソンムの前線に到着したばかりであったが、4月12日、この救援のために急きょオーストラリア軍団からイギリス軍第15軍団へと分遣された。第1師団は4月30日までドイツ軍の攻撃に耐え、戦線を安定させた。以後第1師団は8月初頭まで第15軍団の下に置かれ、攻勢防御を展開して戦術的成功を収め、第2軍司令官ハーバート・プルーマー大将からイギリス帝国軍最良の師団の一つと称賛された。

 

 「ゲオルゲッテ」作戦を展開する一方で、ルーデンドルフアミアン方面でも現状打破に乗り出す。4月17日以降、ヴィレル・ブルトンヌに対しガス攻撃が行われ、捕虜の証言なども加わってドイツ軍の再度の攻撃が懸念されるようになった。この時点ではヴィレル・ブルトンヌはイギリス軍第3軍団第8師団が防衛していたが、「ミヒャエル」作戦で損害を受けて未熟な徴募兵で補充中であり、戦力低下が著しい点は第4軍司令官ヘンリー・ローリンソン大将も危惧するところであった。4月24日早朝、ドイツ軍は新兵器A7V戦車13輌を含めた総計4個師団の戦力をもって攻撃を開始する。A7V戦車や火炎放射器、機関銃の攻撃もあって当初ドイツ軍は順調に進攻し、第8師団を破って午前8時ごろにはヴィレル・ブルトンヌの村を占領した。しかし午前9時30分ごろにはイギリス軍戦車中隊が駆けつけ、A7V戦車との間で史上初の戦車戦が展開される。ドイツ側は結果的にマークⅣ戦車を3輌、ホイペット戦車4輌を損傷ないし撃破(砲兵によるものも含める)する損害を与えたものの、A7V戦車3輌が放棄され、ホイペット戦車によって歩兵への損害も少なからず生じた。午後には戦車を伴ったイギリス軍各旅団は態勢を立て直し始めるが、村に対する本格的反撃はまだ行えなかった。第3軍団司令官リチャード・バトラー中将と第8師団長ウィリアム・ヘネカー少将は予備とされていたオーストラリア軍旅団の増援を当初却下していたが、第4軍司令官ローリンソンはアミアンの防衛のためにはヴィレル・ブルトンヌの奪回は不可欠であるとして、午前9時30分にウィリアム・グラスゴー准将の第13旅団(オーストラリア第4師団)およびエリオット准将(戦力に不安があるイギリス軍師団が突破されることを見越して、数日前から反撃作戦に備えていたといわれる)の第15旅団に対しヴィレル・ブルトンヌへの反撃に加わるよう命じ、バトラーも午前11時にはその命令を了承していた。

 

f:id:Saint__Monday:20180130225041j:plain

メフィスト」。現存する唯一のA7V戦車として知られる。第二次ヴィレル・ブルトンヌの戦いで砲撃によるクレーターにはまって立ち往生してしまい放棄されたが、7月にオーストラリア軍第26大隊(クイーンズランド)に回収され、アミアンの近くにあるイギリス軍演習場に送られた。オリジナルの車体にはドイツ軍によって赤いメフィストフェレスのイラストが描かれていたが、終戦までに連合国軍兵士たちによって書き込みやイラスト(A7Vで遊んでいるライオンの絵が有名)が数多く付け加えられた。1919年に戦利品としてオーストラリアが獲得し、ブリスベンクイーンズランド博物館の展示品となった。重い戦車の運搬には相当苦労したようで、博物館に着くまでに道路や建物が少なからず傷つけられることになったという。書き込みやイラストの多くが長年の展示で風化してしまったこともあり、1988年には再塗装(現在の状態)がなされている。

出典:Australian War Memorial

 

