ジョン・モナシュの生涯(仮題) ⑩世界大戦 遠すぎた高地 【ガリポリ 後編】

 第1オーストラリア師団の戦区では8月6日午後4時30分に「ローン・パイン」のオスマン帝国第16師団に対する砲撃が行われ、1時間後の午後5時30分、第1師団隷下第1旅団は前進が開始した。しかし準備砲撃は不充分で、対するローン・パインを守るオスマン帝国第16師団隷下第47連隊の塹壕は、鉄条網を敷設して砲撃や手榴弾の攻撃軽減のための木材の屋根を設けるなど強固だった。アンザック側はそれらの撤去に苦労しつつも午後6時頃には塹壕に突入、銃剣や手榴弾(※この時期もジャム缶手榴弾がまだ主流だった)による白兵戦となった。アンザック側は約30分で塹壕の第一線を制圧したが、オスマン側は増援としてオスマン帝国第5師団隷下第15連隊が到着、午後11時からは再三に渡る反撃に直面した。翌日以降もオスマン側の増援の到来に苦しめられたが、アンザック側も予備の諸大隊を順次投入して死闘を繰り広げ、奪取した主要な塹壕は維持するに至った。敵軍の陽動という戦術的目的は(※完全ではないが)達成されたという点では、8月攻勢においては最も成功した局面であったという評価もなされており、7人がヴィクトリア十字章を受章した。しかし第1師団のホワイト参謀長が同時代の日記の中でローン・パインを「死体安置所のような場所」と形容したことが象徴的であるように、アンザック側の死傷者数は約2,300人(※大戦中の一般的な戦闘とは異なり、砲撃による死傷よりも小銃・銃剣・手榴弾による死傷の方が多かったという)と甚大で、予備戦力も殆ど使い果たしてしまった(※ローン・パインの戦いを象徴する写真の一つ塹壕上の戦死者を見つめているのは第1旅団隷下第2大隊のレスリー・モースヘッド大尉で、のち第二次世界大戦では「トブルクのネズミ」で知られる第9オーストラリア師団を率いることになる)。オスマン側の損害も戦死1,520人、負傷4,750人、行方不明760人、捕虜134人に上り、死傷者の中には連隊長も含まれていたローン・パインの戦い。ヘレス岬地区でも8月6日午後2時過ぎより陽動攻勢が展開されたが、オスマン側の銃砲火は強力なものとなり、第29師団は損耗が激しかった。翌7日には国防義勇軍第42師団とフランス軍師団が攻撃を担当したがオスマン側の守りは固く、大きな犠牲を出した一方で(8月13日までの死傷者数はイギリス側3,335人、オスマン側約7,500人)オスマン側のアンザック地区に対する増援を妨げるには至らなかった[Prior, 2009][Erickson, 2010][Cameron, 2011]。

 

 スヴラ湾地区にオスマン側は約4,000人の兵力しかあてていなかったが、8月6日午後9時30分、第9軍団の第10・第11師団隷下の各旅団(※オーストラリアからも海軍架橋隊が作戦に参加している)は当地に上陸を開始した。上陸に際しては上陸用舟艇「Xライター(ビートルズ)」が活用されたが、夜間の進軍は混乱が激しく内陸への前進はなかなか行えなかった。新編の新陸軍師団は訓練不足で機動戦を行うことも考慮されておらず、兵士たちの間では作戦前からコレラ等の疾病が流行していた。第9軍団長のフレデリック・ストップフォードの司令部は当初スループ艦「ジョンキル」上にあったため、前線部隊との連絡にも問題が生じた。また作戦計画では海岸堡を築いて補給拠点を拡大すると同時に、サリ・ベアでの攻勢を支援するために上陸地点周辺のオスマン側火砲を排除することは決められていたが、より内陸の高地にはいつまでに進出するべきか明言されていなかった。ストップフォードは補給拠点の確保を優先し、8月7日午前までには浜辺周辺のララ・ババや「10高地」までを確保したが、当日の気温は高く水の補給も深刻化していた。「チョコレート・ヒル」の確保は午後になり、内陸の「Wヒルズ」やアナファルタ高地への前進は実施できず、各旅団の戦力分散が進んでしまった。その間にオスマン側は第7・第12師団を派遣して防衛線を整えようとした[Prior, 2009][Erickson, 2010]【スヴラ湾への上陸】

 

 主攻であるサリ・ベア方面では8月6日午後8時30分、右翼援護部隊を担当するNZ乗馬旅団およびマオリ分遣隊駆逐艦の砲撃支援のもと前進を開始した。午後10時頃にオークランド馬連隊がオスマン側の前哨拠点を攻略(※乗馬連隊に配属されていたマオリ小隊の兵士たちは、オスマン側の塹壕を制圧後にハカを披露したという)、次いでウェリントン馬連隊が「テーブル・トップ」の丘を午後11時までに、オタゴおよびカンタベリー馬連隊が「ボウチョップス・ヒル」の丘を7日午前1時までに、オスマン側の抗戦に遭いつつも確保した。左翼援護部隊を担当する第40旅団隷下の2個大隊も午前1時30分頃にはダマクジェリク・ベアまで到達して主攻部隊の進軍路を確保したが、当初の作戦計画よりも約2時間遅れる結果となった[Kinloch, 2005][Cameron, 2011]。

 

 左翼攻撃縦隊はモナシュの第4旅団とコックスの第29インド旅団、インド第21山砲中隊などで編成され、総指揮はコックスが執った。左翼攻撃縦隊の道案内はパーシー・オーヴァートン少佐が担当し、8月6日午後9時35分に開始地点を離れた。アジル・デアに11時15分頃を、アブデュル・ラフマン・ベアから971高地への強襲開始は7日午前1時30分頃を、頂上への到達は午前3時頃を予定した。しかし装備を所持した上での夜間行軍は困難を極め、出発当初から遅延が生じた。遅れを取り戻すためにオーヴァートンは現地のギリシア系住民の助言に従い、アジル・デアへ出る近道として当初の海側にまわって進む道ではなく、ボウチョップス・ヒルの北にある「テイラーズ・ギャップ」の峡谷を進む道を選ぶことにいた。しかしこれは裏目に出てより狭く険しい道に入ってしまい、第13大隊から工兵を派遣して道を切り開かなければならなくなり、オスマン側の銃撃にも直面した。結局アジル・デアに到着したのは午前2時近くで、約600メートルの道を進むのに2時間以上を費やす結果となった。進軍路も計画より北にずれてしまい、第4旅団だけでなく後続の第29インド旅団にも遅延が生じ、当初の行軍スケジュールは破綻してしまった。月がのぼるにつれてオスマン側による攻撃の兆しが高まったため第13・第14大隊は側面の援護にまわったが、ダマクジェリク・ベア周辺を守っていたオスマン帝国第14連隊隷下大隊との小戦闘によって疲弊を早めた。モナシュ自身はテイラーズ・ギャップの東500ヤード、ダマクジェリク・ベアの地点に司令部を設け、後続の第15・第16大隊にアジル・デア~ダマクジェリク・ベア~アスマ・デア~アブデュル・ラフマン・ベアを経て971高地まで向かわせようとしたが、時刻は既に7日午前3時を過ぎていた。

 

 8月7日午前4時30分頃までに第15・16大隊はインド軍2個大隊(第14シク・第1/6グルカ大隊)とともに、途中でオスマン帝国第32連隊隷下大隊の攻撃を受けつつも前進したが、銃剣で闘う白兵戦となり第15大隊では112名の死傷者が出た。それでもオスマン側から複数の捕虜を獲得し(※モナシュ自らもオスマン軍兵士2名を捕虜にする武功をあげたという)、野営地を占拠して折り畳み式ベッドや風呂桶を含む装備品を鹵獲するという戦果も得た。モナシュはこの戦利品の折り畳み式ベッドを心地よく感じたのか、大戦を通して使用し続けた。しかし夜が明け始めるとオスマン側は後退を止め、第4旅団の前面地域に増援を送り込みつつあった。第16大隊長のポープはこの時、縦隊の現在地を971高地から約1キロの地点であると勘違いしており、午前5時過ぎには右翼部隊はアスマ・デアを越えた地点にいると報告した。モナシュはこれをゴッドリーの司令部にも報告してしまったが、実際にはまだダマクジェリク・ベアを抜けておらず、目標からは約2キロ離れた位置であった。

 

 ポープと第15大隊長のカナンは夜間の行軍や戦闘によって既に将兵たちの疲労は限界にきていることをモナシュに報告し、これを受けてモナシュもコックスに対し、前進をやめて現地で壕を掘って守りに努めさせるべきことを提案した。当初コックスはモナシュに午前11時から第14シク大隊とともに971高地を攻撃することを要請したが、程なくしてそれも実行困難な計画であることが明らかとなったため、提案は受け入れられた。午前9時、モナシュは大隊長たちと協議した結果、第4旅団は7日中が現在地に留まることを決めた。補給の確保と負傷者の後送が命令され、前線の右翼は狙撃や砲撃の危険があるため、後退させることにした。各大隊の兵員は作戦前から健康を害していた者も多く、何か月も長距離行軍の訓練を受けていなかったため、装備を伴った移動や塹壕掘りによってすっかり疲弊してしまった。またこの時、前線の左翼にある「60高地」には、飲料水確保のため井戸を探していた第4旅団の分隊が立ち寄っていた。モナシュは補給を円滑に行うためにも60高地を確保する必要があると考え、左翼援護部隊の第5ウィルトシャー大隊に占領するよう要請もしたが、不首尾に終わった。

 

 この日第29インド旅団の第1/6グルカ大隊を率いていたC・J・L・アランソン少佐は1936年の証言で、午前7時ごろにモナシュにあった際、モナシュが作戦に狂いが生じ将兵たちが疲弊してしまったことに受けて「兵たちを指揮できると思っていたのに」と叫んで狼狽し、アランソンが自らの大隊を予備戦力として使うことを提案しても「君では何の助けにもならない」と言われたとして、モナシュを強く批判している。[Rhodes James, 1965]はこの証言を採用しており、「(ロイド=ジョージのモナシュ評を逆手にとって)彼に欠けているものがあったとすれば、それは機略であった」として、8月攻勢で前線指揮を執る指揮官としては不適材不適所であったと評しているが、オーストラリアの歴史家たちは、同時代の段階ではこれを裏付けるような証言が見られないため事実としての信憑性は疑わしいとしている(※なぜ約20年経ってからアランソンがこのように発言したのかについても推論が成されており、モナシュ死去後の1934年に出版された戦時書簡集の中で第29インド旅団に低評価を下している箇所があり、それに憤慨したためではないかという説がある[Serle, 1982]。なお[Rhodes James, 1965]が批判したアラン・ムーアヘッドの戦記叙述にも問題点があり、ロイド=ジョージのモナシュ評を引用しつつ「スヴラ湾作戦の指揮官はモナシュが担当するべきであった」という壮大なイフを語る一方で、実際の8月攻勢のモナシュに関しては「サリ・ベアの高地を目標とした一縦隊を率いる任務を与えられていた」と簡潔に触れるのみで何の評価も下していない)。1917年のダーダネルス委員会の報告書の中では、アランソンはサリ・ベアでの作戦失敗の責任は新陸軍の旅団指揮官(※第38旅団長アンソニーボールドウィン准将)や諸大隊にあると主張しているが、モナシュの責任は特に追及していなかった。また8月下旬にアランソンは従軍記者のビーンのインタビューに応じているが、この時もモナシュについては何も言及していなかった(※8月攻勢中のビーンの日記ではモナシュや第4旅団の作戦経過が批判されているので、アランソンがモナシュについて発言していれば書き留められていても不思議ではない)。

 

 第4旅団に続く形で進軍した左翼攻撃縦隊の第29インド旅団は(※オーヴァートン少佐は第4旅団と別れた後は第29インド旅団の道案内に移っていたが、8月7日早朝に戦死してしまう)、テイラーズ・ギャップを経た後は第4旅団側のダマクジェリク・ベアからNZ歩兵旅団側のロードデンドロン・リッジにかけて、大隊ごとに分散が進んでしまった。7日未明の時点でアランソンの第1/6グルカ大隊はQ高地から約500ヤードの地点に達しつつあったが、(※モナシュの第4旅団が現在地を間違えていたことも影響して)第2/10グルカ大隊は南下しすぎてQ高地ではなく、チュヌク・ベアを目指すNZ部隊と接近してしまった。

 

 右翼攻撃縦隊はジョンストンのNZ歩兵旅団やインド第26山砲中隊などで編成され、出発は遅延したが左翼攻撃縦隊に比べると進軍は比較的順調に進み、8月7日夜明けには先導のオタゴ大隊がロードデンドロン・リッジとチュヌク・ベアを結ぶ地点「エーペックス」の丘に達した。チュヌク・ベアの頂上まで約500ヤードに迫っていたが、後続のカンタベリー大隊には道に迷って出発点に戻ってしまった部隊も出た。しかしバードウッドが後続部隊の到着に関係なく直ちに攻撃することを要求していたにもかかわらず、NZ歩兵旅団長のジョンストンは頂上に達する前に自らの旅団の戦力集中を待つことにし、前線兵士たちには朝食を摂らせた(※オーストラリア乗馬部隊のネクに対する攻撃は、この間に実施された)。一方オスマン側では、ヘレス岬側から第9師団隷下第64連隊が午前6時30分にQ高地に到着、第25連隊もそれに続き、当初からこの地域に配置されていた第5師団隷下第14連隊の諸大隊を補強した。

 

 アンザック地区では8月6日~7日の夜にかけて、支攻の一つとして第2旅団隷下第6大隊(※大隊長H・G・ベネット中佐。のち第二次世界大戦シンガポールで第8オーストラリア師団を率いることになる)による、スティールズ・ポストからジャーマンオフィサーズ・トレンチに対する攻撃が実施された。6日午後11時過ぎより坑道の爆破が実施されたが、爆破によるオスマン側の損害は少なくアンザック側の塹壕への砲撃で応えたため、第6大隊の攻撃開始は遅れてしまった。7日午前0時30分過ぎに攻撃は開始されたが、兵士たちはオスマン側の塹壕にほとんど入ることが出来ずに撃退された。憤慨した第1師団のホワイト参謀長は再度の攻撃を命じ、午前4時に再度攻撃が実施されたがこれも失敗に終わった。結局ウォーカー師団長とバードウッドが正式に攻撃中止を認めるのは午前9時になってからで、それまでの戦闘で第6大隊は戦死80、負傷66の損害を出していた【ジャーマンオフィサーズ・トレンチの戦い】

 

 そして8月7日の早朝、第3乗馬旅団部隊による、ラッセルズ・トップベイビー700間にある尾根、ネク塹壕への攻撃(※NZ歩兵旅団のベイビー700攻略に合わせて実施するものから、NZ歩兵旅団がチュヌク・ベアに到達と同時に実施するものに変更された)は惨劇となった。7日午前4時より実施されたネクに対する準備砲撃は、砲兵将校と前線将校の時計があっていなかったため予定より7分早く終了し、オスマン側が態勢を整える時間を与えてしまった。そのため午前4時30分に実施された第8乗馬連隊の第一列による攻撃は、オスマン帝国第19師団隷下第18・第27連隊の攻撃により10メートルも進むことが出来ずに壊滅的な損害を受け、連隊長のA・H・ホワイト中佐も戦死した。第二列の攻撃も実施されたが同じ結果に終わり、戦闘継続は致命的であることは明白となった。第10乗馬連隊長のノエル・ブレイザー中佐は第3乗馬旅団司令部に攻撃中止の申し立てをしたが、旅団副官のJ・M・アンティル中佐の指示は攻撃の継続であった。そのため第10乗馬連隊による第三・第四列の攻撃も実施され、さらなる犠牲が生じることになった。第8・第10乗馬連隊の参加兵力600人中、死傷者数は372人に達し、テニスコートほどの広さの戦地は死傷者で一杯となったネクの戦いポープズ・ヒルからは第1乗馬連隊、クインズ・ポストからは第2乗馬連隊による攻撃も実施されていたが、いずれも不首尾に終わっていた。一連の攻撃はオスマン側のチュヌク・ベア方面への増援を若干遅延させたものの、乗馬部隊全体での死傷者数は参加兵力1250人中650人におよび、実際に得られた戦果に比べるとあまりにも大きすぎる犠牲となった。

 

 ゴッドリーは8月7日早朝には各旅団の攻撃計画が完全に行き詰ったことを認めざるを得なくなったが、午前6時頃に予備戦力だった新陸軍第39旅団の投入を決め、第29インド旅団とNZ歩兵旅団の戦力補強を図ろうとした。ジョンストンも午前6時30分にNZ歩兵旅団の前進を再開させた。既に乗馬部隊による攻撃失敗が明らかになっていることを踏まえ、当初ジョンストンは左翼攻撃縦隊と同様に現地に留まることを提案したが、ゴッドリーの命令はあくまでチュヌク・ベアへの攻撃継続であった。午前10時30分、途中で合流した第2/10グルカ大隊の2個中隊と併せて、高地に対する攻撃が開始された。しかし攻撃を担当したオークランド大隊はオスマン側の機関銃やアブデュル・ラフマン・ベアからの砲撃により20分ほどの間に死傷者約300人の大損害を受け、グルカ兵たちも有効な援護を行うことが出来ず後退した。12時30分頃、ジョンストンはマロン中佐のウェリントン大隊にも攻撃を命じたが、マロンは攻撃は日中ではなく夜間でなければならないとしてこれを拒否、カンタベリー大隊は攻撃を実施したものの100人以上の死傷者を出して芳しい結果は得られなかった。ゴッドリーは諸大隊によるさらなる攻撃を要求したが、ジョンストンが日中の頂上確保は不可能である旨を報告したため、やむを得ず攻撃の延期に同意した。

 

 主攻を担う各旅団の損耗が著しい一方で、オスマン側はさらに増援を送りつつある情勢だったが、ゴッドリーは翌8月8日以降のさらなる攻勢を検討した。第29インド旅団は第39旅団隷下の4個大隊、NZ歩兵旅団も第39旅団隷下の2個大隊(※第8ウェールズ大隊および第7グロスターシャー大隊) およびNZ乗馬旅団隷下の連隊、マオリ分遣隊で増強された。作戦計画としては、8日午前3時30分から約45分間の準備砲撃後、午前4時15分より各旅団が高地への攻撃を行うものとされた。ゴッドリーは第4旅団がより目標に近い地点にいるという誤報を受けて楽観的になっていたため、第4旅団に対しても971高地の強襲・占領が命じられた。

 

 モナシュは第14・第15・第16大隊で971高地を攻撃することを決め、コックスには増援も要請した結果、第38旅団隷下の第6ロイヤルランカスター大隊が第13大隊とともに援護を務めることになった。8月7日午後7時、コックスから翌日の攻撃命令の詳細を受け取ったが、モナシュ自身は旅団司令部を動かず、前線での直接指揮は第16大隊長のポープ中佐に任せ、連絡は電話を通じて行うことにした。しかし自身の大隊のみならず旅団全体に気を配らなければならなくなったポープに対して、不可解なことにモナシュは指揮や連絡のために必要とされる要員を十分に配置しなかった。作戦計画では8日午前3時にアスマ・デアを通過後アブデュル・ラフマン・ベアに入り、午前4時15分に971高地に到達する予定だった。しかしモナシュや幕僚たちはこの時正確な現在地を把握しておらず、アスマ・デアの一つ手前にあるカイアジク・デアの峡谷をアスマ・デアであると誤認していた。オスマン側はその北方の高地を既に確保して部隊を展開し、前日までに第4旅団に損害を与えていた。

 

 8月8日午前3時過ぎ、先導の第14・第15大隊は前進を開始したが、先日に引き続き夜間行軍は困難なものとなった。アスマ・デアであると誤認していたカイアジク・デアを進み始めると、午前4時過ぎよりオスマン側の機関銃射撃や971高地からの砲撃にさらされた。死傷者が多数生じて部隊は混乱し、アスマ・デアの方面へ前進することが出来なくなった。アブデュル・ラフマン・ベアに展開していたオスマン軍部隊は前進し、第4旅団の背後を脅かそうとしたが、第16大隊が救援にまわってこれを阻止した。しかし旅団将兵たちの疲労は限界に達しており、小隊・中隊間の連絡もままならならず、もはや行軍も戦闘も困難な状況となった。負傷者の増加に伴って応急救護所が設置されたものの、医療面の準備不足に関しては、後年の公刊戦史において批判にさらされることになった。モナシュは前線のこのような危機的状況に対処すべき立場にあったのだが、夜明け頃のオスマン側の砲撃により電話線が切断されていたため、午前7時まで各大隊と連絡を取ることが出来なかった。電話線の復旧後、ポープは既に各大隊は971高地に到達出来るような状況ではなくなっているとモナシュに報告した。モナシュはこれをコックスに伝え、コックスもこれ以上の前進は見込めないと判断したため、撤退命令が出された。

 

 援護として第4旅団の機関銃隊が到着したため、オスマン軍部隊のこれ以上の前進は阻止することが出来た。多くの負傷者の後送が果敢に実施され、午前8時30分までにカイアジク・デアまでの撤退が完了した。午前の段階で第4旅団は約750人の死傷者が出ており、その半分が第15大隊の兵員であったが、結局この日はこれ以上の作戦行動を取ることが出来なかった。計画段階での混乱、将兵たちの疲弊の状況、不十分過ぎる偵察、戦場の地形誤認、通信の脆弱さ、非現実的なタイムテーブル、その他「戦場の霧」fog of war要素など、ありとあらゆる問題点(※「模範的勝利」として賞賛された1918年7月4日のアメルの戦いなどと比べると、著しく対照的であった)が顕在化した中での敗北となった。第4旅団による971高地奪取が完全に破綻した1915年8月8日は、モナシュの軍歴においても、オーストラリア帝国軍の戦歴においても「暗黒の日」と見なされた。そしてこの日は奇しくも、モナシュや彼が率いるオーストラリア軍団にとっての「最も輝かしい勝利」の一つとなった1918年8月8日のアミアンの戦い(※ドイツ軍のエーリヒ・ルーデンドルフにとってこの日は「暗黒の日」だったのだが)の、ちょうど3年前であった。

 

 8月8日の第29インド旅団およびNZ歩兵旅団の攻撃は第4旅団のものに比べれば、いくらか成功が見られるものとなった。第29インド旅団は行軍路に困難が生じて目標に対してなかなか前進することが出来なかったが、それでもアランソン少佐の第1/6グルカ大隊は8月8日午前にQ高地の頂上から100ヤードの地点に達した(※アランソン大隊の左翼を支援していた第9ウォリックシャー大隊には、のち陸軍元帥・オーストラリア総督として著名になるウィリアム・スリム中尉がいた。この時スリムはアランソンと糧食のレーズンを分け合ったといわれているが、間もなくして負傷してしまった[Stanley, 2015])。しかしオスマン側の砲撃によりそれ以上の前進は阻まれ、他の新陸軍大隊と合流したうえで態勢を立て直そうとした。

 

 NZ歩兵旅団のマロン中佐のウェリントン大隊は陸海からの砲撃や第39旅団の2個大隊、第8ウェールズ大隊および第7グロスターシャー大隊に支援され、8日午前4時45分頃には大きな抵抗なく(※なぜこの時チュヌク・ベアの防備が手薄だったのかについては不明な点も多い)チュヌク・ベアの頂上まで達した。兵士たちは頂上から念願のダーダネルス海峡を遠くに見ることが出来たというが、岩山のため塹壕を掘ることが出来ず、身を隠すすべがない中でバトルシップ・ヒルやQ高地からの激しい砲撃にさらされることになった。オスマン側の各連隊による反撃も間もなくして開始され、手榴弾や銃剣による再三の歩兵攻撃にウェリントン大隊は耐え続けたが、損害は甚大となり弾薬も枯渇し始めた。マロン大隊長は「グルカ兵の援軍が来る」と言って大隊将兵たちを激励し続けたといわれているが、オスマン側の砲撃は激しく増援の派遣も負傷者の後送も不可能となった。そして午後5時40分頃、マロンは友軍砲兵と思われる攻撃によって戦死を遂げた。この日の戦闘を経てウェリントン大隊は兵員760人のうち、無傷・軽傷で済んだ者は70人のみとなっており、ほぼ全員の軍服が血や汗、粉塵にまみれていたが、マロンの前線指揮官としての果敢さや大隊将兵たちの死闘は、ニュージーランドでは「英雄的悲劇」として伝説化されることになった(※75周年の際に描かれた戦争画)。ウェリントン大隊とともに戦った新陸軍大隊の死傷者数も、ウェールズ大隊は417人、グロスターシャー大隊は350人にのぼっていた。その後夜間にオタゴ大隊やウェリントン馬連隊がようやく増援として到着し疲弊した諸大隊と交替、チュヌク・ベアの頂上は確保し続けることになったが、戦力は不足したままで敵味方の距離はわずか20~30ヤードしか離れていなかった。オスマン側の損害もこの時までに師団長2名が負傷、連隊長2名が戦死するなど深刻だったが、各所から増援を到着させて反撃準備を着実に進めていた[Pugsley, 1984][Kinloch, 2005]。

 

 翌8月9日にもゴッドリーはチュヌク・ベアの稜線の堅持とQ高地への攻撃を命じたが、この日の作戦計画ではモナシュの第4旅団の状況を鑑みて、971高地への攻撃は断念された。この日は早朝よりオスマン帝国第7師団によるダマクジェリク・ベアに対する反攻が実施されていたが、第4旅団隷下の第13大隊は、新陸軍第40旅団隷下大隊と協力してこれを阻止することが出来た。しかし午後に新陸軍大隊と交替した第16大隊は大きな損害を受け、60高地の周辺を確保することもかなわなかった。モナシュはこれ以上の反撃に対処するのは兵士の増援と機関銃が必要であると判断したが、総指揮を担うコックスの側でも混乱が生じていたため、弾薬・水・食糧の補給は深刻化したままだった。第4旅団の将兵たちの間では疲労の蓄積から気管支炎などの疾患も生じ始めており、部隊内の平静さが失われているようにも感じられたが、それでも何とか壕を築いて前線を膠着状態に持ち込むことは出来た。

 

 引き続き攻勢を行うことになった第29インド旅団の左翼は第39旅団隷下大隊によって強化され、中央はアンソニーボールドウィン准将の第38旅団(※新兵で戦場にも不慣れだったが、アンザック軍団の他の予備戦力はローン・パイン等で既に投入されてしまっていた)で強化された。第38旅団はQ高地攻撃の主戦力を担うはずだったが、夜間行軍となった上に案内人が道を間違えてしまい、本隊の前線への到着は遅れてしまった(※たとえ前線に間に合ってQ高地を占領出来ても、それを維持したうえでバトルシップヒル方面に攻撃を行うには戦力不足だっただろうという見解もある[Cameron, 2011])。そのため増援を待てなかったアランソンの第1/6グルカ大隊は、第39旅団隷下、第6サウスランカシャー大隊の3個中隊とともに攻撃をかけ、9日午前5時30分頃にQ高地に到達した。アランソンは後日作成した報告書の中で、頂上からはダーダネルス海峡やアチババの方角に向かう輜重隊を見ることが出来たと証言している。しかしボールドウィンの援軍は間に合わなかったためオスマン側の反撃に対して戦力不足は否めず、アランソン自身も白兵戦の中銃剣で負傷した。そして間もなくして友軍のものと思われる砲撃(※かつては海軍駆逐艦・砲艦のものと主張されていたが、アンザック地区のNZ軍砲兵隊の榴弾砲によるものという見解もあり、論争が続いている)により部隊は混乱してしまい、頂上からの撤退を余儀なくされた。

 

 チュヌク・ベアでも8月9日午前4時よりオスマン側の攻撃が展開された。頂上付近にいたNZ部隊は、ウェリントン馬連隊長のウィリアム・メルドラム中佐を総指揮官として何とか持ちこたえ、「ニュージーランドの栄光の時finest hour」とも評されるような敢闘を見せたが、午後になっても増援や補給は不充分なままだった。午後11時、疲弊していたNZ部隊(※ウェリントン馬連隊はこの時までに兵員173人中100人が死傷していた)は最終的には新陸軍の第6ノースランカシャーおよび第5ウィルトシャー大隊と交替した。8月攻勢開始時、NZ歩兵旅団は約3,000人、NZ乗馬旅団は約1,550人の戦力を有していたが、この時点ではそれぞれ1,700人、960人にまで損耗しており、その多くが負傷している状態だった。8月6日~12日におけるNZ軍の戦死・行方不明者の総数は、887人にのぼっていた[Pugsley, 1984][Kinloch, 2005][Cameron, 2011]。

 

 翌8月10日午前4時30分、新編のアナファルタ集団司令官となっていたムスタファ・ケマルは、約6000人の兵力を投入してチュヌク・ベアに総攻撃をかけた。オスマン将兵たちによる果敢な銃剣突撃に新陸軍大隊は不意を突かれ、間もなくして頂上は奪回された。その後オスマン軍はイギリス側の陸海からの砲撃や機関銃による応戦で犠牲を出しつつも(※この戦いではケマルにも銃弾が飛んできたが、懐中時計により救われた)、午前10時頃にはチュヌク・ベアの下方に位置し、第38旅団やグルカ大隊など約3,000人が展開していた「ファーム」の台地も奪回した(※この時イギリス側の戦死者は1,000人以上にのぼったとされ、第38旅団長のボールドウィンも戦死している)。一連の戦闘を経てオスマン側に甚大な損害が出ていたことは事実であるが、地中海派遣軍の主攻を担った各旅団は、10日午後の時点で500~1500メートルの後退を強いられていた。サリ・ベアの高地に対する脅威は完全に取り除かれる形となり、高地奪取を目標とした地中海派遣軍の作戦が失敗に終わったことは、これで明らかとなった[Erickson,2010][Cameron, 2011]【チュヌク・ベアの戦い】

 

 スヴラ湾地区では8月8日、第9軍団は休養と補給に時間を費やそうとしていたが、正午頃にスヴラ湾に到着した参謀将校のセシル・アスピノール大佐(※のちイギリスのガリポリ公刊戦史著者)は、「作戦が停滞しており絶好の機会golden opportunitiesが失われつつある」旨をハミルトンに報告した。ハミルトンはテッケ・テペの高地(※オスマン側の兵力が展開していないことを偵察で確認していた)へのより早期の攻撃催促をするべく自らスヴラ湾まで出向いたが、前進開始は翌朝まで遅れた。しかし翌9日午前4時頃、戦力を集結していたオスマン側の反撃が実施され、第9軍団は後退を強いられた(※たとえテッケ・テペまで到達出来ても、第9軍団の現状では兵站線を確保することは不可能だったとする見方もある[Prior, 2009])。その後第9軍団側は態勢を整え、新たに国防義勇軍第53・第54師団も加わって翌10日以降も戦い続けたが、スヴラ湾地区でも戦線は膠着化することになった。補給拠点の強化という目標のみ達成する形となったストップフォードは、結局8月21日に軍団長を解任されてしまった。ハミルトンやアスピノールらは、戦役における自らの判断の正当性を主張するためにストップフォードの責任を強く追及したため(※モナシュも同時代のヴィクや義弟のローゼンハインに宛てた手紙の中では、8月攻勢が頓挫した要因は新陸軍部隊の弱体やスヴラ湾での作戦失敗にあると力説しており、そういった意味では共謀関係にあった)、後年にはスヴラ湾作戦は「ヨークタウンやシンガポールに匹敵する大敗北」とまで評されるようになってしまった(※[Prior, 2009]ではスヴラ湾の戦いは「スケープゴート・バトル」と表現されている)【スヴラ湾の戦い】。8月6日-10日における双方の死傷者数は、地中海派遣軍約25000人、オスマン側約20,000人におよんでいた[Erickson, 2010]。

 

 地中海派遣軍による8月攻勢は結果として、主攻においてはサリ・ベアのいずれの高地も占領することが出来ず、支攻においてもいずれも失敗に終わるか、実際に得られた戦果に比べて高い代償を支払う結果となった。サリ・ベアの主攻に関しては、アジル・デアの進軍で遅延を生じさせた第4旅団のモナシュだけでなく、「エーペックス」に留まってチュヌク・ベアへの到達を延期したジョンストン、8月9日のQ高地への攻撃に間に合わなかったボールドウィン、前線の状況を正確に把握しないまま作戦指示を続けたゴッドリーらも、作戦失敗の要因あるいはターニングポイントとしてしばしば取り上げられている。しかしその一方で、主攻部隊や予備戦力の実情を踏まえると、8月攻勢の作戦目標はあまりにも野心的・楽観的に過ぎ、個々の将兵たちが作戦に従事する以前の段階、つまりバードウッドが作戦を立案した段階において既に敗北は運命づけられていたという見解も強くなっている[Prior, 2009][Cameron, 2011]。第9軍団がスヴラ湾に上陸後、内陸の高地を確保していれば戦局が変わったというイフもしばしば語られるが、スヴラ湾作戦は本来、主攻として想定されたものではなかった。また万が一サリ・ベアの高地を占領出来たとしても、ダーダネルス海峡を制圧するためにはキリド・バハルの台地までを確保する必要があったが、実際の地中海派遣軍はそれを達成するために必要な戦力も兵站能力も有していなかった[Prior, 2009][Cameron, 2011]。

