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両大戦期のイギリス帝国に関する話題がメインです

1918年西部戦線におけるオーストラリア軍団の戦い④ アメル

 

 モナシュはこれまでの経験を踏まえ、現在直面している戦争を戦い抜くためには歩兵の心身の卓越や規律だけでは不足で、機銃、迫撃砲、火砲、戦車、航空機といったテクノロジーとの効率的な協同により、最小限の損害をもって戦果を得ることが不可欠であると考えていた。オーストラリア軍団はイギリス帝国軍の右翼の前線を担当していたが、モナシュはヴィレル・ブルトンヌの防衛を安定させるためには、隣接する小村アメルのドイツ軍突出部(オーストラリア第4師団の前線)を攻撃する必要があると判断した。6月18日、第4軍司令官ローリンソンはモナシュに対し、歩兵の損害を減らすためにもアメルの攻撃に際しては戦車を伴うべきだと指示、モナシュも同じころ、新型のマークⅤ型戦車(モナシュ曰く「奇異なモンスターたち」。兵士の中には「ワラジムシ」に例える者もいた)の有効性を把握していた。ブレイミーや第4軍参謀長アーチボルト・モントゴメリー少将らを交えて入念に検討した結果、作戦開始日は7月4日(アメリカ独立記念日であり、共に作戦に参加することが決まった新兵のアメリカ軍部隊に対する士気高揚の狙いもあった)と設定され、ヘイグも6月25日にこれを認可した。作戦にはイギリス軍第5戦車旅団の戦闘用戦車60輌と輸送用戦車4輌が加わり、火砲600門が作戦を支援し、航空隊も地上攻撃や補給物資の投下を行うこととされた。歩兵部隊としては第2師団の第6旅団、第3師団の第11旅団、第4師団の第4旅団およびアメリカ軍第33師団第131・第132連隊からの10個中隊を含めた、1個師団規模の戦力が充てられた。

 

 1917年4月のブレクールの戦いでは、マークⅠ型戦車の機械的信頼性が低かったこともありオーストラリア第4師団は多くの損害を受けており、このことから第4師団長のマクラガン少将をはじめとして、オーストラリア軍の中には戦車に対する否定的な印象を持つ者が少なくなかったが(参謀長のブレイミーも火砲の支援を重視して戦車に対しては過度の期待はしていなかった)、事前に諸大隊が戦車旅団と演習をする過程でそれを払しょくしていき、兵士たちは各戦車の車体に愛称を書きこむに至った。6月末日にかけては航空機による偵察や敵陣地に対するガス弾や煙幕の発射が行われ、重砲も前線に移動された。7月2日、ビリー・ヒューズ首相がオーストラリア軍団を訪問したが、その際兵士たちの作戦行動が近いことを知って、深い感慨を覚えたという。作戦前日の7月3日、機械音を航空機の爆音で紛らわしつつ戦車が前線まで移動し、歩兵の各大隊も配置が進められた。ところが同日午前、アメリカ軍部隊が他国の指揮官の下に置かれることをよしとしないジョン・パーシング大将の命令により、急きょアメリカ軍10個中隊のうち6個が前線から引き上げられてしまう。残りの4個中隊も午後4時には引き上げられるべきだとされたが、モナシュはここで命令を了承すればオーストラリア軍兵士たちは二度とアメリカ軍と作戦をしなくなるだろうと危惧し、午後5時にローリンソンに対して「軍司令官の地位を保つことよりもオーストラリア兵とアメリカ兵の信頼関係を保つことの方が」重要であり、もしアメリカ軍中隊を引き上げるのならば作戦を中止すると反論した。結局午後7時のヘイグからの指令もあって、作戦は残っているアメリカ軍中隊を含めて予定通り実施されることで落ち着いた。安心したモナシュは午後7時30分過ぎに一足早くベッドに入ったが、航空隊は午後10時から深夜にかけて夜間爆撃を実施、その間に戦車は最終位置まで移動を済ませた。

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戦いを前に兵士たちの前で演説するビリー・ヒューズ首相。出典:Australian War Memorial

 

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アメルにおけるオーストラリア兵とアメリカ兵。出典:Australian War Memorial

 