 第8師団長ヘネカーが午後8時より(ローリンソンはより早期の反撃を要求していたが、彼とバトラーがこの時間に妥協させていた)反撃作戦を開始するとしたのに対し、第13旅団長グラスゴーは夜が深まってからの午後10時30分にするべきだと反論、バトラーも加えて交渉した結果、最終的に午後10時開始に落ち着いた。ビーンは公刊戦史において、このグラスゴーの機転がイギリス帝国軍を作戦の成功に導くことになったと力説している(ただし同時代の日記では、強行軍の末に作戦参加しなければならない第13旅団に対し率直な不安感も吐露していた)。午後10時、第13旅団は南方、第15旅団は北方よりヴィレル・ブルトンヌの包囲攻撃を開始、第18師団第54旅団も攻撃に加わった。識別のために白い腕章をつけた第15旅団第59大隊の兵士たちは、敵陣が近くなるにつれ「ヴァイキングバーサーカーのように」高揚し、その声は1マイル南方で戦う第13旅団からも聞こえたといわれる。ヴィレル・ブルトンヌの郊外ではドイツ軍の機関銃による反撃が激しくなったが、兵士たちは果敢にも銃剣による刺突(エリオット曰くthroat jab)を実施し、その凄惨さと容赦のなさにドイツ兵に憐憫を感じた者さえいた。ドイツ側は反撃の機会を逸してしまい、翌25日の午前までに村の奪回は成功した(ただしフランス軍部隊も加わった近隣の掃討作戦は4月27日までかかり、モロッコ師団などはドイツ軍の反撃で大きな損害を受けている) [第2次ヴィレル・ブルトンヌの戦い]。4月24-25日とそれに伴う作戦でオーストラリア軍は2,473人の死傷者を出し、イギリス軍第3軍団は捕虜を含めて9,529人の損害を出していた(ドイツ側の損害の合計は8,000人以上といわれる)。オーストラリア視点では村への反撃作戦を主導した第13・第15旅団の役割ばかりが強調されてしまうが、イギリス軍が態勢を立て直し、大きな犠牲を出しつつも戦線を維持し続けていた点も、決して見過ごされてはならないだろう。

 

f:id:Saint__Monday:20180130231149j:plain

第13旅団のヴィレル・ブルトンヌ攻撃(ウィル・ロングスタッフ画) 出典:Australian War Memorial

 

f:id:Saint__Monday:20180130233443j:plain

第15旅団による戦利品。出典:Australian War Memorial

 

 アミアンは再び守られることになったが、ヴィレル・ブルトンヌの奪回を成し遂げた4月25日は折しもガリポリ半島上陸から3年目の記念日「アンザック・デイ」であった。この1918年の「アンザック・デイ」は3年前のような「英雄的悲劇」ではなく、「輝かしい勝利」をもって飾られることになった。ヴィレル・ブルトンヌの戦いの経過は、イギリス・フランス双方の公式声明を引用しつつリアルタイムでオーストラリアでも報じられており、前線のみならず銃後の人びとをも熱狂させた。イギリスの『タイムズ』でも「ドイツ軍に対して一騎当千な」オーストラリア軍兵士たちの作戦への貢献が紹介されるなどした。フランス軍のフェルディナン・フォッシュはオーストラリア軍兵士たちが見せた「驚くべき勇敢さ」について言及し、ヘイグもバードウッドに対しオーストラリア軍団のソンムの前線における成功を称えるメッセージを送った。モナシュは妻に宛てた手紙の中で「アンザック・デイ」における勝利について喜びをもって伝え(ただし後退を強いられたイギリス軍師団を皮肉ったりもしている)、さらに後年には「決定的な勝利の機会はなくなった」というヒンデンブルクの発言を根拠にして、ヴィレル・ブルトンヌは春季攻勢におけるターニングポイントであったと確信していた。この評価がどこまで妥当なのかはともあれ、ソンムとフランドルにおけるドイツ軍のイギリス軍に対する攻勢は行き詰まりを見せ、ルーデンドルフは5月以降、フランス軍に攻撃目標に変換することを余儀なくされた。

f:id:Saint__Monday:20180130223627j:plain

輝かしい勝利と喧伝されたヴィレル・ブルトンヌの戦いだが、4月中の両軍の攻撃によって村は完全に破壊されてしまった。しかし勝利の立役者である第15旅団の各大隊の編成地がヴィクトリアであったこともあり、大戦後のヴィクトリアではヴィレル・ブルトンヌの村の再建のための寄付金が集められ、1923年にはヴィクトリアの子どもたちからの寄付金による小学校も開校した。1970年代以降この小学校にはアンザックミュージアムも併設されている。1984年にはヴィレル・ブルトンヌとヴィクトリアのロビンヴェールが姉妹都市となっている。出典:Australian War Memorial