 

 8月下旬、モナシュの第4旅団はもう一度作戦に従事する必要があった。8月攻勢失敗後もハミルトンは本国に増援を要請する一方でスヴラ湾地区でのさらなる攻勢を計画しており、エジプトから到着したヨーマンリー第2乗馬師団を予備戦力としたうえで、第11師団およびヘレス岬から転出した第29師団に「Wヒルズ」と「シミター・ヒル」をそれぞれ攻撃させる計画が立てられた。この攻勢の支援として、アンザック地区からは971高地の北西に位置する60高地に対する攻勢が実施されることになった。スヴラ湾地区とアンザック地区の連絡路を強化し、のちのアナファルタ高地を攻撃する上での拠点とすることを目的であり、スヴラ湾地区を含めれば参加兵力自体は多数にのぼったが、8月攻勢に比べると作戦目標はかなり限定的であった。皮肉なことに60高地は8月攻勢の際、井戸を探していた第4旅団の分隊が一時立ち寄った地であり、8月9日以降はオスマン側が確保していた。第4旅団やNZ乗馬旅団、第29インド旅団の隷下部隊もこの作戦に加わることになったが、先の攻勢での疲弊は著しく、作戦当初において第4旅団は第13・第14大隊の約500人、NZ乗馬旅団はカンタベリーおよびオタゴ乗馬連隊の約400人しか投入することが出来なかった。アンザック地区からの攻勢の総指揮はコックスが執ることになり、モナシュは19日にコックスやNZ乗馬旅団のラッセルとともに作戦協議を行った。

 

 第4旅団は右翼、NZ乗馬旅団は中央、第29インド旅団は左翼にそれぞれ配置され、8月21日午後3時30分より60高地への攻撃は実施された。左翼ではグルカ大隊や第10師団隷下の第5コンノート・レンジャーズ大隊が目標の井戸の一つを確保するなどの戦果を得たものの、オスマン帝国第7師団隷下部隊の塹壕はサリ・ベアの戦い以降強化されており、激しい砲撃にも晒されたため、間もなくして各旅団の前進は阻まれた。オスマン側のアナファルタ集団からは増援も到着し始めたため、モナシュは午後5時頃、ラッセルにこれ以上の前進が困難であることを連絡した。日没までの隷下部隊の死傷者数は173人に及んでいた。翌8月22日には増援として未熟練の第5オーストラリア旅団隷下第18大隊が到着、明け方より攻撃を担当したが午前9時頃には反撃を受け、戦力の約半数にあたる383人が死傷する甚大な損害を受けた。コックス指揮下の部隊は60高地の南から西にかけての約200メートルの塹壕を確保したに留まった。

 

 第4旅団の前線に投入できる攻撃部隊はもはや350人程度となっていたが、戦果に満足していなかったバードウッドは再度60高地への攻撃を命じた。モナシュとラッセルは夜間の攻撃を主張したが、結局攻撃は8月27日の午後4時の準備砲撃の後、午後5時より第4旅団の各大隊とNZ乗馬旅団の各連隊(※オークランドおよびウェリントン馬連隊が加わったが、軽い傷病者を含めても約300人しか投入できなかった)、コンノート・レンジャーズ大隊(約250人)、第18大隊(約100人)によって実施されることになった。しかし準備砲撃の効果は薄くかえってオスマン側に警戒を与えてしまった。第4旅団の兵士たちはオスマン側の銃火を直接受けて多くの損害を出し、NZ乗馬兵たちも必死の白兵戦を展開したが前進は滞った。28-29日にかけてはオーストラリア第9・第10乗馬連隊も加わって戦闘が行われ(※ニュージーランドヘレン・クラーク元首相の大おじにあたるフランク・クラークはオークランド馬連隊に所属していたが、28日の戦闘で戦死している)、苦闘の末占領区域を増やすことは出来たが、60高地の頂上はオスマン側の手にあった。スヴラ湾との連絡路自体はある程度確保され、バードウッドは戦術的成功を主張したものの、コックス指揮下部隊のこれまでの死傷者数は約1,300人に上っており、犠牲に見合った戦果が得られたとは言い難かった【60高地の戦い】。8月21日より展開されていたスヴラ湾地区におけるWヒルズおよびシミター・ヒルへの攻勢も、既にオスマン側が前線の各師団を支援する砲兵戦力を強化していたため、6500人以上の死傷者を出しながら芳しい成果は得られなかった。

 

 結果的に60高地およびシミター・ヒルの戦いは、ガリポリ戦役における最後の主要戦闘となったが、既に疲弊が著しい部隊を投入したこと、効果の薄い準備砲撃など、作戦の立案と遂行において問題点が数多かった。モナシュも日記の中で「酷く杜撰な作戦」であったと強く批判し、コックスとは作戦の是非や犠牲をめぐって口論も生じていたという。しかしその一方で、ビーンは公刊戦史において戦力を損耗し尽くしても最後まで敢闘したNZ乗馬旅団をはじめとする将兵たちを評価するなどした。またアンザックやイギリス本国の将兵たちの中には、インド軍部隊と共闘を重ねたことに伴い、グルカおよびシク教徒の兵士たちの武勇に賛辞を贈ったり、言語や慣習の壁を越えて彼らとの戦友愛(※チャパティやカレーの糧食を分け合ったという者もいたという)を実感したと証言する者が少なからず見られた[Pugsley, 1984][Stanley, 2015]。

 

 9月14日より第4旅団はようやくレムノス島にて休養を取ることになったが、モナシュと共にメルボルンを出発した兵員のうち健在な者は、既に十分の一ほどにまで減っていた。モナシュもこの頃、激しい下痢に襲われており、持病の腰痛も悪化していた。それでも輸送船での旅においてビールを飲み、熱い風呂に入った結果、体調は良化したという。レムノス島でモナシュは秋の穏やかな気候の下、乗馬や散歩を楽しんだ。果樹園を訪問してブドウやイチジク、ザクロ、マルメロを味わい、つかの間ではあるが戦争中であることを忘れることが出来た。モナシュはヴィクへの手紙の中で「アイオナ」の庭のことに言及するなど、ノスタルジックな感情にも襲われた。故郷で記念として植えるためにと、ガリポリのセイヨウヒイラギの実を郵送したりもした。しかし兵士たちの健康状態の回復は遅く、9月27日の時点で第4旅団の兵員は2,171人と未だ定数の半分程度となっているなど、補充兵もなかなか到着しなかった。旅団の宿営地のコンサートではモナシュはスピーチを披露したが、第15大隊の部隊史によれば、兵士たちはその内容に魅了されたという。一方でレムノス島まで着いた郵便物が前線の将兵たちに届くまで10日を要している点に苦言を呈したりもした。

 

 モナシュはその後エジプトへと向かい、3週間をここで過ごした。カイロで5日間を過ごした以外はアレクサンドリアのサヴォイ・パレス・ホテルに滞在し、補充兵や補給状況について協議し、戦傷・戦病者を訪問するなどした。部下たちとはミュージックホール、ヴァラエティーショー、カジノ、映画、ボクシング試合など「夜遊び」にも出かけた。甥のエリック・シモンソンにも会って、5~6マイルの散歩に出かけた。愛乗馬は「トム」と名付け、(※馬はオーストラリアに輸送することは出来ないので)記念品に蹄鉄を故郷に郵送した。モナシュはカイロに滞在時、ウォーカーやマッケイと並んで自身もバス勲章(Companion of the Order of the Bath)の受章が決まったことを知り大きな喜びを得た。受勲についてはショヴェルやラッセルからも祝福を受けたが、モナシュは同じ旅団長であるラッセルのナイト叙任が決まったことを知ると、不満の感情をマッケイに対して漏らした。また負傷や病気により離脱したウォーカーやレッグの代理として、ショヴェルが第1師団を、ホームズが第2師団を指揮することになったが、これに対してもモナシュは自身の立場が不当に評価されているのではないかと動揺した。

 

 9月になるとアンザック地区では新戦力の第2オーストラリア師団隷下部隊の配置が進み、砲撃や狙撃は相変わらず続いたが、本格的戦闘の機会は減少した。兵士たちには「ジャム缶手榴弾」ではない工場製手榴弾がようやく行きわたるようになったが、エジプトの工場製のものには粗悪品も含まれていたという。9月下旬になってもハエはまだ残存しており、赤痢患者は依然発生していた。フランス軍部隊によるアジア側への上陸作戦、海軍による再度の攻撃計画が検討されたこともあったが、10月になるとブルガリアが同盟国側で参戦するに至り、外交戦略上でもイギリス帝国の敗北は濃厚となった。ブルガリア軍の動員が報じられると、地中海派遣軍からも2個師団をギリシアのサロニカへ派遣しなければならなくなり、またセルビアにおける戦況悪化を踏まえると、ドイツやオーストリアが重砲を含めたさらなる戦力をオスマン帝国に派遣してくる可能性も高まりを見せた。

 

 かねてから地中海派遣軍司令部に不満を覚えていた従軍記者のアシュミード=バートレットは、9月初旬にガリポリを訪れていたオーストラリアのジャーナリスト、キース・マードック(※ルパート・マードックの父)と相談し、作戦批判の書簡をイギリス首脳に提出することにした。マードックマルセイユに到着した際、アシュミード=バートレットから託された書簡を憲兵に押収されてしまうが、マードックはロンドンに到着後の9月23日、自ら新たに作成した書簡をオーストラリアのフィッシャー首相宛に送ることにした。マードックは書簡の中でオーストラリア兵たちが前線で見せた卓越性を賞讃しつつも派遣軍司令部の作戦指揮や医療の問題については強く糾弾しており、その内容は10月初旬までにはイギリス本国の報道関係者や首脳陣にも届くことになった。またこれより以前、9月初旬に状況報告のため本国に派遣されていた地中海派遣軍のガイ・ダウニー少佐がダーダネルス委員会のメンバーたちと会見した時点から、8月攻勢の失敗や今後の戦略転換、撤退をめぐる議論が始められていた。10月14日、ダーダネルス委員会はハミルトンと参謀長ブレイスウェイトの解任を決定し、以後ハミルトンは前線指揮官の職に就くことは出来なかった。後任司令官にはチャールズ・モンローが就任し、10月28日にガリポリに到着した。

 

 11月8日、モナシュはガリポリ半島に戻り、第4旅団は比較的平穏なボウチョップス・ヒルに配置された。モナシュは13日にバードウッドと協議のためアンザック・コーヴへ召集され、同時に本国から視察に訪れたキッチナー元帥を出迎えた。帝国の英雄であるキッチナーと集まった将官たちを兵士たちは歓呼の声で迎え、バードウッドはキッチナーをラッセルズ・トップの前線に案内した。自ら語りかけることは少なかったというキッチナーの視察は2時間半ほどで終了したが、モナシュはこの時点では、戦役の終わりが近くなっていることを感じることは無かったという。第4旅団の地区では大規模戦闘は発生しなかったが、同時にそれは軍紀の弛緩を生むことになった。小銃の手入れが疎かになったり、装備が乱雑に散らかったり、記章をつけていない者、トランプ遊びに興じる歩哨などが見受けられたため、これらに関してはモナシュも厳しく叱責を行わなければならなかった。

 

 11月のアンザック地区では既に攻勢は実施されていなかったが、冬季戦闘に備えて塹壕の強化を行う必要があり、兵士たちは中間地帯において優勢を確保すべく、威力偵察を行って捕虜を得たこともあった。バードウッドやゴッドリーが第4旅団の前線を訪問した際には、防備が徹底出来ているという評価を得たりもした。一方、オスマン側には11月初旬よりオーストリアやドイツから臼砲榴弾砲中隊が新たに到着し始め、前線兵士たちにとっての脅威は増加していた。11月下旬にはガリポリ半島に降雪が見られた。兵士たちの中には雪が初体験となる者も少なからずいたが、中には雪景色に美しさを見出したり、少年のように雪合戦に興じたりする者もいた。気候が冬になるにつれてハエはいなくなり(※ただしノミやシラミは引き続き兵士たちを悩ませた)赤痢患者は減少していたが、代わってリウマチや霜焼け、凍傷になる兵士が増加を見るようになり、それらによる離脱者はアンザック地区では約3,000人にのぼったという。モナシュもまた2日間熱で寝込み、黄疸にも苦しめられた。

 

 季節が変わっても兵士たちの前線生活が倦怠的なものであることは変わりなかったが、慰問小包が届いたり酒保で買い物をしたりして楽しみを得ることもあった。兵士たちの中にはイラストや文章、詩句などを自作して創造性を発揮する者もいたが、間もなくして従軍記者のビーンはそれらを編集して『アンザック・ブック』と題した記念本(※当初はクリスマスから新年にかけてアンザック地区で越冬する兵士たちの士気高揚のための雑誌編集プロジェクトとして始まったが、撤退作戦が決まると、これまでの戦場での功績を讃える記念本という意図に変わった)を作成した。1916年に出版された『アンザック・ブック』は大戦中に約10万部を売り上げてソルジャーズ・カルチャーの傑作として評価されると同時に、その中で示された兵士たちの姿はオーストラリアの理想的兵士像・国民像と結び付けられ、ガリポリ経験の伝説化の一端を担うことになった(※ただし戦場の過酷さや悲哀を直接的に表現した投稿は、ビーンによる編集の段階でリジェクトされていたことも明らかになっている[Kent, 1985])。

 

 戦場の状況を踏まえてモンローは10月31日に既に撤退作戦を本国に提案しており、11月に前線視察したキッチナーも、戦役の行き詰まりが明らかであることを認識したことから、11月22日にそれを認めるに至った。同じ頃アンザック軍団参謀長になっていたホワイトは、オスマン側に全く銃砲射撃を行わない日時を設ける「サイレント・スタント」と呼ばれる任務を兵士たちに課した。静寂な時間が定期的に生じることに慣れさせることで、撤退が開始された際にオスマン側に悟られないようにすることが目的であったが、クインズ・ポストなど一部地点では小戦闘が継続していた。12月8日、本国の戦時内閣は撤退作戦を正式に認めた。アンザック・コーヴからの撤退作戦の責任はバードウッドが担い、立案にはホワイトとアスピノール、第9軍団参謀長H・L・リードが参与した。モナシュは12月12日になって撤退作戦の事実を聞いた時は寝耳に水となり、既に3万人近い死傷者が出ている中で撤退することをオーストラリアの人々はどのように思うだろうかと不安にもなったが、命令には従うほかないと考えた。12月16日には下士官兵士たちも撤退について知らされた。兵士たちの戦意は維持されていたことから、多くの者は亡くなった戦友たちを現地に残して撤退することへの落胆や憤りを感じたが、前線の過酷な現状から脱却できることを率直に喜ぶ者も中にはいた。

 

 アンザック・コーヴでは12月初頭に約42,000人だった駐屯部隊は段階的に減らされ、12月18-19日の時点で約20,000人、撤退作戦最終日の19‐20日の時点で約10,000人が残っていた。モナシュは後日、アンザック・コーヴにおけるこの最後の2日間が、これまでで最も緊迫した時間であったと語った。最前線の塹壕には無人になったことを悟られないために、時限式自動発射装置付きの小銃も配置された(※作戦成功の原動力であるとして過大評価されているが、実際には「サイレント・スタント」の方がオスマン側を欺く要因としては大きかったと考えられている[Stanley, 2005][Stevenson, 2013])。師団間の最終協議では、バードウッドが指揮官たちを握手してまわり、作戦が成功することを祈った。最終日の天気は霧が出て撤退には好条件となった。午後9時に最後の哨戒部隊が異常なしを伝え、モナシュは最終部隊に次ぐ第二陣部隊425人の一員となって浜辺を離れた。最後まで残る約2000人の兵のうち、170人は第4旅団の兵士たちとなった。しかしその際、モナシュは日記や手紙、作戦書(本来は破棄すべきなのだが)を入れたカバンを旅団司令部に忘れるという不注意極まりない失態を犯してしまい、当番兵に取りに行かせる羽目になった。自動発射装置やブービートラップを設置したうえで、20日午前2時までにすべての塹壕からの撤収が終わり、午前4時頃には最後の兵士の乗船が完了した。午前7時にオスマン側による攻撃が行われ、塹壕無人となっていることを初めて知ることになった。アンザック・コーヴでの長い苦難の戦いはこうして終わり、スヴラ湾地区からの撤退も1時間後には完了した。(※4月25日の上陸作戦の経過とは対照的であることが皮肉な話ではあるが)約1か月前から参謀将校たちが入念に準備を進めてきた結果、アンザックおよびスヴラ湾地区からは20日までに約83,000人の兵員が、大きな犠牲が生じる事なく撤退することが出来た。モナシュもまた、撤退作戦は立案から遂行に至るまで全てが見事であったと賞讃した。

 

 アンザック・スヴラ湾からの撤退からの約3週間後の1916年1月8~9日、ヘレス岬側でも約35,000人の兵員の撤退し、ガリポリ戦役は終わった。連合国軍は戦役を通して延べ489,000人を動員したが、人的損害は戦死46,006人、負傷86,169人にのぼり、そのうちオーストラリアは戦死7,825人、負傷17,900人、ニュージーランドは戦死2,445人、負傷4,752人であった。戦病者・戦病死者を含めた際の人的損害は約260,000人にのぼるとされ、傷病によりガリポリ以降は兵役に就くことが出来なかった者も多く見られた。ダーダネルス海峡を制圧したのちオスマン帝国を降伏に導くという戦略目標は何ら達成できず、戦役としては惨憺たる結果に終わった。オスマン側の人的損害も戦死約56,000人、戦病死約20,000人を含む約250,000人にのぼるという統計があり、連合国軍の戦略目標を阻止した一方で多くの代償を支払った[Prior, 2009][Erickson, 2010][Macleod, 2015]。

 

 しかしながら戦略・作戦上の問題点を批判することと、将兵たちが戦場で示した卓越性や帝国への貢献を賞賛することは併存しうるものと見なされ、同時代の段階からオーストラリアやニュージーランドでは国家としての成熟を示す「アンザック神話」として、イギリス本国では(※『ローランの歌』を引用してガリポリ戦役を悲劇や敗北ではない偉業として表現した桂冠詩人ジョン・メイスフィールドらを嚆矢として)ガリポリ経験の美化・擁護にも繋がりうる「英雄主義・ロマン主義的な」ガリポリ・イメージとして、急速に伝説化が進んでいくことになった[Macleod, 2004, 2015][津田、2012]。公式従軍記者で大戦後は公刊戦史の編纂に携わったビーンは、1924年に著した公刊戦史の第2巻の中で、「オーストラリアの国民意識が誕生したのは1915年4月25日である」と早くも結論付けた(※客観的な叙述が求められる公刊戦史においてここまで断言されるのは、特筆すべき点であると言える)。モナシュもまたヴィクに宛てた手紙の中で、自分たちがアンザック・コーヴに上陸したことは「バラクラヴァの軽騎兵突撃も霞んでしまうような」英雄的偉業であるとまで断言していた。加えてモナシュはチャーチルと同様、ガリポリ戦役は戦略的には正しい判断であり、その準備と具体的な遂行の段階において問題点があったとする見解を強く抱いており、エジプトに対するオスマン帝国の本格的攻勢をなくしたこと、ブルガリアの参戦を遅らせたこと、オスマン帝国の主戦力を引きつけて消耗させたことなどを根拠として、完全な敗北では決してなかったことをあくまで主張した。そのためモナシュは「アンザック神話」のみならず、イギリス本国における「英雄的・ロマン主義的な」ガリポリ・イメージの浸透にも間接的に加担する形となった。

 

 ガリポリ戦役の期間、とりわけ8月攻勢におけるモナシュの軍隊指揮官としての評価は議論を生むことになった。先述のようにバードウッドの作戦計画自体に難があったことを踏まえれば、一旅団長のモナシュが奮闘したところで戦局に影響を及ぼすことには限界があったとする見解も一理あるとはいえ、攻勢前に旅団将兵たちの健康状態を正しく把握していなかったこと、攻勢中も前線の状況把握や通信に困難を生じさせたことなど、モナシュ自身の作戦指揮にも問題点は少なからず生じており、これらに関しては後年に至るまで公刊戦史・部隊史等で批判を完全に免れることは出来なかった。ビーンは8月攻勢中の日記の中で、(※この時点では戦闘の経過や前線の様相を詳しく知らなかったことの影響もあるとは言え)「ローン・パインやジャーマンオフィサーズ・トレンチで犠牲を出しつつも陽動作戦は成功していたにもかかわらず、モナシュは敵軍に阻止される前に自ら旅団を停止させ好機を逃した。ウォーカーやシンクレア=マクラガン、マクローリン、マッケイであればそのようなことをしたとは思えない」と主張してモナシュを辛辣に批判し、後日の日記でも前線指揮官としてモナシュは高齢過ぎて活力に欠けると表現した。ビーンの批判は公刊戦史の中ではトーンダウンが見られるものの継続し、第2巻ではモナシュが従事した任務は(※前線で果敢さを示すウォーカーらとは異なるタイプの指揮官であるにもかかわらず)南北戦争におけるストーンウォール・ジャクソンやJ・E・B・ステュアートのような気質が要求されるものであったとして、「旅団よりは師団を、師団よりは軍団を」率いるほうが向いていると結論付けた。

 

 ただしモナシュや第4旅団をめぐる評価は、同時代の段階から必ずしも全てが厳しいものとは限らなかった。師団長のゴッドリーは1915年11月にピアース防衛相に対し、モナシュは最も卓越した旅団長の一人であり、第4旅団は困難な戦場でも最大限の勇敢さをもって戦ったと報告していた。ただし8月攻勢後の夫人宛の手紙の中では、各部隊は最善を尽くして戦い戦果としてはこれが精一杯であっただろうと結論しつつも、モナシュの第4旅団の実力はNZ歩兵旅団や第29インド旅団に比べて不十分な面があったと説明している[Pugsley, 1984]。作戦をめぐる議論でしばしばモナシュと衝突したコックスも、8月11日に夫人に宛てて書いた手紙の中では第4旅団の能力を評価し、前線にもっとオーストラリア兵が欲しいとまで語っていた。そして公刊戦史を著したビーンも、大戦終結後の1919年にガリポリ半島を再訪して8月攻勢の戦場を実際に調査したり、史料や証言を収集して公刊戦史の叙述を行う段階になると、第4旅団に対する見方を改めるようになった。公刊戦史の第2巻ではモナシュに対しては先述したような言及を加えつつも、971高地を占領する任務は立案段階から非常に困難なものであったとして、8月攻勢におけるモナシュや第4旅団の責任を深く追及することはなかった。また1933年に刊行された西部戦線を扱った第4巻(※第二次ブレクールの戦いにおける第6旅団を扱った箇所)では、ガリポリ戦役において第4旅団がモナシュ・ヴァリーの前線を確保し続けたことは、アンザック・コーヴへの上陸やローン・パインに比肩されるオーストラリア帝国軍にとっての偉業であったと表現した。なおモナシュ自身は「8月攻勢における自らの旅団の働きぶりには満足しており自身の指揮には落ち度は無く」「サリ・ベアでの戦いは最も達成感ある任務であった」とガリポリ戦役中にヴィクに宛てた手紙の中で語るなど、同時代から批判には向き合いつつも自らの正当性を主張する立場を見せていた。

 

 アンザック軍団の旅団長たちの大多数(※パートタイムの市民軍しか経験がない者はもちろんであるが、正規軍のシンクレア=マクラガンやジョンストン、ショヴェルらであっても部隊指揮の経験は限られていた。例外的に正規軍出身のウォーカー師団長は前線指揮官としての果敢さや卓説性が評価されているが、ジャーマンオフィサーズ・トレンチへの攻撃中止をなかなか決定しなかったなどの失策も生じた)にとってガリポリ戦役は大きな試練となり、モナシュ一人が挫折を経験したわけではなかった[Roberts, 2018]。「活発さに欠ける」という批判が一部ではみられるものの、傷病のために離脱した指揮官が少なくなかったガリポリ戦役において、モナシュは何度か病気は経験したものの前線で過ごした期間は他の将官たちに比べて長期に渡った点は、特筆されるべきことであった。また8月攻勢の「暗黒の日」を経た後でも、上官や同僚、部下たちからのリスペクトが揺らぐようなこともなかった。戦役の後半の段階でもハミルトンやバードウッドはモナシュを旅団長として非凡・模範的であったと評しており、ホワイト参謀長も後年、モナシュは(※将官としての体型や若々しさという点は見劣りしたとしつつも)常に任務を遂行していく不屈の意志を持った人物であったと結論付けていた。副官を務めたマクグリン中佐は、旅団での勤務で不安を感じることがなかったのはモナシュの力によるものだと評し、後年に至るまでモナシュの最も強い支持者となった。バーネイジやカナン、ポープといった大隊長たちからも尊敬を集めており、彼らとの親交も深まっていた。

 

 12月20日午後4時過ぎ、ガリポリ半島から撤退した第4旅団の将兵たちはレムノス島の宿営地に到着した。将兵たちには撤退の悲壮感は少なく、むしろ安堵感やクリスマスの祝祭を楽しみにしている様子も見られたという。モナシュはそこで作戦成功のスピーチを行った後、戦いを振りかえった4,000語程度の日記調の手紙をしたためて故郷に送り、妹のマットはそれをタイプして複製を作成した。その後手紙はキャサリン・ディーキンやその弟のアルフレッド・ディーキン夫妻ら著名人にも読まれ、「ロバート・スコットの南極探検日記に比肩される」とまで言われ好評を得たという。ヴィクは検閲部長のホール大佐に手紙の出版許可を求めたが、戦時報道や検閲の関係でこれはかなわなかった。モナシュと第4旅団の将兵たちは、1915年のクリスマスをレムノス島において穏やかな形で迎えることが出来た。モナシュは後年、戦中のクリスマスの中ではこの年のものが最も印象深かったと回想している。しかし第4旅団はボクシング・デイの翌日にはエジプトに向けて慌ただしく移動し、モナシュは1916年の新年はイスマイリアで迎えた。ガリポリ戦役を経たアンザック軍団は次の戦場に向かう前に、休養や再編に努めることが何よりも急務となっていた。もはや戦争の早期終結は見込めない情勢となっていたが、それでもモナシュを含めたアンザック軍団の将兵たちは、掲げた大義や帝国への貢献のために、「最後の一人、最後の一シリングまで」戦い続けるしかなかった。

 

 

参考文献

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ジョン・モナシュの生涯(仮題) ⑨世界大戦 モナシュ・ヴァリーの旅団長 【ガリポリ 前編】

 第1オーストラリア師団隷下の第3旅団のうち、上陸第一波を担う将兵約1500人は戦艦3隻に、第二波の約2500人は駆逐艦7隻にそれぞれ分乗しており、ガバ・テペから1マイル北方の海岸、「Zビーチ」あるいは「ブライトン・ビーチ」に上陸する予定だった。船団は4月25日午前1時頃にガバ・テペの西方8キロほどの地点に到着、上陸将兵たちはボートに分乗していった。午前3時30分頃には各戦艦が停止し、汽艇が海岸近くまでボートを曳航した後、兵士たちは海岸に向けてボートを漕ぎだした。しかし暗闇や潮流の問題から、当初の予定よりも1.5マイル北方、険しい崖があるアルブルヌの南方の入り江に上陸することになり、第一波の兵士たちは午前4時30分頃、この地に上陸した (※もし当初の場所に上陸していた場合は、オスマン側の激しい砲撃に晒されていた可能性が高い[Erickson, 2010])。この地は間もなくして「アンザック・コーヴ」と呼ばれ、後年には「建国神話」の地として伝説化されることになる。オスマン側はここにオスマン帝国第9師団隷下、第27連隊第2大隊の兵員を配置していたが、戦力が少なく機関銃も有していなかったため(※上陸当初に機関銃による反撃に直面したという戦史や証言も見られ、論争が続いている[Uyar, 2015])アンザック側の上陸は比較的容易に進み、目標の一つ「ファースト・リッジ」にある「プラギーズ・プラトー」の高地を確保、第一波・第二波約4,000人は無事上陸を果たした。午前6時からは第三波のオーストラリア第1・第2旅団も上陸を開始、午前11時前からは第四波としてNZ&A師団隷下のNZ歩兵旅団も上陸を開始したが、後送される負傷者が増え始めると次第に前進は滞っていった。

 

 オスマン側では午前2時30分には既に艦船の目撃が報告されていたが、第27連隊長のセフィク中佐は午前5時過ぎより隷下の歩兵や砲兵に反撃を命じ、午前8時頃には2個大隊をアンザック側が目標とする「サード・リッジ」(「ガン・リッジ」)の方に向かわせていた。オスマン帝国第19師団長のムスタファ・ケマル中佐も午前5時30分頃に偵察隊を「971高地」(コジャ・チェメン・テペ)へと向かわせ、午前8時頃に隷下の第57連隊と山砲中隊にチュヌク・ベアの高地への移動を命じた。アンザック軍団側は南部において目標の「セカンド・リッジ」近くの「400プラトー」台地まで進出したが、第3旅団長のシンクレア=マクラガン大佐は当初の計画を変更して、南部からのオスマン側の反撃に備えることにした。その際、シンクレア=マクラガンは北部の971高地に向けて進出するはずだったジェイムズ・マッケイ大佐の第2旅団にも右翼の強化を要請し、第1師団長のブリッジズもこれを許可せざるを得なかったため、中央と左翼の戦力が弱体となってしまった。またオスマン側の戦力集結が進んでいることを踏まえて、より内陸にある目標「サード・リッジ」の当日中の占領は断念することにした。

 

 オスマン側は午前10時頃までに南部には第27連隊、北部には第57連隊を展開する形となり、セフィクとケマルは協議した後、午後12時30分より砲兵中隊3個に支援されつつ反撃を実施した。数的優位だったこともありアンザック軍団側は何とか持ちこたえたが、両翼においてこれ以上の前進が断念された。砲兵戦力としてインド軍第26山砲中隊が前線に到着した時は兵士たちの士気は高まったが[Stanley, 2015]、それもオスマン側砲兵の反撃により午後2時30分頃には海岸へと後退を余儀なくされた。一方、ブリッジズと軍団長のバードウッドは当初砲兵戦力の損失を危惧していたため、野砲の到着は午後3時25分になってから、NZ派遣軍が所持していた榴弾砲が陸揚げされたのは、実に上陸2日目の午後になってからのことだった[Stevenson, 2013]。歩兵戦闘においても、オスマン側は地元の地理に関する知識、バルカン戦争経験や事前の訓練成果の活用、手榴弾を携行している兵士が一定数いたことなど、多くのアドバンテージを有していた(※一方で、将校下士官の損耗率は高いものとなった)[Uyar, 2015]。北部の「ベイビー700」の高地周辺では、途中からはNZ軍部隊も加わって一進一退の戦闘が続いていたが、アンザック側は充分な増援を送れずにいた。午後3時30分にケマルはさらなる反撃を命じ、日没までにベイビー700の高地を奪回することに成功した。

 

 4月25日午後6時までにアンザック軍団はインド軍部隊や工兵隊、通信隊、野戦衛生隊を含めた兵員約16,000人が上陸を果たしており、海岸堡自体は確保されていた。しかし浜辺では物資の陸揚げが進む一方で後送された負傷者で一杯となり、混乱状態が甚だしく前線への増援もオスマン側に比べて効率的に行えていなかった。オスマン側のこれ以上の反撃に耐えられるかどうかも不透明となり、悲観的になったブリッジズとNZ&A師団長のゴッドリーは午後10時頃、軍団長バードウッドに撤退を勧めた。しかし本国正規軍将官で軍団参謀長のハロルド・ウォーカー准将(※この時は病気で一時離脱したジョンストン大佐に代わってNZ歩兵旅団も指揮していた)は、夜間の撤退はさらなる混乱を招くだけだとして反対姿勢だった。協議の末、バードウッドは午後11時に「クイーン・エリザベス」の地中海派遣軍司令部に撤退を提案する通信を送った。司令官のハミルトンは派遣軍参謀長のウォルター・ブレイスウェイトや海軍のデ・ロベック、サースビー、キーズらと相談した後、「塹壕を掘って掘って掘ること」と返答してこれを退けた(※夜間に撤退作戦を強行して混乱状態となるリスクを考えると、これは現実的な判断であったと見なされている[Prior, 2009]。一方で[Stevenson, 2018]は、初日から師団司令部が混乱して撤退の提案まで成されたことから、前線指揮官としてのブリッジズの能力に関しては厳しい評価を下している)。オスマン側のケマルは25-26日の夜間もなお反撃を実施したが、南部に展開していた隷下の第77連隊(※主にアラブ系兵士たちで構成)は疲弊が著しく混乱しており、セカンド・リッジに対する反撃は不首尾に終わった。しかしながらオスマン側は高地を堅持しており、アンザック側は内陸のサリ・ベアやマル・テペに進出するという目標は全く達成出来ないまま、上陸初日は終了した(※上陸初日のアンザック側の死傷者数については断定が難しくなっているが、4月25日~5月3日までのこの地区における死傷者数は、アンザック軍団約8,500人、イギリス軍部隊約600人、オスマン側約14,000人に上っていたという)[Prior, 2009][Erickson, 2010][Uyar, 2015]【アンザック・コーヴへの上陸】。

