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1918年西部戦線におけるオーストラリア軍団の戦い③ ジョン・モナシュの司令官就任

 3月21日から5月初旬にかけてオーストラリア軍が受けた人的損害は死傷15,000人にのぼり、割合としては前年度までと遜色なく大きく(第3師団の第9旅団、第4師団の第12・第13旅団では損害を受けた大隊の解隊が行われている)、これ以上の作戦継続による戦闘力低下も懸念されていたが、ともあれ兵士たちは最後の勝利への予感を感じ取っていた。一方5月12日、ヘイグはバードウッドに対し、「ミヒャエル」作戦を防ぐことが出来なかったヒューバート・ゴフに替わってイギリス第5軍を指揮するよう命じた。バードウッドはオーストラリア帝国軍司令官の地位は継続することになったが、ここでオーストラリア軍団司令官の後任には誰が就任するべきかという問題が発生する。ヘイグとバードウッドは、オーストラリア第3師団長のジョン・モナシュ少将が相応しいと推薦していた。

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ジョン・モナシュ肖像。ジョン・ロングスタッフ画。 出典:Australian War Memorial

 

 ジョン・モナシュは1865年、ユダヤ系ドイツ移民(父ルイスはプロイセン領ポーゼン州の出身で1854年メルボルンに移住した。なおルーデンドルフもポーゼン州出身であり、モナシュと同じ1865年生まれである)の両親のもとにメルボルンで生まれた。メルボルンのスコッチ・カレッジで学んだ後メルボルン大学に進学し、工学と文学を専攻したが、学業の一時中断などもあり(1年目は落第も経験している)実際に学位を取得したのはしばらく経ってからの1893年(工学)および1895年(文学)だった。土木エンジニアの仕事に就き、1890年代には鉄道・架橋事業などを手掛けたが、のち1905年にコンクリート事業を成功させ、1913年までに約30,000ポンドの財を成すまでになった。一方で1884年メルボルン大学中隊に入隊したことを契機に軍歴もスタートさせており、南ア戦争には参加しなかったもののメルボルンミリシア部隊の砲兵指揮官を務めて出世を重ね、地図作製を行ったりシドニー大学軍事学を学んだりするなどして士官としての基礎を身に着けた。戦史の研究にも励み1911年には南北戦争の荒野の戦いをテーマにした懸賞論文を発表し、金メダルを受賞している。エンジニアとしての知識や経験を踏まえた深慮、柔軟性、協同、経済、時間的効率といった考え方は、モナシュの作戦立案にも影響を与えたと言われ、大戦前の1914年2月にオーストラリアを視察したイアン・ハミルトンは彼の資質を評価し、大戦中は将兵から「兵士というよりも教授という印象を受けた」と評されたこともあった。青少年期より文学やピアノ演奏にも関心を寄せており、ブルワー・リットンとチャールズ・ディケンズの作品は生涯のお気に入りであった。

 

 第一次世界大戦が勃発するとモナシュは大佐として第4旅団長に就任、第二陣派遣部隊として12月にオーストラリアを出立した。第4旅団はアレクサンダー・ゴッドリー少将のニュージーランド・オーストラリア師団の一員となり、1915年4月よりガリポリ戦役を経験したが、8月攻勢における971高地の戦いでは多くの犠牲を払ったにもかかわらず目標を達成できずモナシュは苦杯をなめさせられた。この時のモナシュの前線指揮官としての能力については批判的な声も聞かれ、公式従軍記者のチャールズ・ビーンからは「旅団長よりは師団長に、師団長よりは軍団司令官に向いている人物」と評された。なおガリポリ戦役の時期、オーストラリアの銃後ではその出自ゆえに「モナシュはドイツのスパイとして射殺されようとしている」という風聞まで流れ(戦中のオーストラリアではドイツ人の抑留が実施されていた。モナシュ自身はドイツ語も理解したが、イギリス帝国としてのアイデンティティが強かったので青年期の頃からドイツ系コミュニティとは距離を置いていた)、ジョージ・ピアース防衛相がわざわざ否定コメントを出すという事態にもなった。

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第4旅団長時代。右は副官のジョン・マクグリン少佐。出典:Australian War Memorial

 