 7月4日午前3時2分、準備砲撃が開始され(流れ弾により味方歩兵にも損害が出るという不運も一部では発生した)、午前3時10分には主砲撃とともに各大隊の歩兵が戦車を伴って前進を開始した。この時オーストラリア第5師団の前線においても、第15旅団が北方のヴィル・シュル・アンクレへの陽動攻撃を実施していた。ドイツ軍側は不意を突かれて主攻勢がどこか把握できず、しかも銃砲火とともに張られた煙幕を毒ガスと警戒した兵士たちはガスマスクを装着する手間が生じ、これは攻撃側にとって有利に働いた。しかし第4旅団が攻撃したドイツ軍陣地においては、手りゅう弾や銃剣による肉薄攻撃を行うまで抗戦をやめない箇所が見られたり、モナシュの理想に反して戦車の支援が間に合わない局面が生じたりするなど、戦闘は血生臭いものとなって両軍には少なからず犠牲が生じた(第4旅団第15大隊は反撃によって死傷240という大きな損害を受けている)。それでも個々の兵士たちの中には目覚ましい奮闘を見せる者も見られ、第15大隊A中隊の兵士ヘンリー・ダルジエルは拳銃を手に塹壕に飛び込み、片手と頭部に傷を負いながらドイツ軍の銃座を制圧し目標の占領に寄与したとして1000人目のヴィクトリア勲章受章者となった(重傷だったが奇跡的に生還し、1965年に72歳で死去。1956年にはかつて自分が闘ったアメルの地も訪問した)。第4旅団第16大隊D中隊のトマス・アクスフォード兵長もまた、1916年のポジエル戦を経験した古参兵だったが、手りゅう弾と銃剣をもってドイツ兵10人を倒して塹壕を制圧、その奮戦は死傷者を軽減することにも繋がったとしてヴィクトリア勲章を授与された。

 

 一方、南方の前線を担当した第6旅団では砲撃と戦車の支援が上手くかみ合ったこともあり、第4旅団よりは少ない損害率で目標を制圧することが出来た。最も多い27輌(予備6輌)の戦車に支援されてアメルの村への攻撃を担当した第11旅団の作戦も概ね順調に進んだ。作戦開始から約93分後の午前4時43分には全ての部隊が目標地点に到達、周囲の掃討も数時間後には終了し、翌5日にかけて行われたドイツ軍の反撃も撃退に成功した。作戦全体を通しての損害はオーストラリア軍が死傷約1,200(第4旅団が最も多く、死傷504)、アメリカ軍が死傷176、戦車隊の損害は死傷13、戦車の損傷ないし破壊5輌(いずれも後日回収された)というものだった。一方ドイツ側に与えた損害は死傷約2,000、捕虜約1,600(若年の者が多く含まれており、西オーストラリアの鉱山に出稼ぎ経験があって英語が解る者もいたという)、鹵獲火砲2、機関銃177、迫撃砲32というものだったが、防衛側よりも低い損害で戦果が得られた点は、1917年のカンブレーの緒戦の成功に匹敵するものだとして評価された。

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アメルの戦いで撃破された戦車のうちの1輌。出典:Australian War Memorial

 

 

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アメルの占領後、負傷者の捜索に当たる兵士たち。出典:Australian War Memorial

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集められたドイツ軍捕虜。出典:Australian War Memorial

 

 アメルは1個師団以下の戦力による比較的小規模な作戦だったが、モナシュが言うところの「オーケストラ」を思わせる諸兵科連合は、「タイムテーブル通りに」申し分ない成功を見せることになった。オーストラリア軍兵士たちの多くは、歩兵の損害を軽減し機関銃陣地の制圧に大きく寄与したとして(「醜い外見と不格好な動き」という感想も見られたが)戦車の働きぶりを高く評価し、モナシュも自身の著作の中で、戦車旅団とその将校たちの活躍に対して賛辞を送った。輸送用戦車や航空機が進撃箇所に弾薬や必要資材の輸送・投下に努めた点も無視できない要素であり、これにより機関銃隊は戦闘力を維持し、新たな占領地の防備を早急に行うことが出来た。「サミー」「ダフボーイズ」とあだ名された新兵のアメリカ軍兵士たちも、ローリンソンからは「トラのような奮戦」、モナシュからは「果敢に任務を果たした」と称賛され、「オージー」「ディッガー」とあだ名されたオーストラリア軍兵士たちとの関係も(作戦開始前には小ばかにしてくる古参兵も存在したとは言え)概ね良好であった。

 

