ジョン・モナシュの生涯(仮題) ⑦社会の柱石を目指して 【大戦前まで 終】

モナシュは年に1000ポンドの割合で負債の返済に努める必要があったが、1906-08年にかけてはオーストラリアの景気は好転が見られていた。強化コンクリート会社も事業を拡大しており、モナシュは妹のルーに宛てた手紙の中で「破滅の可能性はなくなった」と語った。1905年より通常のコンサルティングや訴訟関連の仕事はやめてしまったものの、1906年より会社が請け負うようになった事業は、橋梁、タンク、排水渠、大学施設、郵便局、倉庫、サイロ、貯水池など非常に多岐に及んだ。メルボルン大学出身の助手エンジニアを4人雇うなど、スタッフの強化も図られた。1908年の最初の2か月は、かつてないほどの案件を抱え、モナシュは余暇を楽しむ間もなくなってしまったが、それでも収益は上がっていった(裕福になりかつ多忙であった関係で、1907年12月に友人の政治家ジョン・マッケイJohn Mackeyからヴィクトリア警察長官のポストを持ち掛けられた際はこれを断っている)。滞納金を支払うことで、ロンドンの土木エンジニア協会へ復帰し、準会員から正会員への昇格も実現した。

 

1906年6月にはデヴィッド・ミッチェルとジョン・ギブソン、牧羊業者のC・H・アンガスの出資の下、E・H・ベイクウェルを取締役として南オーストラリアに子会社を設立した。1907年より同会社はポート・ヴィクターの鉄道橋やアデレード港の埠頭、商業施設等の事業を手がけた。モナシュはコンサルティングエンジニアの立場から、会社の収益の2.5%を獲得することが出来た。ここまでのモナシュの成功は、ミッチェルとギブソンの力によるものが大きかった。1916年にミッチェルが亡くなった際には、自身が苦境の時期に助力してくれたことを忘れることは出来ないという思いを強調し、その死を悼んでいる。ギブソン(弟のロバート・ギブソンはのち連邦銀行総裁となる)はスコットランド出身の工業化学者として1890年よりミッチェルのコンクリート事業に協力していたが、モナシュは彼に対しても、自身のビジネス再建を支援してくれたことに深く感謝する言葉を贈った。会社の職工長の立場にあったアレックス・リンチもまた、モナシュの片腕として尽力した。

 

サンフランシスコ地震の復興事業はコンクリートが主流で行われたということもあり、強化コンクリートに対する抵抗感は薄れていったが、従来の建設業者や職人たちの抵抗は未だ存在していた。モナシュは1907-08年にかけてヴィクトリアエンジニア協会や王立ヴィクトリア建築士協会、ヴィクトリア化学協会などで広報を行い、懐疑的な建築士たちに働きかけた。その際、義弟のローゼンハインはイギリスにおける強化コンクリートの使用事例を提供した。しかしプレストンの貯水池事業では、請負をめぐって大きな論争となった。建設委員会は強化コンクリート会社の入札を認めるつもりであったが、他の建設業者や建築家協会が長きに渡り反発を続けた。1908年5月の『ビルディング』誌では強化コンクリート会社は建築家や建設業者の立場を不当に奪っており、オーストラリアの建築業界は重大危機に陥っているとまで書きたてられた。建設委員会の給水工学エンジニアのE・G・リッチーも、強化コンクリートに懐疑的で欠陥が生じることを危惧していた。委員会ではモナシュの評判を落とすために、割目の入ったコンクリート写真が提出されたこともあった。しかし1910年初頭にかけてモナシュは聴聞会を闘い続け、最終的には強化コンクリート会社に有利な形で仲裁がなった。

 

メルボルン公共図書館のドーム(読書室)建設事業の件も、モナシュにとっては痛手となった。当時の図書館長で友人のエドマンド・アームストロングは、大英博物館アメリカ議会図書館のようなドーム型の読書室建設を提案し、基本設計はN・G・ピ―ブルズ (ベイツ・ピ―ブルズ・アンド・スマート社)が担当することになった。詳細構造についてはモナシュも参与しており、強化コンクリート会社の入札も認められる見込みであった。ピ―ブルズとも一緒にバッファローに出かけるなど親交を深めていた。ところが建築家協会は図書館に代理人を送り、設計の再検討と一般競争入札の実施を図書館理事に対し要求した。図書館側はモナシュに知らせることなしにこれに譲歩したため、モナシュは憤慨した。その結果1909年5月、強化コンクリート会社に替わってスワンソン兄弟とイングランドのトラスド・コンクリート・スチール社の入札が決定、カーン式建築を採用して再設計された建物は、一時的にではあるが世界最大の強化コンクリートによるドームとなった。落胆と立腹が大きかったモナシュだったか、ピーブルズとの親交は以後も継続した。なお度々批判された強化コンクリート建築であったが、1910年に特許が事実上開放され、広く浸透することになった。

 

モナシュの年収は1907年には約2000ポンドほどであったが、1909年には約7000ポンドにまでなった。モナシュは収支計算を入念にまとめており、1908年には3146ポンド、1910年には14097ポンド、1913年には30000ポンド以上の財産を有するに至った。メルボルンのオースティン病院や救世軍への寄付も始めた。経済的に余裕が出てきたこともあり、モナシュは1907年2月、当時ノイローゼ気味になっていたマットをルーたちがいるヨーロッパへと旅行させることにした。ルーの夫ローゼンハインは、弱冠30歳で国立物理学研究所の冶金・冶金化学部の部長になっていた。憂うつや嫉妬の感情から当初はルーの夫妻と上手くいかなかったが、関係は次第に良いものになっていった。マットをヨーロッパに長期滞在させる話も出たがモナシュは却下し、渡欧は2~3年おきに行うことになった。しかしこの時のマットの滞在は18か月に及んだ。

 

1907年のモナシュの市民軍勤務は、要塞砲兵隊司令官に就任できなかったことから不満を伴ったものとなった。しかし旧友で連邦防衛相も務めたことがあるジェイムズ・マッケイJames McCay大佐は1907年12月、新設のオーストラリア陸軍情報部(市民軍将校で構成され、マッケイが指揮していた)のヴィクトリア管区長のポストをモナシュに持ちかけてきた。モナシュは市民軍のキャリアに新たな可能性が見いだせると考え、上官のホール大佐とも相談したうえでこれを快諾した。1908年3月7日付けでモナシュは中佐に昇進し(「モナシュ少佐」としての期間が長かったので、その通称がすっかり定着してしまっていた)、砲兵隊司令官のハンビー中佐に新たなポストに就くことを几帳面に報告した。モナシュの後任の中隊指揮は親友のファーロウがとることになり、ノースメルボルンの将校たちは喫煙会を開いてモナシュを見送った。喫煙会の中のスピーチでは、モナシュは要塞砲兵隊に21年間勤務したことを感慨深げに語った。結果的に要塞砲兵隊勤務は、モナシュにとってオーストラリアの市民軍兵士たちの性格を把握し、如何にして彼らを指揮するべきかを考えさせる場所としての役割を果たし、軍隊指揮官モナシュの原点の一つとなった。

 

オーストラリア陸軍情報部は1905年に情報部長に就任したW・T・ブリッジズ中佐の提案によって設立された。ブリッジズはH・G・ショヴェル中佐やC・B・B・ホワイト少佐ら正規軍将校たちとエドワード・ハットン少将以後の軍制改革を主導していた。1907年植民地会議における帝国参謀部の設立に基づいて、ブリッジズは将来的には参謀部設立を構想していたが、情報部はその布石と見なされていた。情報部の主要任務は、オーストラリア内外の地誌や軍事的資源に関する情報を集め、戦略戦術上の地図作製および計画の立案を行うことであったが、特に本格的な軍用地図にも事欠いていた点は、深刻な事態であった。1909年に参謀部(初代参謀部長はブリッジズが就任)が設立されると、情報部はその影響下に置かれることになる。モナシュは1913年半ばまで、そのヴィクトリア管区長の役職に留まることになった。

 

1909年1月、メルボルンで初めて情報部のオーストラリアの防衛に関する講義が行われ、その殆どをブリッジズとマッケイが担当した。4月には最初のキャンプが実施され、情報日誌や教範の準備、輸送と補給に関するデータ収集が行われた。モナシュは各種文書の整理にその能力を充分に発揮する一方で、主な仕事として地図の作製を担当した。当初モナシュは自治体のエンジニアたちに余暇に地図を作製できないかと呼びかけたが、間もなくしてパートタイムの市民軍勤務ではより広範で本格的な地図作製は期待できないことをマッケイに伝え、結局正規軍の作製班が組織された。

 

1909年12月~1910年2月のホレイショ・キッチナーの訪豪以前でも、南ア戦争以後の本国における議論に触発されて、急ごしらえのオーストラリア軍制の改革は活性化していた。1907年9月、モナシュの働きかけでヴィクトリア軍人協会が再開され、毎月の講義や演習が実施された。1909年10月、モナシュを含めた将校たちはブルッヘ少佐の防衛・動員計画について協議する機会を得た。またシドニー大学軍事学を担当していたヒューバート・フォスター大佐の教育課程に参加し、参謀としての任務や戦術について学んだ。フォスターの講義はモナシュにとって良い刺激となった様で、大戦中に師団や軍団を率いることになった時にも彼に対して感謝の手紙を送っている。義弟のローゼンハインから近年の本国における航空技術の発展について聞いていたこともあり、同年にはオーストラリア航空連盟の設立委員会にも参加した。ベルリンの書店に軍事学・地誌・兵站・戦史・戦略戦術教範に関する本のカタログおよび新刊情報を問い合わせるという、ドイツ語に通じたモナシュならではのことも行った。

 

訪豪したキッチナーは、オーストラリアはヨーロッパにおけるドイツの台頭、太平洋における日本の膨張の双方に対応できる防衛力を有するべきであることを提言した。これを論拠の一つとして、ディーキン政権では青少年に市民軍としての教練義務を課す法が制定された。また訓練担当官は、1911年6月に連邦首都予定地に新設されたダントルーン士官学校(アメリカのウエストポイントをモデルとした)の修了者が望ましいとされた。キッチナーが視察する演習に向けての準備を、モナシュたち情報部はクリスマス休暇を返上して必死に行った。しかし演習の際に「ハルツームの英雄」たるキッチナーに示すシーモア~アヴェネル区域の軍用地図は、3週間の突貫工事で準備されたものを用いなければならなかったという。それでも演習の判定や戦術上の議論を行う過程で正規軍の将校たちと交流を深めたり、参謀将校としての研鑽を積んだりすることは出来た。