 ガリポリ戦役が終了後の1916年7月、少将となったモナシュは新編のオーストラリア第3師団長に就任する。イギリスのソールズベリーで訓練にあたった後、12月にゴッドリーの第2アンザック軍団の前線へと移動し(開戦時は100キロ超の肥満体だったモナシュだが、激務や摂生に努める過程でこの時期には体重を約20キロ減らした。ただし白髪と薄毛の進行は見られ、終戦後は一人娘のバーサにそのことを突っ込まれた)、翌1917年1月よりドイツ軍との交戦が始まった。モナシュはメシヌやブルードサインデの戦いにおいて大隊規模の指揮官とも協議するなど綿密な作戦指揮を行い、それまでの戦訓を踏まえた新兵器や戦術の検討にも熱心であった。この時期に新兵器の戦車を初めて視察し試乗した際は、「とても素晴らしく、とても酷い兵器」と評している。1917年の一連の戦いで、第3師団は他のオーストラリア軍や第2軍の師団に比べて規律が良好で疾病者の割合も低く、「良く潤滑油が差された機械のように働く」作戦能力の高い師団であるという評価を得るに至った。ヘイグはメシヌの戦いに際してモナシュのことを「聡明で決然とした指揮官」と称賛し、第2軍司令官のプルーマーは一時イタリアに派遣されることになった際、モナシュの第3師団もぜひ一緒に連れていきたいと考えたほどだったという。1918年3月21日に始まるドイツ軍の「ミヒャエル」作戦(この直前の休暇では、モナシュはパリを観光したりバーナード・ショーの評論を読んだりして過ごしていた)に際しては、モナシュは第3師団を迅速に移動させてアンクレ川に生じたイギリス軍前線の隙間を埋め、3月30日にはモルランクールでドイツ軍の進攻を阻止(なお4月下旬の同地区における撃墜王マンフレート・フォン・リヒトホーフェンの戦死に関しては、モナシュは同時代の段階でオーストラリア機関銃兵による撃墜と断言していた。乗機の破片も「戦利品」として収集していた)してアミアンの救援に一役買っていた。

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第3師団長時代。出典:Australian War Memorial

 

 ヘイグらの推薦もあって1918年6月1日、モナシュは中将に昇進し、オーストラリア軍団司令官に正式就任した。第9旅団長のエリオット准将が「最も嬉しい出来事」と語り、第3師団長時の部下だったローゼンタールも就任を歓迎したことが象徴的であるように、オーストラリア出身将官が軍団司令官となる(パレスチナではハリー・ショーヴェル中将が既に砂漠乗馬軍団司令官に就任していたが)ことを、前線の兵士たちも銃後の人びとも概ね好意的に受け止めた。しかし将校たちの中には、「ユダヤ系」「ミリシア出身者」が軍団のトップに座ることを快く思わないという者もしばしば見られた。そして公式従軍記者のチャールズ・ビーンは5月下旬の段階から、同じオーストラリアの新聞記者で友人のキース・マードック(ビリー・ヒューズ首相の代弁者として、オーストラリア軍団の編成をイギリス政府に働きかけるのに一役買っていた。ルパート・マードックの父でもある)を誘って、バードウッドの参謀長を務めており自身と懇意だったシリル・ブルードネル・ホワイト少将の方が司令官に相応しいとして、モナシュの司令官就任の決定に異議を唱えていた(※二人は1917年にオーストラリア軍団が編成された時も、カナダ軍団はカナダ出身将官であるアーサー・カリーが率いていることを根拠として、軍団司令官をバードウッドからホワイトに替えるべきだという主張を展開したことがあった)。

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公式従軍記者チャールズ・エドワード・ウッドロー・ビーン。ビーンはこのサイン入り写真をホワイトに贈呈した。 出典:Australian War Memorial

 