 

 主攻となるヘレス岬地区はこの時、オスマン帝国第9師団隷下の第26連隊が防備を担当していたが、エールマー・ハンター=ウェストン少将の正規軍第29師団は早朝より5つの地点で上陸を決行した。比較的少ない損害で上陸を達成した地区もあったが、「Vビーチ」や「Wビーチ」の戦いは凄惨さを伴うものとなった。セド・エル・バハルに近いVビーチには改装した汽船「リヴァー・クライド」(※ガリポリの「トロイの木馬」と称されることになる)を浜辺まで接近させるなどしてロイヤルダブリンフュージリアーズおよびロイヤルマンスターフュージリアーズの兵士たちが上陸を開始したが、戦艦による準備砲撃が不正確・不十分で、オスマン側は塹壕や要塞で迎撃態勢を整えていたため甚大な損害を受けた。Wビーチでもランカシャーフュージリアーズの兵士たちはオスマン側陣地の反撃に遭い苦戦を強いられた。翌26日にかけては補給や負傷者の後送の問題が深刻化したが、いくつかの高地を占領して砲兵戦力を含む約17,000人を上陸させることには成功し、セド・エル・バハルを確保した。しかし目標のアチババの高地奪取は叶わず、上陸当日の死傷者数は約3,800人(※参加歩兵戦力の約20%)に上っていた。オスマン側も一連の上陸をめぐる戦闘で1,897人の死傷者を出していたが、4月27日午後には増援を到着させた[Prior, 2009][Erickson, 2010]【ヘレス岬への上陸】

 

 一方、半島の北側とアジア側での陽動は一定の成功をおさめた。オスマン帝国第5軍司令官のオットー・リーマン・フォン・ザンデルスが上陸地として想定していたサロス湾ではイギリス海軍師団が陽動を行い(※バーナード・フレイバーグが海岸まで泳ぎ、陽動のための灯りをつけたことで知られる)、オスマン側師団のヘレス岬への移動を一時的に遅延させた。セネガル兵を含むフランス軍第6植民地連隊は4月25日午前6時にアジア側のクム・カレに上陸、午前11時には要塞を占領した。午後からはオスマン帝国第3師団隷下の連隊と交戦し双方に損害が生じたが(フランス側は死傷者786人。オスマン側は死傷者1,735人、捕虜約500人)、翌4月26日午後にヘレス岬地区への増援のため引き揚げられた[Prior, 2009][Erickson, 2010]。

 

 第4旅団は第1オーストラリア師団およびNZ歩兵旅団の予備とされ、当初は第四波として4月25日の午後に上陸する予定であった。モナシュが乗った輸送船は4月25日午前9時にレムノス島を出航、その際の旅団司令部は第14大隊内に置かれた。4月25日の午後2時頃にはヘレス岬の辺りを通過し、海軍艦艇によるアチババ砲撃と、海岸に対するオスマン側の砲撃の音を聞いた。午後4時頃、輸送船はアンザック・コーヴのオスマン側の射程外に停泊した。モナシュはオーストラリアやニュージーランドの人々からのちに「聖地」とも称されることになる戦場を初めて目の当たりにすると同時に、銃砲の射撃音を聞いたり、約700人の負傷者が収容されていく様子を目撃するなどした。前線での混乱から第4旅団の上陸時間は遅延した上に各大隊がバラバラとなってしまい、まず第16大隊が午後6時頃から上陸、次いで第15大隊は午後10時30分から翌26日朝にかけて、第13大隊は午後9時30分から真夜中にかけて、第14大隊は26日早朝からとなった。この日の夜はモナシュにとって困難なものとなり、ほとんど眠ることが出来なかったという。

 

 モナシュが上陸したのは26日の午前10時半になってからで、砲声も轟き混沌としている浜辺の野営地に着いた。第16大隊は「ポープズ・ヒル」に配置され、第15大隊の半分は400プラトーに展開して第2・第3旅団間の間隔を埋めるのにあてられた一方、残りは「スティールズ・ポスト」と「コートニーズ・ポスト」の間に配置された。第13大隊は「クインズ・ポスト」(※第15大隊の中隊長、ヒュー・クイン大尉に因む)と「ポープズ・ヒル」を強化するために配置された(※第13大隊の兵士たち)。第13大隊長のバーネイジ中佐は56歳と高齢だったが最前線で行動する果敢さを示し、"The game old Colonel"とあだ名されて大隊内での尊敬を勝ち取っていた。26日午後、ゴッドリーはモナシュに第3旅団のシンクレア=マクラガンと戦力配置に関して協議するように命じ、そのために銃砲火の中を移動することになったが、銃弾が近くに飛んできたため記念のコレクションにした。27日午前9時頃、モナシュは前日まで予備戦力で「シュラプネル・ガリー」に配置されていた第14大隊をクインズ・ポストとコートニーズ・ポストの強化にあて、その後プラギーズ・プラトーにおいてゴッドリーやバードウッドと協議を行うなど慌ただしく動いた。アンザック地区ではブリッジズの第1師団が右翼を、ゴッドリーのNZ&A師団が戦線の左翼を担当することになったが、モナシュの第4旅団は「ラッセルズ・トップ」からコートニーズ・ポストにかけての左翼中央の戦線を任される形となった。戦線の最も左翼の「ウォーカーズ・リッジ」からラッセルズ・トップまでは、ウォーカー少将が臨時で指揮していたNZ歩兵旅団が展開した。エジプト駐屯時は互いに対抗意識を燃やしたり、「ワジルの戦い」での一件があったオーストラリアとニュージーランドの兵士たちも、最前線で過ごすうちに次第に過去の因縁は捨て去るようになった。シュラプネル・ガリーからクインズ・ポスト、コートニーズ・ポストに至るまでの峡谷は「モナシュ・ヴァリー」と命名された。旅団司令部はコートニーズ・ポストの掩蔽壕に置かれ、第14・第16大隊に対しては電話線が敷かれた。しかしながら第4野戦衛生隊を指揮していたジョセフ・ビーストン中佐は後年に至るまで、肥満体のモナシュやマクグリンが坂道や塹壕をどのように移動していたのだろうかと不思議でならなかったという。

 

 モナシュは4月27日にブリッジズやウォーカー、シンクレア=マクラガンらと協議の機会があったが、その直後、第1旅団副官F・D・アーバイン少佐がスティールズ・ポストで、旅団長マクローリン大佐がその南に位置する「マクローリンズ・ヒル」で狙撃され戦死してしまった。アンザック・コーヴに上陸してわずか二日でのマクローリンたちの戦死を受けて、モナシュは前線の視察に慎重な姿勢を取るようになったが、オーストラリア軍指揮官の中には、以後も前線での果敢さの方を優先する者は多かった。27日にはオスマン帝国第19師団の反撃が早朝から夜間にかけて3度行われ、第3旅団は後退を強いられた。海軍艦艇や機関銃隊からの援護もあり、第4旅団はポープズ・ヒルとコートニーズ・ポストに対する攻撃を撃退したが、ポープ中佐の第16大隊はベイビー700の奪取を断念せざるを得なかった。オスマン側は「ネク」とベイビー700、モナシュ・ヴァリーの先にある「デッドマンズ・リッジ」「ブラッディ・アングル」の地域を押さえており、狙撃兵も複数配置していた。土嚢での強化は進められていたが、陣地の移動は危険を伴い、塹壕を深くするための作業は継続された。オスマン側は4月28-29日にもクインズ・ポストおよびポープズ・ヒルへの攻撃を継続しており、最前線の兵士たちは不眠不休を強いられ疲弊が著しくなった。モナシュは状況と戦力の調査に従事した後指揮官たちと協議をし、反撃のための部隊配置を検討したが、歩兵戦術の応用に関しては正規軍将官であるウォーカーらに比べて、まだ不慣れな面もあった。それでもモナシュのノートには、前線での歩兵配置と交替状況、機関銃の位置、対壕、陣地間の連絡路、野営場所、陣地の衛生、負傷者の後送などといった項目が詳細にまとめられていた。

 

 ヘレス岬地区では4月28日午前8時、第29師団およびフランス軍旅団がクリシアの村落奪取のため攻撃を仕掛けた。海軍艦艇からの支援砲撃は受けたものの、陸上の砲兵戦力が不充分(28門しかなかった)な上に将兵たちの疲労はたまっていたため、オスマン帝国第5・第7師団からの増援を得た第9師団の反撃を受け、死傷者約3,000人を出しながらほとんど前進できなかった。5月1日-3日にかけてはオスマン側も英仏側の前線に攻撃を仕掛けたが、こちらも不首尾に終わった[Prior, 2009][Erickson, 2010]【第一次クリシアの戦い】。その一方でハミルトンは消耗していたアンザック軍団の戦力を補うため、4月28-29日にかけてイギリス海軍師団の4個大隊(チャタム、ポーツマス、ディール、ネルソン)をアンザック・コーヴの戦力強化のために派遣したが、NZ&A師団の兵士たちの中には、彼らの体格が自分たちよりも細身であることに不安を抱き、「機関銃の戦力が増強されたことだけが唯一の良い知らせ」であったと感じた者までいたという。一方で海軍大隊の将校たちは、アンザック兵たちが自分たちに敬礼をしないことに対していら立ちを覚えた。

 

 最前線のポープズ・ヒルに配置され損耗していた第16大隊(※デッドマンズ・リッジからのオスマン側の狙撃にも悩まされていた)はモナシュ・ヴァリーに下げられ、替わって第13・15大隊が配置された。5月1日、オスマン側からの準備砲撃が行われた後、早朝から夜間にかけて敵味方の距離が30ヤードほどしかないクインズ・ポストへの攻撃は何度か続いた(※同日夜からはヘレス岬側でも反撃が実施されたが阻止されている)。クインズ・ポストやコートニーズ・ポスト、ポープズ・ヒルは前線で最も困難な地点とされ、各大隊の損害は増加した。ペリスコープや手榴弾迫撃砲といった塹壕戦の基本装備が不足していたので、即席の「ジャム缶手榴弾」の製作工場が浜辺に作られた。オスマン側は既に「クリケットボール手榴弾」とあだ名された工場製の手榴弾を使用しており、前線では程なくして手榴弾による闘いも始まった。当初は双方の手榴弾とも導火線が長めに設定されていたこともあって、相手方に投げ返されてしまうこともしばしばあり、熟練した兵士の中には手榴弾を空中でキャッチしたうえで投げ返すことが出来る者までいた。敵側に近接した塹壕では狙撃もまた脅威であったが、アンザック側では5月半ばになるとペリスコープ・ライフルが新たに考案され、クインズ・ポストを始めとする最前線で次第に用いられるようになり重宝された。また5月下旬以降は、新たな装備として到着した日本製の迫撃砲塹壕戦において活用されるようになった(※オスマン側はこの迫撃砲による攻撃を「黒猫」とあだ名して脅威と見なしたが、砲弾の供給量が少ないという問題点があった)。

 

 アンザック地区の陣地の安全を確保するためには400プラトーとベイビー700の高地を奪取する必要があったが、4月30日にバードウッドはこれらの高地に対する攻勢を検討した。モナシュはゴッドリーに対し、隷下の諸大隊の戦力は既に疲弊していることもあり、旅団はまだ本格的攻勢を行う準備が整っていないと報告した。しかしバードウッドは5月1日午後からの攻撃を命令したため、ウォーカー准将(※マクローリンの戦死後は第1旅団を指揮していた)やブリッジズらがこの命令に反対、協議や前線視察を行った結果、第1師団の前線における攻勢は中止された。しかしバードウッドやゴッドリーの作戦への意欲は衰えてなかったため、対象をベイビー700に限定した攻撃を、NZ&A師団およびイギリス海軍大隊が2日夜より行うことになった。

 

 海軍艦艇や師団砲兵隊による準備砲撃や機関銃陣地からの支援の下、5月2日午後7時15分より第4旅団は南方からベイビー700への攻撃を行った。第4旅団兵士たちは遥かなるティペラリーやAustralia Will be Thereを歌いながらベイビー700の高地を目指して進み始めた。第16大隊(※つかの間の「休養」を得たばかりだったが作戦に投入された)の兵士たちはネクや「チェスボード」からの反撃で犠牲を伴いつつもクインズ・ポストから前線を押し広げ、第13大隊もポープズ・ヒルからチェスボードに到達した。しかしポープズ・ヒルラッセルズ・トップの間からの攻撃を担当するはずだったNZ歩兵旅団のオタゴ大隊は、モナシュ・ヴァリー方面への行軍に時間がかかって攻撃開始が90分遅れとなり、態勢を整えていたオスマン側の銃砲火によりほとんど前進することが出来なかった。真夜中頃に行われたカンタベリー大隊による攻撃も失敗に終わった。翌5月3日の深夜には海軍大隊(チャタム、ポーツマス、ネルソン)も第13・第16大隊の支援にまわってなおも前進を図ったが、第16大隊は午前中に塹壕への銃砲火に晒されたことから後退、第13大隊も日没にはチェスボードからの撤退を余儀なくされ、高地奪取は断念された。アンザック側の死傷者は約1,000人に上り、その後も戦役の全期間にわたりベイビー700の高地はオスマン側が確保することになった【ベイビー700の戦い】。モナシュはゴッドリーに対し、第15大隊の兵員が約350人、第16大隊は約300人にまで減るなど、旅団の戦力が半分以下に低下して再編を要していると緊迫感をもって伝えたが、この時ヘレス岬地区での攻勢を計画していたハミルトンが第1師団からはマッケイの第2旅団を、NZ&A師団からはジョンストンのNZ歩兵旅団を抽出したため先送りとなってしまった。

 

 5月3日、従軍記者のビーンが第4旅団司令部に来たので、モナシュは困難な任務を強いられていることを感情的に語った。海軍大隊のC・F・ジェラム少佐は後年、この時のモナシュは「非常に疲弊しており、のちに軍団長になる人物とは誰も想像できなかった」と語ったという(※[Rhodes James, 1965]は“8月攻勢の”モナシュを評価するにあたりこの5月の時点でのモナシュに関する証言を取り上げているが、[Serle, 1982]は不適当な叙述の仕方であると批判している)。後年の公刊戦史では、ビーンは作戦結果への責任は負っていないと結論しつつも、この時のモナシュが取り乱していたことに言及した。5月4日、バードウッドが第4旅団前線の視察に訪れた。既に長期戦の見通しが濃厚になっていたこともあり、それまで不充分な構造だった塹壕の強化が命じられ、クインズ・ポストを中心にトンネルや連絡路が整備された。モナシュは第15・16大隊のクインズ・ポストの前線における勤務を48時間交代で行わせ、第13大隊にポープズ・ヒルを、第14大隊にコートニーズ・ポストを担当させた。攻勢が実施されない時でもオスマン側の狙撃兵の存在は脅威となり、特に前線での部隊指揮の要となる将校下士官が死傷してしまうことは非常に痛手となった。5月6-7日に補充兵約500人が到着した時、モナシュはこれに大いに喜ぶ一方で、(※海兵旅団長のC・N・トロットマン准将の資質は評価したものの)クインズ・ポストとポープズ・ヒルの防衛に加勢している海軍大隊の兵士たちについては弱体であるという印象も漏らした。ただし第15大隊のクイン中隊長が海軍大隊の戦いぶりを「今まで見た中で最も勇敢なもの」と賞讃したことが示すように、兵士たちの間では共闘を重ねたこともあって、海兵たちを見下すような感情は次第に少なくなっていった。

 

 ヘレス岬地区では5月6-8日にかけて、英仏軍師団に加えてアンザック地区から派遣されたNZ歩兵旅団とオーストラリア第2旅団も参加した、アチババを目標とした攻勢が実施された。しかし攻勢は400-500メートル程度の前進に留まり、塹壕線を強化していたオスマン側に特に脅威を与えることは出来なかった。NZ歩兵旅団は約800人、第2旅団はその戦力の約三分の一に当たる約1,000人が死傷し(※第2旅団の兵士たちはこの時、第29師団の兵士たちから「白いグルカ兵」とあだ名され賞讃された。なお従軍記者のビーンもこの戦いに同行し、5月8日に砲火の中で負傷兵を救助する功績をあげている)、旅団長のマッケイも負傷してしまった(※連合軍全体の死傷者は約6,500人、オスマン側は約2,000人) [Prior, 2009][Erickson, 2010]【第2次クリシアの戦い】。ハンター=ウェストン師団長は戦役前にガリポリが「第二のクリミア」となる可能性を懸念していたと言われているが、それも現実味を帯びてきた。アンザック兵たちも、現在自分たちが直面している戦争は南ア戦争の時と同じような感覚は通用しない(※既に死傷者数は南ア戦争の3年間で生じた人数を遥かに超えていた)ということを徐々に悟り始めた[Pugsley, 1984]。しかしその一方で5月8日、オーストラリアでは4月25日の上陸作戦の詳報を伝えたイギリスの従軍記者エリス・アシュミード=バートレットの記事が各紙に掲載されて大きな反響を呼んでおり(※実際の記事)、ガリポリ経験の伝説化に早くも拍車がかかることになった。

 

 5月7日、モナシュは初めて前線を離れ、海水浴(※危険を伴ったが前線でのリクリエーションとして重要であったことから、バードウッドは禁止することは無かった。水泳を楽しむ「アンザックのアイドル」ことバードウッドの写真)を行い、ゴッドリーと食事をした。5月9日の朝、ゴッドリーがモナシュの司令部を訪れ、オスマン側がクインズ・ポストに対して坑道を掘り進めているという情報を得たことを伝えた。モナシュや大隊指揮官たちは反対姿勢だったが、ヘレス岬地区の攻勢に呼応するために、午後に攻撃を実施することが命じられた。9日夜にかけてカナン中佐の第15大隊がクインズ・ポスト周辺で偵察任務にあたり、第16大隊の援護のもと塹壕を奪取したが、オスマン側の反撃が生じたため早朝には撤収、一連の戦闘で損害は200人に上った。

 

 5月12日、海軍大隊の交替としてハリー・ショヴェルのオーストラリア第1乗馬旅団およびラッセルのNZ乗馬旅団が歩兵戦力として到着した。前線では少しだけ古参な歩兵たちの中には、「乗馬はどうしたんだい?」と乗馬兵たちをからかう者もいたが、新戦力の到来は何よりも嬉しかった。第1乗馬旅団の第1・第2連隊が第13・第15大隊と交替して前線の左翼中央を担当した(※ゴッドリーや第15大隊のカナンと協議するショヴェル)。モナシュはショヴェル(※モナシュとは同じ1865年生まれ)にクインズ・ポストとポープズ・ヒルを案内し、部隊配置について協議した。ショヴェルはモナシュの司令部を「無精なウサギの巣穴」のようだという印象を抱いたと言われているが、モナシュの指導力に対しては高評価をしており、大戦後にはアンザック・コーヴでともにいた日々を忘れることは出来ないとまで語った。ただしこの時点での乗馬部隊は訓練がまだ不充分で、塹壕戦に不慣れな中で危険地帯を任されることには不安も伴った。アンザック地区にはその後5月16日に第2旅団、5月20日にNZ歩兵旅団がヘレス岬地区から戻り、また第2・第3乗馬旅団も到着して戦力が強化されていった。

 

 5月12日に副官のマクグリンが旅団の塹壕の構造が不充分であることを指摘し、クインズ・ポスト周辺を中心に攻防に適したものにするように構築が強化された。兵士たちは「(肥満体の)マクグリン副官に充分なほど広く、(長身の)ゴッドリー師団長に充分なほど深く」塹壕を掘ることを心がけ、連絡路の充実にも努めたが、オスマン側の砲火の下のため作業は困難であった。実際にクインズ・ポストの陣地を構築するための資材が充実したのは、NZ軍のウィリアム・マロン中佐が指揮するウェリントン大隊が配置についた6月になってからのことになった(※マロンは7月下旬、最前線の強化された退避壕の前でビーンとNZの従軍記者マルコム・ロスをお茶で接待してみせたことがある[Pugsley, 1984])。モナシュはヴィクとバーサ宛の手紙を書き、その中で上陸後数週間は非常に忍耐強さを求められたこと、物資の補給や塹壕構築が困難であること、絶え間ない銃砲火、知人の息子がどのように戦死したのかなどを切々と語った。一方で自身が率いる将兵たちについては、過酷で血生臭い場面が続いても決して明るさを失わず、大胆さや勇敢さ、忍耐力においてオーストラリア兵に比肩できるものは無く、あらゆる資質において本国の正規兵を凌駕しているとまで賛辞を送っていた。

 

 ガリポリの狭い戦場においては上級将校も常に危険を伴うもので、4月に第1旅団長マクローリンが戦死したのに続いて、5月15日にはブリッジズがモナシュ・ヴァリーを視察中に狙撃されて重傷を負い、後送されたが18日に死去した。ブリッジズの遺体はのちにキャンベラのダントルーンに埋葬されたが、大戦中のオーストラリアの戦死者の中でオーストラリアでの埋葬が認められたのは、ブリッジズが唯一であった。モナシュの司令部の人員にも銃砲火により死傷者が少なからず発生した。しかし戦場で過ごすうちに将兵たちの多くは恐怖感を無くしていったとモナシュは戦後に回顧しており、モナシュ自身も疲労は重ねる一方で、至近に落ちた弾丸のコレクションを行うなどしていた。ワラビー・クラブでのウォーキング経験が役に立っているとも語った。モナシュはマクローリンやブリッジズの前例があったことから、勇敢さと向こう見ずさrecklessnessは別物であり指揮官は危険を冒すべきではないと考え、自ら率先して視察することは避けて退避壕で過ごすことが多かった。この点は公刊戦史を著したビーンからも批判され、後年の著述においても現状把握のために積極的に最前線で行動したウォーカーやラッセルとは対照的な将官であったことを指摘されたりもした[Rhodes James, 1965][ Vennell, 2011]。しかしモナシュはその分、幕僚や大隊長たちと緊密に連絡を取り詳細な報告を求めており、前線各所に関する知識は隅から隅まで頭に入れたうえで協議を行うことが出来たという。最前線を訪れないことによって将兵たちのモナシュに対する信望が損なわれることは無かったという見解もあり、また狭いアンザック・コーヴの戦場においては、「後方」に司令部を構えていても常に危険は伴っていた。なお上官が視察に訪れた時は案内をする必要があったが、塹壕の狭い部分に関しては、モナシュと副官のマクグリンは通り抜けることが出来なかった。

 

 乗馬部隊の到着後、第13大隊は予備となる一方で、第14大隊はコートニーズ・ポストを、第15・第16大隊は交替でクインズ・ポストを引き続き守備していた。5月18日夜、コートニーズ・ポストとクインズ・ポストは激しい砲撃にさらされ、5月19日午前3時、アンザック軍団を海岸まで押し戻そうとする、4個師団(オスマン帝国第2・第5・第16・第19師団)約42,000人を投入したオスマン側の大規模反撃がアンザック地区の広範囲(北方はラッセルズ・トップ、南方は「ボルトンズ・リッジ」まで)において実施された(※首都から増援のため到来し、戦線中央からの攻撃を担当したオスマン帝国第2師団の兵士たちは、「祖国行進曲」を歌い「アッラーアッラー」と叫んで果敢に突撃を行ったという[Erickson, 2010])。午前4時ごろ、オスマン帝国第5師団隷下部隊によるコートニーズ・ポストへの攻撃が行われ、一時オスマン側の侵入を許したが、第14大隊の兵士アルバート・ジャカたちの活躍もあって撃退した。ジャカはAIFで最初のヴィクトリア十字章受賞者となり、銃後では模範的兵士像としての称揚が進むことになった。4時20分ごろにはクインズ・ポストでも第15大隊が第16大隊や第2乗馬連隊と協力して攻撃を阻止した。北部で早朝に実施されたケマルの第19師団による攻撃も、午前7時30分のアンザック側の反撃により2時間後には後退させることに成功した。コートニーズ・ポストやスティールズ・ポストの機関銃座が有効に働いたこと、アンザック地区の火砲が43門と上陸当初よりは改善されていたこと、海軍航空隊の偵察によりオスマン側の攻撃が予測されており、18日午後5時の時点で各師団に警戒が発せられていたこと、海軍艦艇による援護射撃が得られたことなど大きかった。兵站部による後日の計算によれば、アンザック側はオスマン側への応戦に際して砲弾約3,000発、小銃・機関銃弾約95万発を使用したとされている。夜明けの時点で既にオスマン側の攻勢は頓挫し、人的被害はおびただしいものとなっていたが、オスマン帝国第3軍団長エサト・パシャは午前11時20分ごろまで戦闘を継続した。死傷者数はアンザック側が628人に対し、オスマン側は戦死約3,500人を含む10,000人以上に及んだとされ(※特に第2・第5師団の損耗率は深刻だった)、これ以降オスマン側は大規模反撃を実施することは無かった[Prior, 2009][Erickson, 2010]【5月18-19日のアンザック地区に対する攻勢】。しかしながら攻撃の際にオスマン将兵たちが見せた果敢さに対しては、アンザック側からも賞讃の声を送る者が見られた。なおこの日、負傷者をロバに乗せて後送する手法を取ることで話題となっていた第3野戦衛生隊の兵士ジョン・シンプソン・カークパトリックが戦死した。シンプソンは後年、兵士たちの仲間意識を象徴する「シンプソンとロバ」の物語として伝説化されることになるが、モナシュも翌5月20日に師団司令部宛のメッセージで特別に彼について言及しており、上陸以来危険を顧みずに多くの兵士たちを救った功績は計り知れないと賞讃した。

 

 一連の戦いの後、無人地帯にはおびただしい数の将兵たちの遺体が残され、衛生上の懸念が双方に生じていた。5月20日午後、スティールズ・ポストに面するオスマン側陣地に赤新月旗があがり、軍団参謀たちは停戦に向けての準備を進め始めたが、最前線ではその間も狙撃戦がしばしば行われた。22日にはオスマン側の軍使が海岸まで訪れ交渉を行った。ハミルトンは停戦がオスマン側からの申し出であることは強調する必要があると判断した上で同意し、帝国記念日でもある5月24日、戦死者埋葬のためアンザック地区における午前7時30分から午後4時30分までの停戦が成立した。遺体の身元確認や埋葬の作業を行う際は死臭が凄まじく、その臭いは晩年に至るまで決して忘れることが出来なかったという兵士の証言も見られた。埋葬作業に際しては片言の英語やフランス語を駆使して敵味方が交流するシーンも見られたが、この時を契機としてアンザック将兵たちはオスマン将兵たちへの見方を改め、彼らを「アブデュル」「ジャコ」「「ジョニー・ターク」とあだ名して勇敢さやフェアプレイの精神を兼ね備えた良き戦友と捉えるようになったという物語が、今日に至るまで語り継がれることになった(※従軍記者のビーン「アブデュル」と題した詩を作っている)。しかしながら、停戦中も双方には相応の警戒感や疑心暗鬼の感情は生じていたという見方もあり、一部では協定に反した偵察行為なども見られたという。モナシュもまた、オスマン側に対しては親しみよりは警戒心の方が勝っていたとされ[Stanley, 2005]、停戦中に最前線を視察した結果を踏まえてバードウッドに対してベイビー700の攻撃計画まで提案したが、これは採用されなかった。なお停戦協定に先立つ5月23日、これまでモナシュの幕僚を務めていたジェスは少佐に昇進し、第2旅団副官のポストに就くことが決まった。

 

 5月13日にはオスマン駆逐艦の攻撃により戦艦「ゴライアス」が撃沈され、ドイツ軍潜水艦の出現も報告されていたため、それに伴って旗艦「クイーン・エリザベス」などの主力艦艇が前線から下げられていた。しかしその後5月25日、ガバ・テペ沖で戦艦「トライアンフ」が潜水艦U-21により撃沈され、アンザック・コーヴの兵士たちは大きな衝撃を受けた。2日後の27日にはヘレス岬地区のWビーチ沖で、戦艦「マジェスティック」も同様の運命をたどり、この時当艦に乗艦していた従軍記者アシュミード=バートレットは取材キット一式を失ってしまい、一時帰国することを余儀なくされた。海軍艦艇は陸上部隊にとっても戦意高揚に繋がる大きな存在となっていたが、以後大型艦艇はヘレス岬とアンザックの両地区において姿を消すことになった。5月26日、モナシュはハミルトンから派遣軍司令部がある「アルカディアン」号での1日の休養を与えられた。アンザック・コーヴに上陸して以来初めての本格的休暇となったが、後年ハミルトンは前線勤務を行うにはやや高齢なモナシュを気遣ってのことだったと回顧している。モナシュはインブロス島に着いた際、自分は「休養をしに来たのであって運動をしに来たのではない」と怒って「アルカディアン」号の縄梯子を登ることを拒否したため、結局タラップが下ろされた。休養では入浴と9時間の睡眠をとることが出来、ハミルトンとは円満な食事をし、リリーデイルでの思い出話を語るなどした。28日午後7時にモナシュ・ヴァリーに戻ったが、自身と旅団の将兵20人が殊勲者報告書に載ったことを知って喜んだ(※ドイツ系の出自故に自身の帝国への忠誠心を疑っていうような人たちを黙らせることにもなるだろうとも思った)。30日、今度はハミルトンがアンザック地区を訪れ、第4旅団司令部からクインズ・ポストの前線を視察した。

 

 クインズ・ポストでは5月17日にオスマン側の坑道掘りの音が報告されていたが、これに対して第15大隊のクイーンズランド工兵たち(※マウント・モーガンギンピーチャーターズ・タワーズの鉱山労働者も多く含まれていた)によってオスマン側への坑道掘りが行われた。28日に工兵たちはオスマン側からの攻撃が迫っている可能性を報告していたが、29日午前3時20分、ついにオスマン側による地雷爆破が行われ、最前線にいた兵士たちは即死した。持ち場にいた第13大隊は煙幕の中で混戦状態となり、大隊長バーネイジ(※第15大隊長のカナンが休暇帰りのモナシュを迎えるために不在だったため、この時前線指揮をしていた)も重傷を負ったが、オスマン側の進攻はポープズ・ヒルの機関銃により阻止された。第15・16大隊の各中隊も集まって反撃を行い(※反撃に向けて待機中の兵士たち)、第13大隊が塹壕制圧を担当、負傷したバーネイジに替わって臨時の部隊指揮はショヴェルと第16大隊長のポープが執ることになった。午前9時までにクインズ・ポストの塹壕は奪回されたが、約200人の死傷者が生じ、第15大隊のクイン中隊長はこの時戦死した。クインの地元のチャーターズ・タワーズでは、戦死が伝えられると半旗が掲げられたという[Stanley, 2005]。モナシュは反撃に従事した兵士たちを「規律は完璧で恐れることを知らず、英雄的振る舞いを見せた」と賞讃した。兵士たちはオスマン帝国軍捕虜たちに飲み水やタバコ、ビスケットを与え、敢闘したことを讃えるなど、以前より寛容な振る舞いを見せるようになった。先に触れた停戦協定が結ばれたことや、戦役が長期化する中で相互の理解が進むに従い、当初存在していた偏見は緩和される傾向にあり(※ガリポリ戦役中の新聞記事)、戦役後半には非公式の停戦を結ばれたり、陣地越しにタバコや食糧、(戦友として讃える内容の)メッセージノートを投げて交換し合ったりする場面も一部では発生したという。ただし挑発行為やビラを用いた心理作戦・プロパガンダ合戦自体は、戦役全般を通して継続された[Stanley, 2005]。

 