 1918年6月中旬にはフランス第10軍のシャルル・マンジャン大将がマーツ川の前線で既に戦車を用いた攻勢を既に成功させており、アメルの戦いやモナシュの作戦立案のみを特別視するのには慎重になるべきだという見方も存在する。しかしながらイギリス軍は、アメルから価値ある諸兵科連合のモデルを得ることが出来た。ジョン・フラーは「迅速さと完璧さにおいてアメルに比肩できる戦いはない」と評し、戦車隊の評価を高める上ではアメルはカンブレーよりもむしろ重要であったとも主張した。7月18日から8月初頭にかけて連合国軍がマルヌ川の前線で実施した、新型のルノー軽戦車を投入した大規模反撃 (連合国軍側の人的損害は10万以上、戦車の損失は100輌以上にのぼるなど相応の犠牲も出たが、捕虜を含めてドイツ側に与えた人的損害は16万以上、鹵獲火砲800という戦果が得られ、連合国側の士気に与えた影響から1918年の「ターニングポイント」とする見方もある)もまた、モナシュがアメルで示した理論を強化するものと見なされた。ヘイグの再評価を試みたことで知られる軍事史家ジョン・テレンもその著作でアメルを「模範的勝利」「傑作」と称賛、アメルは一部においては「最初の現代戦」として喧伝されるまでになった。

 

 

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オーストラリア軍団を訪問したクレマンソー首相。クレマンソーの隣は第4師団長のマクラガン少将、後ろにはモナシュ。出典:Australian War Memorial

 

 アメルの勝利がヴェルサイユに知らされると、フランスのジョルジュ・クレマンソー首相は7月7日に急きょオーストラリア軍団の第4師団司令部を訪問、兵士たちの前で英語による演説を行った。演説ではオーストラリア軍兵士たちの勇敢さや作戦の遂行が、ヨーロッパの人びとを驚かせ得る見事なものであったことが語られ、兵士たちは大歓声をもってこれに応えた。一方ドイツ軍側もアメルを契機に、オーストラリア軍団は(ヴィミーやパッシェンデールで見せたような)カナダ軍団に匹敵する練度を誇る手ごわい相手であることを認識するようになったといわれている。オーストラリアの新聞各紙にも、戦いから1週間以内にはアメルの詳細を伝える記事が掲載された。ビーンやマードックによる記事においては、兵士たちの卓越性はもちろんのこと、戦車がかつてない規模で活躍を見せた(あるいはブレクールの「悪夢」を払しょくした)こと、ポジエルやパッシェンデールに匹敵する戦いであったことなどが力説されていたが、諸兵科連合という作戦史上の意義については同時代の段階ではほとんど強調されず、ましてや「戦局のターニングポイント」として語られることもなかった。このような事情も関係してか、アメルは少ない犠牲で成し遂げることが出来た輝かしい勝利であったにもかかわらず、オーストラリア軍にとっての「ヴィミー・リッジ」とはなりえず、作戦史上の重要性とは裏腹に、少なくともオーストラリアの戦争の公的記憶においては(皮肉なことにより多くの犠牲を伴ったポジエルやブレクール、メシヌ、パッシェンデールといった戦いに比べて)周縁化されていく傾向が否めないものとなった。

 

 

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トマス・アルバート・ブレイミー(1884-1951) 出典:Australian War Memorial