 ビーンとマードックはモナシュをバードウッドに替わってオーストラリア帝国軍司令官にまつりあげてイギリスに追いやり、前線のオーストラリア軍団はホワイトを司令官に就任させて指揮させようと画策、実際にヒューズ首相やピアース防衛相にも電報を送って働きかけを行った。大戦以前からアングロサクソンの人種の卓越性を主張するような記事や著作を発表してきたビーンには、ユダヤ系のモナシュがオーストラリア軍前線部隊のトップに立つことが容認できなかった(実際には事実誤認だったのだが、ローゼンタールに対してもユダヤ系であるとして敵視するような発言をしている)。一方マードックの考えは反ユダヤ主義的というよりも、1917年のブレクールをはじめとするそれまでの作戦指揮でバードウッドへの信望が揺らいでいる現状では、オーストラリア出身のモナシュが司令官におさまる方がいずれにせよ国益上望ましいだろうというものだった。しかし結局ホワイトはこの策謀に動かされることはなく(ただしホワイト自身は反ユダヤ的感情は持っていたとされ、モナシュが死去した後年にはモナシュは過大評価されているという趣旨の発言も残している)、バードウッドの第5軍の参謀長の地位におさまった。バードウッドもまた、自らの地位の保持のためには今まで通りホワイトの力添えが必要であると考えていた。しかしこの決定後の7月以降になっても、ビーンは報告書において第4軍司令官ローリンソンの名前を出すに留めて軍団司令官であるモナシュの名前を敢えて出さないことがあるなど、モナシュとの対立は継続することになった。ビーンは後年、これら一連の軽率な行為を悔いることになるが、公刊戦史においてはモナシュの明晰な部分を称賛しつつも「オーストラリア軍兵士たちが司令官に求めるような身体的勇敢さに欠ける」と評していた。ビーンが1957年に発表した自身最後の著書はホワイト(およびブリッジズ)の伝記的作品であり、後年にいたるまで彼のアイドルはあくまでもホワイトだった。

 

 従軍記者たちによるこのような干渉騒ぎが発生したものの、ともあれモナシュのオーストラリア軍団司令官への就任は決定事項であった。モナシュはオーストラリア軍団参謀長として、第1師団参謀長を務めその能力が高く評価されていたトマス・ブレイミー准将を選出した。両者の関係は良好で、モナシュは後年の著作においてブレイミーに対し多くの賛辞を送っている。またこの時期、新師団長として第1師団長にウィリアム・グラスゴー少将、第2師団長にチャールズ・ローゼンタール少将、第3師団長にジョン・ジェリーブランド少将というオーストラリア出身の将官が相次いで就任し、首脳陣の「オーストラリア化」が強化されることになった(留任の第4師団長イーウェン・マクラガン少将はスコットランド出身だったが、モナシュはオーストラリア人の気質を充分に有していると評した。第5師団長のタルボット・ホッブズ少将はロンドン出身だったが、1887年以来西オーストラリアに移住しており建築家としても知られていた)。

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オーストラリア軍団首脳陣。モナシュの真後ろに立っているのがトマス・ブレイミー。出典:Australian War Memorial

 

 ドイツ軍は5月末より「ブリュッヒャー」および「グナイゼナウ」作戦を実施、パリまで80キロの地点まで前進したが、戦略的な勝利は得られず戦力の消耗を重ねてしまい、逆にフランス軍のフォッシュは反撃体制を整えていた。5月から7月にかけてのモルランクールや(第1師団の)アズブルックをはじめとするオーストラリア軍団の前線においても、砲爆撃に加え比較的小規模な部隊による奇襲を伴った前進行動や威力偵察peaceful penetrationが展開され、ドイツ軍にじわじわと打撃を与えて士気低下を狙い、獲得した捕虜(小規模作戦でも約1,000人の捕虜が得られることもあった)からの証言も活用しつつ大規模な反撃の機会をうかがっていた。

 

 

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シリル・ブルードネル・ホワイト(1876-1940) 出典:Australian War Memorial