 6月1日、疲弊が限界に達していた第4旅団はNZ歩兵旅団と交替してクインズ・ポストとコートニーズ・ポストの最前線から下げられた。モナシュは自身の旅団ほど絶え間なく戦場の苦難を経験した部隊はないだろうと語ったが、実際に旅団の当初の兵員たちの多くは死傷・疾病により離脱してしまっていた。ウォーカーズ・リッジの裏、「スフィンクス」と命名された岩のふもとの休養地「リザーブガリー」に移動し、兵士たちは海水浴を楽しみ久しぶりのヒゲ剃りをした。2日、ゴッドリーはカナンの第15大隊をはじめとする第4旅団兵士たちによるクインズ・ポストおよびコートニーズ・ポストの防衛はオーストラリア軍事史に名を残す偉業であり、帝国内外の部隊にも引けを取らない存在になっているとして、これまでの敢闘ぶりを讃える演説を行い、11人が受勲することも伝えられた。同時代においては第4旅団に大きな関心を示さなかったビーンも、後年の公刊戦史内では5月の第4旅団による戦闘はオーストラリア帝国軍の偉業の一つであったと認めた。モナシュはこの知らせを喜び、部下たちに国王陛下万歳を唱えさせた。ゴッドリーは後日、ピアース防衛相に対してもモナシュの旅団指揮は卓越している旨を報告している。モナシュは自らの旅団に「ファイティング・フォース」Fighting Fourthというあだ名をつけ、そう呼称するよう推奨するという自己宣伝的なことも行った。一方、自身の旅団が危険な任務を遂行し続けているのにも関わらず、取材や報告書の対象が第1師団に偏っている従軍記者のビーンに不満を覚えていた。

 

 6月は負傷者の後送や補充兵への対応で忙しくなった。銃砲火にさらされるため前線へ弾薬食糧を運ぶ作業は難航し、塹壕掘りや連絡路作りでも犠牲を伴った。オスマン側が水の補給に比較的不自由しなかったのに対し、アンザック側では飲料・洗面等を含めた1日当たりの生活用水が一人あたり0.5ガロン以下に限定されていた。水は艀で輸送される過程で海水等の不純物が混じることがあり、これは兵士たちにとって悩ましい問題であった。「夏のクイーンズランドよりも暑い」までに日々の気温が高まってくると、モナシュは服装の規定を軽減し、指揮官も含めて将兵たちの多くはシャツ一枚に半ズボンのオーバーオールの姿となり、皆真っ黒に日焼けした。糧食は歯が欠けるほどに堅いハードビスケット、脂身が多く塩気が強い牛缶「ブリービーフ」、粗悪なチーズ、ベーコン、アプリコットジャムという単調なものとなって新鮮な野菜や果物は少なく(※6月にはインブロス島に製パン場が設置されたが、兵士たちへの日々の供給量は限られていた)、将兵たちの士気にも影響を与えていた。それでも兵士たちは非番の時は後方の浜辺(※危険なのは変わらないのだが)で海水浴をしたり、噂話やゴシップ(※狭い戦場の外の世界からは完全に遮断されていたので、情報には常に飢えていた)を仕入れたりすることで気分をリフレッシュした。また浜辺で即興のコンサートが開催されたり、ワーテルロー百周年の日にはラム酒が振る舞われたりするなどの楽しみもあった。この頃、モナシュは同僚たちとの交流を深めており、NZ乗馬旅団長のラッセルとはスヴラ湾の方角を含めた各拠点を視察した。NZ歩兵旅団のジョンストン、オーストラリア軍のレッグ、ホワイト、第2旅団第7大隊長ポンペイ・エリオット中佐(のち西部戦線では第15旅団長)らも訪問した。『アーガス』記者のC・P・スミスには、クインズ・ポストの陣地を案内した。6月19日にはウォーカーやポープ、カナン、NZ軍指揮官たちとヘレス岬地区を視察し、同地区の第8軍団長となっていたハンター=ウェストン中将とも会見したが、その際オスマン側の砲撃にも見舞われる「スリリングな」体験をした。

 

 6月27日、モナシュは50歳の誕生日をウォーカーズ・リッジに対するオスマン側の攻撃によって起床させられた。6時に各大隊長が集まって彼らと握手をし、編成地がヴィクトリアの第14大隊からは祝辞をプレゼントされた。ゴッドリー夫人からはアレクサンドリアで作ったというケーキをプレゼントされ、レッグはタバコひと箱、旅団のコックは特別コースの夕食を用意した。当日は戦死者の葬儀も行う必要があったが、終わった後は幕僚たちとシャンパンを開けるなどした。郵便物の遅れに関しては、エジプトに駐留していた時期からモナシュを悩ませており、アレクサンドリアの陸軍郵便部にクレームを入れる一方で、届いた手紙は何度も読み返すようにした。ヴィクは自分のことは「ヴィクトリー」Victoryと呼称して将兵の夫人会に精力的に参加しており、モナシュがいなくて寂しいことを手紙の中で語った。エイダ・ベンジャミンやカード姉妹といった、今でもモナシュのことを「ジャック」と呼ぶ旧友からも手紙が来た。大学以来の友人ジム・ルイス、ワラビー・クラブのフェリックス・マイヤー、教育局のフランク・テイト、コンクリート事業のライバルであるテイラーらも、モナシュの第4旅団の活躍を喜ぶ手紙を書き送った。妹のルーとローゼンハインの「ウォルタールー」夫妻は『パンチ』や『スフィア』『ウィークリータイムズ』を送ってくれた。かつてエジプトで会ったことがあるルパート・ブルックの病死を知った時は、ヴィクに対してブルックの詩集を買うよう求めた。戦場においては退屈もまた敵軍と並ぶ大敵であったが、モナシュはチェスや自作のルーレット、代数学の計算、迷路作成などをして暇つぶしをした。冬場に備え、ポークキドニーなど脂質の高い食糧を妹のルーや友人に対して所望した。

 

 第1師団長とAIF司令官を務めていたブリッジズの後任としては、ピアース防衛相の推薦によりオーストラリアから派遣されたレッグ大佐が候補に挙がった。レッグは6月22日に少将に昇進して第1師団長に就任したが、モナシュやショヴェル、マッケイら前線経験者はこれを不満としてバードウッドに訴えた。結局レッグは新たな攻勢に関してバードウッドに反対したことも影響して、1か月後にはエジプトで新編中の第2師団(オーストラリア第5~第7旅団で編成)を指揮することになった。のちAIF司令官のポストにはバードウッドがおさまることになり、第1師団長にはかねてからバードウッドより果敢な軍人として評価され、レッグ到着まで第1師団長代理を務めていたウォーカーが就任した。7月21日、モナシュに准将への昇進が通知されて「将軍」となり、ナイトの称号を得ることも視野に入ってきた。

 

 しかしこの頃、カイロやロンドン、メルボルンでは「モナシュはドイツのスパイとして射殺された」といった荒唐無稽な噂話も広がっており、義弟のローゼンハインもモナシュ宛の手紙で「ロンドンでは至る所でウソの報道が後を絶たない」と報告していた。ヴィクも「モナシュは健康を害して旅団長職を辞し帰国途中にある」という知らせを真に受けてショックを受けたが、娘のバーサはあり得ない話だと判断し、モナシュに「私はお父さんが心身ともにとても強い人間であることをよく分かっています」という手紙を送った。銃後社会では反ドイツ感情から、噂に簡単に騙されてヒステリックな言動に走ってしまう人々がしばしば見られると同時に、戦時警戒に基づいてドイツ国籍者や一世移民の人々の抑留も開始されていた(※大戦中、6,890人が対象となった)。モナシュは従兄のアルベルト・ベーレントに対しては、ドイツ系の出自や名前を安易に前面に出すことを控えるように注意する一方で、妹のマットに宛てた手紙では、「もしヴィクやあなたに辛く当たる者たちがいたら、直ちに私に詳細をすべて知らせてほしい」と言って励ました。

 

 気温が高くなるにつれて、ガリポリ半島の戦場ではハエの大量発生が深刻となっていた。ハエを全く混入させずに飲食することは兵士たちにとって至難の業となり(※このような詩も作られた)、衛生面の問題は時としてオスマン側の攻撃よりも悩ましいものとなっていた。モナシュもまた手紙の中で「これほどまでに獰猛なハエの大群は経験したことがない」と漏らした。赤痢や敗血症、腸チフスの流行は歯止めが利かなくなっており、7月下旬の第13大隊における戦病者は1週間当たり約60人に上るなど、アンザック軍団では1週間ごとに約10%の兵員が戦病により離脱するという事態にまでなった。指揮官においても、ウォーカーやショヴェル、ジョンストンらが離脱を経験した。後送者と補充者の人数は一応拮抗出来ていたが、旅団の戦力が低下していく傾向は否めなかった。モナシュも一時「インフルエンザのような」症状に見舞われ、回復した後送者の部隊復帰が遅れている状況に対しては、ゴッドリーに不満を申し立てた。将校下士官たちの損耗も深刻化していた。6月にリザーブガリーに下げられた時点で第4旅団の下士官は377人の損耗のうち58人しか補充出来ておらず、将校も編成当初の132人のうち健在なのは37人のみ、7月になっても定員の半分が不足していた。また到着した補充兵たちの中には、訓練機会が少なかったことから小銃の装填も満足に出来ない者まで含まれていた。

 

 ヘレス岬地区では6月4-6日にかけて、海軍師団や第29インド旅団を含めた英仏軍による最後の大規模攻勢が実施されていた。砲兵戦術は以前より洗練が見られており、新たに装甲車の投入も図られたが、結局500-1000ヤード程度の前進に留まり損害も大きかった(死傷者数はイギリス約4,500、フランス約2,000、オスマン側約5,000以上?) [Prior, 2009][Erickson, 2010]【第3次クリシアの戦い】。その後6月21-22日、6月28日-7月5日、7月12-13日に師団規模の攻勢を実施、この時は榴弾の砲撃量を大幅に増やすなどして戦術的成功を収めたが死傷者数も多く、ヘレス岬地区の戦線突破は望み薄になってきた。第8軍団長のハンター=ウェストン中将は体調不良のため離脱してしまい、以後ガリポリ半島に戻ることは無かった。戦役が長期化するにつれて将兵たちが当初抱いていたロマンティシズムは徐々に失われつつあったが、それでも日々の任務を遂行する意志を抱き続ける者は多かった。モナシュも7月下旬の段階で、ヴィク宛の手紙の中で時折郷愁の念を語ることはあったものの、自分たちが作戦を遂行すればオスマン帝国は必ず和平を訴えてくるはずだと考えており、キッチナー陸相がさらなる増援をもたらしてくれることに期待を寄せていた。

 

 6月に本国は新陸軍師団3個(第10・第11・第13師団)の増援を認め、7月には国防義勇軍師団2個(第53・第54師団)の増援も認めたが、船舶の不足のため駐屯地であるレムノス島やインブロス島への到着は遅れた。バードウッドは膠着状態から機動戦に持っていくためにも、5月中旬の段階からアンザック地区におけるサリ・ベアの高地奪取の作戦を提案していたが、ハミルトンはヘレス岬地区での突破を諦めてこの案を採用することにした。アンザック地区の戦力はひそかに増強されることになり、新たに第29インド旅団、新陸軍第10・第13師団隷下の旅団が加わることが決まった。モナシュは7月12日に幕僚たちと前線を視察した後、翌13日には大隊長たちと駆逐艦での視察を行った。19日と21日には旅団・師団長間の会議が開かれ、攻勢開始日は8月6日と決定された。26日には新たに編成された第9軍団長に就任したフレデリック・ストップフォード中将(※当初ハミルトンはジュリアン・ビングやヘンリー・ローリンソンの就任を期待していた)にも会った。7月末日、旅団内ではアルバート・ジャカが最初のヴィクトリア十字章を受勲者となったことが祝われた。

 

 8月攻勢の計画としては、作戦初日の8月6日午後よりヘレス岬地区およびアンザック地区の第1師団の前線「ローン・パイン」で支攻を実施してオスマン側のサリ・ベアへの増援を阻止した後、アンザック地区での主攻を支援すると同時に今後の戦役における補給拠点を拡大するため、夜にはアンザック・コーヴから約6キロ北方に位置するスヴラ湾に第9軍団の2個師団が上陸し(※7月には新式の上陸用舟艇「Xライター」もムドロスに到着し、兵士たちからは「ビートル」とあだ名されて期待が高まった)、内陸の高地に向けて前進するものとされた。主攻においては、まずNZ乗馬旅団およびマオリ分遣隊からなる右翼援護部隊が「ボウチョップス・ヒル」~「テーブル・トップ」に、第13師団第40旅団の2個大隊からなる左翼援護部隊がアジル・デア~ダマクジェリク・ベアに午後10時30分までに進出し、主攻部隊の進軍路を確保するものとされた。主攻部隊としては、ジョンストンのNZ歩兵旅団およびH・V・コックス少将の第29インド旅団(※正規兵かつ山岳戦の訓練経験があるグルカ兵大隊は、有効戦力として期待された)、モナシュの第4旅団が選ばれ、NZ歩兵旅団は右翼攻撃縦隊を担当してサリ・ベアにおけるチュヌク・ベアの高地を第29インド旅団・第4旅団は左翼攻撃縦隊(※総指揮はコックスが務めた)を担当してそれぞれ「Q高地」と971高地を8月7日の明け方までに奪取するものとされた。またこれに対する支攻として、まず夜間に「ジャーマンオフィサーズ・トレンチ」での攻勢を実施した後、高地到達にあわせて7日午前4時30分よりネク(※1981年のピーター・ウィアー監督の映画『ガリポリ』ではスヴラ湾上陸作戦と関連付けて描写されているが、実際にはチュヌク・ベアに到達したNZ軍部隊を支援するための攻勢である)およびポープズ・ヒル、クインズ・ポストの各地点で攻勢を実施、チュヌク・ベアに到達した部隊とともにバトルシップ・ヒルおよびベイビー700を攻略することが決められた。サリ・ベアの高地を奪取することが出来ればガリポリ半島を制圧するための布石となり、ダーダネルス海峡への道は開かれ、戦役の最終目標も達成可能であることが期待された。

 

 作戦計画としては非常に複雑(※主攻と支攻の全てがかみ合う必要があり、奇襲の効果も求められる)かつ野心的ではあったが、主攻を担うモナシュの第4旅団だけをとってみても、多くの懸念事項を抱えていた。左翼攻撃縦隊として971高地を目標とする第4旅団は、敵軍部隊との交戦やその他の不確定要素が生じることも想定されるアジル・デア~アブデュル・ラフマン・ベアの険しい峡谷を暗闇の中、各種装備を所持した上で、不正確な地図を用いて前進しなければならず、加えて右翼強襲縦隊のNZ歩兵旅団のチュヌク・ベアに至るまでの進軍路と比べると、約2倍の距離があった(※第29インド旅団のコックスも、1917年のダーダネルス委員会報告書で第4旅団の進軍路は複雑かつ困難であったことを認めている)。にもかかわらず作戦計画では8月7日の夜明け前まで、実質3時間半以内に約3マイルを進軍して目標に到達する予定となっており、その過酷さの割には驚くほど楽観的なタイムテーブルとなっていた。左翼攻撃縦隊の道案内は、以前にこの地の偵察経験があるNZカンタベリー馬連隊のパーシー・オーヴァートン少佐が担当することになっていたものの[Kinloch, 2005]、アジル・デア周辺の進軍路の偵察は不明瞭なままである点は否めず、不慣れな戦場で旅団・大隊・中隊間の通信が上手くできるのかどうかも確信が持てなかった。

 

 主攻部隊が作戦前から既に損耗状態にあることも大きな問題だった。第15大隊のカナンは後年になって、8月攻勢直前の部隊では未熟練な補充兵たちの割合が高くなっており、悪条件下で長距離行軍を行うことが出来るのかどうか懐疑的であったと告白した。また7月末の作戦協議において、モナシュは軍医たちに旅団将兵たちが作戦行動を行える健康状態なのか否か尋ねたところ、軍医の4名中3名が問題ありと回答した。しかし残りの1名は、将兵たちに健康面の問題があっても重要な攻勢に加わるというモチベーションによってそれを補うことが出来るという見解を示しており、モナシュは結局これに賛同することにした。モナシュ自身は兵士たちの健康や休養の問題に決して無頓着という訳では無かったが、この判断は裏目に出ることになり、1936年に著された第15大隊史の中では、作戦を前にして自らの将兵たちの状態を把握しきれていなかったとして強い批判を受けることになった。

 

 アンザック地区では8月になると弾薬物資の陸揚げが増え、病院船が複数到着するなど、大規模攻勢に向けての準備が進められた。8月2日、モナシュはゴッドリーやコックス、ジョンストンたちと再度駆逐艦に乗って視察を行い、4日にはコックスや道案内のオーヴァートン少佐と会って協議をした。モナシュはもし自分が負傷した際は、第16大隊のポープが指揮を執ることを推薦した。8月4日の夜、アンザック地区には新陸軍第13師団隷下の第38・第39・第40旅団の兵士たちが到着、翌5日には第29インド旅団や第10師団隷下の第29旅団の兵士たちも加わって、アンザック地区の戦力は約37,000人を数えるに至った。モナシュは同日、コックスの司令部でバードウッドとゴッドリー、ジョンストンらと最終協議をした後、従軍記者のビーンにも会って作戦について言及した。夜には大隊長たちと作戦内容について長時間協議を行い、下級将校・下士官たちにも通達を行った。来るべき攻勢では前線指揮官としてのモナシュの力量が大きく問われることになったが、それは同時に、モナシュの軍歴における最大の試練というべきものとなった。

 

 

参考文献

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Malone,William Georgeを参照しました。

 

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ジョン・モナシュの生涯(仮題) ⑧世界大戦 4月25日まで

 1914年6月28日、かつて軍艦「カイゼリン・エリーザベト」に乗艦して訪豪したこともあったオーストリア皇位継承者、フランツ・フェルディナント大公夫妻がサラエヴォで暗殺された。外交交渉を経た7月28日、オーストリアセルビアに宣戦する形で戦争は開始され、ドイツやロシア、フランスも次々と参戦していったが、イギリスでも戦争熱は高まりを見せていた。ヨーロッパから遠く離れた自治領オーストラリアは、9月に予定されている連邦議会選挙に向けたキャンペーンの最中だったが、労働党アンドリュー・フィッシャー党首は「最後の一人、最後の一シリングまで」本国を支持すると宣言、自由党ジョゼフ・クック首相も「帝国が戦争状態にあるならば、オーストラリアもまた然り」と述べ、双方ともイギリス帝国に対する忠誠を強調した(※選挙は労働党が勝利し、9月からはフィッシャーが首相を務めた)。

 

 8月4日、ドイツがベルギーを侵犯したことを理由に、ついにイギリスも参戦を決定した。イギリス本国における戦争熱の現象は、必ずしも一枚岩なものではなかったという見解も強くなってきているとはいえ[井野瀬、2014]、参戦に対する反対意見は多数を占めるには至らず、戦争を避ける唯一の手段があるとすれば、それはカイザーによる世界の覇権を受け入れることに他ならないと見なされた(※大戦中のポスター)。自治領であるオーストラリアも、本国の意向に従って自動的に戦争状態に入ることになった。本国のドイツに対する宣戦布告の知らせが伝えられた8月5日の午後(イギリス時間では5日の夜明け前)、モナシュもかつての勤務先として慣れ親しんでいたポートフィリップ湾のネピアン堡塁から、湾外に脱出しようとしていたドイツ商船「プファルツ」号に対して警告射撃が実施された。「プファルツ」号は脱出を諦めて拿捕されたが、オーストラリアの人々は後年、これを第一次世界大戦におけるイギリス帝国の軍隊による最初の発砲であると強調することになった。

 

 参戦に際してオーストラリアの人々の多くは、イギリス帝国の「偉大な文明」を「野蛮な国」ドイツから防衛することは当然の責務であると考えた。アイルランド自治問題が深刻化していた時期ではあったが、カトリック教会も戦争の大義自体を否定するには至らなかった。「帝国の戦争」参加への懐疑論やジンゴイズムへの反感、反戦的思潮は一部の労働組合社会主義者、女性運動家たちを中心に見られたものの、世論全体においてはかき消されてしまった。モナシュもまた「自由の国オーストラリアを脅かす危難を打倒して帝国に貢献する」防衛戦争であることを、従弟のカール・ロスに宛てた手紙の中で語り、戦争の大義を強く支持していた。またアメリカ在住の従兄弟の一人でドイツへのシンパシーを感じていたグスタフ・モナシュ(※古くから手紙のやり取りをしていたレオ・モナシュの弟。姓のスペルはMonasch)に対しては、オーストラリアで生まれ育った自分にとって忠誠の対象はあくまでイギリス帝国であって、帝国のためにただ責務を果たすだけだと反論した。

 

 開戦後間もなくして、オーストラリア海軍艦艇はイギリス海軍の指揮下に置かれると同時に、2万人規模の海外派兵を本国から認められ、その準備が進められた。市民軍部隊を直接海外派兵することは制度上禁止されていたため、志願兵による海外派遣軍を新たに組織することになった。欧州に向けての海外派遣軍は、ウィリアム・ブリッジズ少将によってオーストラリア帝国軍Australian Imperial Force, AIFと命名された(※オーストラリアが帝国のために捧げる軍隊という意味合いで命名された。カナダやニュージーランドは通常の派遣軍Expeditionary Forceという呼称であるため、オーストラリアの独自性を示すものとしてしばしば強調される)。ブリッジズは当初AIF司令官にかつての上官でオーストラリア陸軍司令官を務めたエドワード・ハットン中将を推薦していたが、これは実現せず、自らが司令官に就任した。ブリッジズの参謀には、オーストラリア陸軍将校として初めて本国のキャンベリー幕僚学校で学んだことで知られるブルドネル・ホワイト中佐が就任した。またウィリアム・ホームズ大佐を司令官とするオーストラリア海陸派遣軍Australian Naval and Military Expeditionary Force, AN&MEFも編成され、こちらはドイツ領ニューギニアの占領任務にあたることになった。募兵は8月10日より開始され、1914年中には52,561人を集めるに至った。これは開戦時の熱狂として喧伝されることもあるが、実際に募兵状況がピークとなったのは、ガリポリ戦役開始後の1915年(※7月が最高で約36,000人が志願、年内では165,912人が志願)のことである。また内陸部のブッシュ出身の兵士が「生まれながらに卓越した射手・騎手」であるとして、オーストラリア兵の典型的人物像として提示されることがあるが、当時オーストラリアは世界でも有数の都市への人口集中が進んだ地域であったため、必然的に都市出身者が多数を占めていた。志願兵たちの入隊動機も、帝国に対する忠誠や責務といった愛国的なものに限らず、初めて参加する戦争に冒険心やロマンを感じたから、給料目当ての経済的な理由(※「日給6シリングのツーリスト」という冗談も生まれた)、日々の退屈で苦痛な仕事から脱却したいから、友人に誘われたから、あるいは(イギリス本国出身者たちにとっては)本国まで無銭旅行が出来るからなど実に多様であった[Gammage,1974][Stanley, 2005]。

 

 派遣軍第一陣の志願兵たちは、3個歩兵旅団(※第1旅団はニューサウスウェールズ、第2旅団はヴィクトリア、第3旅団は他の4州の志願兵で編成)と1個乗馬旅団へと編成された。各歩兵旅団によってオーストラリア第1師団が編成され、AIF司令官ブリッジズが師団長を兼ねた。ブリッジズは南ア戦争に少佐として従軍した経験はあったものの、経歴としては参謀畑での活躍の方が目立っており、前線指揮官としての実力は未知数であった。第1~第3旅団長にはそれぞれヘンリー・マクローリン大佐(※法律家で市民軍将校、36歳で旅団長としては最年少)、ジェイムズ・マッケイ大佐(市民軍将校で元防衛相、モナシュの友人)、イーウェン・シンクレア=マクラガン大佐(※本国正規軍将校であったがブリッジズに招聘され、ダントルーン士官学校教官をしていた)が就任した。また第1乗馬旅団長には、1896年より正規軍勤務で南ア戦争に従軍経験があるハリー・ショヴェル大佐が就任した。派遣軍第一陣は、NZ派遣軍第一陣 (※「メインボディ」Main Bodyと呼称された。タスマン海を渡る際には、日本の巡洋戦艦「伊吹」も護衛を務めた)と共に西オーストラリアのアルバニーに集結し、11月1日に出発するに至った。派遣軍第一陣は当初、イギリス本国で訓練を受ける予定だったが、冬季のソールズベリーの演習場はこれ以上の部隊を受け入れる余裕がなくなっていたこと、またオスマン帝国の参戦が決まりスエズを防衛する必要があったことが関係して、12月3日にエジプトに到着したところでここに留まり、訓練を行うことになった。

 

 8月初旬よりモナシュは市民軍の召集に備えていたが、当初は英国科学振興協会の会議に関する懸案事項や、訪豪していた義弟のローゼンハイン一家を歓待することに追われていた。すると8月9日、友人のマッケイから電話で連絡があり、自らがAIFの旅団長に選出される見込みである旨を伝えられると同時に、この時自身が就いていた検閲部長(※本国陸軍省が戦時警戒を強化していたことを踏まえ、ブリッジズが提案した)の後任ポストを持ちかけられた。モナシュはAIFの他のポストまでの繋ぎの役職と判断した上で17日にこれを承諾し、交戦国に関するあらゆる通信や新聞報道の統制を管轄することになったが、マッケイには決して閑職ではない職務だと念を押された。就任後モナシュは妹のマットに対して、ドイツやオーストリアの親族に手紙を出したりしないようにと注意した。モナシュは戦時中の検閲や情報統制は必要不可欠であると見なしていたが、英国科学振興協会のために訪豪していたドイツの学識者たちを一時拘禁する心苦しい職務にも関与しなければならず、自らの出自の関係もあって仕事内容には緊張感や不安も強く感じたという。結局モナシュは4週間後には、検閲部長職をホール大佐と交替することになった。

 

 9月、募兵が順調であったことから派遣軍第二陣の準備として、新たに第4旅団が編成されることになった。モナシュは企業や大学、各種委員会・団体の役職を数多く抱えていたことを理由に、当初は旅団長のポスト就任のために主体的に動くことはなかったが、実際に旅団長候補に推されると、9月15日にこれを受け入れた。陸軍参謀長のJ・G・レッグ大佐は候補者として49歳のモナシュと56歳のニューサウスウェールズ市民軍のG・R・キャンベル大佐をジョージ・ピアース防衛相に提案していたが、結果的には年少のモナシュの方が選出された。市民軍第13旅団長時代を知る将校の中には、モナシュの選出を歓迎する者も見られた。義弟のローゼンハインは、「戦争が終わる頃にはサー・ジョン・モナシュ少将となっていることでしょう」と冗談交じりに語った。

 

 第4旅団の出立準備には約7週間を要するだろうと見なされたが、モナシュはまず旅団副官としてニューサウスウェールズの市民軍将校のJ・P・マクグリン中佐、幕僚として正規軍将校のC・H・ジェス大尉を選出し、彼らを自宅「アイオナ」での夕食会に招待して協議を行った。モナシュはマクグリンとはエンジニア仲間ということもあってただちに友人となり、彼の資質や熱情を認めるに至った(※モナシュと並んで撮った写真)。第4旅団を構成する大隊は、第13大隊(大隊長グランヴィル・バーネイジ)はニューサウスウェールズ、第14大隊(大隊長リチャード・コートニー)はヴィクトリア、第15大隊(大隊長ジェイムズ・カナン)はクイーンズランドタスマニア、第16大隊(大隊長ハロルド・ポープ)は西オーストラリアと南オーストラリアと編成地がバラバラであり、連邦成立からまだ14年目であることもあり、当初は部隊としての連帯感が希薄だった。各大隊の編成先では銃剣術、筋力トレーニング、手旗信号、長距離行軍、射撃の基礎訓練が行われ(※第15大隊の兵員は、85%が市民軍の訓練も経験していなかった)、その際のメソッドには軍事ジャーナル記事も参照された。

 

 第4旅団の編成や人事が進められる一方、10月になると「モナシュはドイツ生まれドイツ育ちで英語が上手く話せず、姓のスペルをMonashに改めたのはごく最近のことである」から旅団長としては不適任であると主張する、荒唐無稽な内容の手紙がピアース防衛相に(※果ては本国のキッチナー陸相にも)届けられたことがあった。ピアースはモナシュに信頼を寄せておりこれを一笑に付したが、モナシュの指揮官就任に対する懐疑や中傷の動きはごく一部では発生していた。ドイツ系の人々への圧力はモナシュに限らず、ブルッヘやジェスら将校、その他の下士官兵士たちも直面した問題となった。本来戦時統制ではイギリス帝国臣民であるか否かが問われ、その出自は問題とされるべきではなかったのだが、メルボルン市内では人々が反ドイツの示威行進を実施したり、ドイツ系体育協会Turnvereinの窓が破壊される事件が報告されるなど[Williams, 2003]、世論においてはドイツ系に対するヒステリックな敵意は確実に存在していた。モナシュ自身は偏見やゴシップには動揺しないよう努めていたが、従兄のアルベルト・ベーレントの一家や叔母のウルリケ・ロス(※家庭内ではドイツ語も使用していた)のことは常に気がかりであった。

 

 第4旅団の訓練開始は予定よりも先延ばしとなったので、モナシュは短期間ではあるがマウントバッファローに出かけたり、義弟のローゼンハインと一緒に過ごすことが出来た。11月下旬にかけて、第4旅団の隷下部隊がヴィクトリアへの集結が完了した。しかしモナシュは第13・第14大隊を視察した際、ヒゲや髪の手入れをせず、酷く汚れた制服を着たままで行進するなど、身だしなみがいい加減な兵士たちも含まれていることに気づいた。大隊指揮官たちは再発防止を約束したものの、戦闘部隊としての軍紀徹底を重んじるモナシュは、将兵たちの教育を行う必要性を痛感した。その後11月末にモナシュたち第4旅団はメルボルンから約10マイル離れたブロードメドウズの訓練キャンプへと移動した。はじめにトイレや水道の設備準備に時間を要したり、シラミの発生が報告されるなど、訓練キャンプの環境は良好ではなかったが、第一陣と同様に第1師団のホワイト参謀長のプログラムに基づいて訓練が行われた。基礎訓練に加えて野戦築城、射撃、戦闘隊形、夜間の作戦行動にも重きが置かれた。将校・下士官たちには地図の読み方を含めた任務の指導が行われ、大隊長たちとは時折協議を開いた。その際モナシュ自身のパンフレット「中隊指揮官への100のヒント」が活用され、軍紀を徹底させるために第4旅団の全ての将校・下士官に配布されるに至った。12月15日に大隊間の模擬戦闘を行ったが、戦前の市民軍での演習と同様、偵察の不徹底、連絡通信の緩慢さといった課題が出た。12月17日にはブロードメドウズ~メルボルンの22マイルの距離を往復行軍した(※行軍の様子)。連邦総督のロナルド・マンロウ=ファーガソンは旅団兵士たちの身体や軍紀が良好であることを評価し、後日イアン・ハミルトン大将に対して「第4旅団の兵士たちは新兵ではなく古参兵のように見える」と通知を送った。海外への出発を前にして、モナシュは強化コンクリート会社のギブソンメルボルン・ルナパークの重役たち、ワラビー・クラブ会員たちとは送別の食事会を開いた。そして出立の直前には、かつて駆け落ちを企てた相手であるアニー・ガブリエルとも再会し、別れの挨拶を交わした。

 

 12月22日、第4旅団はブロードメドウズの訓練キャンプを引き上げ、海外に向けて出航するべくメルボルンまで行軍した。しかし雨後の泥の中行軍を実施したため、一部兵士たちの中にはエジプトやアンザック・コーヴに着いてからでも、制服にブロードメドウズの泥の跡がついたままの者もいたという。同日、第4旅団を含めた派遣軍第二陣はNZ派遣軍増援と合流するため、西オーストラリアに向けて出発した。メルボルン港には約4000人が集まって第4旅団の出航を見送った。この時点では想定できなかったことだが、以後5年間に渡りモナシュはオーストラリアの外で過ごすことになった。第二陣はモナシュが乗る輸送船「ユリシーズ」号を旗艦に、第4旅団、グランヴィル・ライリー准将の第2乗馬旅団、ブリッジズの第1師団補充兵による約10500人、輸送船16隻で構成された。アルバニーからはNZ派遣軍補充兵約2000人、輸送船3隻が加わったが、ココス諸島でオーストラリア巡洋艦「シドニー」によりドイツ巡洋艦「エムデン」が撃破された後であったので(※戦中の代表的愛国歌であるAustralia Will be Thereの2番は、この戦いについて歌っている)、護衛戦闘艦には潜水艦AE2(のちガリポリ戦役においてダーダネルス海峡突破を達成するが、4月30日にマルマラ海で沈没)が1隻ついているだけだった。船旅ではトイレが流れないなど多くの困難を伴い、モナシュは船外に落ちてしまうのではないかという不安に駆られたこともあった。一方で兵士たちの座学や小銃訓練、将校・下士官たちの教育は継続され、モナシュも参謀任務や戦術教範の確認のため、将校たちに講義や討論を実施する機会があり、第13大隊のW・A・フォーサイス大尉からは「今までの経験でこれほど効率的に講義が出来る将校には会ったことがない」と賞讃された。翌1915年1月5日の講義では、西部戦線におけるイギリス軍の戦闘報告書も扱った。