 

ジュリアス・ブルッヘ少佐は両親ともドイツ系(ユダヤ系ではなかった)でメルボルン出身、モナシュより7歳年下、スコッチ・カレッジの後輩でもあったため良き友人となった。モナシュはブルッヘを「正規軍将校における真の先進的な人物」であるとしてその情熱的な性格や教養を称賛しており、不成功に終わったが数度に渡りブルッヘの警察長官職への挑戦を支援したこともあった。要塞砲兵隊時代の上官でヴィクトリア州司令官となったジョン・スタンリー大佐との仲も良好だった。スタンリーの後任司令官で、1914年からはダントルーン士官学校長を務めることになるJ・W・パーネル大佐とも親交を結んだ。

 

この頃、モナシュは運動不足による肥満も意識し始めていた。1908年12月にロンドンのボディビルダー、ユージン・サンドウに、エンジニアは座業が続いて運動の機会が減っていること、胆汁症や消化不良の傾向があること、自身の体重が100キロに達しつつあることなどを相談する手紙を送った。サンドウからはエクササイズメニューが届き、モナシュはそれを実践はしてみたものと思われるが、それに対するレポートの返信は行わなかった。自身の体型に関しては、1909年8月にメルボルンの『パンチ』上で「(情報部勤務でヘルメットを被っていたので)大きなキノコ」のようであると揶揄される羽目になった。加齢に伴い、読書や仕事をする際はメガネをかける必要も生じてきた。

 

モナシュには40歳を過ぎても未だに海外経験がなかった。しかし事業は安定し収入も増えており、欧米の文化や産業の中心地をぜひとも見聞しておく必要があるという思いもあって、1910年にようやく初めての家族での海外旅行をすることになった。会社の業務はギブソンたちに代行してもらい、旅行時期は3月から10月を選び、船旅は一等客、ヨーロッパ大陸での鉄道は二等客を利用、ヨーロッパ大陸12週間、イギリス8週間、アメリカ2週間という日程を計画した。長旅ということもありモナシュは荷造りから入念に行い、カバン18個分の荷物の内容はパイプクリーナーやハンカチに至るまで全て箇条書きした。また旅の間は、チップ、切手・新聞代、ホテル代の比較、468点に及ぶという土産物まで、あらゆる事柄のリストを几帳面に作成した。

 

「オトラント」号での船旅はモナシュにとって快適なものとはならなかったが、ジョージ・メレディスの小説を読んで過ごした。他の乗客たちの人当たりも良く、産婦人科医のフェリックス・マイヤーと知り合いになった。ヨーロッパに至ってからはローマ、フィレンツェベネチア、パリで各々3日間を過ごし、名所を訪問し、交通機関を入念に観察し、写真を撮り、あらゆるものに熱中するという模範的なツーリストぶりを見せた。ドイツ語やフランス語の会話が通用したことも、モナシュを喜ばせた。次に訪れたロンドンでは、折しもエドワード7世の葬儀が行われており、モナシュ一家はホース・ガーズ・パレードで葬列を見つめた。6-7月はヨーロッパ大陸に戻り、パリではヴィクと一緒にフォリー・ベルジェールムーラン・ルージュに行った。さらにその後ブリュッセル、ケルン、ベルリン、ドレスデン、ブレスラウ、ウィーン、ミュンヘンを旅行していった。シュテティーンでは母方の先祖であるマナセ家の墓参りをした。ブレスラウ滞在時は、1日だけクロトシンでも過ごすことが出来、祖父母が住んでいた家を訪れ(その際、かつて仕事で用いられた手引き印刷機や活字も見ることが出来たという)、祖父母の墓所にあった木の葉を持ち帰ることにした。次いでアルプス地域では4週間をルツェルン、ツェルマット、シャモニーで過ごし、モナシュはウォーキングや登山を楽しむ一方で、様々な登山鉄道に強い感銘を受けた。それから6週間をイギリスで過ごした。そのうち1週間はワイト島でローゼンハイン一家と過ごし、1週間はスコットランドで過ごした。イギリス滞在中、劇場には十数回も訪れた。モナシュはローゼンハイン夫妻に手紙を送る際は「ウォルタールーWalterlou」と宛名を書いていたが、一方のルーはいつまでも子ども扱いしてくることに不満も感じたという。モナシュはウォルターに関しては、軽率な性格という過去の印象は無くなっており、親しみやすく愛情がある人物であるとマットに宛てた手紙の中で語った。夫妻の娘モナは非常に聡明で、モナシュが語ったジョークも全て理解した。もう一人の娘ナンシーについても、「非常に愛らしい」とモナシュは語っている(※姪たちと撮った写真)。ウォルターの自然科学における業績や個人的性格も相まって、モナシュは彼らの家庭生活を非常に魅力的に感じた。

 

ヨーロッパを離れてアメリカへと向かう際には、銀行手形が遅れるというトラブルもあった(後年の証言ではヨーロッパ滞在時、ドイツとの戦争は不可避であることを感じ取ったというが、同時代の認識としてどこまで正確なのかは不明)。短期間であるが訪れたアメリカでは、まずニューヨークでは旧友のアーサー・カードの夫妻と共に過ごし、次いでナイアガラの滝とシカゴを経て、ミネアポリスで5日間、いとこのレオ・モナシュとその親族とともに過ごした。カナダのバンフとロッキー山脈を経てバンクーバーに至り、そこから船でホノルル、スバ、ブリスベンを経由してメルボルンに戻った。船旅中、モナシュはチェス大会で、ヴィクはデッキ輪投げ大会で優勝した。世界を見聞して戻ってきたモナシュは、オーストラリアを「全てがみすぼらしい」「田舎の地」に感じてしまったという。とりわけヨーロッパと比較したアメリカの都市や産業の発展ぶりには強い印象を受け、ニューヨークの街の前ではロンドンやベルリンも霞んでしまうとローゼンハインに宛てた手紙で興奮気味に語った。暖房機、トースター、広告塔など、電気による様々な機器の普及にも感化された(同時にアメリカ英語のスラングにも)。一方で土木エンジニアとしては、ロンドンやパリ、ニューヨーク、ベルリンの地下鉄の発展にも注目し、現代社会では電気は特に交通に利用されるべきで、従来の蒸気機関は淘汰されるだろうと公言した。

 

モナシュが帰郷した時、コンクリート事業の方は特許独占権が失われ、ライバル企業も台頭してきたことから収益は減少傾向にあった。強化コンクリート使用に対する建築家協会の反対は未だ続いており、パイプ事業の方もテイラーのセメント会社が廉価のものを生産し始めたことから伸び悩んでいた。1911年にかけてモナシュはミッチェルを説得し、ギブソンのシェアを増やすことで会社への出資比率は3人とも同じとすることを認めさせた。同じ頃、シドニーのガモウとの公式な提携も解消となっていた。それでも会社の事業自体は、タウンホール、メルボルン病院、エリザベス通りにある州銀行本店、センターウェイアーケード、メアリバーノン川やフレミントン、ジェンヴェールの橋梁、ホーソーンの道路側溝を手がけるなど拡張が見られた。1911年のコリンズハウスの建設事業では、ベイリュースやロビンソンズなどから資本提供を受けた。1912年初頭にはそれまでのエリザベス通り49番から9つの部屋を有するより豪華なオフィスへと移転、友人のジェイムズ・マッケイとは向かい側同士となり互いに「ジャック」「ジム」と呼び合った。その年には土木工学教授ジョージ・ヒギンズの住居の建設事業を担当し、強化コンクリートによるものとしてはおそらくヴィクトリア初となった。1913年には事業は一時不振になったが持ち直し、南オーストラリア会社も新たな部門を展開するなど順調であった。訴訟や特許関連の仕事は行わなくなっていたが、法廷へのエビデンスを提供したり、ウィリアム・クレスウェル海軍少将に対しシドニーの石油貯蔵タンクに関して助言を行ったりもした。新首都キャンベラの都市計画にも強い関心を抱いており、ウォールター・バーリー・グリフィンのプランが選ばれた際には、国家の発展にふさわしい首都として建設されることを期待した。

 

1911年3月9日、メルボルン『パンチ』に成功者としてのモナシュの経歴に関する記事が掲載された。書き手は「コンクリートの英雄」「彼の能力を超えられるエンジニアは世界でもごく僅か」「市民軍将校として模範的」とモナシュの卓越した点を挙げる一方で、彼の性格はドイツ系、ユダヤ系特有の気質や思考に由来するものであると説明され、太った外見はロマンティックではないと揶揄されるなど、悪意ある表現も見られた。モナシュは世界旅行をした頃から腰痛に見舞われており、パンと砂糖の量を減らすなど肥満対策の食事は心がけてはいたが、これといった効果は見られなかったという。この頃にはデュワーズウイスキーを愛飲するようにもなっていた。

 

ヴィクは以前から自動車を欲しがっていたため、モナシュは1911年7月にエンジン業者のE・シュルツに4気筒15-20馬力のベルリエを575ポンドで注文した。車体は黒色と濃緑色のストライプが塗られ、車内も濃緑色、後部ドアには金メッキでJMとイニシャルが書かれていた。自動車は9月に到着し、運転手が雇われた。ヴィクは大喜びし、競馬場に行くときなどはこれに乗って楽しんだ。モナシュも運転の練習はしたが上手くいかず、途中で諦めてしまった。一方娘のバーサは間もなくして運転のライセンスを取ることが出来た。それでもモナシュはのち、自動車クラブや道路協会の中心人物にはなった。

 