ニューサウスウェールズウォガ・ウォガ近郊の肉屋の家に生まれる。パブリックスクールで学んだ後当初は西オーストラリアで教職に就いたが、1906年に士官候補生試験に合格。1912年よりインドのクエッタの幕僚学校で学び翌年卒業、1914年にはさらなる研鑽を積むべくイギリスへと渡った。第一次世界大戦が勃発すると、少佐だったブレイミーはブルードネル・ホワイトに見出され、オーストラリア第1師団の幕僚となってガリポリ戦役を経験、1915年7月には中佐となりエジプトでの第2師団編成にも尽力した。西部戦線に移ってからは第1師団参謀長として1916年のポジエルの作戦立案などに携わり活躍する。1918年6月にモナシュによりオーストラリア軍団参謀長に抜擢され、アメルからヒンデンブルク線に至るまでの作戦でモナシュを補佐し、その勤勉さと参謀将校としての能力を高く評価された。大戦後の1919年には参謀次長を務め、オーストラリア空軍の創設に寄与。1922年よりロンドンでオーストラリア幕僚代表を務めた後、1925年にオーストラリアに戻ったが、彼の早すぎる出世に対する周囲の反発も影響して、同年退役することになった(ミリシア部隊での役職は継続)。その後ヴィクトリア警察長官のポストに収まったが、警察が捜査に踏み込んだ売春宿でブレイミーの警察バッジが見つかるというスキャンダルが間もなくして発生し、それまでの名声が大きく揺らいでしまった。警察長官としては警察犬や無線付き自動車などの新技術導入の業績をあげたが、労働党政権時代のブレイミーは保守的・権威主義的な人物であり、右翼団体「ホワイト・アーミー」との関係性が指摘され、労働運動に対処する姿勢も暴力的で冷酷なものと見なされていた。1935年にナイトの称号を得たが、翌年警察幹部の不祥事を擁護するための偽証が発覚。警察長官を辞職に追い込まれ、1937年には市民軍の指揮権も放棄した。しかしブレイミーの能力や軍隊経験を高くかっていたロバート・メンジーズらは彼の援助を続けており、メルボルンでラジオ放送事業を手掛けたことで収入も得ることが出来た。その後1938年に連邦兵力委員会の委員長を任されて復権し、世界でファシズムの台頭が騒がれる中での市民軍の規模拡大に貢献した。1939年に第二次世界大戦が勃発するとブレイミーは第2次オーストラリア帝国軍の司令官に就任し、中東に派遣された後には中東軍のアーチボルト・ウェーヴェル大将の下でオーストラリア軍団を指揮した。1941年のギリシアの戦いにおいて作戦への懸念をメンジーズ首相に伝えなかった点は大きな批判にさらされたが指揮は継続し、大きな損害を伴いつつも軍団をギリシアから撤退させた。その後中東のイギリス連邦軍司令補佐に就任、シリア攻略やトブルク防衛では成功を収め、大将に昇進する。小柄かつ肥満体だったことや「大酒飲みの女たらし」という悪評を伴っていたこともあり、オーストラリア軍将兵たちからの支持は必ずしも盤石なものとはならなかったブレイミーだが、ウェーヴェルは彼の指揮官としての能力や熱意を高く評価していた (ただしウェーヴェルの後任のオーキンレックはやや批判的な評価だった)。1942年にオーストラリアに戻り、オーストラリア陸軍総司令官に就任、日本からの本土防衛のための兵員の質的向上に尽力した。南西太平洋方面軍司令官のダグラス・マッカーサーの下で地上部隊を指揮することになり、1942-43年にかけてのニューギニアの戦いでは日本軍の進攻阻止に成功した(その際日本軍将兵に対する人種主義的発言も辞さなかった)。しかし1944年のブーゲンビル島やニューブリテン島での作戦では、その必要性をめぐって批判にさらされた。1945年9月の日本の降伏文書の調印式にはオーストラリア代表として出席したが、同年12月には軍を退役することが決まった。退役後は帰還兵の支援事業に専念する一方、1948年には日本を再訪問するなどしている。メンジーズ政権成立後の1950年6月、ブレイミーはオーストラリアの軍人としては初めて元帥に昇進することが決定した。しかしその決定直後にブレイミーは重病にかかってしまい、就任式は入院先のメルボルンハイデルバーグの病院内で行わなければならなかった。翌1951年5月27日、高血圧性脳出血のため死去。敵対者や世論への対応が不得手だったこともあり、同時代においては悪評も常に付きまとっていたブレイミーではあったが、「オーストラリア史上最大の軍事的脅威」に立ち向かった将軍の死を悼んで、メルボルンで行われた葬儀には約25万人が参列した。1960年にはブレイミーの銅像がモナシュの銅像に対置する形(モナシュが乗馬姿なのに対し、ブレイミーはジープに乗って起立している姿)で、メルボルンのキングズ・ドメインに建立された。

 

 

 

※①~④までの主要参考文献:

 

オーストラリア辞典 

Australian Dictionary of Biography 

Australian War Memorial 

 

津田博司『戦争の記憶とイギリス帝国―オーストラリア、カナダにおける植民地ナショナリズム』刀水書房、2012年。

津田博司「オーストラリアとカナダにおける徴兵制論争」山室信一岡田暁生・小関隆・藤原辰史編『現代の起点 第一次世界大戦 第2巻 総力戦』岩波書店、2014年。

藤川隆男編『オーストラリアの歴史―多文化社会の歴史の可能性を探る』有斐閣、2004年。

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C. E. W. Bean, The Official History of Australia in the War of 1914-1918: Volume VI – The Australian Imperial Force in France during the Allied Offensive, 1918 (1st edition, 1942)

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