 

 1月13日には寄港地のコロンボに到着し、現地司令官のH・H・L・マルコム准将から歓迎を受けた。兵士たちは許可なく下船することが禁止されていたが、翌14日の朝、水上警察が目を離したすきに210人ほどの兵士が勝手に錨鎖を下り、船団の周りに集まっていた現地住民の小舟に乗り移って、酒場やホテルがある陸地に向かってしまうというトラブルが発生した。15日の夜明けまでに下船者の多くが確保され船団は出航したが、20人は戻ってこなかった。不品行に走った兵士たちの多くはモナシュ指揮下の兵士ではなく第1師団の補充兵たちで、モナシュも第二陣の将兵全体から見れば少数の割合であることを強調したが、マルコム准将の報告書では兵士たちが深酒や上官への暴力に走ったとして悪行が誇張されて伝えられていたこともあり、後日モナシュはその弁明に苦労してしまった。その後の航海中の生活は、将兵たちにとっては想定したよりも退屈なものにはならなかった様で、教練の合間にはチェスや船上クリケットに興じたり、(軍楽隊員は)演奏練習をしたり、読書や物思いにふけったり、甲板でくつろいだりした。モナシュも日々の職務で多忙を極める一方、若干ホームシック気味になり、エジプトの駐屯部隊として戦争を終えてしまうのではないか、留守中にヴィクは家計をちゃんと切り盛りするだろうかといった不安にかられるなどした。

 

 1月29日午前、派遣軍第二陣はモナシュが「帝国の驚異」と表現したスエズ運河に到着した。船団の到着は英仏の艦艇が護衛し、両岸に配置されていたグルカ、シク、ベンガル槍騎兵、本国のランカシャー国防義勇軍Territorial Forceの兵士たちは歓呼の声をあげた。今までオーストラリア大陸を出たことがなかった兵士たちにとって、多種多様な出自からなる帝国の軍隊(※いわゆる「帝国の総力戦」[木畑, 1987, 2014])を目の当たりにした衝撃は大きく、帝国のグローバルな性格を実感する瞬間となった。1月31日にはアレクサンドリアに上陸、翌日にはカイロに至り、その後第4旅団はカイロから5マイル離れたヘリオポリスに宿営地を置いた。オーストラリア第1師団は、そこから15マイル離れたメナを宿営地としていた。

 

 第4旅団とショヴェルの第1乗馬旅団、NZ歩兵旅団(※旅団長はフランシス・ジョンストン大佐。NZ出身だがイギリス正規軍将校)およびNZ乗馬旅団(※旅団長はアンドリュー・ラッセル大佐。NZ出身で若い頃にサンドハースト士官学校で学んだ経験はあったが、戦前はNZ市民軍乗馬部隊指揮官・農場経営者をしていた)は、アレクサンダー・ゴッドリー少将(※ニュージーランド派遣軍NZEF司令官。戦前はNZ陸軍司令官として市民軍の組織に尽力していた)を師団長とするニュージーランド・オーストラリア師団New Zealand and Australian Division, NZ&Aを編成した。しかしながらNZ&A師団は、オーストラリア兵たちの間では「“オーストラリア”・ニュージーランド師団」と、NZ兵たちの間では「5000人のオーストラリア兵を含むニュージーランド師団」と呼称されたりもした[Stanley, 2005]。同師団はオーストラリア第1師団と共に、オーストラリア・ニュージーランド軍団Australian and New Zealand Army Corpsを編成、軍団長には南ア戦争時にはキッチナーの参謀を務め、大戦前は英印軍を率いていたウィリアム・バードウッド中将が就任した。軍団の正式名称はオーストラリア・ニュージーランド軍団であるが、軍団司令部の書類では「アンザック」ANZACという略称が用いられるようになり、次第に兵士たちやメディアの間でも浸透していった。そして「アンザック」という言葉は間もなくして、部隊名という領域を超えた意味合いを持ち始めることになる。

 

 バードウッドとゴッドリーは第4旅団到着後の最初の日曜日にこれを観閲しモナシュを丁重に出迎えた。モナシュはバードウッドに初めて会った際、小柄で軍人らしくない、神経質なところもある印象を抱く一方で、軍人としての職務は充分に把握していると評した。一方バードウッドはモナシュに対し、知識や観察眼は非凡ではあるが、指揮官として「充分な身体的な活発さを有しているとは思えない」ため実戦でその知見を活かせるかは疑わしいという印象を抱いた(モナシュのドイツ系のルーツに関しては若干の調査はしたが、不問とした)。モナシュはゴッドリーに対しては、上品さや大らかさを見出す一方、軍人精神はバードウッドには及ばず、技能面は性格で補っていると評した。ゴッドリーはモナシュに対し、非常に精力的で有能な指揮官という印象を抱き、第4旅団を自らの指揮下に置けることを非常に喜んだという。モナシュは友人のマッケイの話などから、オーストラリア第1師団は激務に加えて将校間の関係が良好でないように映っていたようで、NZとの合同軍ではあったが、NZ&A師団所属となったこと自体は幸運であると感じた。

 

 第4旅団を含めたNZ&A師団は2月10日と2月12日に本格的演習を実施し、忍耐力や自己犠牲、イギリス帝国やオーストラリアへ尽くすことへの教化も図られ、モナシュはその成果に手ごたえを感じた。マクグリンやジェスといった部下たちへの信頼感も高め、モナシュは特にマクグリンの副官としての資質を高く評価した。その一方で、両者とも「オープンカーからはみ出てしまいそうな」肥満体であったことから、後年のホワイト参謀長の証言では「トゥイードルダムとトゥイードルディー」のようであると揶揄されたりもした。2月15日にNZ&A師団がカイロに移動した際には、「第4旅団はオーストラリア軍最良の旅団である」というバードウッドの評価をゴッドリーから聞かされた。3月29日には地中海派遣軍Mediterranean Expeditionary Force, MEF司令官に就任していたイアン・ハミルトン大将がNZ&A師団を視察し、モナシュとは1年前にリリーデイルの演習で協議した想い出について語り合うなど好印象を得た。2月下旬から3月にかけては乗馬部隊や砲兵を交えた機動戦や陣地攻撃を意識した演習を行い、複数の課題点を挙げつつも先に編成された第1師団との能力差を埋めることが出来たと感じた。しかしNZ&A師団の訓練は南ア戦争の経験を踏まえた戦前のオーソドックスな内容をベースとしており、歩兵と砲兵の協同強化など、当時直面していた西部戦線の報告・戦訓を十分に反映させた訓練を実施出来たとは言い難かった。野戦築城の訓練は実施されてはいたが、手榴弾やペリスコープといった装備は用意されず、長期塹壕戦を戦うことは考慮されていなかった。また本国の軍需産業がまだ整備段階にあったこともあり、この時点では訓練で使用する弾薬にも制限をかけざるを得ず、アンザック軍団長のバードウッドは砲兵が特に未熟練である点を嘆いた。ごく短期間で編成されたことに伴う師団内の装備の不足、給与支払いの遅延など、問題点が山積していたことは明らかであった。

 

 オーストラリアやニュージーランドの兵士たちにエジプトの社会や文化がどのように映ったのかについては、既に多くの証言が紹介されている[Gammage,1974][Adam-Smith, 1978][Pugsley, 1984]。聖書世界や古代遺跡に対する憧憬から、兵士たちの中には訓練の合間にラクダに乗ってスフィンクスの前で記念写真を撮ったり、ピラミッドに登頂して(※従軍記者のビーンも登頂した)自らの名前を刻んだりする者(※既にナポレオン軍の兵士たちのものが刻まれていたという)もいたが、その一方で市街の様子や現地住民に対する幻滅や偏見の感情もまた存在していた。モナシュもエジプトを「砂と罪悪、悲哀、梅毒の地」「全てのものが汚らしく悪習を放つ地」であり、「劇場もオペラも華やかさもない」とヴィクに宛てた手紙の中で吐露し、メンフィスを訪れた時もアラブ人ガイドやベドウィンたちへの不快感を露わにした。一方でカイロ市内のユダヤ教ラビと交流したり、各種博物館を訪れるなど新鮮な体験もした。またこの時期、モナシュはオーストラリアジャーナリスト協会から選出された公式従軍記者で、のち公刊戦史の編纂や戦争記念館設立を主導することになるC・E・W・ビーンに初めて会った。しかしビーンの関心や交友関係は第1師団に偏っており(※とりわけホワイトに関しては「模範的な参謀将校」であると絶賛していた)第4旅団への関心は薄かったため、モナシュは派遣軍第二陣に出発の時点から同行していた『アーガス』記者のC・P・スミスらと交流することの方が多かった。3月下旬、モナシュは副官たちとルクソールに出かけたが、この時はエジプト社会への幻滅の感情を伴いつつも、「今まで見た中で最も素晴らしく印象深い光景」であったとして古代の歴史や文化に強い感銘を受け、ヴィクに対しても是非ともこの光景を見ておくべきだと力説した。メルボルンの銃後では、ヴィクとバーサは当時司法長官だったウィリアム・モリス・ヒューズと交流する機会を得る一方で、ヴィクは負傷馬のためのパープルクロス基金の運動に参加したり、ベルギー国旗の日の準備のために積極的に活動しており、バーサも大戦中は看護助手として働くことになった。ギブソンから仕事関係の連絡が来ないことにモナシュは不安になったが、所望した母娘の小写真が届いた時は大いに喜んだ。

 

 オーストラリアからの派遣軍第三陣が到着した3月初旬になると、派遣軍第二陣の兵士たちはコロンボ以外の寄港地でも乱痴気騒ぎを起こしていたのではないか、という誇張された噂が流れ始めた。モナシュはこれについて指摘されるとピアース防衛相に対し、コロンボでの一件は認めつつも、それ以降はエジプトに到着するまでの間、旅団の軍紀は徹底しており問題は生じていないことを力説するメッセージを送った。しかし駐屯が長くなるにつれて、オーストラリア兵たちの間ではエジプトでの軍隊生活は次第に倦怠的なものとなっていた。兵士たちによる深酒や暴力、無断離隊、性病の拡散といった諸問題も発生しており、2月には131名の軍紀違反者と24名の性病罹患者がまだ戦場に赴く前の段階でオーストラリアに帰還するという事態になった[Gammage, 1974]。

 

 モナシュは4月初旬に発生した「ワジルの戦い」Battle of the Wazzir(Wozzer, Wassa)の裁定という不本意な仕事にも苦労させられた。4月2日の聖金曜日の夕方、酒の値段や性病をめぐる問題に憤慨し、酔っ払ったオーストラリアとNZの兵士たちが、カイロの売春街で略奪や建物の破壊・放火行為を行った。現地消防隊が出動したが兵士たちはホースを切断するなどして消化を妨害し、出動した騎馬憲兵隊にまで攻撃を加えたため、着剣した国防義勇軍ランカシャー連隊の兵士たちまで動員される事態となった[Gammage, 1974]。オーストラリア兵はNZ兵に(※従軍記者のビーンも日記の中で暴動の原因はNZ兵にあると主張した)、NZ兵はオーストラリア兵に責任があると言って譲らなかった。モナシュも一員となって軍法廷が直ちに開かれ、約30の目撃証言の審議や現場調査が行われた。モナシュはこのような事態は前代未聞だと憤慨したが、軍法廷での真相調査は遅れてしまった。被害総額は1700ポンド相当とされ、オーストラリアとニュージーランドが賠償を行った。

 

 1915年1月にロシアからオスマン帝国に対する攻勢を求められたことを契機に、ダーダネルス海峡を対象とした作戦準備が進められていた。膠着した戦局の打開のためにオスマン帝国を戦争から脱落させ、ロシアの負担を軽減してバルカン諸国を協商国側に引き込むという遠大な計画であった。しかし海軍力でダーダネルス海峡を制圧してコンスタンティノープルに圧力を加える作戦は、3月18日の攻撃失敗で頓挫してしまった(※翌日も攻撃を継続していれば、砲弾が枯渇していたオスマン側を降伏させることが出来たという伝説も発生した[Erickson. 2010])。そのためアンザック軍団を含めた5個師団・約75000人からなる地中海派遣軍と海軍による協同作戦が立案されることになった。司令官に就任したイアン・ハミルトン大将が地中海に到着した3月半ば以降から、兵士たちの間では新たな作戦が実施されるという噂が生じ始めており、第4旅団でも装備や物資の整備確認が進められた。3月22日、ハミルトンは戦艦「クイーン・エリザベス」上で海軍のジョン・デ・ロベック提督と協議し、陸海協同による上陸作戦は正式決定された。

 

 上陸作戦の主攻担当には正規軍第29師団が選ばれた。ガリポリ半島の先端、ヘレス岬の5箇所に部隊を上陸させ、セド・エル・バハルとクリシアをおさえた上でアチババの高地を占領することが目標とされた。同時に支攻としてヘレス岬地区から10数マイル北方のガバ・テペアルブルヌ間の地区にアンザック軍団を上陸させて海岸堡を確保後、チュヌク・ベアから「971高地」(コジャ・チェメン・テペKoja Chemen Tepe)にかけての高地を占領、各師団はガバ・テペから内陸にマル・テペまで進出し、オスマン側のヘレス岬地区への連絡を分断するものとされた。アジア側のクム・カレにはフランス東方派遣軍Corps Expeditionnaire d'Orientの第1植民地師団が、半島北方のサロス湾のブレアにはイギリス海軍師団(※著名な参加者としては詩人のルパート・ブルック、のち第二次世界大戦でNZ派遣軍司令官となるバーナード・フレイバーグなどがいた。ブルックは作戦開始直前の4月23日に病死してしまうが、後世に「英雄的でロマン主義的な」ガリポリ戦役を象徴する存在としてしばしば取り上げられることになる)が陽動作戦を行うものとされた。

 

 船舶200隻以上が動員され、作戦・戦略次元において非常に野心的な上陸計画ではあったが、後年のノルマンディー上陸作戦などと比べると、あまりにも突貫工事の立案である点は否めなかった(※司令官に就任したハミルトンが本国を出発してから実際に上陸作戦が決行されるまでは、43日間しかなかった)。準備された軍用地図は旧いもので、エジプトでは作戦に関する情報統制も不十分なままであった。上陸作戦には新開発の上陸用舟艇「Xライター」の必要性も指摘されていたが、投入されたのは8月攻勢になってからであり、アンザック軍団の各師団やイギリス海軍師団では砲兵戦力が弱体であることが問題視されていた。エジプトやマルタ島の軍病院では約5000床が確保され、病院船4隻が動員されていたものの[Lee, 2000]、上陸作戦でどれ程の損害が生じるかを正確に予測するのはこの時点では難しく、兵站に関しても遅延や備蓄不足の問題が発生していた。しかしオスマン側の戦力を過少に見積もっていたことから、新兵の植民地部隊でも任務をこなせるだろうという楽観的な見通しや、古典古代の神話や歴史と縁深い地であることに対するロマンティシズムやヒロイズムが、参加将兵たちの間では漂っていた。司令官のハミルトンも困難な任務であることは認識しつつも、当初割り当てられた約75000人という兵力で作戦を遂行することには異議を呈さなかった。

 

 4月3日、ゴッドリーからの指令で乗馬部隊を除いたNZ&A師団のエジプトからの移動が決定した。輸送船13隻が用意されたが、ゴッドリーが乗船したのが「リュッツォウ」号であったことが示すように、その多くはドイツから接収した商船であった。モナシュは自らの旅団兵士たちの身体や規律は良好で、士気は高いことをオーストラリアのマンロウ=ファーガソン総督に報告し、来るべき任務を遂行しようという熱情を抱いた。しかし実際には、第4旅団の本格的訓練期間はわずか2か月間に留まっており、第1・第2旅団の3か月半、第3旅団・NZ歩兵旅団の2か月半よりもさらに短かった。4月11日、第4旅団は宿営地を離れてアレクサンドリアに移動した。4月13日にレムノス島に向けて出航し、兵士たちはオスマン帝国を対象にした作戦決行が近いことを悟り始めた。カルパトス島やロドス島の地域を通過するエーゲ海の船旅は平穏で、モナシュはオリンポス山の美しさを書き留めるなどした。

 

 4月15日に到着したレムノス島のムドロス港には多くの艦艇が集まっており、数日に渡り装備を持ったままでの縄梯子の昇り降り、ボートによる上陸の訓練が行われたが(※訓練の様子)、重要な作戦を控えている割には付け焼刃な訓練内容であったことは否めず、4月20日に視察したモナシュはその点には不安を抱いた。4月21日は悪天候のため会議は開けず作戦決行日の延期が決まったが、モナシュは作戦書類の作成を行った。4月22日午後7時、モナシュは第4旅団に最初の実戦作戦指令書を布告し、第1師団とNZ歩兵旅団に続く形でガバ・テペと「フィッシャーマンズ・ハット」の間の海岸に上陸する旨が確認された。4月23日、作戦開始は4月25日であることが正式に確認された。作戦を控えてモナシュの幕僚のジェスは、「人生において最も重要な日」になると高揚したという。またモナシュはこの日、待ちに待った家族からの手紙に喜ぶ一方、もし自分が戦死した場合のために、ヴィクとバーサへのメッセージを準備した。4月24日、モナシュはNZ&A師団内の会議のためにカッターに乗って出かけたが、乗り心地が悪く水しぶきですっかり濡れてしまった。それでもヴィクに宛てた手紙の中では、今度の作戦は「オーストラリアの栄光として歴史に残り、世界全体を奮起させる」ものになるだろうと力説していた。同日の午後、アンザック軍団の上陸第一波を乗せた船団がムドロスを出航し、ガリポリ半島を目指して北東に移動した。作戦を前にして懸念されるべきことは数多かったが、兵士たちの士気は高く、コンスタンティノープルまで到達せんと意気込む者さえいた。しかし実際には、ガリポリ半島の戦場における、長い8か月間が始まることになった。

 

参考文献

 

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Dictionary of New Zealand Biography

Freyberg, Bernard Cyril/Godley, Alexander John/Russell, Andrew Hamiltonを参照しました。

 

オーストラリア辞典

アンザック神話オーストラリア帝国軍 (エイアイエフ)クック、ジョゼフピアス、ジョージ・フォスターヒューズ、ウィリアム・モリスビーン、チャールズ・エドウィン・ウドロウフィッシャー、アンドルーマンロウ=ファーガソン、ロナルド・クロファードを参照しました。

 

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ジョン・モナシュの生涯(仮題) ⑦社会の柱石を目指して 【大戦前まで 終】

モナシュは年に1000ポンドの割合で負債の返済に努める必要があったが、1906-08年にかけてはオーストラリアの景気は好転が見られていた。強化コンクリート会社も事業を拡大しており、モナシュは妹のルーに宛てた手紙の中で「破滅の可能性はなくなった」と語った。1905年より通常のコンサルティングや訴訟関連の仕事はやめてしまったものの、1906年より会社が請け負うようになった事業は、橋梁、タンク、排水渠、大学施設、郵便局、倉庫、サイロ、貯水池など非常に多岐に及んだ。メルボルン大学出身の助手エンジニアを4人雇うなど、スタッフの強化も図られた。1908年の最初の2か月は、かつてないほどの案件を抱え、モナシュは余暇を楽しむ間もなくなってしまったが、それでも収益は上がっていった(裕福になりかつ多忙であった関係で、1907年12月に友人の政治家ジョン・マッケイJohn Mackeyからヴィクトリア警察長官のポストを持ち掛けられた際はこれを断っている)。滞納金を支払うことで、ロンドンの土木エンジニア協会へ復帰し、準会員から正会員への昇格も実現した。

 

1906年6月にはデヴィッド・ミッチェルとジョン・ギブソン、牧羊業者のC・H・アンガスの出資の下、E・H・ベイクウェルを取締役として南オーストラリアに子会社を設立した。1907年より同会社はポート・ヴィクターの鉄道橋やアデレード港の埠頭、商業施設等の事業を手がけた。モナシュはコンサルティングエンジニアの立場から、会社の収益の2.5%を獲得することが出来た。ここまでのモナシュの成功は、ミッチェルとギブソンの力によるものが大きかった。1916年にミッチェルが亡くなった際には、自身が苦境の時期に助力してくれたことを忘れることは出来ないという思いを強調し、その死を悼んでいる。ギブソン(弟のロバート・ギブソンはのち連邦銀行総裁となる)はスコットランド出身の工業化学者として1890年よりミッチェルのコンクリート事業に協力していたが、モナシュは彼に対しても、自身のビジネス再建を支援してくれたことに深く感謝する言葉を贈った。会社の職工長の立場にあったアレックス・リンチもまた、モナシュの片腕として尽力した。

 

サンフランシスコ地震の復興事業はコンクリートが主流で行われたということもあり、強化コンクリートに対する抵抗感は薄れていったが、従来の建設業者や職人たちの抵抗は未だ存在していた。モナシュは1907-08年にかけてヴィクトリアエンジニア協会や王立ヴィクトリア建築士協会、ヴィクトリア化学協会などで広報を行い、懐疑的な建築士たちに働きかけた。その際、義弟のローゼンハインはイギリスにおける強化コンクリートの使用事例を提供した。しかしプレストンの貯水池事業では、請負をめぐって大きな論争となった。建設委員会は強化コンクリート会社の入札を認めるつもりであったが、他の建設業者や建築家協会が長きに渡り反発を続けた。1908年5月の『ビルディング』誌では強化コンクリート会社は建築家や建設業者の立場を不当に奪っており、オーストラリアの建築業界は重大危機に陥っているとまで書きたてられた。建設委員会の給水工学エンジニアのE・G・リッチーも、強化コンクリートに懐疑的で欠陥が生じることを危惧していた。委員会ではモナシュの評判を落とすために、割目の入ったコンクリート写真が提出されたこともあった。しかし1910年初頭にかけてモナシュは聴聞会を闘い続け、最終的には強化コンクリート会社に有利な形で仲裁がなった。

 

メルボルン公共図書館のドーム(読書室)建設事業の件も、モナシュにとっては痛手となった。当時の図書館長で友人のエドマンド・アームストロングは、大英博物館アメリカ議会図書館のようなドーム型の読書室建設を提案し、基本設計はN・G・ピ―ブルズ (ベイツ・ピ―ブルズ・アンド・スマート社)が担当することになった。詳細構造についてはモナシュも参与しており、強化コンクリート会社の入札も認められる見込みであった。ピ―ブルズとも一緒にバッファローに出かけるなど親交を深めていた。ところが建築家協会は図書館に代理人を送り、設計の再検討と一般競争入札の実施を図書館理事に対し要求した。図書館側はモナシュに知らせることなしにこれに譲歩したため、モナシュは憤慨した。その結果1909年5月、強化コンクリート会社に替わってスワンソン兄弟とイングランドのトラスド・コンクリート・スチール社の入札が決定、カーン式建築を採用して再設計された建物は、一時的にではあるが世界最大の強化コンクリートによるドームとなった。落胆と立腹が大きかったモナシュだったか、ピーブルズとの親交は以後も継続した。なお度々批判された強化コンクリート建築であったが、1910年に特許が事実上開放され、広く浸透することになった。

 

モナシュの年収は1907年には約2000ポンドほどであったが、1909年には約7000ポンドにまでなった。モナシュは収支計算を入念にまとめており、1908年には3146ポンド、1910年には14097ポンド、1913年には30000ポンド以上の財産を有するに至った。メルボルンのオースティン病院や救世軍への寄付も始めた。経済的に余裕が出てきたこともあり、モナシュは1907年2月、当時ノイローゼ気味になっていたマットをルーたちがいるヨーロッパへと旅行させることにした。ルーの夫ローゼンハインは、弱冠30歳で国立物理学研究所の冶金・冶金化学部の部長になっていた。憂うつや嫉妬の感情から当初はルーの夫妻と上手くいかなかったが、関係は次第に良いものになっていった。マットをヨーロッパに長期滞在させる話も出たがモナシュは却下し、渡欧は2~3年おきに行うことになった。しかしこの時のマットの滞在は18か月に及んだ。

 

1907年のモナシュの市民軍勤務は、要塞砲兵隊司令官に就任できなかったことから不満を伴ったものとなった。しかし旧友で連邦防衛相も務めたことがあるジェイムズ・マッケイJames McCay大佐は1907年12月、新設のオーストラリア陸軍情報部(市民軍将校で構成され、マッケイが指揮していた)のヴィクトリア管区長のポストをモナシュに持ちかけてきた。モナシュは市民軍のキャリアに新たな可能性が見いだせると考え、上官のホール大佐とも相談したうえでこれを快諾した。1908年3月7日付けでモナシュは中佐に昇進し(「モナシュ少佐」としての期間が長かったので、その通称がすっかり定着してしまっていた)、砲兵隊司令官のハンビー中佐に新たなポストに就くことを几帳面に報告した。モナシュの後任の中隊指揮は親友のファーロウがとることになり、ノースメルボルンの将校たちは喫煙会を開いてモナシュを見送った。喫煙会の中のスピーチでは、モナシュは要塞砲兵隊に21年間勤務したことを感慨深げに語った。結果的に要塞砲兵隊勤務は、モナシュにとってオーストラリアの市民軍兵士たちの性格を把握し、如何にして彼らを指揮するべきかを考えさせる場所としての役割を果たし、軍隊指揮官モナシュの原点の一つとなった。

 

オーストラリア陸軍情報部は1905年に情報部長に就任したW・T・ブリッジズ中佐の提案によって設立された。ブリッジズはH・G・ショヴェル中佐やC・B・B・ホワイト少佐ら正規軍将校たちとエドワード・ハットン少将以後の軍制改革を主導していた。1907年植民地会議における帝国参謀部の設立に基づいて、ブリッジズは将来的には参謀部設立を構想していたが、情報部はその布石と見なされていた。情報部の主要任務は、オーストラリア内外の地誌や軍事的資源に関する情報を集め、戦略戦術上の地図作製および計画の立案を行うことであったが、特に本格的な軍用地図にも事欠いていた点は、深刻な事態であった。1909年に参謀部(初代参謀部長はブリッジズが就任)が設立されると、情報部はその影響下に置かれることになる。モナシュは1913年半ばまで、そのヴィクトリア管区長の役職に留まることになった。

 

1909年1月、メルボルンで初めて情報部のオーストラリアの防衛に関する講義が行われ、その殆どをブリッジズとマッケイが担当した。4月には最初のキャンプが実施され、情報日誌や教範の準備、輸送と補給に関するデータ収集が行われた。モナシュは各種文書の整理にその能力を充分に発揮する一方で、主な仕事として地図の作製を担当した。当初モナシュは自治体のエンジニアたちに余暇に地図を作製できないかと呼びかけたが、間もなくしてパートタイムの市民軍勤務ではより広範で本格的な地図作製は期待できないことをマッケイに伝え、結局正規軍の作製班が組織された。

 

1909年12月~1910年2月のホレイショ・キッチナーの訪豪以前でも、南ア戦争以後の本国における議論に触発されて、急ごしらえのオーストラリア軍制の改革は活性化していた。1907年9月、モナシュの働きかけでヴィクトリア軍人協会が再開され、毎月の講義や演習が実施された。1909年10月、モナシュを含めた将校たちはブルッヘ少佐の防衛・動員計画について協議する機会を得た。またシドニー大学軍事学を担当していたヒューバート・フォスター大佐の教育課程に参加し、参謀としての任務や戦術について学んだ。フォスターの講義はモナシュにとって良い刺激となった様で、大戦中に師団や軍団を率いることになった時にも彼に対して感謝の手紙を送っている。義弟のローゼンハインから近年の本国における航空技術の発展について聞いていたこともあり、同年にはオーストラリア航空連盟の設立委員会にも参加した。ベルリンの書店に軍事学・地誌・兵站・戦史・戦略戦術教範に関する本のカタログおよび新刊情報を問い合わせるという、ドイツ語に通じたモナシュならではのことも行った。

 

訪豪したキッチナーは、オーストラリアはヨーロッパにおけるドイツの台頭、太平洋における日本の膨張の双方に対応できる防衛力を有するべきであることを提言した。これを論拠の一つとして、ディーキン政権では青少年に市民軍としての教練義務を課す法が制定された。また訓練担当官は、1911年6月に連邦首都予定地に新設されたダントルーン士官学校(アメリカのウエストポイントをモデルとした)の修了者が望ましいとされた。キッチナーが視察する演習に向けての準備を、モナシュたち情報部はクリスマス休暇を返上して必死に行った。しかし演習の際に「ハルツームの英雄」たるキッチナーに示すシーモア~アヴェネル区域の軍用地図は、3週間の突貫工事で準備されたものを用いなければならなかったという。それでも演習の判定や戦術上の議論を行う過程で正規軍の将校たちと交流を深めたり、参謀将校としての研鑽を積んだりすることは出来た。

 

ジュリアス・ブルッヘ少佐は両親ともドイツ系(ユダヤ系ではなかった)でメルボルン出身、モナシュより7歳年下、スコッチ・カレッジの後輩でもあったため良き友人となった。モナシュはブルッヘを「正規軍将校における真の先進的な人物」であるとしてその情熱的な性格や教養を称賛しており、不成功に終わったが数度に渡りブルッヘの警察長官職への挑戦を支援したこともあった。要塞砲兵隊時代の上官でヴィクトリア州司令官となったジョン・スタンリー大佐との仲も良好だった。スタンリーの後任司令官で、1914年からはダントルーン士官学校長を務めることになるJ・W・パーネル大佐とも親交を結んだ。

 

この頃、モナシュは運動不足による肥満も意識し始めていた。1908年12月にロンドンのボディビルダー、ユージン・サンドウに、エンジニアは座業が続いて運動の機会が減っていること、胆汁症や消化不良の傾向があること、自身の体重が100キロに達しつつあることなどを相談する手紙を送った。サンドウからはエクササイズメニューが届き、モナシュはそれを実践はしてみたものと思われるが、それに対するレポートの返信は行わなかった。自身の体型に関しては、1909年8月にメルボルンの『パンチ』上で「(情報部勤務でヘルメットを被っていたので)大きなキノコ」のようであると揶揄される羽目になった。加齢に伴い、読書や仕事をする際はメガネをかける必要も生じてきた。

 

モナシュには40歳を過ぎても未だに海外経験がなかった。しかし事業は安定し収入も増えており、欧米の文化や産業の中心地をぜひとも見聞しておく必要があるという思いもあって、1910年にようやく初めての家族での海外旅行をすることになった。会社の業務はギブソンたちに代行してもらい、旅行時期は3月から10月を選び、船旅は一等客、ヨーロッパ大陸での鉄道は二等客を利用、ヨーロッパ大陸12週間、イギリス8週間、アメリカ2週間という日程を計画した。長旅ということもありモナシュは荷造りから入念に行い、カバン18個分の荷物の内容はパイプクリーナーやハンカチに至るまで全て箇条書きした。また旅の間は、チップ、切手・新聞代、ホテル代の比較、468点に及ぶという土産物まで、あらゆる事柄のリストを几帳面に作成した。

 