当時居住していたイースメルボルンの住居は満足いくものではあったが、ヴィクは生活の煩わしさや体調面での不安を抱えるようになったため、新居を探すことになった。1912年5月にモナシュは『エイジ』および『アーガス』に新居の賃貸ないし購入を求める広告を出した結果、故F・W・プレル氏の遺産となるトゥーラクの住居を4750ポンドで購入することにした。住居はメルボルン郊外の高台に位置しており、外見的にはあまり見るものがなく庭は荒れ果てており、非芸術的な外観というのがモナシュの当初の印象だったが、18-24平方フィートの部屋が4つあり、地下室、ガス電気も使用することが出来た。モナシュはリフォームすれば総合的に立派な家にすることが出来るという思いに至った。友人のアーネスト・ライトと共に新居の装飾を検討し、家具を新調した。購入して6週間のうちに引っ越しと装飾のし直しは完了したが、引っ越しの過程で焼き物やガラス絵の多くが壊れてしまい、額縁や本、手紙の一部がネズミの被害に遭ってしまうという災難もあった。新居は「アイオナ」と命名され(※写真)、料理人とメイドが雇われ、娘のバーサは記念のダンスパーティを開いて楽しんだ。フロントガーデンにはバラが200本植え直され、玄関や舗装にはモニエ式コンクリートが活用された。裏庭には菜園、テニスコート、温室を用意し、焼却場はコンクリート製であった。1913年半ばよりモナシュは日記上で園芸について言及することが増え、作業場を設けて陶芸の趣味も始めた。蔵書を充実させることにも熱心で、ディケンズ、リットン、モーパッサンメレディスなどの全集、各種辞典、百科事典、法律書をそろえた(※「アイオナ」の書斎)。ノーマン・リンジーやフィリップ・フォックス、ドーラ・ミーソンらオーストラリアの画家の作品を含めた絵画も購入した。結婚生活も20年以上が過ぎると満足を感じるものとなり、夫妻でJ・C・ウィリアムソンの劇場に出かけた際は常に一等席で鑑賞し、グレガン・マクマホンの劇団も愛好した。1911年のネリー・メルバのグランドオペラ公演は、全て初日に見に行って楽しんだ。チェコ出身のピアニストであるエドワード・ゴル(1914年に帰化する)に手紙を書き、彼の腕前を評価した。レーニッシュのベビーグランドピアノを新たに購入し、自家用映写機も購入してフィルムを取りそろえた。新たな趣味としてはドライブも行っており、1912年のクリスマスはメアリーズヴィルからバララトまでを自動車で5日間かけて旅行した。

 

この時期妹のマットはパートタイム教員の仕事を継続しており、優秀な生徒を育てることにやりがいを見出している様子だった。モナシュは1912年に再びマットを海外へ行かせたことがあったが、この時はルーとは必ずしも円満には過ごさなかった。叔母ウルリケ・ロスの体調は悪化していたので、療養にと娘ソフィーと一緒にセイロンまで旅行に行かせた。この頃、従兄アルベルト・ベーレントの家族も苦労を伴っていたが、息子たちは歯医者、電気エンジニア、労働党運動家(モナシュの自動車を選挙運動に使えないかと聞いてきたことがあった)になって独立していた。ヴィクの姉サラとマックス・シモンソン夫妻の子どもたちとモナシュは親しくなった。姪にあたるヴェラにはダイヤの指輪をプレゼントし、甥のエリックに関しては工学課程に進むための勉学を手助けするなどした。一方で1914年にサラが心臓の異常に、マックスが錯乱と視力低下に襲われると、モナシュも憂うつな感情に襲われた。ドイツやアメリカにいる親族とはこの頃も連絡を取っており、エンジニア仲間の従弟ブルノ(叔父マックス・モナシュの息子)には、ドイツやオーストリアでの徴兵から逃れるためにイギリス帝国に帰化するのを支援してほしいという難題を頼まれたが、不首尾に終わった。

 

モナシュの主な社交場はメルボルン大学クラブ(1909-12年は会長)と海陸軍クラブ(1908年より副会長)となっていたが、1906年からはスコッチ・カレッジクラブの副会長も務めた。1911年にスコッチ・カレッジ60周年記念晩餐会がタウンホールで開催され、乾杯の音頭を取った。フェリックス・マイヤーに誘われたことがきっかけで、1913年にはメルボルンのウォーキングクラブであるワラビークラブに入会した。ヴィクトリアレーシングクラブ、ヴィクトリアアマチュア競馬クラブ、メルボルンクリケットクラブなどにも参加した。学術ではヴィクトリア王立協会、王立オーストラレ―シア地理学協会、顕微鏡協会などに参加した。各クラブからは講義や講演を依頼されることが多く(モナシュはスライドを作成してそれに臨んだ)、イギリス医学協会からは主賓として夕食会に招待されたこともあった。1912年はメルボルン大学評議会の構成員に就任し、以後生涯を通じてその役職を務めた。また1908-09年にかけてはヴィクトリアでも帝国ボーイスカウトが設立されていたが、友人のW・E・L・ウェアーズが委員長であったこともあり、モナシュは1910年より委員会に参加した。1911年には再編された管理理事会副会長となり、1912年5月にロバート・ベイデン=パウエルが訪豪した際はこれを歓迎した。モナシュはスカウト運動が軍事目的ではないことを承知していたが、軍事教練に対する予備的な役割を見出していた。

 

メルボルン大学の運営を主導することはモナシュにとって夢であり、エンジニアの試験官や水理工学や強化コンクリートについての講義も継続して行っていた。1907年には計画倒れに終わったものの、大学50周年に合わせて大学工学部の歴史を叙述することも承諾していた。1909年に恩師のカーノット教授が死去した際、大学は彼の後任をヴィクトリアエンジニア協会に相談したが、モナシュは後任選出の協議に参加してヘンリー・ペインの選出を支持した。1911年、大学は社交よりも学術に重きを置いた新たな卒業生協会を立ち上げることになった。グランドホテルでの晩餐会には260人が集まり、その後の委員会会議においてモナシュが会長に選出された。1912年4月の年会ではモナシュが司会をして乾杯の音頭を取ったが、のちに会長はJ・G・レイサムに譲った。この頃、動物学を教えるジョージナ・スウィートとも親交を結んでおり、結果は不首尾に終わったが彼女が西オーストラリアの教授職に応募した際は推薦状を作成した。1912年には大学クラブの会長を辞任し、試験官の役職も諦めることになったが、1912-14年にかけてはヒギンズ教授の手助けとして強化コンクリート関連の講義を6つ担当して喜びを得た。当時講義を受けたウォルター・バセットからは、「今まで受けた中で最良の講師」であったとその内容を称賛された。1913年に社会教育家のアルバート・マンスブリッジが訪豪した際には、労働者教育協会の活動支持を快く表明した。

 

モナシュは1906年よりヴィクトリアエンジニア協会の委員会に所属しており、1908年には副会長に就任した。1909年にカーノット教授が死去した際は、大学の友人たちは彼を銘板で顕彰することを提案したが、モナシュは銅像を建てることが相応しいと考え、その主催者となった。結果的にはオーストラリアの土木工学に非凡な業績を上げた人に授与する記念メダルの制定ということで決着した。1911年のエンジニア協会では、モナシュは建築法規や新首都関連の会議、委員会の庶務で多忙であった。翌1912年も取締役のギブソンが不在ということもあり会社のビジネスが忙しかったが、モナシュはエンジニア協会会長に選出された。拝命したモナシュは、エンジニア・事業家として着実に成功の道を歩んでいることを妹たちに自信を持って語った。モナシュは将来的にはオーストラリア全体のエンジニア協会を設立することを支持しており、それは1919年のオーストラリアエンジニア協会の設立で実現を見た。またオーストラリアのエンジニアの養成制度や科学技術への貢献は海外に比べれば発展途上で、メルボルン交通機関港湾施設、道路、水道も未熟である点を指摘、エンジニアは探究心を持って海外で見聞を広めるべきことを訴えた。

 

1911-12年の情報部での勤務は地図作製に専念しており、諜報活動は限定的であった。1911年に1インチ1マイル縮尺の地図を作製し、翌年にはメルボルン近隣2000平方マイルの地図が完成しつつあった。参謀勤務としては義務化された軍事教練の問題点についてヴィクトリア管区代表として協議会に参加し、オーストラリア航空連盟の主導者となって、現代戦争における航空機利用について関心を持つなどした。パートタイムの市民軍の性格上、将校の中には軍事学の研鑽に熱心ではない者もいた一方で、この頃のモナシュは以前に増して戦史の学習に熱心であった。ナポレオン戦争南北戦争普仏戦争などを主な関心事としており(その他日露戦争における鴨緑江作戦や遼陽会戦についても、1911年3月に情報部内で検討する機会があった)、南北戦争に関してはG・F・R・ヘンダーソンの著書『ストーンウォール・ジャクソンと南北戦争』を特に愛読していた。ビジネス以外にも時間をさけるようになったこともあり、陸軍の懸賞論文に応募し、「1864年荒野作戦の戦訓」と題した論文(南北戦争をテーマに選択したのは、アメリカ旅行の影響も大きかったと見られる)で見事金メダルを獲得し、論文は1912年4月の『連邦軍事ジャーナル』に掲載された。モナシュは荒野の戦いを南北戦争におけるターニングポイントと捉えており、南北戦争の戦略・戦術的展開や地理的要素、市民軍による戦争であった点、ウエストポイントにおける将校養成制度などがオーストラリアにおける軍制・防衛政策のプロトタイプになりえると主張した。論文審査員のJ・G・レッグ大佐やショヴェルからは、多くの要点を提示しており際立って優れていると称賛されたが、一方で(後年の軍事史研究から見れば)その内容は、歩兵戦術への言及が不正確、南北戦争の包括的叙述に欠けている、騎兵、鉄道、経済の破壊への評価が弱いといった問題点も抱えていた。

 

正規軍・市民軍の調停役にあたっていたマッケイは1912年半ば、正規軍の上官たちとの折り合いがつかなくなってしまい、情報部は市民軍による統括から離れてしまった。マッケイの部長職は1913年3月31日で終わるが、その前に海外に出張してしまう。モナシュも情報部の再編には不満を感じたものの、既に情報部には明るい将来は見いだせなくなっていた。その一方で、正規軍将官たちはモナシュに旅団長のポストを薦めてきた。長い市民軍勤務においてモナシュは歩兵・野戦部隊の指揮経験が未だ無かったが、11月18日には結局承諾することにした。情報部での勤務は事実上1912年12月で終わったが、ヴィクトリア管区には翌1913年半ばまでは所属することになり、時間を持て余す結果となった。モナシュは大戦後の証言で、情報部の任務は市民軍スタッフに任せるには荷が重いもので、再編されてしまうことは不可避であったと漏らしている。その一方でヴィクトリア州軍司令官を務めたスタンリーは、モナシュの能力や熱情によって将校たちの資質はめざましいものとなったと1912年中の報告の中で語っており、新聞報道の中には情報部はヴィクトリア管区に関しては成功をおさめることが出来たと評価しているものも見られた。