ヴィクトリアのセント・アーノウのアイルランド移民で元軍人(父ジョン・ウォーレン・ホワイトは1854年ユリーカ砦の反乱の際に鎮圧軍側として参加していたといわれる)の家に生まれる。1881年に家族はクイーンズランドに移住した。パブリックスクールで学んだ後、銀行員として働きながら弁護士を目指して勉学に励んだ。しかし友人のウィリアム・グラスゴーの影響もあって次第に軍人を志望するようになり、1896年にクイーンズランド連隊に入隊。翌年将校試験に合格し、1899年には砲兵隊中尉となり木曜島に駐留。1902年には戦闘の機会は少なかったものの南ア戦争も経験した。1904年、1年間のみだがオーストラリア陸軍総司令官エドワード・ハットン少将の幕僚となり、参謀将校としてのキャリアが始まると同時に、用兵や防衛問題について彼から手ほどきを受けた。ハットンの推薦もあって1906年からはオーストラリア軍将校としては初めてキャンベリー幕僚学校で学ぶ機会を得た。のちにイギリス軍参謀総長になるヘンリー・ウィルソンからはその資質を評価され、同時期のイギリスにおける陸軍改革にも参与する過程で、ホールデンやフレンチ、ハミルトンらとも交流した。1911年にオーストラリアに召還されると、同じく参謀将校として頭角を現していたウィリアム・ブリッジズ大佐とともに軍制改革にあたり(ウィリアム・クレスウェルのオーストラリア海軍創設構想にはブリッジズとともに反対だった)、有事の際の海外派兵を含めた帝国の防衛構想について議論した。第一次世界大戦が勃発するとブリッジズの参謀長としてオーストラリア帝国軍の募兵と編成に尽力し、ガリポリ戦役ではガバ・テペへの上陸作戦を立案。8月にはローン・パインへの攻撃を成功させたが戦略的目標は達成できず、病気による戦線離脱も経験した。1915年10月に准将、アンザック軍団参謀長となり、撤退作戦をほぼ無傷で成功させた。ガリポリ戦役後のエジプトでオーストラリア軍師団の増設に尽力、師団長候補にもなったが結局第1アンザック軍団参謀長におさまり、西部戦線でもバードウッドの片腕として作戦立案に努めた。1916年7月のポジエルの戦いに際してはヘイグ元帥から戦術面の失敗をとがめられたが、ホワイトは的確に弁明に努めてヘイグを納得させ、彼から高評価を得た。1916-17年にかけては装備や戦術面の試行錯誤だけでなく兵舎や塹壕の居住環境の改善、補給の充実に関しても検討し、兵士たちの士気の維持に努めた。バードウッドが第5軍司令官となると中将に昇進し、第5軍参謀長を務める。第一次世界大戦終結後は復員事業の監督は任されなかったが(戦中の軍団司令官の件もあり、モナシュがライバル視したためと言われる)これまでの功績からナイトに叙された。1920年にはオーストラリア陸軍参謀長に就任、陸軍の再編と市民軍の組織化に努め、将来のイギリス帝国と日本の戦争の可能性についても指摘した。1923年に参謀総長を辞任した後は連邦公共事業委員会の委員長に就任、1927年にヨーク公(のちジョージ6世)夫妻がオーストラリアを訪問した際には接待役も務めた。1920-30年代にかけては右翼団体「ホワイト・アーミー」との関係性が指摘されたが、ホワイトは否定している。第二次世界大戦勃発後の1940年3月、63歳のホワイトは「キンキナトゥスの心境で」陸軍参謀長に再起用され大将に昇進、トマス・ブレイミーを第二次オーストラリア帝国軍の軍団司令官に推薦するなどした。しかし1940年8月13日、メルボルンからのキャンベラに向かう途中の飛行機事故により死亡してしまった(ジェフリー・オースティン陸相、ジェームズ・フェアバーン航空相、ヘンリー・ガレット科学産業相も同乗していたがいずれも死亡)。今日のオーストラリア軍事史ではモナシュやブレイミーほど注目されることが少ない感があるホワイトではあるが、イギリス軍のウィルソン参謀総長からは「オーストラリア帝国軍の頭脳」と評され、その人柄や学識の豊かさ、勤勉さ、あらゆる問題に対する迅速な決断力は、ビーンやロバート・メンジーズが同時代において認めるところであった。また第二次世界大戦勃発後、第二次オーストラリア帝国軍の動員と編成に際して参考にされたのは、ホワイトが先の大戦で築き上げたノウハウであった。プロフェッショナルの参謀将校としてオーストラリア陸軍の発展を黎明期の段階から支え続け、オーストラリアの"ミリタリー・カルチャー"の基盤を築くことになったホワイトの力量と功績は、決して見過ごされるべきではないだろう。