「オトラント」号での船旅はモナシュにとって快適なものとはならなかったが、ジョージ・メレディスの小説を読んで過ごした。他の乗客たちの人当たりも良く、産婦人科医のフェリックス・マイヤーと知り合いになった。ヨーロッパに至ってからはローマ、フィレンツェベネチア、パリで各々3日間を過ごし、名所を訪問し、交通機関を入念に観察し、写真を撮り、あらゆるものに熱中するという模範的なツーリストぶりを見せた。ドイツ語やフランス語の会話が通用したことも、モナシュを喜ばせた。次に訪れたロンドンでは、折しもエドワード7世の葬儀が行われており、モナシュ一家はホース・ガーズ・パレードで葬列を見つめた。6-7月はヨーロッパ大陸に戻り、パリではヴィクと一緒にフォリー・ベルジェールムーラン・ルージュに行った。さらにその後ブリュッセル、ケルン、ベルリン、ドレスデン、ブレスラウ、ウィーン、ミュンヘンを旅行していった。シュテティーンでは母方の先祖であるマナセ家の墓参りをした。ブレスラウ滞在時は、1日だけクロトシンでも過ごすことが出来、祖父母が住んでいた家を訪れ(その際、かつて仕事で用いられた手引き印刷機や活字も見ることが出来たという)、祖父母の墓所にあった木の葉を持ち帰ることにした。次いでアルプス地域では4週間をルツェルン、ツェルマット、シャモニーで過ごし、モナシュはウォーキングや登山を楽しむ一方で、様々な登山鉄道に強い感銘を受けた。それから6週間をイギリスで過ごした。そのうち1週間はワイト島でローゼンハイン一家と過ごし、1週間はスコットランドで過ごした。イギリス滞在中、劇場には十数回も訪れた。モナシュはローゼンハイン夫妻に手紙を送る際は「ウォルタールーWalterlou」と宛名を書いていたが、一方のルーはいつまでも子ども扱いしてくることに不満も感じたという。モナシュはウォルターに関しては、軽率な性格という過去の印象は無くなっており、親しみやすく愛情がある人物であるとマットに宛てた手紙の中で語った。夫妻の娘モナは非常に聡明で、モナシュが語ったジョークも全て理解した。もう一人の娘ナンシーについても、「非常に愛らしい」とモナシュは語っている(※姪たちと撮った写真)。ウォルターの自然科学における業績や個人的性格も相まって、モナシュは彼らの家庭生活を非常に魅力的に感じた。

 

ヨーロッパを離れてアメリカへと向かう際には、銀行手形が遅れるというトラブルもあった(後年の証言ではヨーロッパ滞在時、ドイツとの戦争は不可避であることを感じ取ったというが、同時代の認識としてどこまで正確なのかは不明)。短期間であるが訪れたアメリカでは、まずニューヨークでは旧友のアーサー・カードの夫妻と共に過ごし、次いでナイアガラの滝とシカゴを経て、ミネアポリスで5日間、いとこのレオ・モナシュとその親族とともに過ごした。カナダのバンフとロッキー山脈を経てバンクーバーに至り、そこから船でホノルル、スバ、ブリスベンを経由してメルボルンに戻った。船旅中、モナシュはチェス大会で、ヴィクはデッキ輪投げ大会で優勝した。世界を見聞して戻ってきたモナシュは、オーストラリアを「全てがみすぼらしい」「田舎の地」に感じてしまったという。とりわけヨーロッパと比較したアメリカの都市や産業の発展ぶりには強い印象を受け、ニューヨークの街の前ではロンドンやベルリンも霞んでしまうとローゼンハインに宛てた手紙で興奮気味に語った。暖房機、トースター、広告塔など、電気による様々な機器の普及にも感化された(同時にアメリカ英語のスラングにも)。一方で土木エンジニアとしては、ロンドンやパリ、ニューヨーク、ベルリンの地下鉄の発展にも注目し、現代社会では電気は特に交通に利用されるべきで、従来の蒸気機関は淘汰されるだろうと公言した。

 

モナシュが帰郷した時、コンクリート事業の方は特許独占権が失われ、ライバル企業も台頭してきたことから収益は減少傾向にあった。強化コンクリート使用に対する建築家協会の反対は未だ続いており、パイプ事業の方もテイラーのセメント会社が廉価のものを生産し始めたことから伸び悩んでいた。1911年にかけてモナシュはミッチェルを説得し、ギブソンのシェアを増やすことで会社への出資比率は3人とも同じとすることを認めさせた。同じ頃、シドニーのガモウとの公式な提携も解消となっていた。それでも会社の事業自体は、タウンホール、メルボルン病院、エリザベス通りにある州銀行本店、センターウェイアーケード、メアリバーノン川やフレミントン、ジェンヴェールの橋梁、ホーソーンの道路側溝を手がけるなど拡張が見られた。1911年のコリンズハウスの建設事業では、ベイリュースやロビンソンズなどから資本提供を受けた。1912年初頭にはそれまでのエリザベス通り49番から9つの部屋を有するより豪華なオフィスへと移転、友人のジェイムズ・マッケイとは向かい側同士となり互いに「ジャック」「ジム」と呼び合った。その年には土木工学教授ジョージ・ヒギンズの住居の建設事業を担当し、強化コンクリートによるものとしてはおそらくヴィクトリア初となった。1913年には事業は一時不振になったが持ち直し、南オーストラリア会社も新たな部門を展開するなど順調であった。訴訟や特許関連の仕事は行わなくなっていたが、法廷へのエビデンスを提供したり、ウィリアム・クレスウェル海軍少将に対しシドニーの石油貯蔵タンクに関して助言を行ったりもした。新首都キャンベラの都市計画にも強い関心を抱いており、ウォールター・バーリー・グリフィンのプランが選ばれた際には、国家の発展にふさわしい首都として建設されることを期待した。

 

1911年3月9日、メルボルン『パンチ』に成功者としてのモナシュの経歴に関する記事が掲載された。書き手は「コンクリートの英雄」「彼の能力を超えられるエンジニアは世界でもごく僅か」「市民軍将校として模範的」とモナシュの卓越した点を挙げる一方で、彼の性格はドイツ系、ユダヤ系特有の気質や思考に由来するものであると説明され、太った外見はロマンティックではないと揶揄されるなど、悪意ある表現も見られた。モナシュは世界旅行をした頃から腰痛に見舞われており、パンと砂糖の量を減らすなど肥満対策の食事は心がけてはいたが、これといった効果は見られなかったという。この頃にはデュワーズウイスキーを愛飲するようにもなっていた。

 

ヴィクは以前から自動車を欲しがっていたため、モナシュは1911年7月にエンジン業者のE・シュルツに4気筒15-20馬力のベルリエを575ポンドで注文した。車体は黒色と濃緑色のストライプが塗られ、車内も濃緑色、後部ドアには金メッキでJMとイニシャルが書かれていた。自動車は9月に到着し、運転手が雇われた。ヴィクは大喜びし、競馬場に行くときなどはこれに乗って楽しんだ。モナシュも運転の練習はしたが上手くいかず、途中で諦めてしまった。一方娘のバーサは間もなくして運転のライセンスを取ることが出来た。それでもモナシュはのち、自動車クラブや道路協会の中心人物にはなった。

 

当時居住していたイースメルボルンの住居は満足いくものではあったが、ヴィクは生活の煩わしさや体調面での不安を抱えるようになったため、新居を探すことになった。1912年5月にモナシュは『エイジ』および『アーガス』に新居の賃貸ないし購入を求める広告を出した結果、故F・W・プレル氏の遺産となるトゥーラクの住居を4750ポンドで購入することにした。住居はメルボルン郊外の高台に位置しており、外見的にはあまり見るものがなく庭は荒れ果てており、非芸術的な外観というのがモナシュの当初の印象だったが、18-24平方フィートの部屋が4つあり、地下室、ガス電気も使用することが出来た。モナシュはリフォームすれば総合的に立派な家にすることが出来るという思いに至った。友人のアーネスト・ライトと共に新居の装飾を検討し、家具を新調した。購入して6週間のうちに引っ越しと装飾のし直しは完了したが、引っ越しの過程で焼き物やガラス絵の多くが壊れてしまい、額縁や本、手紙の一部がネズミの被害に遭ってしまうという災難もあった。新居は「アイオナ」と命名され(※写真)、料理人とメイドが雇われ、娘のバーサは記念のダンスパーティを開いて楽しんだ。フロントガーデンにはバラが200本植え直され、玄関や舗装にはモニエ式コンクリートが活用された。裏庭には菜園、テニスコート、温室を用意し、焼却場はコンクリート製であった。1913年半ばよりモナシュは日記上で園芸について言及することが増え、作業場を設けて陶芸の趣味も始めた。蔵書を充実させることにも熱心で、ディケンズ、リットン、モーパッサンメレディスなどの全集、各種辞典、百科事典、法律書をそろえた(※「アイオナ」の書斎)。ノーマン・リンジーやフィリップ・フォックス、ドーラ・ミーソンらオーストラリアの画家の作品を含めた絵画も購入した。結婚生活も20年以上が過ぎると満足を感じるものとなり、夫妻でJ・C・ウィリアムソンの劇場に出かけた際は常に一等席で鑑賞し、グレガン・マクマホンの劇団も愛好した。1911年のネリー・メルバのグランドオペラ公演は、全て初日に見に行って楽しんだ。チェコ出身のピアニストであるエドワード・ゴル(1914年に帰化する)に手紙を書き、彼の腕前を評価した。レーニッシュのベビーグランドピアノを新たに購入し、自家用映写機も購入してフィルムを取りそろえた。新たな趣味としてはドライブも行っており、1912年のクリスマスはメアリーズヴィルからバララトまでを自動車で5日間かけて旅行した。

 

この時期妹のマットはパートタイム教員の仕事を継続しており、優秀な生徒を育てることにやりがいを見出している様子だった。モナシュは1912年に再びマットを海外へ行かせたことがあったが、この時はルーとは必ずしも円満には過ごさなかった。叔母ウルリケ・ロスの体調は悪化していたので、療養にと娘ソフィーと一緒にセイロンまで旅行に行かせた。この頃、従兄アルベルト・ベーレントの家族も苦労を伴っていたが、息子たちは歯医者、電気エンジニア、労働党運動家(モナシュの自動車を選挙運動に使えないかと聞いてきたことがあった)になって独立していた。ヴィクの姉サラとマックス・シモンソン夫妻の子どもたちとモナシュは親しくなった。姪にあたるヴェラにはダイヤの指輪をプレゼントし、甥のエリックに関しては工学課程に進むための勉学を手助けするなどした。一方で1914年にサラが心臓の異常に、マックスが錯乱と視力低下に襲われると、モナシュも憂うつな感情に襲われた。ドイツやアメリカにいる親族とはこの頃も連絡を取っており、エンジニア仲間の従弟ブルノ(叔父マックス・モナシュの息子)には、ドイツやオーストリアでの徴兵から逃れるためにイギリス帝国に帰化するのを支援してほしいという難題を頼まれたが、不首尾に終わった。

 

モナシュの主な社交場はメルボルン大学クラブ(1909-12年は会長)と海陸軍クラブ(1908年より副会長)となっていたが、1906年からはスコッチ・カレッジクラブの副会長も務めた。1911年にスコッチ・カレッジ60周年記念晩餐会がタウンホールで開催され、乾杯の音頭を取った。フェリックス・マイヤーに誘われたことがきっかけで、1913年にはメルボルンのウォーキングクラブであるワラビークラブに入会した。ヴィクトリアレーシングクラブ、ヴィクトリアアマチュア競馬クラブ、メルボルンクリケットクラブなどにも参加した。学術ではヴィクトリア王立協会、王立オーストラレ―シア地理学協会、顕微鏡協会などに参加した。各クラブからは講義や講演を依頼されることが多く(モナシュはスライドを作成してそれに臨んだ)、イギリス医学協会からは主賓として夕食会に招待されたこともあった。1912年はメルボルン大学評議会の構成員に就任し、以後生涯を通じてその役職を務めた。また1908-09年にかけてはヴィクトリアでも帝国ボーイスカウトが設立されていたが、友人のW・E・L・ウェアーズが委員長であったこともあり、モナシュは1910年より委員会に参加した。1911年には再編された管理理事会副会長となり、1912年5月にロバート・ベイデン=パウエルが訪豪した際はこれを歓迎した。モナシュはスカウト運動が軍事目的ではないことを承知していたが、軍事教練に対する予備的な役割を見出していた。

 

メルボルン大学の運営を主導することはモナシュにとって夢であり、エンジニアの試験官や水理工学や強化コンクリートについての講義も継続して行っていた。1907年には計画倒れに終わったものの、大学50周年に合わせて大学工学部の歴史を叙述することも承諾していた。1909年に恩師のカーノット教授が死去した際、大学は彼の後任をヴィクトリアエンジニア協会に相談したが、モナシュは後任選出の協議に参加してヘンリー・ペインの選出を支持した。1911年、大学は社交よりも学術に重きを置いた新たな卒業生協会を立ち上げることになった。グランドホテルでの晩餐会には260人が集まり、その後の委員会会議においてモナシュが会長に選出された。1912年4月の年会ではモナシュが司会をして乾杯の音頭を取ったが、のちに会長はJ・G・レイサムに譲った。この頃、動物学を教えるジョージナ・スウィートとも親交を結んでおり、結果は不首尾に終わったが彼女が西オーストラリアの教授職に応募した際は推薦状を作成した。1912年には大学クラブの会長を辞任し、試験官の役職も諦めることになったが、1912-14年にかけてはヒギンズ教授の手助けとして強化コンクリート関連の講義を6つ担当して喜びを得た。当時講義を受けたウォルター・バセットからは、「今まで受けた中で最良の講師」であったとその内容を称賛された。1913年に社会教育家のアルバート・マンスブリッジが訪豪した際には、労働者教育協会の活動支持を快く表明した。

 

モナシュは1906年よりヴィクトリアエンジニア協会の委員会に所属しており、1908年には副会長に就任した。1909年にカーノット教授が死去した際は、大学の友人たちは彼を銘板で顕彰することを提案したが、モナシュは銅像を建てることが相応しいと考え、その主催者となった。結果的にはオーストラリアの土木工学に非凡な業績を上げた人に授与する記念メダルの制定ということで決着した。1911年のエンジニア協会では、モナシュは建築法規や新首都関連の会議、委員会の庶務で多忙であった。翌1912年も取締役のギブソンが不在ということもあり会社のビジネスが忙しかったが、モナシュはエンジニア協会会長に選出された。拝命したモナシュは、エンジニア・事業家として着実に成功の道を歩んでいることを妹たちに自信を持って語った。モナシュは将来的にはオーストラリア全体のエンジニア協会を設立することを支持しており、それは1919年のオーストラリアエンジニア協会の設立で実現を見た。またオーストラリアのエンジニアの養成制度や科学技術への貢献は海外に比べれば発展途上で、メルボルン交通機関港湾施設、道路、水道も未熟である点を指摘、エンジニアは探究心を持って海外で見聞を広めるべきことを訴えた。

 

1911-12年の情報部での勤務は地図作製に専念しており、諜報活動は限定的であった。1911年に1インチ1マイル縮尺の地図を作製し、翌年にはメルボルン近隣2000平方マイルの地図が完成しつつあった。参謀勤務としては義務化された軍事教練の問題点についてヴィクトリア管区代表として協議会に参加し、オーストラリア航空連盟の主導者となって、現代戦争における航空機利用について関心を持つなどした。パートタイムの市民軍の性格上、将校の中には軍事学の研鑽に熱心ではない者もいた一方で、この頃のモナシュは以前に増して戦史の学習に熱心であった。ナポレオン戦争南北戦争普仏戦争などを主な関心事としており(その他日露戦争における鴨緑江作戦や遼陽会戦についても、1911年3月に情報部内で検討する機会があった)、南北戦争に関してはG・F・R・ヘンダーソンの著書『ストーンウォール・ジャクソンと南北戦争』を特に愛読していた。ビジネス以外にも時間をさけるようになったこともあり、陸軍の懸賞論文に応募し、「1864年荒野作戦の戦訓」と題した論文(南北戦争をテーマに選択したのは、アメリカ旅行の影響も大きかったと見られる)で見事金メダルを獲得し、論文は1912年4月の『連邦軍事ジャーナル』に掲載された。モナシュは荒野の戦いを南北戦争におけるターニングポイントと捉えており、南北戦争の戦略・戦術的展開や地理的要素、市民軍による戦争であった点、ウエストポイントにおける将校養成制度などがオーストラリアにおける軍制・防衛政策のプロトタイプになりえると主張した。論文審査員のJ・G・レッグ大佐やショヴェルからは、多くの要点を提示しており際立って優れていると称賛されたが、一方で(後年の軍事史研究から見れば)その内容は、歩兵戦術への言及が不正確、南北戦争の包括的叙述に欠けている、騎兵、鉄道、経済の破壊への評価が弱いといった問題点も抱えていた。

 

正規軍・市民軍の調停役にあたっていたマッケイは1912年半ば、正規軍の上官たちとの折り合いがつかなくなってしまい、情報部は市民軍による統括から離れてしまった。マッケイの部長職は1913年3月31日で終わるが、その前に海外に出張してしまう。モナシュも情報部の再編には不満を感じたものの、既に情報部には明るい将来は見いだせなくなっていた。その一方で、正規軍将官たちはモナシュに旅団長のポストを薦めてきた。長い市民軍勤務においてモナシュは歩兵・野戦部隊の指揮経験が未だ無かったが、11月18日には結局承諾することにした。情報部での勤務は事実上1912年12月で終わったが、ヴィクトリア管区には翌1913年半ばまでは所属することになり、時間を持て余す結果となった。モナシュは大戦後の証言で、情報部の任務は市民軍スタッフに任せるには荷が重いもので、再編されてしまうことは不可避であったと漏らしている。その一方でヴィクトリア州軍司令官を務めたスタンリーは、モナシュの能力や熱情によって将校たちの資質はめざましいものとなったと1912年中の報告の中で語っており、新聞報道の中には情報部はヴィクトリア管区に関しては成功をおさめることが出来たと評価しているものも見られた。

 

1913年7月1日、モナシュは市民軍第13旅団長に就任した。8月には軍情報部で送別会が開かれ、この時はマッケイが乾杯の音頭を取ってくれた。モナシュは第13旅団を勤務先としては申し分ないと喜んだが、軍歴としては最後の勤務地になるかも知れないとも語った。旅団・連隊指揮官同士の関係は当初は円滑ではなかったが、モナシュは彼らとの親交に努め、協議の際は将校たちを「アイオナ」に招待したこともあった。この頃、モナシュは余暇の際、参謀部のためにドイツの騎兵ジャーナルKavalleristische Monatshefteの翻訳も手掛けた。旅団長就任に伴ってモナシュは大佐に昇進することになったが、正式な昇進は1913年9月(書類では7月1日付と遡及して書かれた)と遅れた。第13旅団は編成されて日が浅いため将兵たちの練度は低く、装備や兵站についての問題点も抱えていた。モナシュは旅団を効率的な部隊に仕上げるべく、中隊指揮官たちに対しては実戦を意識した任務や責務に関する講義を行った。その際、単なる畏怖に基づく命令服従ではない、上官との意志の調和に基づく軍紀を重視しており、将校は自制、自信、勇気、迅速さ、決断力、正当な視座について研鑽する必要があるとも説いた。各種教範や操典、軍事史に学び、それらを要約出来るようになることを強調し、逆境に打ち勝つ模範的指揮官としてはロバート・リーやストーンウォール・ジャクソンを挙げた。モナシュは自身の講義をまとめて「中隊指揮官への100のヒント」と題したパンフレットとして発行し、さらに1914年1月には「軍人精神の発達」、3月には「戦闘計画における3原則」と題した小論を発表した。

 

1913年末よりモナシュは、翌1914年2月に実施される大規模演習への準備を進め、12月には演習場所としてリリーデイルが相応しいと判断した。その際、演習はイギリス海外軍査察総監イアン・ハミルトン大将も視察することを知り、モナシュはローゼンハイン夫妻に対して若干不安を感じていることを吐露した。1914年2月初旬は暑い気候でリリーデイル周辺では山火事も起こっており、苛酷な条件ではあったが2500人が参加する8日間の大規模演習が実施された。演習初日には監察官のハミルトンや総督たちが見守った。昼食時にはハミルトンと協議する機会を得たが、ハミルトンは自身の意見を率直に述べるモナシュに強い印象を持った。のち地中海派遣軍司令官としてガリポリ戦役を指揮することになるハミルトンであるが、大戦を経た後年もモナシュに手紙を出す際には、1914年の演習時にユーカリの木の下で協議した想い出について必ず言及したという。ハミルトンはオーストラリアの軍隊は組織面においては実戦に対する備えやディシプリンが足りないと感じつつも、参加将兵たちの身体の卓越性には賛辞を送った。他の将校たちの中にも、辺境の植民地市民たちによる軍隊の働きぶりに感銘を受けた者がいたという。モナシュも兵站面で課題が生じたこと、砲兵や乗馬兵を伴わない内容であったことなどは認めつつも、中隊指揮官たちとの信頼関係は良好であったとして演習の成果には強く満足し、2-3月にかけてはタスマニアで短い休暇を楽しんだ。演習は報道でも大きく取り上げられたが、『エイジ』はモナシュが参加兵士たちの疲労を無視して演習を継続したことを問題視していた。実際には多くの部隊では休憩は充分に取られていたことや、モナシュもブルッヘに宛てた手紙の中で「ピクニックではなく」あくまで長距離行軍や実戦を意識した演習を行ったと強調していたことから、この評価は不当であると見なされた。査察総監のハミルトンも演習の遂行を支持する立場を取っていた(※1914年のモナシュ)。

 

英国科学振興協会がオーストラリアで初めて会議を開催することも、1914年に控えていた大きなイベントの一つであった。モナシュはその実行委員会役員として準備に努め、ヴィクトリア州についての便覧作成では、ヴィクトリアの公共事業に関する自身の見解も交えた概説を担当した。会議にはローゼンハインの家族もぜひ招待したいと考えていたが、その際の旅費の一部は工面してあげる必要があった。一方で50歳を前にしたモナシュはローゼンハインに対し、何かを成し遂げるには少し年を取り過ぎていると打ち明けたり、市民軍と大学以外のいくつかの社会的ポジションから身を引きたいことも示唆したりもしていた。それでもモナシュは日本を経由してアメリカやヨーロッパを再び旅行し、人々の社会や文化について見聞を広めたいと考えており、予定では世界エンジニア会議開催に合わせた1915年3月に出発するつもりだった(周知のように1914年半ば以降の国際情勢は、この旅行の実施を許さなかったのだが)。今後の人生への一抹の不安はあったものの、社会的成功者となり相応の名声を得ていたモナシュは各界に友人も増え、以前よりも温厚で利他的になる余裕も出来ていた。市民軍の旅団長を最後まで務めあげ、大学総長のポストに就くことが出来れば、バス勲章とナイトの称号を得ることが出来るかも知れないという夢も抱いていた。

 

【少年時代~大戦前まで 終】

 

 

参考文献

Australian Dictionary of Biography

Sir Walter Eric Bassett/Sir William Throsby Bridges/Sir Henry George (Harry) Chauvel/Sir William Rooke Creswell/Hubert John Foster/Sir Robert Gibson/Edward Goll/Sir John Greig Latham/James Gordon Legge/Norman Alfred Lindsay/Gregan McMahon/Dora Meeson/Felix Henry Meyer/John William Parnell/Henry Payne/Georgina Sweet/Sir Cyril Brudenell Bingham Whiteを参照しました。

 

オーストラリア辞典

キャンベラクレスウェル、ウィリアム・ルーク植民地会議、帝国会議ブリッジズ、ウィリアム・スロズビーを参照しました。

 

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藤川隆男編『オーストラリアの歴史 多文化社会の歴史の可能性を探る』有斐閣、2004年。

山本真鳥編『世界各国史27 オセアニア史』山川出版社、2000年。

ジョン・モナシュの生涯(仮題) ⑥試行錯誤

1897年冬にかけてモナシュたちの事業は好転し、モナシュは法律関連legal-engineeringの仕事の主導者的役割を担うようになった。その後の2年間はおよそ4分の3の時期を他植民地で過ごすことになり、クイーンズランドに4回、ニューサウスウェールズに6回、西オーストラリアに2回出張した。最初の仕事はクイーンズランドバンダバーググラッドストン間の鉄道を請け負い、植民地政府と契約について争っていたバクスター・アンド・サドラー社で、モナシュは1897年6月よりクイーンズランドに出張し、V・J・サドラーと共にバンダバーグ地域を視察した。9月以降にかけて20件・総計25000ポンド相当の請求訴訟をまとめ上げ、モナシュはヴィクに対し自身が大きな仕事に従事しており、将来成功を勝ち得ることへの自信を語った。

 

この時期モナシュの痔の症状は良化していたが、憂うつや嘔吐、下痢に悩まされていた。訴訟関係でブリスベンに出張した際、モナシュはヴィクの助言に基づき飲酒を避け、その結果11-12月頃には体調は良化した。パイナップルその他の果物を食べることで食事の節制も始め、着替えやシャワーの頻度も高くした。11月10日から始まった訴訟ではモナシュは日給5ギニーを得たが、仕事は10週間ほどの長期間に及んだ。当初鉄道局はモナシュの参与に批判的で、クイーンズランド法曹界の長アーサー・ラトレッジも反対意見に立っていたが、モナシュはシドニーW・H・ウォーレン教授らと懇意となり専門家証言を集め、訴訟は成功に終わった。モナシュはヴィクに年収2000ポンドを得られそうであることを伝え、その日暮らしではあったが、ピアノを55ポンドで購入するように言った。ただし訴訟の結果はバクスター・アンド・サドラー社が7722ポンドを得る(モナシュは最低でも8000ポンドを予想していた)に留まり、モナシュへのボーナスも支払われなかった。

 

1897年後半から1898年初頭にかけては、モナシュはジェリルデリー地域の農民・市民たちのアドバイザーの仕事、牧畜業者のマコーイ兄弟(デヴィッドとサミュエル)によるビラボングよびコロンボ・クリークの灌漑事業の訴訟の仕事も抱えていた。モナシュは1897年7月~10月の間、クイーンズランド出張の合間にジェリルデリーの周辺を乗馬や軽馬車で視察して水路やダムを調査し、クリスマス前にはシドニーの法廷に工事を再検討することに関する証拠を提出した。1898年3月にはシドニー最高裁における賠償請求訴訟「ブラックウッド対マコーイ裁判」の準備をリヴェリナで行い、弁護士のジュリアン・サロモンズに助言をした。5月に訴訟が再開され、マコーイたちは総計12000ポンドの賠償に加え、これ以上水を引く工事を控えることになった。

 

モナシュがアンダーソンよりも収益を挙げている時期には両者の間には緊張も生じたが、1898年にアンダーソンはミルドューラとバララトで新たに仕事を得ることが出来た。一方で二人ともメルボルンに不在のことがあるため、部下を雇わざるを得なかった。アンダーソンはヴィクトリア鉄道に対してヒールズヴィル~ウッズポイントのルートについて提案をし、モナシュに対しては飛行気球の可能性についても強調した。モナシュはアンダーソンの手腕の才走っている傾向を心配したが、モナシュもアンダーソンに自身の説教癖を詫びることがあった。アンダーソンは1897年9月、シドニーのカーター・ガモウ社のエンジニア、F・M・ガモウに会った。ガモウはメルボルン大学で工学を学んでエンジニアとなり、カーター・ガモウ社としてシドニーアデレード上下水道等の仕事を手がけた後、オーストラリアにおけるモニエ式強化コンクリート建造についての特許を取得していた。交渉の結果モナシュ・アンド・アンダーソン社は、ヴィクトリア植民地におけるモニエ式の特許代理人となることが出来た。これはヤラ川に架かるアンダーソン通り橋(モレル橋)やジロング近くのバーワン川に架かるフィアンズフォード橋などの建設事業に繋がることになった。モナシュは西オーストラリアに出張していたため、当初これらの事業に参加していなかったが、1898年3月にはシドニーでガモウと会うことが出来、そこでモニエ式について教授を受けた。

 

モナシュはバクスター・アンド・サドラー社と西オーストラリア植民地政府のマラウォーキュー間の200マイルの鉄道事業に関する訴訟に従事するために、1898年7月にサドラーと共に今度はパースへと旅立った。モナシュはパースまでの船旅でバクスターやその友人たちとトランプ遊びに興じた。当初は5週間程度の仕事と思っていたが、西オーストラリアでは12か月を過ごすことになった。到着後バクスターが競馬や飲酒などで遊んでしまったため仕事開始は遅れたが、1週間以内にはモナシュは路線を視察して仕事に着手した。バクスター・アンド・サドラー社はモナシュにパースの社交界に入ることを許可しており、ジョン・フォレスト首相ら要人が出席する晩餐会に参加し、首相夫妻には個人開催のパーティに招待されたこともあったが、次第に社交疲れも感じるようになった。

 

パースではアウターサークル鉄道時代の友人W・B・ショーが舗装用の割石に有望な採石場の権利を有していたが、資金が足りずにいた。モナシュはそれに自身の所持金から200ポンドを投資したが、共有の基金からの更なる100ポンド以上の投資については、リスクを冒したくないアンダーソンと衝突した。アンダーソンとは互いの意見を強い口調でやり取りすることがしばしばあったが、「攻撃的」までにはならなかったという。モナシュはアンダーソンを説得できずに残念がったが、それでも約30%の権利および年間500ポンドの収入が見込めることから満足した。しかしのちこの事業は失敗に終わったため、結果的にはアンダーソンの判断の方が正しかった。

 

パースでの仕事は長引いたが、交際費も限られてきたのでモナシュは社交界を避け、図書館などに通うようになった。日曜日は旧い付き合いのエイダ・クラコウスキ(この時は結婚しエイダ・ベンジャミン)とその夫と過ごし、過去にエイダと不仲だったヴィクにはこのことは話さなかった。ピアノを1日1時間は練習するようになり、アマチュアオーケストラで伴奏をすることもあった。結婚してから中断していたヴィクとのピアノデュエットも、再開したいという思いも抱いた。一方で9月半ばにはサドラーがパース駅で他のビジネスマンと喧嘩騒ぎを起こし、モナシュも巻き込まれるという災難にも遭った。10月には小さな顧問業務のためカルグァリーを訪問して旅行記をしたため、のちアンダーソンから出版の価値があると評せられた(現存せず)。モナシュはヴィクとバーサをパースに連れてくることを提案し、喜んだヴィクはバーサと一緒に12月にパースに到着、6か月をここで過ごすことになった。ヴィクは総督官邸やフォレスト家といったパースの社交界に参加、新年競馬には着飾った衣装で足を運び、生地屋のハリー・ボーン夫妻と仲良くなった。パース市長から良いレセプションを受けたこともモナシュに自慢した。匿名でダイヤモンドの指輪が届けられたこともあったという。

 

案件は長引いていたが1899年1月、モナシュは西オーストラリア政府に対する最後の要求にあたった。2月は余暇を過ごすなどして平穏に過ごし、審理に入ったのは4月末から5月にかけてであった。仲裁人は西オーストラリア植民地の主任エンジニアであるオコナーで、モナシュは弁護士で連邦運動家のウォルター・ジェイムズと協力して法務官や政治家のセプティマス・バートに対抗した。結局バクスター・アンド・サドラー社は最高裁に入る前に45000ポンドでの示談が成立し、悪くない結果となったが、モナシュへのボーナスは無く徒労も大きかった。それでも1000ポンド以上の年収は達成することが出来た。

 

1899年7月にメルボルンに戻った時、アンダーソンはヤラ川、フィアンズフォード、クレズウィックの3か所のモニエ式橋梁の仕事をガモウの教授を受けて担当しており、モニエ式の導入についてはヴィクトリア公共事業部のエンジニアであるウィリアム・デヴィッドソンカルロ・カタニの承認を得ていた。ヤラ川に架ける95フィートのアーチを3つ備えたアンダーソン通り橋は、ガモウも経験したことがない大掛かりなものであった。アーチの強度の面で懸案事項があったが、モナシュがメルボルンに戻った2週間後の7月20日には15トンのスチームローラーによる強度テストが行われ、成功裏に終わった。モナシュはこの事業への参加は僅かであったが、それでもこの橋をヤラ川に架かる橋では最もエレガントなものであるとして誇りに思った。

 

モナシュはモニエ式橋梁を鉄製の橋よりも効率的なものと考え、カーター・ガモウ社の主任設計者であるW・G・バルツァーの助言も得て、その方式をマスターに努めた。バルツァーはドイツ系移民で元はニューサウスウェールズ公共事業部に務めていたが、ドイツにおいてモニエ式橋梁について学んだ後、カーター・ガモウ社において新技術をオーストラリアに浸透させるべく奔走していた。またモニエ式のコンクリートパイプ生産も有望な業界であったことから、シドニーにあるガモウの工場製のパイプを見本として取り寄せ、メルボルン・メトロポリタン建設委員会に働きかけた結果、アンダーソンとガモウはメルボルンにパイプ工場を造る計画を立てるに至った。モナシュはセメント生産・建設業者として成功しネリー・メルバの父としても著名であったデヴィッド・ミッチェルと連絡を取り、そのマネージャーであるジョン・ギブソンを通して、パイプ生産に必要なセメントを供給することの約束を取り付けた。モナシュはドーマン・ロング社の鉄道橋建設の監督、土地建設委員会訴訟の仲裁人といった仕事をした後、さらに1900年にかけてはベンディゴウの8つの小規模橋、ブラセンの大規模橋の建設、メアリーバラ近くの鉱山に機関台設置等の仕事を請け負ったが、公私ともに多忙さを感じてしまった。