 

1913年7月1日、モナシュは市民軍第13旅団長に就任した。8月には軍情報部で送別会が開かれ、この時はマッケイが乾杯の音頭を取ってくれた。モナシュは第13旅団を勤務先としては申し分ないと喜んだが、軍歴としては最後の勤務地になるかも知れないとも語った。旅団・連隊指揮官同士の関係は当初は円滑ではなかったが、モナシュは彼らとの親交に努め、協議の際は将校たちを「アイオナ」に招待したこともあった。この頃、モナシュは余暇の際、参謀部のためにドイツの騎兵ジャーナルKavalleristische Monatshefteの翻訳も手掛けた。旅団長就任に伴ってモナシュは大佐に昇進することになったが、正式な昇進は1913年9月(書類では7月1日付と遡及して書かれた)と遅れた。第13旅団は編成されて日が浅いため将兵たちの練度は低く、装備や兵站についての問題点も抱えていた。モナシュは旅団を効率的な部隊に仕上げるべく、中隊指揮官たちに対しては実戦を意識した任務や責務に関する講義を行った。その際、単なる畏怖に基づく命令服従ではない、上官との意志の調和に基づく軍紀を重視しており、将校は自制、自信、勇気、迅速さ、決断力、正当な視座について研鑽する必要があるとも説いた。各種教範や操典、軍事史に学び、それらを要約出来るようになることを強調し、逆境に打ち勝つ模範的指揮官としてはロバート・リーやストーンウォール・ジャクソンを挙げた。モナシュは自身の講義をまとめて「中隊指揮官への100のヒント」と題したパンフレットとして発行し、さらに1914年1月には「軍人精神の発達」、3月には「戦闘計画における3原則」と題した小論を発表した。

 

1913年末よりモナシュは、翌1914年2月に実施される大規模演習への準備を進め、12月には演習場所としてリリーデイルが相応しいと判断した。その際、演習はイギリス海外軍監察官イアン・ハミルトン大将も視察することを知り、モナシュはローゼンハイン夫妻に対して若干不安を感じていることを吐露した。1914年2月初旬は暑い気候でリリーデイル周辺では山火事も起こっており、苛酷な条件ではあったが2500人が参加する8日間の大規模演習が実施された。演習初日には監察官のハミルトンや総督たちが見守った。昼食時にはハミルトンと協議する機会を得たが、ハミルトンは自身の意見を率直に述べるモナシュに強い印象を持った。のち地中海派遣軍司令官としてガリポリ戦役を指揮することになるハミルトンであるが、大戦を経た後年もモナシュに手紙を出す際には、1914年の演習時にユーカリの木の下で協議した想い出について必ず言及したという。ハミルトンはオーストラリアの軍隊は組織面においては実戦に対する備えやディシプリンが足りないと感じつつも、参加将兵たちの身体の卓越性には賛辞を送った。他の将校たちの中にも、辺境の植民地市民たちによる軍隊の働きぶりに感銘を受けた者がいたという。モナシュも兵站面で課題が生じたこと、砲兵や乗馬兵を伴わない内容であったことなどは認めつつも、中隊指揮官たちとの信頼関係は良好であったとして演習の成果には強く満足し、2-3月にかけてはタスマニアで短い休暇を楽しんだ。演習は報道でも大きく取り上げられたが、『エイジ』はモナシュが参加兵士たちの疲労を無視して演習を継続したことを問題視していた。実際には多くの部隊では休憩は充分に取られていたことや、モナシュもブルッヘに宛てた手紙の中で「ピクニックではなく」あくまで長距離行軍や実戦を意識した演習を行ったと強調していたことから、この評価は不当であると見なされた。監察官のハミルトンも演習の遂行を支持する立場を取っていた(※1914年のモナシュ)。

 

英国科学振興協会がオーストラリアで初めて会議を開催することも、1914年に控えていた大きなイベントの一つであった。モナシュはその実行委員会役員として準備に努め、ヴィクトリア州についての便覧作成では、ヴィクトリアの公共事業に関する自身の見解も交えた概説を担当した。会議にはローゼンハインの家族もぜひ招待したいと考えていたが、その際の旅費の一部は工面してあげる必要があった。一方で50歳を前にしたモナシュはローゼンハインに対し、何かを成し遂げるには少し年を取り過ぎていると打ち明けたり、市民軍と大学以外のいくつかの社会的ポジションから身を引きたいことも示唆したりもしていた。それでもモナシュは日本を経由してアメリカやヨーロッパを再び旅行し、人々の社会や文化について見聞を広めたいと考えており、予定では世界エンジニア会議開催に合わせた1915年3月に出発するつもりだった(周知のように1914年半ば以降の国際情勢は、この旅行の実施を許さなかったのだが)。今後の人生への一抹の不安はあったものの、社会的成功者となり相応の名声を得ていたモナシュは各界に友人も増え、以前よりも温厚で利他的になる余裕も出来ていた。市民軍の旅団長を最後まで務めあげ、大学総長のポストに就くことが出来れば、バス勲章とナイトの称号を得ることが出来るかも知れないという夢も抱いていた。

 

【少年時代~大戦前まで 終】

 

 

参考文献

Australian Dictionary of Biography

Sir Walter Eric Bassett/Sir William Throsby Bridges/Sir Henry George (Harry) Chauvel/Sir William Rooke Creswell/Hubert John Foster/Sir Robert Gibson/Edward Goll/Sir John Greig Latham/James Gordon Legge/Norman Alfred Lindsay/Gregan McMahon/Dora Meeson/Felix Henry Meyer/John William Parnell/Henry Payne/Georgina Sweet/Sir Cyril Brudenell Bingham Whiteを参照しました。

 

オーストラリア辞典

キャンベラクレスウェル、ウィリアム・ルーク植民地会議、帝国会議ブリッジズ、ウィリアム・スロズビーを参照しました。

 

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藤川隆男編『オーストラリアの歴史 多文化社会の歴史の可能性を探る』有斐閣、2004年。

山本真鳥編『世界各国史27 オセアニア史』山川出版社、2000年。

ジョン・モナシュの生涯(仮題) ⑥試行錯誤

1897年冬にかけてモナシュたちの事業は好転し、モナシュは法律関連legal-engineeringの仕事の主導者的役割を担うようになった。その後の2年間はおよそ4分の3の時期を他植民地で過ごすことになり、クイーンズランドに4回、ニューサウスウェールズに6回、西オーストラリアに2回出張した。最初の仕事はクイーンズランドバンダバーググラッドストン間の鉄道を請け負い、植民地政府と契約について争っていたバクスター・アンド・サドラー社で、モナシュは1897年6月よりクイーンズランドに出張し、V・J・サドラーと共にバンダバーグ地域を視察した。9月以降にかけて20件・総計25000ポンド相当の請求訴訟をまとめ上げ、モナシュはヴィクに対し自身が大きな仕事に従事しており、将来成功を勝ち得ることへの自信を語った。

 

この時期モナシュの痔の症状は良化していたが、憂うつや嘔吐、下痢に悩まされていた。訴訟関係でブリスベンに出張した際、モナシュはヴィクの助言に基づき飲酒を避け、その結果11-12月頃には体調は良化した。パイナップルその他の果物を食べることで食事の節制も始め、着替えやシャワーの頻度も高くした。11月10日から始まった訴訟ではモナシュは日給5ギニーを得たが、仕事は10週間ほどの長期間に及んだ。当初鉄道局はモナシュの参与に批判的で、クイーンズランド法曹界の長アーサー・ラトレッジも反対意見に立っていたが、モナシュはシドニーW・H・ウォーレン教授らと懇意となり専門家証言を集め、訴訟は成功に終わった。モナシュはヴィクに年収2000ポンドを得られそうであることを伝え、その日暮らしではあったが、ピアノを55ポンドで購入するように言った。ただし訴訟の結果はバクスター・アンド・サドラー社が7722ポンドを得る(モナシュは最低でも8000ポンドを予想していた)に留まり、モナシュへのボーナスも支払われなかった。

 

1897年後半から1898年初頭にかけては、モナシュはジェリルデリー地域の農民・市民たちのアドバイザーの仕事、牧畜業者のマコーイ兄弟(デヴィッドとサミュエル)によるビラボングよびコロンボ・クリークの灌漑事業の訴訟の仕事も抱えていた。モナシュは1897年7月~10月の間、クイーンズランド出張の合間にジェリルデリーの周辺を乗馬や軽馬車で視察して水路やダムを調査し、クリスマス前にはシドニーの法廷に工事を再検討することに関する証拠を提出した。1898年3月にはシドニー最高裁における賠償請求訴訟「ブラックウッド対マコーイ裁判」の準備をリヴェリナで行い、弁護士のジュリアン・サロモンズに助言をした。5月に訴訟が再開され、マコーイたちは総計12000ポンドの賠償に加え、これ以上水を引く工事を控えることになった。

 

モナシュがアンダーソンよりも収益を挙げている時期には両者の間には緊張も生じたが、1898年にアンダーソンはミルドューラとバララトで新たに仕事を得ることが出来た。一方で二人ともメルボルンに不在のことがあるため、部下を雇わざるを得なかった。アンダーソンはヴィクトリア鉄道に対してヒールズヴィル~ウッズポイントのルートについて提案をし、モナシュに対しては飛行気球の可能性についても強調した。モナシュはアンダーソンの手腕の才走っている傾向を心配したが、モナシュもアンダーソンに自身の説教癖を詫びることがあった。アンダーソンは1897年9月、シドニーのカーター・ガモウ社のエンジニア、F・M・ガモウに会った。ガモウはメルボルン大学で工学を学んでエンジニアとなり、カーター・ガモウ社としてシドニーアデレード上下水道等の仕事を手がけた後、オーストラリアにおけるモニエ式強化コンクリート建造についての特許を取得していた。交渉の結果モナシュ・アンド・アンダーソン社は、ヴィクトリア植民地におけるモニエ式の特許代理人となることが出来た。これはヤラ川に架かるアンダーソン通り橋(モレル橋)やジロング近くのバーワン川に架かるフィアンズフォード橋などの建設事業に繋がることになった。モナシュは西オーストラリアに出張していたため、当初これらの事業に参加していなかったが、1898年3月にはシドニーでガモウと会うことが出来、そこでモニエ式について教授を受けた。