 

f:id:Saint__Monday:20180130225913j:plain

トマス・ウィリアム・グラスゴー(1876-1955) ※左端の人物

クイーンズランドのティアロの北アイルランド移民の農家に生まれる。グラマースクールで学んだ後、1890年代にはギンピーで鉱山会社の事務員や銀行員といった仕事に就き、のちアンザック軍団参謀長となるブルードネル・ホワイトとはこの頃から友人であった。その後クイーンズランドの乗馬部隊に入隊し、1897年にはヴィクトリア女王のダイヤモンド・ジュビリーにハリー・ショーヴェル大尉とともにクイーンズランド代表の儀仗隊として派遣される栄誉を授かった。南ア戦争には中尉として参加し、キンバリーやブルームフォンテーンの戦いを経験。オーストラリアに戻ってからもギンピーのミリシア部隊で指揮官を務め、1912年までに少佐となった。第1次世界大戦が勃発すると第2乗馬連隊指揮官に就任。1915年5月よりガリポリ戦役に参加し、8月7日のデッドマンズ・リッジの戦いでは前線で負傷した部下を助ける活躍を見せたと伝えられる。「プラッガー・ビルPlugger Bill」とあだ名されており、ガリポリ戦役後の1916年3月には新編の第13旅団長に就任する。ポジエル、メシヌ、パッシェンデールといった激戦を闘い抜き、ビーンからは公刊戦史の中でグラスゴーを猛々しさと冷静さを兼ね備えた「第4師団の旅団長の中では最も力強い男」と称えられ、後年ロバート・メンジーズからも「オーストラリア帝国軍を完全に具現化した人物」と評された。ヴィレル・ブルトンヌの戦いの後、1918年6月に少将に昇進、第1師団長に抜擢され、8月以降のリオンやシュイニュの攻略作戦を指揮した。終戦後の1919年にはナショナリスト党の上院議員となり、スタンリー・ブルース政権で内相、1927-29年までは防衛相を務め市民軍の人員拡大やオーストラリア空軍の近代化に尽力したが、労働党スカリン政権が成立すると議席を失った。その後牧畜経営などに関心を寄せたが、第2次大戦中の1939年に駐カナダの初代高等弁務官に就任。カナダのマッケンジー・キング首相から信頼を得た一方、オーストラリアの戦争貢献を宣伝する役目も果たした。1945年に帰国し、以後はクイーンズランドで牧畜やビジネスに専念。1955年にブリスベンで死去した。出典:Australian War Memorial

 

f:id:Saint__Monday:20180130230526j:plain

ハロルド・エドワード・"ポンペイ"・エリオット(1878-1931)

ヴィクトリアのウェスト・チャールトンに生まれる。メルボルン大学オーモンド・カレッジに進学、法学を学んだがスポーツでも優秀な成績をあげる文武両道な人物で、のちに(同時代のフットボール選手フレッド・"ポンペイ"・エリオットにちなみ)「ポンペイ」とあだ名された。1900年に学業を中断して南ア戦争に参加。復学した後1906年に法学学位、翌年弁護士資格を得る。その一方でミリシア部隊にも参加し大隊指揮官を務め中佐まで昇進、戦史の研究にも熱心であった。第一次世界大戦勃発後は第2旅団第7大隊長としてガリポリ戦役に参加、4月25日の上陸作戦では負傷も経験したが、復帰後の8月のローン・パインでは最前線で奮闘を見せた。部下からはヴィクトリア勲章受章者が複数輩出されたが、エリオット自身の軍功は評価されず、以後不満を抱えることになる。西部戦線に移ってからは第5師団第15旅団長となる。1916年7月のフロメルの戦いでは(エリオットは攻撃に異議を呈していたが)自らの旅団から1,452の死傷者を出してしまい、その惨劇に思わず泣き叫んだと伝えられている。しかしながら、1917年9月のポリゴン・ウッドや1918年4月のヴィレル・ブルトンヌでの作戦指揮はビーンも公刊戦史の中で高く評価しており(彼の指揮する第15旅団を「クロムウェル鉄騎隊のよう」とも評した)、前線では積極的に行動し度胸を示すような逸話も多かった。その一方で人事や作戦に関してバードウッドやホワイトら上官たちへの率直な批判的発言も辞さず、戦中は師団長に就任することが出来なかった。終戦後はナショナリスト党の連邦上院議員を務めて帰還兵の支援や防衛問題などについて積極的に発言、在郷軍人会にも影響力を持った。1923年にはメルボルンで発生した警察ストライキに際しては特別警察官の組織に寄与した。自身の軍歴が正しく評価されないことには以前から不満を感じており、ホワイトとは(その能力は称賛しつつも)戦間期も対立を続いていたが、ショーヴェルが参謀総長となった後の1927年には少将に昇進し、第3師団長に就任した。しかしこのような自身の評価・立場の問題や戦中の凄惨な体験も影響してか、次第に心身を病むようになり、1931年3月23日、自殺を遂げた。出典:Australian War Memorial