 

モナシュとアンダーソンはしかし、自治体の業務不履行の問題を過小評価していた。アンダーソンはフィアンズフォードにおける4つのアーチを備えた橋の建設をガモウおよび現地のセメント業者リチャード・テイラーと協議し、1897年末に設計を行った。コライオおよびバノックバーン自治体のエンジニアやセメント工場の支持は取り付けたが、自治体議会は植民地政府からの補助金を得るのに苦労し、1899年2月まで契約にサインすることが出来なかった。工事自体はスムーズに進み、契約日前の11月に完成見込みであった。しかし自治体は負債利子を抱えていたために報酬支払いを意図的に延期した。アンダーソンは何度か工事を中断したが、自治体の議員から反感を買い、支払いを遅らせるために橋のテストも延期されてしまった。モナシュとアンダーソンは仲裁人を呼んでテスト日の折り合いをつけてもらわなければならなかった。結局1900年2月16日、多くの観衆が見守る中、18トンのローラーを用いてテストが行われた。

 

当初の契約は4507ポンドでこちらは支払われたが、モナシュとアンダーソンは監督エンジニアと協議し、追加工事費を併せて6142ポンドの報酬とするよう説得した。しかし2か月後、自治体はエンジニア間での公約は無効としており、最終の報酬支払いを行うつもりはないと考えていることをモナシュたちは知り憤慨した。自治体が支払いを認めたのは5250ポンドまでだった。モナシュとアンダーソン追加請負金等約2000ポンドの支払いを求めて訴訟準備を起こしたが、審議開始は14か月たってからで、その間アンダーソンが腸チフスに倒れ、モナシュはヴィクとの関係も再び悪くなり、従弟のルイス・ロス(※叔母ウルリケの息子)が横領で起訴されるなど、公私ともに苦難が続いた。

 

クレズウィックから7マイル離れた場所にあるウィーラーズクリーク橋も、1898年にガモウの監督のもとアンダーソンが設計したものであった。モナシュは1899年9月より架橋事業に加わっており、工事は概ね順調で1900年3月に行われたテストも満足いくものだった。しかしその年の8月までに橋は崩落の危険が指摘されるようになった。理由はモニエ式の設計そのものではなく、コンクリートの質が良くなかったためと考えられたが、結局修復代の大半は会社が受け持つことが取り決められ、殆ど収益が得られない事業となってしまった。1900年のブラセンのタンボ川に架かる橋の建設では、植民地政府の監督官から妨害を受けた。440フィートの大きな木製の架橋事業だったが、木材の質をめぐってC・クリステンセン親方(ウォルハラで一緒に仕事をして以来懇意だった)と監督官との間で諍いが生じた。モナシュもメルボルンの公共事業部のカタニ技師に直接訴えかけるなどして、最終的には事態を収拾させたものの、ブラセンには8回以上も出向いて、監督官やカタニの主張に耳を傾けなければならず、事業の利益率も減退してしまった。

 

1900年10月にベンディゴウに小規模のモニエ式橋を8か所、7000ポンドの費用で建設する事業が、自治体議員たちの承認を得た。翌年初頭から工事は始まり、コンクリートは二人の主要な融資者であるミッチェルの会社およびフィアンズフォードのテイラー社から調達された。ところが1901年5月14日、キングスブリッジのアーチが試験中に崩落してしまう。モナシュは間一髪無事だったが、牽引車が転落して、見守っていた同僚一人が死亡する惨事となった。モナシュは妹マットに宛てた手紙の中で「我々にとって非常に悪い事態」と吐露しつつ、「それと向き合い、償っていくのみ」と語った。調査では橋の基本的デザインは非常にオーソドックスで問題ないとされたが、アーチの曲がり方が過度で、橋台の一か所に圧力が集中し過ぎていたこと、あまり用いない25トンローラーで試験を行ったことが挙げられ、モニエ式の設計に問題がある訳ではなかった。しかしモナシュとアンダーソン設計の橋は、モナシュの監督下でベンディゴウ自治体のエンジニアによって再設計された。自腹で橋の再建をすることに同意し、その費用は約1000ポンドとなったが、ミッチェルとガモウは引き続き彼らを後援した。同年10月、ベンディゴウの委員会で契約解消が提案された時にはモナシュは不安にかられたが、キングスブリッジの再建工事は翌1902年1月に無事完了した。

 

一方、コンクリートパイプ事業ではモナシュたちは前進が見られた。1901年1月、モナシュはオーストラリア連邦の成立式典をシドニーでガモウと一緒に迎えたが、商談の方も良い方向へと向かった。モナシュとアンダーソンはミッチェルと共にヴィクトリア・モニエパイプ会社を設立し、互いが40%のシェアを得るということで合意した。またガモウはヴィクトリア植民地における特許の権利を500ポンドで売却することになった(権利の完全購入は1903年末)。メルボルン郊外のバーンリーの工場におけるミッチェルの代理人は、ギブソンやE・A・ニュービギン、A・リンチの面々が担当した。1902年初頭、小規模の売り込みが公共事業部とプラーラン自治体に行われたが、建設委員会や鉄道業界とはまだ契約が出来なかった。この年の後半、モナシュは工場でパイプ技術の習得に努めたが、10月にはミッチェルの娘でオペラ歌手として有名となっていたネリー・メルバに工場を案内するという機会も得た。

 

ファンスフォードの架橋事業の報酬をめぐる問題は深刻であった。1年以上も遅配が続いていたためモナシュたちは自治体を訴え、1901年6月より審理が行われた。司法官はハートリー・ウィリアムズで、追加請負金を支払うべきだというモナシュたちの主張に好意的であったが、自治体側は大法廷に訴えかけた。モナシュたちの側にはレオ・カッセンが立ち、自治体側にはエドワード・ミッチェルアイザックアイザックスが立った。1902年2月に上訴は受理されたが、判決は延期され6か月先のことになった。裁判の費用は約4000ポンドに及んでいたが、判決ではモナシュたちは主張の5分の1の金額しか得られなかった。ミッチェルやサドラーは憤慨し、アンダーソンもさらに闘う姿勢を見せたが、モナシュはこれ以上裁判費用をかけるのは適切ではないと考え譲歩することにし、1903年4月に大法廷のものよりも若干穏健な内容で妥協した。しかしモナシュは終生、ファンスフォードの橋を訪れることを避けてしまったという。モナシュたちは裁判で3000ポンド以上の損失を出しており、ミッチェルやガモウらに対し少なくとも1000ポンドの負債を抱えてしまった。大家族を養う必要があったアンダーソンは1902年5月、ニュージーランドダニーデンに下水道建設の仕事を見つけ旅立ってしまった。ただしビジネスパートナーとしての関係は継続しており、短期間メルボルンに戻ってくることはあった。

 

モナシュも事業で負債を抱えることになったことについては自尊心を傷つけられる面が多く、数年間は返済の工面や事務弁護士の手紙に悩まされ、家賃や生命保険料、各種協会やクラブの会費をしばしば滞納してしまい、妹のマットの誕生日プレゼントを買えない年さえあった。この時期、健康面でもモナシュは不安を抱えた。1898年に皮膚病を患った後、1899年8月にはインフルエンザに襲われ、7度も医者が往診にきた。次の4年間も冬季はインフルエンザや悪性の風邪を患っていた。1897年にグレートオーストラリアンアルプスにあるヴィクの療養地を訪れて以降はまとまった夏期休暇は取っておらず、定期的な運動の習慣はなく市民軍のパレード以外では乗馬も行わなかった(自転車についても、モナシュはヴィクともども乗らなかった)。日々の業務と市民軍勤務がかろうじてモナシュを肥満から救っている状態だった。一方でヒゲが濃くなって、頭髪が後退し始めたことは認めていた。

 

一人娘バーサの養育にもモナシュは力を注いだ。バーサの書きものは全て日付付きで保管しており、バーサが4歳の時からモナシュは聖書物語を読み聞かせ、5歳からはピアノの稽古を始めた。12歳になった時は、英語の古典文学20冊を読ませるなら何が適切かを妹のマットに相談している。バーサはストラサーン校で学んだ後プレスビテリアン女学校で学び、さらにフィニッシングスクールで学ばせる予定であった。後年の手紙では、バーサは父が辛抱強く自分の教育に力を注いでくれたこと、特に音楽を身に着け、寛大な心を持つように育ったことに強く感謝の意を示している。教育が熱心かつ厳格であった一方で、バーサの誕生日の際には、いつも新しい遊戯や余興が用意されていたという(※1908年頃の家族写真)。

 

モナシュとヴィクのいざこざは相変わらずであり、倹約嫌いで気まぐれな傾向があるヴィクは、自分を子ども扱いしてくるとしてモナシュに憤慨し、モナシュも自分にシンパシーを感じてくれないことに不平を言ったので、ピアノデュエットをすることはなくなってしまった。一方でモナシュはヴィクを自分の意のままに教育することは既にやめており、また後年義弟のウォルター・ローゼンハインには、当初うんざりするものだった関係性は徐々に緩和していったと語っている。1898年頃よりヴィクは結核やその他の病気を患い体重の減少も著しかったので、生活環境を変えるために何度か引っ越しを繰り返した。負債を抱えて倹約が必要であるにもかかわらず、モナシュとヴィクは舞踏会や観劇などの社交行事は一定量キープし続けた。この頃はジェームズ・カシウス・ウィリアムソンの劇場会社、リカード・ティボリ会社のヴァラエティーショーに多く足を運び、マーシャル=ホールのオーケストラやメルボルン男声合唱団の後援にも力を注いだ。演劇のチケットは全てコレクションブックに貼りつけて保管すると同時に、観劇した演目の包括的なリストの作成は、学生時代より継続していた。1901年5月の連邦議会の開会式、1902年のネリー・メルバの帰郷祝賀行事にも参加した。1897年8月にはリカードのヴァラエティーショーで初めてヴィクトリア女王の即位記念式典の映画を視聴し、女王陛下や本国および植民地の軍隊の映像に強い感銘を受けた。

 

モナシュは妹のマティルド(マット)とルイーズ(ルー)に対しては週3ポンドの援助を行った。マット(※1908年頃の写真)とは不仲になった時期もあったが、30代になると関係は落ち着いていた。マットはモナシュと同様の聡明さがある一方、社交に関しては不得手で遠慮しがちであり、兄よりはラディカルな考えの持ち主だったといわれる。マットはユニヴァーシティ高校などでフルタイムの国語教員を務めたことがあったが、身体が弱かったことから長く続かず、個人教授の仕事に専念することが多かった。末妹のルー(※写真)はモナシュよりも8歳年少で、12歳の時からはマットが面倒を見ていた。プレスビテリアン女学校で学んだ後、体育教員を目指してハリエット・エルフィンストン=ディックのギムナジウムにも3年間通った。その間タイピングや速記法も学習しており、モナシュの仕事を手伝ったこともあった。マットと同様定職を見つけるのには苦労したが、社交的な性格はマットよりも大きく勝っており、友人は容易に出来るほうだったという。メルボルン大学で工学を学びユダヤ系ドイツ移民の出自でもあったウォルター・ローゼンハイン(※写真)と交際し、ローゼンハインがケンブリッジに移ってからも手紙のやり取りをしていたが、1901年3月に結婚の承認についてモナシュに相談した。モナシュは初めてあった時の印象が「非礼」に映っていたこともあり、当初はローゼンハインの「気取り屋」な性格を嫌っていたが、冶金学における彼の業績に感服し、結婚を認めるに至った。1901年末に二人は結婚し、モナシュは祝福の手紙を送っている(負債を抱えていたため、結婚式の祝電は送れなかった)。ルーが初めて妊娠した時は暗号文でそのことが伝えられたため、モナシュは解読するのに1時間以上かかったという。

 

ルーがイギリスに渡った一方で、マットは経済的事情もあり叔母のウルリケ・ロスと一緒に住むことになった。モナシュはマットとヴィクを再び同居させることも考えたが、不首尾に終わっている。ウルリケの健康状態は1902年頃より悪化しており、手術も受けた。それでもモナシュはルーに対し、叔母は年齢よりも力強く若々しい印象を受けると書き送っている。しかしウルリケの3人の息子(カール、ルイス、ハーマン)たちはいずれも問題を抱えていた。カールはニューサウスウェールズで薬剤師としての仕事に失敗してこの頃は行商人をしており、ウルリケやモナシュにも援助を懇願するまでになっていた。ルイスは1900年に横領のため告発され、18か月の実刑となり、モナシュは保釈金を払わなければならなかった。釈放後のルイスは、西オーストラリアに渡って再出発を誓い、事務員の職を見つけモナシュへの借金返済に努めた。1903年には、今度はモナシュが事務員として数年間雇っていたハーマンの横領罪が明らかとなり、家族の衝撃は大きくハーマンは家から放逐されてしまった。ロス家のこのような状況もあってか、叔母ウルリケにとってモナシュは心の支えのような存在に映っていたという。また従兄のアルベルト・ベーレントとはしばらく疎遠になっていたが、1897年にアルベルトが家族とヨーロッパに戻ろうと決めた時にはモナシュは驚かされた。アルベルトと家族はウィーンに移って仕事を探したが失敗し、結局4年後には戻ってきた。かつて自分の教師役も担ってくれたアルベルトに関しても、モナシュは支援をする必要があった。

 

モナシュは市民軍のパレード後は海陸軍クラブによく出入りし、ビリヤードやスヌーカーをして大いに楽しんだ。スコッチ・カレッジの卒業生クラブへの参加も歓迎された。メルボルンのジェントルマンクラブであるヨリック・クラブでは1896年に監査役になったが、こちらは会費未納のため1902年からは続けることが出来なくなった。メルボルン大学(卒業生)クラブでは主催者としての役割を果たし、資金計画を立て、チェスや印刷機をクラブに寄贈した。1902年には委員会で最多得票数を得たものの、翌年には副会長のポストを辞した。大学クラブはモナシュにとって主要な社交場の一つとなった。

 

30代になると交友関係にも変化が生じた。モナシュはビジネス・市民軍・各種クラブの社交界で広く関係を築いていく一方で、大学以前の旧友たちとは疎遠になりがちとなった。ジョージ・ファーロウとは市民軍の同僚や法律相談相手として未だ親密さを維持していたものの、ウィル・スティールは30歳前に父親から婚約した女性との結婚を反対されると塞ぎがちになり、モナシュに自殺をほのめかしたが慰留された。しかしその後は疎遠となり、隠遁状態になってしまったというスティールは1912年に死去した。市民軍の同僚だったジョー・ミラーも1902年に死去し、「学生時代の最も近しい親友」であったことを想い出してモナシュは悲しみに暮れた。『ヘラルド』のジャーナリストのアーサー・ハイドとも音信不通だった。ジム・ルイスは仕事のためタスマニアに渡ってしまっていた。

 

負債を抱えた時期、モナシュは読書に思うように時間とお金をかけられなかった。それでも1899年から1904年にかけては、ブリタニア百科事典一式、名画集、著名文学双書、アラビアンナイトなどを購入予約している。1901年からは写真を始めたが、スキルとしては上達しなかった。大工や陶芸、素描といった趣味も機会が大きく減ってしまった。結婚して以降はドイツ系クラブには行かなくなってしまい、1899年には所持していたドイツ語小説400冊を体操協会へと寄贈した。ドイツにゆかりがある知人や親族に宛てた手紙も殆ど英語で書いており、ドイツ語による会話力や作文力が低下していることを従弟のブルノ(叔父マックス・モナシュの息子でウィーン在住)への手紙では吐露している。ヴィクは贖罪の日にはシナゴーグに行くようにしていたが、モナシュは行こうとはせず、ヴィクに断食はちゃんとしているのかと揶揄われることもあった。メルボルンヘブライ会には席を置いていたが、1896年頃より会費を払わなくなった。1905年に一度除名されるが、結局滞納金を払うことで1907年に復帰している。ユダヤ教基金ユダヤ文学協会にも登録のみはしていた。ただしユダヤ系の典型的な気風や慣習には、批判的とも取れる表現を用いたこともあった。

 

モナシュの政治観はスコッチ・カレッジやメルボルン大学、市民軍の各間での交流や経験を経る中で培われた。リベラルの『エイジ』ではなく保守系の『アーガス』を購読し、オーソドックスな自由貿易論者であり、反社会主義者(1895年に砲兵の講義を行った際に、社会主義者を敵視する発言をしている)であった。下層階級にシンパシーを感じることは少なかったというが、慈善活動そのものには好意的であった。1890年代のパターソン政権の緊縮財政や土地政策は支持しており、1894年の選挙で敗北すると落胆は大きかった。1897年の選挙ではダンカン・ギリースフレデリック・サーグッドら保守派を支持しており、ディーキンやアイザックスとは対立する立場にあった(ただし選挙の半年後にシドニーで二人に会った時は、好意的な雰囲気だった)。モナシュは決してイデオロギーの戦士ではなく、選挙期間以外は政治運動にかかわることはなかったが、マッケイやJ・A・ボイドら友人を支援することには精力的であった。1900年にディーキンがオーストラリア憲法の制定のために渡英したときはそれを見送った。ヴィクトリア女王崩御したときは追悼式典に参加し、帝国連合連盟会員も一時務めていたが、活動は不活発だった。中国系住民に対しては彼らの文化慣習を揶揄する発言を残しつつも、鉱業において優れたスキルを有していることに感心するなど、当時としてはリベラルな視点も持ち合わせていた。1900年よりモナシュはメルボルン大学の改革運動にも参加し、人事の改善や理工学教員の待遇改善などを訴えかけた。1903年6月からは3か月間、水理工学の授業も担当し、その年末には土木エンジニアⅠ・Ⅱの授業についての名誉試験官に指名された。

 

モナシュの手紙の整理は非常に几帳面で、休日の日課として行い続けていた。綺麗に折りたたんだ上で書き手や受け取った日付を裏面に記入し、紐でくくって日付順に束にしていった。自身が手紙を書くときは速書きで、修正したり草稿を準備したりすることは殆んどなかったという。1900年頃までは殆どの手紙を透写しておいたが、のちにタイプライターに替わった。各種コンサート・演劇・喫煙会・晩餐会・舞踏会のプログラムやチケット、招待状は全て記念本を作成し、入念にファイリングすることにした。

 

モナシュは既に40歳代に近づいていたが、そのことを祝賀の気持ちでは迎えることは出来なかった。結婚生活は常に困難を伴っていたこと、長男が生まれず大家族になりえなかったこと、未だ負債を抱えていたこと、市民軍勤務に物足りなさを感じていたことなどが背景にあった。1902年には妹のルーに宛てた手紙の中で、近年は成し遂げられたことが少なく熱情も減退してしまっているという悲観的な想いも述べている。1902年-1903年カイネトンやバララトなどで幾つかの小規模モニエ式橋梁の建設事業を手がけたが、利益は少なかった。特許事務の仕事でも幾らかの利益を得たが、モナシュは達成感を得られなかった。エッセンドンの路面電車の仕事が来たこともあったが、計画倒れとなってしまった。一方で、1905年頃までは月に一度は法廷に現れて助言や証言を行うなど、仲裁裁判における技術面のアドバイザーとしての仕事では活躍し、アイザックアイザックスからは「議論の要点や正否を完璧に理解しており、自身の見解は明快に表現し、対立意見の誤謬は何でも指摘する」とその手腕を評価された。1902年、モナシュ・アンド・アンダーソン社は苦境から脱するためにマーレー川のクーンドロック~バーラムを繋ぐ、鋼鉄製の270フィートの橋の建設計画に入札した。この時は資金難からサドラーが融資を取りやめたので、A・G・ショーの建設業者がこれに替わった。天候や技術面のトラブルも生じ、モナシュは約6か月間の工期延長を余儀なくされたが、州政府は予算を承認していなかったので工費支払は先送りとなった。1903年10月に橋は完成し、式典には連邦・州政府の政治家たちも出席したが、またしても利益の少ない事業となってしまった。

 

モナシュは次第にガモウやバルツァーから強化コンクリートに関する知識や技術を得ることが煩わしくなってきた。そのため1903年、モナシュはドイツで発刊されている月刊誌Beton und Eisenの購読を申し込み、ドイツ語の技術文献も揃えることにした。会話力や作文力が低下していると漏らしていたモナシュだったが、ここでは自身のドイツ語力を申し分なく活かすことが出来た。1904年にはヴィクトリアエンジニア協会で「強化コンクリート梁の諸分析」という報告を行い、1906年にも「T形鋼設計による試験の健全性」について報告した。モナシュは政府や各機関にモニエ式強化コンクリートを橋梁や排水渠、水タンク、ダム等に用いることの(金属や煉瓦、それ以前のコンクリートに比べての)コストや耐久性の良さを訴えかけた。1904年6月には入念に準備をしたうえで、ロイヤルヴィクトリア建築協会で講演を行った。

 

モニエ式パイプの契約については、1903年初頭までに建設委員会や公共事業部から小規模の受注を受けていた。モナシュはその後売り込みをかけたが、建設委員会との繋がりが出来ていたファンスフォードのテイラーのセメント会社との競合に敗れてしまい、1903年末までは工場設備やガモウへの特許料のための支払いをする必要もあった。1904-1905年の2年半の利益は3392ポンドとなったが、モナシュは他州への拡大を提案しており、のち南オーストラリアに支社が出来ることになった。しかしモナシュは強化コンクリートを橋梁やパイプよりもむしろ、通常の建物建築に活用するべきであると考えるようになった。そのため1905年にモナシュはサウスヤラの舞踏場の強化コンクリート屋根の工事、トゥーラクにある住居のポーチ(屋根付き玄関)やポルチコ(柱廊玄関)の工事を引き受け、1905-06年にかけてはバンクプレイスにある建物やオフィス(コンクリート建築の耐火性についても宣伝した)、ケンジントンにある土地投資会社の建物などを手がけるなどした。

 

既に事業がモニエ式の建築業やパイプ製造業にシフトしていたことから、1905年初頭にモナシュはそれまでの会社を改めて、強化コンクリ―ト・モニエパイプ建設会社を設立した。取締役はギブソンが務め、モナシュは監督エンジニアという役職に就いた。建築業に関しては、ガモウに手数料を支払う必要があった。そしてモナシュはアンダーソンとのパートナーシップの解消を考えた。ファンスフォードで抱えた負債の返済をアンダーソンは免除される代わりに、今後のモナシュのモニエ式事業による利益の分け前は得られないことになった。1905年4月、モナシュ・アンド・アンダーソン社は正式に解散した。

 

 

1890年代末に要塞砲兵隊はメトロポリタン旅団とジロングを根拠地とする西部地区旅団の2個旅団に再編された。メトロポリタン旅団はホール中佐が指揮し、ノースメルボルン、ウィリアムズタウン、港湾トラストの3個中隊からなった。正規軍を含めて7つの海岸砲堡と1000人弱の人員から成っており、モナシュは1896年にノースメルボルン中隊長となっていた。1897-99年にかけてモナシュは出張して市民軍を留守にする期間が長く、特に西オーストラリアへ長期出張した際にモナシュは市民軍を辞める必要があるかと悲観的になったが、上官のホール中佐は大目に見たため、留まることが出来た。1898年にはターナー政権下で市民軍が拡大され、モナシュが指揮する人員も186人、2個中隊へと再編された。モナシュは自身の中隊が1899年の教練で示した成績を「イギリスの正規軍に匹敵する第一線の中隊」としてヴィクに自慢した。市民軍の将校としては珍しいことではなかったが、南ア戦争にはモナシュは仕事上のスケジュールや家族のことが心配だったため参加することはなかった。植民地政府が砲兵よりも歩兵(乗馬歩兵)・騎兵を優先して派遣していたという事情もあった。後年は南ア戦争に参加しなかったことを残念に思っていると回顧しているが、同時代には「従軍することだけが愛国心ではない」と主張するなど、当初はむしろオーストラリアの戦争参加に懐疑的な証言も残していた。しかしながらヴィクトリアからの派兵が進み世論でも賛成意見が高まりを見せると、モナシュは当初の懐疑論を改め、従軍将兵たちの送別会や歓迎会の企画に力を注ぐようになった。

 

連邦成立後、防衛省メルボルンのヴィクトリアバラックスに置かれると同時に、かつてニューサウスウェールズ植民地軍やカナダ市民軍の司令官を務め、南ア戦争ではオーストラリア部隊を含めた乗馬旅団を指揮したエドワード・ハットン少将が総司令官に就任し、1904年に任期を終えるまで帝国全体の防衛を意識した軍制改革を実施した(改革には正規軍のW・T ・ブリッジズ中佐やC・B・B・ホワイト大尉らも寄与していた)。1903年7月にモナシュの中隊はオーストラリア要塞砲兵隊ヴィクトリア第3中隊に改編された。友人のジェイムズ・マッケイは1905年7月、リード政権の防衛相に就任し、ハットン改革を再検討して(正規軍・市民軍の海外派兵には慎重な姿勢を取った)新たに防衛委員会を設立するなど活躍したが、この時期モナシュはビジネスで懸案事項が多く市民軍での活動は副次的になり、中隊指揮は同僚や部下に任せることもあった。講義の機会は減っていたが、海陸軍クラブ、イースメルボルンやクイーンズクリフの駐屯地での将校たちとの交流は継続し、そこではモナシュは充実感を得ていた。1903年に日本の練習艦隊(司令官上村彦之丞、関連する論考)がメルボルンを訪れた時は、その歓送迎会に参加している。旅団・連隊間の舞踏会でもモナシュとヴィクはホスト役を務めることが多くなった。1905年3月に勤続章を受章し、翌年3月には義勇軍章も受章した。1906年8月-9月にかけてモナシュはジュリアス・ブルッヘ少佐ら正規軍将校による講義を受けて中佐昇進のための試験準備を行い、一次試験を突破した。1907年1月には二次試験を受験し、非凡な成績をおさめたが何故か判断はしばらく留保となったため(ただしモナシュに対する偏見や嫉妬によるものか否かについては、明確な証拠が存在しないという)、モナシュは5月と6月に抗議の手紙を書くなど不満を吐露した。その後10月にようやく昇進決定が通知された。しかしモナシュは既に40歳を過ぎており、また要塞砲兵隊で得られる経験や知識についても、限界を感じ始めていた。

 

参考文献

Australian Dictionary of Biography

James Arthur Boyd/Sir Julius Henry Bruche/Septimus Burt/Carlo Giorgio Domenico Enrico Catani/Sir Leo Finn Bernard Cussen/William Davidson/Sir John Forrest/Duncan Gillies/Sir Edward Thomas Henry Hutton/Sir Walter Hartwell James/Sir Samuel McCaughey/Sir Edward Fancourt Mitchell/Sir James Brown Patterson/Sir George Houstoun Reid/Walter Rosenhain/Sir Arthur Rutledge/Sir Julian Emanuel Salomons/Sir George Turner/William Henry Warren/Sir Hartley Williamsを参照しました。

 

オーストラリア辞典

オーストラリア連邦オーストラリア連邦憲法法カイネトンカルグァリーキューグラッドストンクレズウィック帝国連合運動バンダバーグフォレスト、ジョンベンディゴウボーア戦争マラウォーリード、ジョージ・ヒューストンを参照しました。

 

Jeffrey Grey, A Military History of Australia, 3rd edition, Melbourne, Cambridge University Press, 2008[first published 1990].

Peter Andreas Pedersen, ‘The Development of Sir John Monash as a Military Commander’, Ph.D Thesis, 1982.

Geoffrey Serle, John Monash: A Biography, Carlton, Melbourne University Press, 1982. 

藤川隆男「オーストラリア連邦の成立」木村和男編著『世紀転換期のイギリス帝国』ミネルヴァ書房、2004年。

スティーブン・ブラード「人種、ネイション、帝国:日英同盟に対する豪州の姿勢1902-23年」平成28年度戦争史研究国際フォーラム報告書

ジョン・モナシュの生涯(仮題) ⑤起業をする

1891年1月にアウターサークル鉄道での仕事は終わり、モナシュのグレアム・アンド・ワディック社との契約は9月で完了した。しかしこの頃、既にブームは崩壊しており建設業は振るわなくなっていた。モナシュはその後友人のジム・ルイスと一緒にスペンサー通り橋の建設に携わったが、同時にルイスは思ったよりも仕事における実務能力に欠けているとも感じ始めたという。ヴィクの兄でアメリカの生命保険会社役員をしていたデイヴはモナシュに数百ポンドのローンを提案したが、これは断った。アウターサークルでの経験や学士号の取得が自信になっていたのか、メルボルン上下水道事業に応募したり、シドニーのピアモント橋の設計に応募したり、西オーストラリアでの仕事を見つけようとした。地方支部を通じてロンドンの土木エンジニア協会への入会を希望したが、不成功に終わった。9月までは、大学で水理工学講義を担当した他は、幾つかの自治体で水道・灌漑に関する小さな事業に携わるだけであった。しかし9月にカーノット教授が港湾トラストに欠員があることを教えてくれたので、11月にそこにポストを得ることが出来た。港湾トラストはモナシュにとってあまり好ましい職場には感じられなかったようだが、不況下においてひとまず安心を得ることが出来た。

 

ヴィクとの夫婦仲は円満にはいかなかった。結婚2か月の時点で早くも別居を経験したが、間もなくして仲直りし、一緒に劇場に行ったりもした。この頃世界ツアー中のサラ・ベルナールがオーストラリアを訪れていたため、モナシュはヴィクと一緒に3度も観劇した。またメルボルン大学音楽教授に就任し、オーケストラも組織していたマーシャル=ホール教授に感銘を受けた。1890年に出来たオーストラル・サロンでのミーティングに出かけたりした。モナシュはヴィクにアイヴァンホーを読み聞かせるように言ったが、彼女は続けることが出来なかった。ヴィクは後日その代わり、ディケンズの『互いの友』は最後まで読み聞かせ、その後アラビアンナイトも読むことになった。1891年7月、ヴィクはモナシュの友人ジョー・ミラーから結核と診断されたことから、1か月ほどビーチワースで静養することになった。その間の手紙のやり取りは良好だったが、戻ってきたヴィクが静養地では「ふしだらな」ファッションで「時間を忘れるほど」知り合いと楽しく過ごしたことを話すと、モナシュは失望した。ヴィクはモナシュの日記を勝手に読むことさえあったので、モナシュはヴィクに規範を教え込む必要性をますます痛感した。

 

1892年は経済的に困難な年となり、ヴィクが持っていたインターナショナルホテルの株がなくなり、父ルイスも負債を抱えて家具を差し押さえられており、モナシュは100ポンドを支援しなければならなかった。しかし港湾トラストでモナシュの地位が昇進すると、サウスヤラのキャロライン通りに引っ越した。ヴィクとのいさかいは続き、ある時はモナシュがヴィクに脅しをかけ、ヴィクが義兄のマックス・シモンソンのもとに逃げてしまったこともあったが、この時はマックスがモナシュをなだめ、2日後にはヴィクは戻ったので事なきを得た。年半ばには両者の関係は改善し、ヴィクは妊娠するに至った。1893年の新年、モナシュは日記の中で自分の妻を誇りに思っていると証言している。そして1893年1月22日、娘のバーサが誕生した。友人たちは大いに祝福したが、モナシュはシナゴーグでの命名式は行おうとしなかった。バーサは夫妻にとって唯一の子どもとなった(※父ルイス、娘バーサと一緒に撮った写真)。

 

ヴィクがビーチワースで静養中の1891年8月よりモナシュは測量士の勉強に努めており、1892年1月からは給水工学エンジニアの試験勉強も行っていた。チューターにはダブリンで工学学位を取り1889年にヴィクトリア植民地に移住してきたJ・T・ノーブル・アンダーソンについてもらった。アンダーソンが過去問を準備してくれたこともあり、モナシュは給水工学エンジニア試験において3科目で満点を取る成績をおさめた。さらにモナシュは友人のスティールとファーロウの指導の下、法律の勉強に着手する。当時、事業の最終決算等をめぐって政府・自治体と請負業者との間で仲裁裁判がしばしば発生しており、将来のキャリアの成功のためには法律学の素養が不可欠であるとモナシュは考えていた。1892年は仕事の予定を一部変更しつつ、短期間の勉強で財産法・債券法・ローマ法(ローマ法は18時間勉強した日を含めて3日間という詰め込み式であった)の試験に合格、12月にはブラックストンの法釈義に加えてウィリアム・ハーンエドワード・ジェンクス(両名ともメルボルン大学教授)の著作を読みこみ、憲政史と法制史の試験に合格した。翌1893年は、試験が6週間前に迫った9月から勉学に本腰を入れた。講義には出ることなく、学費の工面や過去問の入手などにおいてファーロウやスティールの支援を受け、勉強法のアドバイス講義ノートエドマンド・アームストロングJ・S・バッティ(両名とものち図書館員)、ジャック・マッケイらから得ることが出来た。10月以降はかなり気持ちが張り詰めた状態で勉強し続けたため苦悩も多く伴ったが、本番の試験では衡平法・訴訟手続・国際法に合格した。さらに12月には長年の天敵であったラテン語にも合格し、教養学士Bachelor of Artsの資格を満たすことに成功した。この間、1893年初頭の時点で工学修士の取得条件も満たすことが出来ていた。しかし必要な学費を納める関係で教養学士および法学学士LL. B.を取得したのは1895年のことになった。(初年度から向学心がありフルタイムで学業に努めていれば数学をより究められたかも知れないという見方もあるとは言え)ともあれ、パートタイムで行っていた学業の成果としては、十分すぎる到達点であった。