 

モナシュはバクスター・アンド・サドラー社と西オーストラリア植民地政府のマラウォーキュー間の200マイルの鉄道事業に関する訴訟に従事するために、1898年7月にサドラーと共に今度はパースへと旅立った。モナシュはパースまでの船旅でバクスターやその友人たちとトランプ遊びに興じた。当初は5週間程度の仕事と思っていたが、西オーストラリアでは12か月を過ごすことになった。到着後バクスターが競馬や飲酒などで遊んでしまったため仕事開始は遅れたが、1週間以内にはモナシュは路線を視察して仕事に着手した。バクスター・アンド・サドラー社はモナシュにパースの社交界に入ることを許可しており、ジョン・フォレスト首相ら要人が出席する晩餐会に参加し、首相夫妻には個人開催のパーティに招待されたこともあったが、次第に社交疲れも感じるようになった。

 

パースではアウターサークル鉄道時代の友人W・B・ショーが舗装用の割石に有望な採石場の権利を有していたが、資金が足りずにいた。モナシュはそれに自身の所持金から200ポンドを投資したが、共有の基金からの更なる100ポンド以上の投資については、リスクを冒したくないアンダーソンと衝突した。アンダーソンとは互いの意見を強い口調でやり取りすることがしばしばあったが、「攻撃的」までにはならなかったという。モナシュはアンダーソンを説得できずに残念がったが、それでも約30%の権利および年間500ポンドの収入が見込めることから満足した。しかしのちこの事業は失敗に終わったため、結果的にはアンダーソンの判断の方が正しかった。

 

パースでの仕事は長引いたが、交際費も限られてきたのでモナシュは社交界を避け、図書館などに通うようになった。日曜日は旧い付き合いのエイダ・クラコウスキ(この時は結婚しエイダ・ベンジャミン)とその夫と過ごし、過去にエイダと不仲だったヴィクにはこのことは話さなかった。ピアノを1日1時間は練習するようになり、アマチュアオーケストラで伴奏をすることもあった。結婚してから中断していたヴィクとのピアノデュエットも、再開したいという思いも抱いた。一方で9月半ばにはサドラーがパース駅で他のビジネスマンと喧嘩騒ぎを起こし、モナシュも巻き込まれるという災難にも遭った。10月には小さな顧問業務のためカルグァリーを訪問して旅行記をしたため、のちアンダーソンから出版の価値があると評せられた(現存せず)。モナシュはヴィクとバーサをパースに連れてくることを提案し、喜んだヴィクはバーサと一緒に12月にパースに到着、6か月をここで過ごすことになった。ヴィクは総督官邸やフォレスト家といったパースの社交界に参加、新年競馬には着飾った衣装で足を運び、生地屋のハリー・ボーン夫妻と仲良くなった。パース市長から良いレセプションを受けたこともモナシュに自慢した。匿名でダイヤモンドの指輪が届けられたこともあったという。

 

案件は長引いていたが1899年1月、モナシュは西オーストラリア政府に対する最後の要求にあたった。2月は余暇を過ごすなどして平穏に過ごし、審理に入ったのは4月末から5月にかけてであった。仲裁人は西オーストラリア植民地の主任エンジニアであるオコナーで、モナシュは弁護士で連邦運動家のウォルター・ジェイムズと協力して法務官や政治家のセプティマス・バートに対抗した。結局バクスター・アンド・サドラー社は最高裁に入る前に45000ポンドでの示談が成立し、悪くない結果となったが、モナシュへのボーナスは無く徒労も大きかった。それでも1000ポンド以上の年収は達成することが出来た。

 

1899年7月にメルボルンに戻った時、アンダーソンはヤラ川、フィアンズフォード、クレズウィックの3か所のモニエ式橋梁の仕事をガモウの教授を受けて担当しており、モニエ式の導入についてはヴィクトリア公共事業部のエンジニアであるウィリアム・デヴィッドソンカルロ・カタニの承認を得ていた。ヤラ川に架ける95フィートのアーチを3つ備えたアンダーソン通り橋は、ガモウも経験したことがない大掛かりなものであった。アーチの強度の面で懸案事項があったが、モナシュがメルボルンに戻った2週間後の7月20日には15トンのスチームローラーによる強度テストが行われ、成功裏に終わった。モナシュはこの事業への参加は僅かであったが、それでもこの橋をヤラ川に架かる橋では最もエレガントなものであるとして誇りに思った。

 

モナシュはモニエ式橋梁を鉄製の橋よりも効率的なものと考え、カーター・ガモウ社の主任設計者であるW・G・バルツァーの助言も得て、その方式をマスターに努めた。バルツァーはドイツ系移民で元はニューサウスウェールズ公共事業部に務めていたが、ドイツにおいてモニエ式橋梁について学んだ後、カーター・ガモウ社において新技術をオーストラリアに浸透させるべく奔走していた。またモニエ式のコンクリートパイプ生産も有望な業界であったことから、シドニーにあるガモウの工場製のパイプを見本として取り寄せ、メルボルン・メトロポリタン建設委員会に働きかけた結果、アンダーソンとガモウはメルボルンにパイプ工場を造る計画を立てるに至った。モナシュはセメント生産・建設業者として成功しネリー・メルバの父としても著名であったデヴィッド・ミッチェルと連絡を取り、そのマネージャーであるジョン・ギブソンを通して、パイプ生産に必要なセメントを供給することの約束を取り付けた。モナシュはドーマン・ロング社の鉄道橋建設の監督、土地建設委員会訴訟の仲裁人といった仕事をした後、さらに1900年にかけてはベンディゴウの8つの小規模橋、ブラセンの大規模橋の建設、メアリーバラ近くの鉱山に機関台設置等の仕事を請け負ったが、公私ともに多忙さを感じてしまった。

 

モナシュとアンダーソンはしかし、自治体の業務不履行の問題を過小評価していた。アンダーソンはフィアンズフォードにおける4つのアーチを備えた橋の建設をガモウおよび現地のセメント業者リチャード・テイラーと協議し、1897年末に設計を行った。コライオおよびバノックバーン自治体のエンジニアやセメント工場の支持は取り付けたが、自治体議会は植民地政府からの補助金を得るのに苦労し、1899年2月まで契約にサインすることが出来なかった。工事自体はスムーズに進み、契約日前の11月に完成見込みであった。しかし自治体は負債利子を抱えていたために報酬支払いを意図的に延期した。アンダーソンは何度か工事を中断したが、自治体の議員から反感を買い、支払いを遅らせるために橋のテストも延期されてしまった。モナシュとアンダーソンは仲裁人を呼んでテスト日の折り合いをつけてもらわなければならなかった。結局1900年2月16日、多くの観衆が見守る中、18トンのローラーを用いてテストが行われた。

 

当初の契約は4507ポンドでこちらは支払われたが、モナシュとアンダーソンは監督エンジニアと協議し、追加工事費を併せて6142ポンドの報酬とするよう説得した。しかし2か月後、自治体はエンジニア間での公約は無効としており、最終の報酬支払いを行うつもりはないと考えていることをモナシュたちは知り憤慨した。自治体が支払いを認めたのは5250ポンドまでだった。モナシュとアンダーソン追加請負金等約2000ポンドの支払いを求めて訴訟準備を起こしたが、審議開始は14か月たってからで、その間アンダーソンが腸チフスに倒れ、モナシュはヴィクとの関係も再び悪くなり、従弟のルイス・ロス(※叔母ウルリケの息子)が横領で起訴されるなど、公私ともに苦難が続いた。

 

クレズウィックから7マイル離れた場所にあるウィーラーズクリーク橋も、1898年にガモウの監督のもとアンダーソンが設計したものであった。モナシュは1899年9月より架橋事業に加わっており、工事は概ね順調で1900年3月に行われたテストも満足いくものだった。しかしその年の8月までに橋は崩落の危険が指摘されるようになった。理由はモニエ式の設計そのものではなく、コンクリートの質が良くなかったためと考えられたが、結局修復代の大半は会社が受け持つことが取り決められ、殆ど収益が得られない事業となってしまった。1900年のブラセンのタンボ川に架かる橋の建設では、植民地政府の監督官から妨害を受けた。440フィートの大きな木製の架橋事業だったが、木材の質をめぐってC・クリステンセン親方(ウォルハラで一緒に仕事をして以来懇意だった)と監督官との間で諍いが生じた。モナシュもメルボルンの公共事業部のカタニ技師に直接訴えかけるなどして、最終的には事態を収拾させたものの、ブラセンには8回以上も出向いて、監督官やカタニの主張に耳を傾けなければならず、事業の利益率も減退してしまった。

 

1900年10月にベンディゴウに小規模のモニエ式橋を8か所、7000ポンドの費用で建設する事業が、自治体議員たちの承認を得た。翌年初頭から工事は始まり、コンクリートは二人の主要な融資者であるミッチェルの会社およびフィアンズフォードのテイラー社から調達された。ところが1901年5月14日、キングスブリッジのアーチが試験中に崩落してしまう。モナシュは間一髪無事だったが、牽引車が転落して、見守っていた同僚一人が死亡する惨事となった。モナシュは妹マットに宛てた手紙の中で「我々にとって非常に悪い事態」と吐露しつつ、「それと向き合い、償っていくのみ」と語った。調査では橋の基本的デザインは非常にオーソドックスで問題ないとされたが、アーチの曲がり方が過度で、橋台の一か所に圧力が集中し過ぎていたこと、あまり用いない25トンローラーで試験を行ったことが挙げられ、モニエ式の設計に問題がある訳ではなかった。しかしモナシュとアンダーソン設計の橋は、モナシュの監督下でベンディゴウ自治体のエンジニアによって再設計された。自腹で橋の再建をすることに同意し、その費用は約1000ポンドとなったが、ミッチェルとガモウは引き続き彼らを後援した。同年10月、ベンディゴウの委員会で契約解消が提案された時にはモナシュは不安にかられたが、キングスブリッジの再建工事は翌1902年1月に無事完了した。

 

一方、コンクリートパイプ事業ではモナシュたちは前進が見られた。1901年1月、モナシュはオーストラリア連邦の成立式典をシドニーでガモウと一緒に迎えたが、商談の方も良い方向へと向かった。モナシュとアンダーソンはミッチェルと共にヴィクトリア・モニエパイプ会社を設立し、互いが40%のシェアを得るということで合意した。またガモウはヴィクトリア植民地における特許の権利を500ポンドで売却することになった(権利の完全購入は1903年末)。メルボルン郊外のバーンリーの工場におけるミッチェルの代理人は、ギブソンやE・A・ニュービギン、A・リンチの面々が担当した。1902年初頭、小規模の売り込みが公共事業部とプラーラン自治体に行われたが、建設委員会や鉄道業界とはまだ契約が出来なかった。この年の後半、モナシュは工場でパイプ技術の習得に努めたが、10月にはミッチェルの娘でオペラ歌手として有名となっていたネリー・メルバに工場を案内するという機会も得た。

 

ファンスフォードの架橋事業の報酬をめぐる問題は深刻であった。1年以上も遅配が続いていたためモナシュたちは自治体を訴え、1901年6月より審理が行われた。司法官はハートリー・ウィリアムズで、追加請負金を支払うべきだというモナシュたちの主張に好意的であったが、自治体側は大法廷に訴えかけた。モナシュたちの側にはレオ・カッセンが立ち、自治体側にはエドワード・ミッチェルアイザックアイザックスが立った。1902年2月に上訴は受理されたが、判決は延期され6か月先のことになった。裁判の費用は約4000ポンドに及んでいたが、判決ではモナシュたちは主張の5分の1の金額しか得られなかった。ミッチェルやサドラーは憤慨し、アンダーソンもさらに闘う姿勢を見せたが、モナシュはこれ以上裁判費用をかけるのは適切ではないと考え譲歩することにし、1903年4月に大法廷のものよりも若干穏健な内容で妥協した。しかしモナシュは終生、ファンスフォードの橋を訪れることを避けてしまったという。モナシュたちは裁判で3000ポンド以上の損失を出しており、ミッチェルやガモウらに対し少なくとも1000ポンドの負債を抱えてしまった。大家族を養う必要があったアンダーソンは1902年5月、ニュージーランドダニーデンに下水道建設の仕事を見つけ旅立ってしまった。ただしビジネスパートナーとしての関係は継続しており、短期間メルボルンに戻ってくることはあった。

 

モナシュも事業で負債を抱えることになったことについては自尊心を傷つけられる面が多く、数年間は返済の工面や事務弁護士の手紙に悩まされ、家賃や生命保険料、各種協会やクラブの会費をしばしば滞納してしまい、妹のマットの誕生日プレゼントを買えない年さえあった。この時期、健康面でもモナシュは不安を抱えた。1898年に皮膚病を患った後、1899年8月にはインフルエンザに襲われ、7度も医者が往診にきた。次の4年間も冬季はインフルエンザや悪性の風邪を患っていた。1897年にグレートオーストラリアンアルプスにあるヴィクの療養地を訪れて以降はまとまった夏期休暇は取っておらず、定期的な運動の習慣はなく市民軍のパレード以外では乗馬も行わなかった(自転車についても、モナシュはヴィクともども乗らなかった)。日々の業務と市民軍勤務がかろうじてモナシュを肥満から救っている状態だった。一方でヒゲが濃くなって、頭髪が後退し始めたことは認めていた。

 

一人娘バーサの養育にもモナシュは力を注いだ。バーサの書きものは全て日付付きで保管しており、バーサが4歳の時からモナシュは聖書物語を読み聞かせ、5歳からはピアノの稽古を始めた。12歳になった時は、英語の古典文学20冊を読ませるなら何が適切かを妹のマットに相談している。バーサはストラサーン校で学んだ後プレスビテリアン女学校で学び、さらにフィニッシングスクールで学ばせる予定であった。後年の手紙では、バーサは父が辛抱強く自分の教育に力を注いでくれたこと、特に音楽を身に着け、寛大な心を持つように育ったことに強く感謝の意を示している。教育が熱心かつ厳格であった一方で、バーサの誕生日の際には、いつも新しい遊戯や余興が用意されていたという(※1908年頃の家族写真)。

 

モナシュとヴィクのいざこざは相変わらずであり、倹約嫌いで気まぐれな傾向があるヴィクは、自分を子ども扱いしてくるとしてモナシュに憤慨し、モナシュも自分にシンパシーを感じてくれないことに不平を言ったので、ピアノデュエットをすることはなくなってしまった。一方でモナシュはヴィクを自分の意のままに教育することは既にやめており、また後年義弟のウォルター・ローゼンハインには、当初うんざりするものだった関係性は徐々に緩和していったと語っている。1898年頃よりヴィクは結核やその他の病気を患い体重の減少も著しかったので、生活環境を変えるために何度か引っ越しを繰り返した。負債を抱えて倹約が必要であるにもかかわらず、モナシュとヴィクは舞踏会や観劇などの社交行事は一定量キープし続けた。この頃はジェームズ・カシウス・ウィリアムソンの劇場会社、リカード・ティボリ会社のヴァラエティーショーに多く足を運び、マーシャル=ホールのオーケストラやメルボルン男声合唱団の後援にも力を注いだ。演劇のチケットは全てコレクションブックに貼りつけて保管すると同時に、観劇した演目の包括的なリストの作成は、学生時代より継続していた。1901年5月の連邦議会の開会式、1902年のネリー・メルバの帰郷祝賀行事にも参加した。1897年8月にはリカードのヴァラエティーショーで初めてヴィクトリア女王の即位記念式典の映画を視聴し、女王陛下や本国および植民地の軍隊の映像に強い感銘を受けた。

 

モナシュは妹のマティルド(マット)とルイーズ(ルー)に対しては週3ポンドの援助を行った。マット(※1908年頃の写真)とは不仲になった時期もあったが、30代になると関係は落ち着いていた。マットはモナシュと同様の聡明さがある一方、社交に関しては不得手で遠慮しがちであり、兄よりはラディカルな考えの持ち主だったといわれる。マットはユニヴァーシティ高校などでフルタイムの国語教員を務めたことがあったが、身体が弱かったことから長く続かず、個人教授の仕事に専念することが多かった。末妹のルー(※写真)はモナシュよりも8歳年少で、12歳の時からはマットが面倒を見ていた。プレスビテリアン女学校で学んだ後、体育教員を目指してハリエット・エルフィンストン=ディックのギムナジウムにも3年間通った。その間タイピングや速記法も学習しており、モナシュの仕事を手伝ったこともあった。マットと同様定職を見つけるのには苦労したが、社交的な性格はマットよりも大きく勝っており、友人は容易に出来るほうだったという。メルボルン大学で工学を学びユダヤ系ドイツ移民の出自でもあったウォルター・ローゼンハイン(※写真)と交際し、ローゼンハインがケンブリッジに移ってからも手紙のやり取りをしていたが、1901年3月に結婚の承認についてモナシュに相談した。モナシュは初めてあった時の印象が「非礼」に映っていたこともあり、当初はローゼンハインの「気取り屋」な性格を嫌っていたが、冶金学における彼の業績に感服し、結婚を認めるに至った。1901年末に二人は結婚し、モナシュは祝福の手紙を送っている(負債を抱えていたため、結婚式の祝電は送れなかった)。ルーが初めて妊娠した時は暗号文でそのことが伝えられたため、モナシュは解読するのに1時間以上かかったという。

 

ルーがイギリスに渡った一方で、マットは経済的事情もあり叔母のウルリケ・ロスと一緒に住むことになった。モナシュはマットとヴィクを再び同居させることも考えたが、不首尾に終わっている。ウルリケの健康状態は1902年頃より悪化しており、手術も受けた。それでもモナシュはルーに対し、叔母は年齢よりも力強く若々しい印象を受けると書き送っている。しかしウルリケの3人の息子(カール、ルイス、ハーマン)たちはいずれも問題を抱えていた。カールはニューサウスウェールズで薬剤師としての仕事に失敗してこの頃は行商人をしており、ウルリケやモナシュにも援助を懇願するまでになっていた。ルイスは1900年に横領のため告発され、18か月の実刑となり、モナシュは保釈金を払わなければならなかった。釈放後のルイスは、西オーストラリアに渡って再出発を誓い、事務員の職を見つけモナシュへの借金返済に努めた。1903年には、今度はモナシュが事務員として数年間雇っていたハーマンの横領罪が明らかとなり、家族の衝撃は大きくハーマンは家から放逐されてしまった。ロス家のこのような状況もあってか、叔母ウルリケにとってモナシュは心の支えのような存在に映っていたという。また従兄のアルベルト・ベーレントとはしばらく疎遠になっていたが、1897年にアルベルトが家族とヨーロッパに戻ろうと決めた時にはモナシュは驚かされた。アルベルトと家族はウィーンに移って仕事を探したが失敗し、結局4年後には戻ってきた。かつて自分の教師役も担ってくれたアルベルトに関しても、モナシュは支援をする必要があった。

 

モナシュは市民軍のパレード後は海陸軍クラブによく出入りし、ビリヤードやスヌーカーをして大いに楽しんだ。スコッチ・カレッジの卒業生クラブへの参加も歓迎された。メルボルンのジェントルマンクラブであるヨリック・クラブでは1896年に監査役になったが、こちらは会費未納のため1902年からは続けることが出来なくなった。メルボルン大学(卒業生)クラブでは主催者としての役割を果たし、資金計画を立て、チェスや印刷機をクラブに寄贈した。1902年には委員会で最多得票数を得たものの、翌年には副会長のポストを辞した。大学クラブはモナシュにとって主要な社交場の一つとなった。

 