 

モナシュは市民軍においては1889年1月に海陸軍クラブに入会して社交場の基盤とし、6月には大尉試験に合格し昇進を待った。要塞砲兵隊の教練を行う中で教授スキルも向上し、1889年末にノースメルボルンの中隊事務室で講義を行って好評を得た。中隊舞踏会での食事は将校とは隔てて行うべきではないという下士官たちの要望を支持するなど、下士官兵士たちとの関係も良好であった。以前は悩みの種であったスタンリー大尉との仲は、互いが理解を進めていく中で改善された。1889年7月よりスタンリーは少佐となってゴールドスタインの後任中隊長となり、友人のジョー・ミラーは大尉、モナシュは准大尉となったが、この時モナシュはスタンリーを「活発な良い指揮官」と評価していた。1880年代当時の植民地部隊の装備は旧式で、未だ前装式砲の使用を続けていた(※他植民地の市民軍部隊でも、本国の軍隊がリー・メトフォード銃やリー・エンフィールド銃に更新していく中でも、マルティニ・ヘンリー銃の使用を続けているといった事例が見られた)。スタンリーはモナシュに、演習用に木製ダミーの後装式5インチ砲を製作することを命じた。モナシュはコストを計算し、装置および砲架の設計を行い、メカニックも呼ぶなど苦心した。完成した砲は新聞上では「スタンリー・モナシュ演習砲」と呼称されて称賛する記事が掲載され、スタンリーは前防衛相のF・T・サーグッド大佐にモナシュを紹介するなどした。当初防衛省は製作費用を出さなかったので開発は自費となったが、有用性が認められたことで防衛省は140ポンドを支払った。特許や賞与に関しては認めなかったがモナシュの評判は高まり、演習砲は重宝されてその後数年間使用されたという。間もなくしてスタンリー少佐は参謀将校の任務に就くため転属となり、後任指揮官はミラー大尉が望ましいとモナシュは考えたが、実際に就任したのは郵便局役員のアウトトリム少佐だった。モナシュのアウトトリムへの評価は、「寛大が過ぎる男で、軍隊にはとても向いていない。悪くいい加減な指揮官」という厳しいものだった。

 

結婚生活や港湾トラストでの仕事、学位取得に追われている時期のモナシュは、市民軍への労力はあまり割けず、教練に参加しないこともあった。それでも近代的銃器・火砲・爆薬・戦争における機械技術等の知識を徐々に養っていき、市民軍内では数々の講義を担当した。モナシュが担当した講義は『アーガス』記事上では適切なイラストレーションも交えた「第一級の講義スタイル」であると評され、1893年8月の大学科学クラブにおける砲兵技術の講義では幻灯機スライドを入念に準備するなどして臨んだ結果、ヴィクトリア植民地軍司令官のアレクサンダー・タロック少将からは落ち着いて講義出来ていたと称賛された。その一方で正規軍砲兵指揮官のディーン=ピット中佐には資質を認められつつも、毒舌を吐かれることがあったとモナシュは証言している。翌1894年初頭にはイングランドのシューバリネスでの砲兵課程への参加を持ち掛けられたが、政府が旅費を出せないということで実現しなかった。当時は不況による給料減額も正規軍・市民軍ともに深刻で、それは1890年代末にならないと回復しなかった。

 

モナシュはソルトウォーター川の旋開橋の設計、ヴィクトリア・ドックの上屋、道路、排水路等の設計の仕事を行った。1892年3月には水道局の欠員に応募し不採用となったものの、その後何人かの学生に給水工学の試験について指導し、大学の土木・水理工学の試験官となった。港湾トラストにおいては1892年に年俸260ポンド、正規雇用での主任製図者となり待遇は良化した。1892年4月から7月にかけては港湾トラストを離れ、前職のグレアム・アンド・ワディック社と鉄道局との間の追加請負金をめぐる訴訟の仲裁人の仕事を担当した。

 

首府メルボルンは「素晴らしきメルボルン」(階級格差の問題もまた深刻であり、「臭う町スメルボルンSmelbourne」という側面もあったのだが)とまで讃えられ繁栄を極めたヴィクトリア植民地であったが、1890年代には経済崩壊が深刻となった。1893年4月から5月にかけては殆どの銀行が支払い停止となり、モナシュもメルボルン市内はパニック状態であったと証言している。モナシュが利用していた2つの銀行も支払い停止となったが、口座への預金は少額のみだった。ヴィクトリア植民地の失業率は28%を超えていたとも言われ、公共事業は軒並み停止となった。エンジニアたちの失業も多く、若手の者たちは経験を積むためにと無給と言われても働いた。友人のルイス(プリンセス橋の事業に参加していた頃は年収700ポンドを稼いでいた)も困窮していたため、モナシュは日給10シリングの数日間の仕事を都合してあげたことがあった。親族を見ても、1893年5月にはモナシュの叔父マックス・ロス(モナシュの叔母ウルリケの夫)が負債を負ったまま亡くなったため、その息子たちはウルリケや下の妹たちの面倒を見なければならなくなっていた。モナシュはこの大不況は、農業・鉱業の改革や伝統的保護貿易の転換を通してしか解決できないと考えていた。

 

大不況下では港湾トラストも従業員、給料、仕事の削減を強いられた。モナシュは何とかそこから免れることが出来たが、1893年8月の時点で専門職として残っていたのは、彼と主任エンジニア、監査役2名だけとなっていた。しかし1894年2月、さらなる人員削減が計画されたことから、モナシュは3月にかけてコミッショナーE・L・ゾックスに対し精力的に働きかけるが上手くいかなかった。モナシュは4月13日に解雇通知を受け取り、20日に港湾トラストを去った。その後タスマニアの水力学エンジニア職や友人のミラーの薦めでブランズウィック測量士職などにあたったものの、不採用となってしまう。そのためモナシュは、以前自身のチューターを担当してくれたJ・T・ノーブル・アンダーソンと一緒に個人営業によって不況を乗り切ろうという大胆な決断をした。彼らは同い年で、1891年10月頃に会って以来親交を深めており、アンダーソンの妻エレン・アンダーソンはヴィクとも仲が良かった。1892年3月にアンダーソンは機会があれば合名会社を設立することをモナシュに提案していたが、同年11月の彼らが担当している学生たちを交えたピクニックを主催した際に、モナシュはアンダーソンの提案を承諾することにした。その後1894年6月、モナシュ・アンド・アンダーソン社は正式にエリザベス通り49番に設立された(※アンダーソンの家族との写真)。土木・鉱山・機械エンジニア、特許代理人を請け負う会社としてスタートを切った。日給は2ギニーとされ、これはロンドン土木エンジニア協会が定めた最低賃金であった。

 

娘のバーサの誕生をモナシュは喜んだが、結婚生活は容易には進まなかった。1893年4月にヴィクの肺病治療のためにデイルズフォードで3週間休暇を過ごしたときは、ヴィクと不仲であった妹のマットと衝突が生じた。ヴィクは総督官邸の舞踏会に出席した際、将校として個別に招待されたモナシュに対し苛立ちを覚えた。またモナシュがオーストリア軍の将校 (※1893年に訪豪したオーストリア海軍コルベット艦「サイダ」乗員と思われる。同年にはフランツ・フェルディナント大公も「カイゼリン・エリーザベト」に乗ってシドニーを訪問しており、オーストラリア史の文脈で第一次世界大戦を語る際にはしばしば触れられる話となっている) を接待した結果酔っ払って帰宅したため、夫妻の関係はさらに悪くなり、ヴィクは他の男性との外出をしばしば行うことになった。12月にヴィクは再び妊娠するが、この時は流産であった。翌1894年1月、ヴィクは別居を持ち掛け、義兄のマックス・シモンソンが仲裁に努めたものの4日間家を出てしまい、その後マックスが説得して何とか家に戻らせた。秋から冬にかけて関係はいくらか落ち着いたが、モナシュは日記の中で家庭内の苦悩や不満について吐露し続けた。またヴィクの振る舞いについて忠告する内容の匿名の手紙なども受け取った。なお家計が苦しい中でも、使用人は雇用し続ける必要があった。

 

1894年9月、ついに事件が起こった。ジャック・マッケイの選挙活動を手伝って夜遅く帰宅したモナシュをヴィクが強くとがめた。モナシュはヴィクを抑えようとしたが、自分に手を出そうとしていると見なしたヴィクは娘を連れてシモンソンの家へと行ってしまい、別居の準備をし始めた。モナシュも使用人を解雇した後、ホーソーンで父や妹たちと同居し始めた。モナシュはヴィクが戻ってくる場合は今までの衝突については水に流そうとする一方で、戻ってこない場合は法的権利を主張する必要があるだろうと考えた。その後父と一緒にシモンソンの家を訪問し、(半ば強引に)娘のバーサは連れ帰ることが出来た。バーサは妹のマットとルーが面倒を見ることになったが、ヴィクとの仲直りの術は模索したままだった。ファーロウに促されて、モナシュは友人たちともこの問題について話し合ったが、ヴィクやその友人たちはモナシュに強い非難を浴びせていた。それでもモナシュは仲直りできることを信じ、ラビのエイブラハムズ師に仲裁のお願いもした。しかしヴィクは12月10日、兄デイヴ・モスの手配によってイギリスに向けて出航することになった。狼狽したモナシュはヴィクにアデレードかアルバニーで下船するよう必死に呼びかけたうえ、船の船長にヴィクの様子を注意して見ていてほしいというお願いまでした。

 

ヴィクが出航して間もない12月15日、父ルイスが63歳で急死した(2日前にミラーの診察を受けたばかりだった)。メルボルンヘブライ教会が葬儀をあげ、モナシュもシナゴーグに赴いた。殆どの資産は債権者へと委ねられたが、ジェリルデリーやそのほかの資産は売却されるまでに数年かかった。遺産は殆んどなく、しかも数か月後にはモナシュと妹たちはヤラ通りの実家を抵当差し押さえで失ってしまった。家庭内がこの状態だったので、1895年前半をモナシュは取り乱した状態で過ごした。頻繁に劇場に通い、海陸軍クラブや喫煙会で多くの時間を費やした。カーノット教授やゴールドスタインの勧めで、メルボルンの教養クラブであるヨリック・クラブにも入会した。酔っ払って明け方に帰宅することもあったが、交流があったカード家やクラコウスキ家、スティールら友人たちはモナシュに好意的に接していたという。大工・チェス・写生といった趣味も再開した。様々な横道に逸れる一方で、モナシュはヴィクに戻ってきて欲しいという思いは決して捨てることがなかった。

 

7月13日、ヴィクから突然手紙が来て、戻ってくることを伝えた。モナシュはこれを勝利と思う反面、再会することへの気まずさもあり思い悩んだ。ヴィクは25日に到着した。モナシュは戻ってきた後のヴィクの愛情や作法が好転していることを感じ取り、将来の良い前兆であると考え、自身の日記にも「君を何度もキスし 君を大切に想って抱く」と彼女への愛情を再確認する内容の詩を書いた。モナシュは旧家に近いコピン・アンド・イサベラ・グローヴズに週5ポンドの家賃で近居を借り、妹のマットとルーたちと共に引っ越した。しかしその後もヴィクはモナシュの意思に反して勝手な出費をしたり、無断で友人と競馬場や劇場に出かけたりすることがあり、モナシュを悩ませ続けた。それでもヴィクが戻ってから1年間以内には、(途中で妹たちが別居をするようになったこともあり)家庭内の落ち着きや満足という点では比較的改善が見られた。

 

モナシュ・アンド・アンダーソン社の仕事に関しては、南ギップスランドを中心に各地自治体に売り込みを行っていたが、エンジニアよりもむしろコンサルタントとしての採用が目立った。ギップスランドにおいて鉱業で成功していたコールクリーク会社はモナシュたちをコンサルタントとして採用し、『エイジ』への投書を通じて地域産業保護について雄弁な宣伝活動を行った。ムールダックの粘土の委託販売を担当したときは、デヴィッド・ミッチェル(※ネリー・メルバの父親)のセメント会社のマネージャーをしていたジョン・ギブソンの知己を得た。労災事故の訴訟に関する仕事、バーウォン川の可航性についての調査、マウント・ライエル社の雇用に関する仕事、沈没船引き上げのためのシンジケートへの参加など多岐に渡る仕事を引き受け、将来のより大きな事業に参加できることに期待を寄せた。アンダーソンは快活な人柄で聡明、特に数学力はパートナーのモナシュを上回る面があり、大学では機械工学の講義も担当していた。ただしモナシュは、アンダーソンの取引面での卓越性を評価しつつも、仕事を継続的に正確に行うことには難がありビジネスマン的では無いとも評した。

 

1895年半ばより、モナシュたちは1201ポンドからの大きな契約となる、ランディズ・ドリーム産金会社の、ギップスランドのウォルハラから7マイル離れた地域のロープウェイのデザインと敷設の事業を任された。ロープウェイは長さ約1マイル、石英輸送のためのものだったが事業は苦労を伴った。設計はモナシュたちが一から行う必要があったにもかかわらず、会社は整地を十分に行っておらず、イギリスに発注したロープは到着が遅れた。途中でモナシュが痔核と下痢の症状に悩まされるなどの困難もあった。工事が完了しつつある翌1896年5月には、工期が延びてしまったことについての契約を巡って会社と対立が生じ、モナシュとアンダーソンは訴訟を起こしたが、結局12月に一部の支払金を諦めることで和解が成立した。ロープウェイの仕事は徒労が多いものとなったが、ウォルハラでは1896年2月から7月にかけてはゴールデンフリース社のボイラー輸送・設置の仕事も引き受けており、こちらは概ね順調に完了させることが出来た。この年アンダーソンはミルドューラの灌漑の仕事を見つけ、ヒルズビルの自治体とも契約を結んだ。モナシュもストルゼレッキ石炭会社のコンサルタントとなり、同社の路面線路の改良に努めた。

 

この時期の市民軍勤務ではモナシュは退屈を感じることが多かった。中隊長のアウトトリムと友人のミラー大尉は退役が近く、上官のW・H・ホール少佐からはモナシュを昇進させる話が来たが、一旦は流れてしまった。1894年7月より参加したヴィクトリア軍人協会では、懇談会や陸海軍の装備の展示、講演について提案をホールに対して行った。提案は受け入れられ、10月には現代兵器の発展と題した発表を行い、モナシュの評判は高まった。植民地軍司令官のチャールズ・ホールド・スミス少将らから賛辞の言葉を貰い、協会幹事の地位を得たが、思ったよりも退屈でわずらわしい役職であると感じ、1897年に仕事のため役職を辞した際はむしろ喜んだという。

 

1895年10月14日、昇進試験から暫く待たされていたモナシュはようやく大尉に昇進し、その翌週に総督が閲兵をした際には副官をつとめた。学校長にしてメトロポリタン旅団を指揮することになったホール中佐は、10年以上に渡りモナシュのよき指導役となった。1896年7月、アウトトリムはモナシュに砲兵中隊の指揮を委ねるとし、自身は予備役になった。9月24日、モナシュはノースメルボルン要塞砲兵中隊長となった(※1896年頃のモナシュ)。10月下旬までモナシュは自身の中隊を上手く訓練し、やりがいや自信を感じる一方、12月に少佐試験を受けた。「教練」で99%、「砲兵戦術」で98%、「連隊任務」で87%の成績を収め、乗馬試験は不首尾ではあったが総合的には合格した(既に駐屯部隊での勤務が長くなっていたが、歩兵・騎兵の運用についても理解を深める機会になった)。1897年4月2日、少佐への昇進が発表された。歩みが滞った時期もあったが、31歳としては非凡なキャリアであった。

 

参考文献

Australian Dictionary of Biography

Edmund La Touche Armstrong/ James Sykes Battye/William Edward Hearn/Edward Jenks/George William Louis Marshall-Hall/David Mitchell/Ephraim Laman Zoxを参照しました。

 

オーストラリア辞典

ウォルハラ素晴らしきメルボルンミルドューラ1890年代不況、金融恐慌を参照しました。

 

Jeffrey Grey, A Military History of Australia, 3rd edition, Melbourne, Cambridge University Press, 2008[first published 1990].

Peter Andreas Pedersen, ‘The Development of Sir John Monash as a Military Commander’, Ph.D Thesis, 1982. 

Geoffrey Serle, From Deserts the Prophets Come: The Creative Spirit in Australia 1788-1972, New edition, Clayton, Monash University Publishing, 2014 [first published 1973].

Geoffrey Serle, John Monash: A Biography, Carlton, Melbourne University Press, 1982. 

藤川隆男編『オーストラリアの歴史 多文化社会の歴史の可能性を探る』有斐閣、2004年。

山本真鳥編『世界各国史27 オセアニア史』山川出版社、2000年。

ジョン・モナシュの生涯(仮題) ④結婚

アウターサークル鉄道事業に参加して間もない1888年4月に、モナシュは助手としてフレッド・ガブリエルという24歳の青年を雇った。便利屋かつ我が強い人物というのが、モナシュがガブリエルから受けた印象だった。ガブリエルには既に妻とゴードンという2歳の息子がいて、ハートウェルに居を構えたが、モナシュはその一室を事務所として使用した。フレッドの妻アニー・ガブリエル(※アニーとされる女性の写真)はアレンデール近くのクレメンストンに住む機関手の娘で、二人は1884年に結婚した。アニーはモナシュとは同い年で、薄茶色の髪を持ち上品で可愛らしい外見で、教養は高くないが機転が利き、従順で忍耐強い女性というのが、モナシュがアニーから受けた印象だった。

 

間もなくしてモナシュはアニーに本を贈るなど次第に彼女に好意を抱き始め、6月ごろから親密な関係を持つようになった。フレッドは7月、二人がホーソーンの川岸で行った初めての逢引を追跡した時点から、疑惑を抱くようになっていたが、その後も二人はひそかにノートを交換し合う関係を継続し(モナシュはフレッドを出し抜くことに楽しみさえ見出し、ロマンスであり恥ずべきことではないと言い聞かせていた)、8月にはモナシュは熱烈なラブレターを書くまでになった。10月下旬には二人は相互に信頼し合う関係となり、フレッドが留守の間は二人で路面鉄道に乗りブランズウィックまで出掛けることもあったが、疑惑を抱いたフレッドはアニーに乱暴にあたるようになった。間もなくアニーは心身を病むようになり、母親の家で静養となった。モナシュは6週間ほど彼女に会うことが出来なかったが、その間愛情を吐露するような手紙を書いており、二輪馬車に乗りながら手紙の文言を考えていたら衝突事故を起こしたこともあった(なおこの間も舞踏会などの社交活動は継続しており、エイミー・コリーとエヴィー・コリーという姉妹に友人以上の感情を抱いて一緒にメルボルンカップに出かけるなどしたが、長続きしなかった)。

 

アニーは11月に家に戻ることが出来た。暗号文や秘密の隠し場所、信用できる配達人、角灯での合図などを駆使し、二人は短時間なら会うことが出来たが、フレッドは形の上では愛想を振る舞いつつも警戒を持続していた。それでもモナシュはアニーに対し、情熱的かつ独りよがりな手紙を書き送り続けた。モナシュがアニーに出した手紙は115通に上り、これに自身の日記における20万語近くの記述が加わることになるが、これはオーストラリア史における密通事件としては、最も多くの量が記録された事例ではないかと言われている。アニーはフレッドに抗うことに限界を感じており、スキャンダルや不面目を犯すことへの呵責も感じるようになっていたが、「ラウラにペトラルカ、ベアトリーチェにダンテ」であるように自分にはアニーがいなければならないというモナシュの呼びかけを止めることが出来なかった。モナシュはアニーにフレッドとの離婚についても提案するが、それは同時にヴィクトリアから離れて新たな場所で生活することも想定する必要があった。アニーとの関係については友人のジョージ・ファーロウやウィル・スティールには打ち明けており、ファーロウは特にモナシュを説得しようとしなかったが、スティールはモナシュの言動に対し厳重に忠告をした。モナシュはそれを一時心に留めたようだが、1889年の初頭には既に平静を失いつつあった。

 

そして1889年3月16日、モナシュとアニーはキューにあるスタッドリー公園で逢引を企てるが、そこをフレッドに看破された。争いの中でモナシュはステッキと傘を壊され転倒した。フレッドはアニーを掴んでスミス通りの方へ連れて行ったが、モナシュはフレッドに抗うことはなかった(後日モナシュはアニーに対し、スキャンダルをこれ以上悪化させたくなかったからだと説明している)。アニーはフレッドからの逃走を図るものの、2日以内にまた捕まえられた。フレッドは法的手段に訴えることもちらつかせ、知らせを受けたアニーの父は、モナシュに憤怒の手紙を送った。結局アニーはフレッドに見送られ、両親の家に一時帰ることになったが、駅のプラットフォームにはモナシュが隠れていた。自棄になっていたモナシュは路面鉄道に乗ろうとしたが転倒して失敗した。フレッドとアニーが別居になったことはプラスであると自分に言い聞かせ、アニーに手紙で裁判判定による別居について提案した。フレッドは仕事を辞めることになり、モナシュの父ルイスを通じて植民地を離れるための金が欲しいと要求したが、モナシュは応じなかった。モナシュはアニーへの想いは「偉大な素晴らしきインスピレーション」に他ならないと言って諦めきれず、その後も手紙のやり取りをした。4月30日にバララットおよびバニンヨンで再会する約束もしたが、結局9週間にわたって再会することはなかった。5月下旬、フレッドはアニーを再びメルボルンに連れ戻した。アニーはモナシュとの関係を諦めようとしていたが、6月にモナシュは再び連絡を取って、7月中旬よりスタッドリー公園、ブライトンビーチ、トゥーラクといった郊外で何度か密会した。

 

同じ頃の1889年6月22日、モナシュはドイツ系クラブの舞踏会に出席し、当時20歳の美しいユダヤ系女性、ハンナ・ヴィクトリア(ヴィクトリー)・モスに会った。ヴィクトリアは1882年に社交場で一度モナシュと同席したことがあり、モナシュの名前は以前から知っていた。モナシュは直ちにヴィク(こう呼称した)に魅了され、友人となった。8月ごろまで何回か会合や舞踏会での交流を重ね、この時は礼儀作法を守って許しを得た上でヴィクに手紙を書いた。妹のマットを伴ってヴィクの家を訪問し、トランプ手品を披露するに至り、日記ではヴィクが現れたことによってアニーとの関係は少し負担になり始めたとまで告白するなど、気持ちの動揺が生じた。ヴィクは物静かであまり感情を表に出さない女性だったか、モナシュがピアノを披露した際はその腕前に驚きの反応を見せたという。

 

モナシュは8月下旬にかけてヴィクとアニーのどちらの関係を選ぶかで悩んでおり、人生における大きな危機の一つであった。程なくして衝動的になったモナシュは、アニーへの想いは自分にとって「最初の愛であり真の愛」であると言って、彼女のためなら不名誉も背負おうとまで考え、アニーに駆け落ちを提案する手紙を出してアニーの賛同を得た(行先は不明だが、他の植民地と思われる)。1889年9月13日の夜、駆け落ち(アニーの息子ゴードンも連れて)を決行するが、サウスヤラ駅で二輪馬車を降りたところで「(モナシュの日記に曰く)稲妻のように」駆けつけてきたフレッドにより阻止され、アニーは連れ戻された。目に黒あざを作るなど負傷したモナシュだが、友人が傷心の彼を慰めた。数日後、モナシュは日記の中で「スティールは正しかった。これは悪夢incubusであった」とつぶやいた。また、フレッドがアニーをシドニーへと連れていったことを知った。モナシュはアニーへの未練は薄らいでいたが、その後アニーから音信がないことを叱責する手紙が来たため、駆け落ち失敗を強く詫びる手紙を書いた。そしてもし望むなら親元か他の場所へと逃げるための手助け(シドニーにいる従弟のカール・ロスと協力して)をするという提案もしてみたが、12月に届いた返事ではアニーは既に自身の運命を諦めている様子だった。

 

ヴィクとはしばらく連絡を取っていなかったが、モナシュが「過去を振り返る時ではなく、突き進むのみ」と言って精神的に立ち直ると、再び交流が始まった。9月下旬にエヴァ・ブラシュキの結婚式に出席した際には、モナシュはヴィクとの間にシンパシーが育まれているのを感じた。彼女に会うたびに好意は高くなり、ハイドンのシンフォニーのピアノデュエットを行ったりした。この頃イプセンの『人形の家』も観劇しており、女性の家庭における地位について考えさせられた。

 

10月になるとヴィクはモナシュのことを手記で「ジャック」と表現するようになった。10月8日のドイツ系クラブの舞踏会でモナシュは決意を固め、翌9日ヴィクに手紙を書いた。ヴィクの返事が来た後、二人でヤラ川まで散歩に行き、そこでモナシュが話を持ち掛けた。二人の思いは合意に達し、婚約することになったが、この時モナシュはヴィクの様子が手紙の中よりもよそよそしく、冷たいものに感じられたという。経過としてモナシュとヴィクの婚約は双方の衝動的感情によるものであり、必ずしもロマンティックなものではなかった。それでもモナシュは、ヴィクの姉サラとその夫マックス・シモンソンとは上手く関係を築くことが出来た。父ルイスも婚約を歓迎したが、アニーとの恋愛を支持していたという妹のマットはモナシュの移り気に憤慨しており、婚約は少なくとも1年間は秘してほしいと主張した。

 

ヴィクは食糧販売・宿泊業を営む商人モートン・モス(1800-1879)とレベッカ・アレクサンダー(1829-1882)夫妻の末娘で、両親はともにロンドン出身だった。13歳までに両親とも亡くなったため、姉たちのもとで育っていた。背が高く優美な顔立ちで、音楽の素養があり、「近年のメルボルン社交界の女王の一人」と噂されたこともあった。モナシュはヴィクの教養や作法、物静かな性格には問題があると捉え、自分に相応しいように改善していく意志を抱いた。一方ヴィクはモナシュの過去のゴシップを気にしており、付き合いが続くにつれてモナシュはヴィクから冷淡さや横柄な振る舞いを感じ取るようになった。二人の婚約期間は順調には進まなかったが、結婚するまで18か月間、貞節は維持することになった。モナシュは日記でアニーについて言及することはなくなっていたが、この間出した手紙数は、ヴィク宛が41通に対し、アニー宛は51通だった。

 

モナシュはヴィクの教養やモラルの改善のために口うるさくなり、ヴィクもモナシュに対し「難癖」をつけることがあったので、二人は口論になることがあった。翌1890年1月には、モナシュは日記において「心から愛している」と述べつつも、ヴィクの振る舞いに対して失望や辛苦が少なからず生じていることを吐露している。モナシュは7月半ば、婚約解消を持ちかけてヴィクを驚かせたことがあったが、この時はただちに仲直りをした。しかし8月になると、ヴィクはモナシュを伴わないで劇場に出かけると言いだした。9月には今度はヴィクが別れ話を持ちかけたので、モナシュは彼女の言動に干渉しないと譲歩することを強いられた。しかしヴィクは10月の海陸軍クラブの舞踏会ではモナシュと踊ろうとせずモナシュの面子を潰し、12月には他の男性と街に出かけてモナシュを狼狽させるなど、関係はなかなか改善しなかった(※1890年ごろのモナシュとヴィク)。

 

婚約が決まったことでモナシュは女性たちを追いかけるのはやめにして、学位の問題に専心するようになった。1890年8月のエンジニア学生協会の集まりで、カーノット教授はモナシュに対し工学課程のまだ残っている科目に挑戦するよう促した。これは良い刺激となって、9月にかけてモナシュはジム・ルイスたちから応用力学や土木工学、地質学のノートを借りた。年内に必要とされる各科目の試験には合格し、翌1891年1月からは、実質3週間の詰め込み式ではあるが最終試験に向けての勉強に本腰を入れた。ルイスやカーノット教授のアドバイスを受けつつ、一日中大学図書館公共図書館で過ごす日が出来るなど辛苦を重ねた。緊張の中の試験初日は手ごたえを感じたというが、試験最終日前は集中力が切れて市民軍の晩餐会に参加し、酔っ払った末に午前2時の帰宅となった。体調は最悪だったか、それでも試験はこなすことが出来た。そしてしばらく不安に過ごした後の3月24日、モナシュはアーガス奨学金を取得したうえで第二等上級学位の判定で合格していたことを知った。結婚式も控えていた4月4日、友人たちに囲まれながら、最初の学位となる土木工学学士Bachelor of Civil Engineeringの学位を勝ち取ることが出来た。「早熟の天才」としての道はかなり前に捨ててしまっていたが、それでも学んだことを通して生まれ故郷や人々のために貢献する意志は強く抱き続けていた。

 

3月以降もヴィクとの言い争いは続いており、モナシュは学位取得などの成功体験もあったとはいえ、日記の中では将来の見通しへの不安感も吐露していた。しかしそれでも、二人の成功と幸福のために絶対に必要なこととして自分に従ってほしいとモナシュはヴィクに懇願し、裕福にしてみせるとも約束した。4月の結婚式はヴィクの意向を踏まえて行われることになったが、ヴィクの持参金はなく、義兄のマックス・シモンソンが彼女の財産の受託者となった。1週間ほどモナシュは自己憐憫にふけったが、それに対しヴィクはモナシュに過去は忘れて一から出発することをお願いし、結婚前夜には彼に愛の言葉を贈った。ヴィクの性格はモナシュの母ベルタとは大きく異なっていたにもかかわらず、モナシュは自分の母が見せたような従順さをヴィクに求める独りよがりなところがあった。一方ヴィクは個性や知的素養は備えていたものの、教養の幅は狭く思慮や作法に欠けているとモナシュには映り、実利的なことや表面的な社交生活を気にするところがあった。音楽や演劇に共通の趣味とすること以外は、性格面で相容れない面があったが、それでも双方は結婚することに対して異論はなかった。婚約破棄という不面目への忌避も頭の片隅にあったとはいえ、モナシュはヴィクに対する愛情を有していた。

 

1891年4月8日、コリンズストリートイーストのフリーメイソンホールで、ラビのエイブラハムズ師の下で結婚式は行われた。友人のジョージ・ファーロウが介添え人となり、ヴィクには6人の花嫁介添え人がついた。モナシュはヴィクに金時計を贈り、フェデラルホテルで一夜を過ごした後、二人は列車でシドニーへと旅行に出かけた。出発する際にはヴィクは幸福を感じている様子だった。シドニーではグロブナーホテルに滞在し、劇場を何度か訪れ、フェリーや路面鉄道に乗り、美術館、ボンダイビーチの水族館、サイクロラマなどを楽しんだ。翌週にはブルーマウンテンやジェノランケーブに出かけるなどした。モナシュによれば旅行中、シドニーの中央駅で到着時と出発時の2度、因縁の相手であるフレッド・ガブリエルを見たのだという。メルボルンに戻った後、新郎新婦はリッチモンドのレノックス通りに新居を借りることにした。

 

 

※モナシュはアニー・ガブリエルとその後も手紙のやり取りを継続しており、後年にはメルボルンで何度か一緒に過ごしたこともあった。大戦勃発後の1914年11月、モナシュはシドニーのフレッド(この頃は私立探偵をしていた)とアニーの夫妻を訪問し、翌12月に自身が出征する際にもメルボルンでアニーと再び会い、別れの挨拶をしている。アニーの息子ゴードン・ガブリエルも工兵伍長としてガリポリ戦役に従軍した。大戦後もアニーにお金を貸したり、1929年にはシドニーで、1930年にはメルボルンで会ったりするなど交流は続いた。1931年2月、アニー・ガブリエルは死去した(モナシュが死去したのは、同年の10月8日である)。

 

 

参考文献

Monash's liaisons laid bare in lamentable period play ※近年はジョン・モナシュの女性関係をテーマにしたMonash In Love and Warという演劇も発表されている。

Geoffrey Serle, John Monash: A Biography, Carlton, Melbourne University Press, 1982.