30代になると交友関係にも変化が生じた。モナシュはビジネス・市民軍・各種クラブの社交界で広く関係を築いていく一方で、大学以前の旧友たちとは疎遠になりがちとなった。ジョージ・ファーロウとは市民軍の同僚や法律相談相手として未だ親密さを維持していたものの、ウィル・スティールは30歳前に父親から婚約した女性との結婚を反対されると塞ぎがちになり、モナシュに自殺をほのめかしたが慰留された。しかしその後は疎遠となり、隠遁状態になってしまったというスティールは1912年に死去した。市民軍の同僚だったジョー・ミラーも1902年に死去し、「学生時代の最も近しい親友」であったことを想い出してモナシュは悲しみに暮れた。『ヘラルド』のジャーナリストのアーサー・ハイドとも音信不通だった。ジム・ルイスは仕事のためタスマニアに渡ってしまっていた。

 

負債を抱えた時期、モナシュは読書に思うように時間とお金をかけられなかった。それでも1899年から1904年にかけては、ブリタニア百科事典一式、名画集、著名文学双書、アラビアンナイトなどを購入予約している。1901年からは写真を始めたが、スキルとしては上達しなかった。大工や陶芸、素描といった趣味も機会が大きく減ってしまった。結婚して以降はドイツ系クラブには行かなくなってしまい、1899年には所持していたドイツ語小説400冊を体操協会へと寄贈した。ドイツにゆかりがある知人や親族に宛てた手紙も殆ど英語で書いており、ドイツ語による会話力や作文力が低下していることを従弟のブルノ(叔父マックス・モナシュの息子でウィーン在住)への手紙では吐露している。ヴィクは贖罪の日にはシナゴーグに行くようにしていたが、モナシュは行こうとはせず、ヴィクに断食はちゃんとしているのかと揶揄われることもあった。メルボルンヘブライ会には席を置いていたが、1896年頃より会費を払わなくなった。1905年に一度除名されるが、結局滞納金を払うことで1907年に復帰している。ユダヤ教基金ユダヤ文学協会にも登録のみはしていた。ただしユダヤ系の典型的な気風や慣習には、批判的とも取れる表現を用いたこともあった。

 

モナシュの政治観はスコッチ・カレッジやメルボルン大学、市民軍の各間での交流や経験を経る中で培われた。リベラルの『エイジ』ではなく保守系の『アーガス』を購読し、オーソドックスな自由貿易論者であり、反社会主義者(1895年に砲兵の講義を行った際に、社会主義者を敵視する発言をしている)であった。下層階級にシンパシーを感じることは少なかったというが、慈善活動そのものには好意的であった。1890年代のパターソン政権の緊縮財政や土地政策は支持しており、1894年の選挙で敗北すると落胆は大きかった。1897年の選挙ではダンカン・ギリースフレデリック・サーグッドら保守派を支持しており、ディーキンやアイザックスとは対立する立場にあった(ただし選挙の半年後にシドニーで二人に会った時は、好意的な雰囲気だった)。モナシュは決してイデオロギーの戦士ではなく、選挙期間以外は政治運動にかかわることはなかったが、マッケイやJ・A・ボイドら友人を支援することには精力的であった。1900年にディーキンがオーストラリア憲法の制定のために渡英したときはそれを見送った。ヴィクトリア女王崩御したときは追悼式典に参加し、帝国連合連盟会員も一時務めていたが、活動は不活発だった。中国系住民に対しては彼らの文化慣習を揶揄する発言を残しつつも、鉱業において優れたスキルを有していることに感心するなど、当時としてはリベラルな視点も持ち合わせていた。1900年よりモナシュはメルボルン大学の改革運動にも参加し、人事の改善や理工学教員の待遇改善などを訴えかけた。1903年6月からは3か月間、水理工学の授業も担当し、その年末には土木エンジニアⅠ・Ⅱの授業についての名誉試験官に指名された。

 

モナシュの手紙の整理は非常に几帳面で、休日の日課として行い続けていた。綺麗に折りたたんだ上で書き手や受け取った日付を裏面に記入し、紐でくくって日付順に束にしていった。自身が手紙を書くときは速書きで、修正したり草稿を準備したりすることは殆んどなかったという。1900年頃までは殆どの手紙を透写しておいたが、のちにタイプライターに替わった。各種コンサート・演劇・喫煙会・晩餐会・舞踏会のプログラムやチケット、招待状は全て記念本を作成し、入念にファイリングすることにした。

 

モナシュは既に40歳代に近づいていたが、そのことを祝賀の気持ちでは迎えることは出来なかった。結婚生活は常に困難を伴っていたこと、長男が生まれず大家族になりえなかったこと、未だ負債を抱えていたこと、市民軍勤務に物足りなさを感じていたことなどが背景にあった。1902年には妹のルーに宛てた手紙の中で、近年は成し遂げられたことが少なく熱情も減退してしまっているという悲観的な想いも述べている。1902年-1903年カイネトンやバララトなどで幾つかの小規模モニエ式橋梁の建設事業を手がけたが、利益は少なかった。特許事務の仕事でも幾らかの利益を得たが、モナシュは達成感を得られなかった。エッセンドンの路面電車の仕事が来たこともあったが、計画倒れとなってしまった。一方で、1905年頃までは月に一度は法廷に現れて助言や証言を行うなど、仲裁裁判における技術面のアドバイザーとしての仕事では活躍し、アイザックアイザックスからは「議論の要点や正否を完璧に理解しており、自身の見解は明快に表現し、対立意見の誤謬は何でも指摘する」とその手腕を評価された。1902年、モナシュ・アンド・アンダーソン社は苦境から脱するためにマーレー川のクーンドロック~バーラムを繋ぐ、鋼鉄製の270フィートの橋の建設計画に入札した。この時は資金難からサドラーが融資を取りやめたので、A・G・ショーの建設業者がこれに替わった。天候や技術面のトラブルも生じ、モナシュは約6か月間の工期延長を余儀なくされたが、州政府は予算を承認していなかったので工費支払は先送りとなった。1903年10月に橋は完成し、式典には連邦・州政府の政治家たちも出席したが、またしても利益の少ない事業となってしまった。

 

モナシュは次第にガモウやバルツァーから強化コンクリートに関する知識や技術を得ることが煩わしくなってきた。そのため1903年、モナシュはドイツで発刊されている月刊誌Beton und Eisenの購読を申し込み、ドイツ語の技術文献も揃えることにした。会話力や作文力が低下していると漏らしていたモナシュだったが、ここでは自身のドイツ語力を申し分なく活かすことが出来た。1904年にはヴィクトリアエンジニア協会で「強化コンクリート梁の諸分析」という報告を行い、1906年にも「T形鋼設計による試験の健全性」について報告した。モナシュは政府や各機関にモニエ式強化コンクリートを橋梁や排水渠、水タンク、ダム等に用いることの(金属や煉瓦、それ以前のコンクリートに比べての)コストや耐久性の良さを訴えかけた。1904年6月には入念に準備をしたうえで、ロイヤルヴィクトリア建築協会で講演を行った。

 

モニエ式パイプの契約については、1903年初頭までに建設委員会や公共事業部から小規模の受注を受けていた。モナシュはその後売り込みをかけたが、建設委員会との繋がりが出来ていたファンスフォードのテイラーのセメント会社との競合に敗れてしまい、1903年末までは工場設備やガモウへの特許料のための支払いをする必要もあった。1904-1905年の2年半の利益は3392ポンドとなったが、モナシュは他州への拡大を提案しており、のち南オーストラリアに支社が出来ることになった。しかしモナシュは強化コンクリートを橋梁やパイプよりもむしろ、通常の建物建築に活用するべきであると考えるようになった。そのため1905年にモナシュはサウスヤラの舞踏場の強化コンクリート屋根の工事、トゥーラクにある住居のポーチ(屋根付き玄関)やポルチコ(柱廊玄関)の工事を引き受け、1905-06年にかけてはバンクプレイスにある建物やオフィス(コンクリート建築の耐火性についても宣伝した)、ケンジントンにある土地投資会社の建物などを手がけるなどした。

 

既に事業がモニエ式の建築業やパイプ製造業にシフトしていたことから、1905年初頭にモナシュはそれまでの会社を改めて、強化コンクリ―ト・モニエパイプ建設会社を設立した。取締役はギブソンが務め、モナシュは監督エンジニアという役職に就いた。建築業に関しては、ガモウに手数料を支払う必要があった。そしてモナシュはアンダーソンとのパートナーシップの解消を考えた。ファンスフォードで抱えた負債の返済をアンダーソンは免除される代わりに、今後のモナシュのモニエ式事業による利益の分け前は得られないことになった。1905年4月、モナシュ・アンド・アンダーソン社は正式に解散した。

 

 

1890年代末に要塞砲兵隊はメトロポリタン旅団とジロングを根拠地とする西部地区旅団の2個旅団に再編された。メトロポリタン旅団はホール中佐が指揮し、ノースメルボルン、ウィリアムズタウン、港湾トラストの3個中隊からなった。正規軍を含めて7つの海岸砲堡と1000人弱の人員から成っており、モナシュは1896年にノースメルボルン中隊長となっていた。1897-99年にかけてモナシュは出張して市民軍を留守にする期間が長く、特に西オーストラリアへ長期出張した際にモナシュは市民軍を辞める必要があるかと悲観的になったが、上官のホール中佐は大目に見たため、留まることが出来た。1898年にはターナー政権下で市民軍が拡大され、モナシュが指揮する人員も186人、2個中隊へと再編された。モナシュは自身の中隊が1899年の教練で示した成績を「イギリスの正規軍に匹敵する第一線の中隊」としてヴィクに自慢した。市民軍の将校としては珍しいことではなかったが、南ア戦争にはモナシュは仕事上のスケジュールや家族のことが心配だったため参加することはなかった。植民地政府が砲兵よりも歩兵(乗馬歩兵)・騎兵を優先して派遣していたという事情もあった。後年は南ア戦争に参加しなかったことを残念に思っていると回顧しているが、同時代には「従軍することだけが愛国心ではない」と主張するなど、当初はむしろオーストラリアの戦争参加に懐疑的な証言も残していた。しかしながらヴィクトリアからの派兵が進み世論でも賛成意見が高まりを見せると、モナシュは当初の懐疑論を改め、従軍将兵たちの送別会や歓迎会の企画に力を注ぐようになった。

 

連邦成立後、防衛省メルボルンのヴィクトリアバラックスに置かれると同時に、かつてニューサウスウェールズ植民地軍やカナダ市民軍の司令官を務め、南ア戦争ではオーストラリア部隊を含めた乗馬旅団を指揮したエドワード・ハットン少将が総司令官に就任し、1904年に任期を終えるまで帝国全体の防衛を意識した軍制改革を実施した(改革には正規軍のW・T ・ブリッジズ中佐やC・B・B・ホワイト大尉らも寄与していた)。1903年7月にモナシュの中隊はオーストラリア要塞砲兵隊ヴィクトリア第3中隊に改編された。友人のジェイムズ・マッケイは1905年7月、リード政権の防衛相に就任し、ハットン改革を再検討して(正規軍・市民軍の海外派兵には慎重な姿勢を取った)新たに防衛委員会を設立するなど活躍したが、この時期モナシュはビジネスで懸案事項が多く市民軍での活動は副次的になり、中隊指揮は同僚や部下に任せることもあった。講義の機会は減っていたが、海陸軍クラブ、イースメルボルンやクイーンズクリフの駐屯地での将校たちとの交流は継続し、そこではモナシュは充実感を得ていた。1903年に日本の練習艦隊(司令官上村彦之丞、関連する論考)がメルボルンを訪れた時は、その歓送迎会に参加している。旅団・連隊間の舞踏会でもモナシュとヴィクはホスト役を務めることが多くなった。1905年3月に勤続章を受章し、翌年3月には義勇軍章も受章した。1906年8月-9月にかけてモナシュはジュリアス・ブルッヘ少佐ら正規軍将校による講義を受けて中佐昇進のための試験準備を行い、一次試験を突破した。1907年1月には二次試験を受験し、非凡な成績をおさめたが何故か判断はしばらく留保となったため(ただしモナシュに対する偏見や嫉妬によるものか否かについては、明確な証拠が存在しないという)、モナシュは5月と6月に抗議の手紙を書くなど不満を吐露した。その後10月にようやく昇進決定が通知された。しかしモナシュは既に40歳を過ぎており、また要塞砲兵隊で得られる経験や知識についても、限界を感じ始めていた。

 

参考文献

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James Arthur Boyd/Sir Julius Henry Bruche/Septimus Burt/Carlo Giorgio Domenico Enrico Catani/Sir Leo Finn Bernard Cussen/William Davidson/Sir John Forrest/Duncan Gillies/Sir Edward Thomas Henry Hutton/Sir Walter Hartwell James/Sir Samuel McCaughey/Sir Edward Fancourt Mitchell/Sir James Brown Patterson/Sir George Houstoun Reid/Walter Rosenhain/Sir Arthur Rutledge/Sir Julian Emanuel Salomons/Sir George Turner/William Henry Warren/Sir Hartley Williamsを参照しました。

 

オーストラリア辞典

オーストラリア連邦オーストラリア連邦憲法法カイネトンカルグァリーキューグラッドストンクレズウィック帝国連合運動バンダバーグフォレスト、ジョンベンディゴウボーア戦争マラウォーリード、ジョージ・ヒューストンを参照しました。

 

Jeffrey Grey, A Military History of Australia, 3rd edition, Melbourne, Cambridge University Press, 2008[first published 1990].

Peter Andreas Pedersen, ‘The Development of Sir John Monash as a Military Commander’, Ph.D Thesis, 1982.

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藤川隆男「オーストラリア連邦の成立」木村和男編著『世紀転換期のイギリス帝国』ミネルヴァ書房、2004年。

スティーブン・ブラード「人種、ネイション、帝国:日英同盟に対する豪州の姿勢1902-23年」平成28年度戦争史研究国際フォーラム報告書

ジョン・モナシュの生涯(仮題) ⑤起業をする

1891年1月にアウターサークル鉄道での仕事は終わり、モナシュのグレアム・アンド・ワディック社との契約は9月で完了した。しかしこの頃、既にブームは崩壊しており建設業は振るわなくなっていた。モナシュはその後友人のジム・ルイスと一緒にスペンサー通り橋の建設に携わったが、同時にルイスは思ったよりも仕事における実務能力に欠けているとも感じ始めたという。ヴィクの兄でアメリカの生命保険会社役員をしていたデイヴはモナシュに数百ポンドのローンを提案したが、これは断った。アウターサークルでの経験や学士号の取得が自信になっていたのか、メルボルン上下水道事業に応募したり、シドニーのピアモント橋の設計に応募したり、西オーストラリアでの仕事を見つけようとした。地方支部を通じてロンドンの土木エンジニア協会への入会を希望したが、不成功に終わった。9月までは、大学で水理工学講義を担当した他は、幾つかの自治体で水道・灌漑に関する小さな事業に携わるだけであった。しかし9月にカーノット教授が港湾トラストに欠員があることを教えてくれたので、11月にそこにポストを得ることが出来た。港湾トラストはモナシュにとってあまり好ましい職場には感じられなかったようだが、不況下においてひとまず安心を得ることが出来た。

 

ヴィクとの夫婦仲は円満にはいかなかった。結婚2か月の時点で早くも別居を経験したが、間もなくして仲直りし、一緒に劇場に行ったりもした。この頃世界ツアー中のサラ・ベルナールがオーストラリアを訪れていたため、モナシュはヴィクと一緒に3度も観劇した。またメルボルン大学音楽教授に就任し、オーケストラも組織していたマーシャル=ホール教授に感銘を受けた。1890年に出来たオーストラル・サロンでのミーティングに出かけたりした。モナシュはヴィクにアイヴァンホーを読み聞かせるように言ったが、彼女は続けることが出来なかった。ヴィクは後日その代わり、ディケンズの『互いの友』は最後まで読み聞かせ、その後アラビアンナイトも読むことになった。1891年7月、ヴィクはモナシュの友人ジョー・ミラーから結核と診断されたことから、1か月ほどビーチワースで静養することになった。その間の手紙のやり取りは良好だったが、戻ってきたヴィクが静養地では「ふしだらな」ファッションで「時間を忘れるほど」知り合いと楽しく過ごしたことを話すと、モナシュは失望した。ヴィクはモナシュの日記を勝手に読むことさえあったので、モナシュはヴィクに規範を教え込む必要性をますます痛感した。

 

1892年は経済的に困難な年となり、ヴィクが持っていたインターナショナルホテルの株がなくなり、父ルイスも負債を抱えて家具を差し押さえられており、モナシュは100ポンドを支援しなければならなかった。しかし港湾トラストでモナシュの地位が昇進すると、サウスヤラのキャロライン通りに引っ越した。ヴィクとのいさかいは続き、ある時はモナシュがヴィクに脅しをかけ、ヴィクが義兄のマックス・シモンソンのもとに逃げてしまったこともあったが、この時はマックスがモナシュをなだめ、2日後にはヴィクは戻ったので事なきを得た。年半ばには両者の関係は改善し、ヴィクは妊娠するに至った。1893年の新年、モナシュは日記の中で自分の妻を誇りに思っていると証言している。そして1893年1月22日、娘のバーサが誕生した。友人たちは大いに祝福したが、モナシュはシナゴーグでの命名式は行おうとしなかった。バーサは夫妻にとって唯一の子どもとなった(※父ルイス、娘バーサと一緒に撮った写真)。

 

ヴィクがビーチワースで静養中の1891年8月よりモナシュは測量士の勉強に努めており、1892年1月からは給水工学エンジニアの試験勉強も行っていた。チューターにはダブリンで工学学位を取り1889年にヴィクトリア植民地に移住してきたJ・T・ノーブル・アンダーソンについてもらった。アンダーソンが過去問を準備してくれたこともあり、モナシュは給水工学エンジニア試験において3科目で満点を取る成績をおさめた。さらにモナシュは友人のスティールとファーロウの指導の下、法律の勉強に着手する。当時、事業の最終決算等をめぐって政府・自治体と請負業者との間で仲裁裁判がしばしば発生しており、将来のキャリアの成功のためには法律学の素養が不可欠であるとモナシュは考えていた。1892年は仕事の予定を一部変更しつつ、短期間の勉強で財産法・債券法・ローマ法(ローマ法は18時間勉強した日を含めて3日間という詰め込み式であった)の試験に合格、12月にはブラックストンの法釈義に加えてウィリアム・ハーンエドワード・ジェンクス(両名ともメルボルン大学教授)の著作を読みこみ、憲政史と法制史の試験に合格した。翌1893年は、試験が6週間前に迫った9月から勉学に本腰を入れた。講義には出ることなく、学費の工面や過去問の入手などにおいてファーロウやスティールの支援を受け、勉強法のアドバイス講義ノートエドマンド・アームストロングJ・S・バッティ(両名とものち図書館員)、ジャック・マッケイらから得ることが出来た。10月以降はかなり気持ちが張り詰めた状態で勉強し続けたため苦悩も多く伴ったが、本番の試験では衡平法・訴訟手続・国際法に合格した。さらに12月には長年の天敵であったラテン語にも合格し、教養学士Bachelor of Artsの資格を満たすことに成功した。この間、1893年初頭の時点で工学修士の取得条件も満たすことが出来ていた。しかし必要な学費を納める関係で教養学士および法学学士LL. B.を取得したのは1895年のことになった。(初年度から向学心がありフルタイムで学業に努めていれば数学をより究められたかも知れないという見方もあるとは言え)ともあれ、パートタイムで行っていた学業の成果としては、十分すぎる到達点であった。

 

モナシュは市民軍においては1889年1月に海陸軍クラブに入会して社交場の基盤とし、6月には大尉試験に合格し昇進を待った。要塞砲兵隊の教練を行う中で教授スキルも向上し、1889年末にノースメルボルンの中隊事務室で講義を行って好評を得た。中隊舞踏会での食事は将校とは隔てて行うべきではないという下士官たちの要望を支持するなど、下士官兵士たちとの関係も良好であった。以前は悩みの種であったスタンリー大尉との仲は、互いが理解を進めていく中で改善された。1889年7月よりスタンリーは少佐となってゴールドスタインの後任中隊長となり、友人のジョー・ミラーは大尉、モナシュは准大尉となったが、この時モナシュはスタンリーを「活発な良い指揮官」と評価していた。1880年代当時の植民地部隊の装備は旧式で、未だ前装式砲の使用を続けていた(※他植民地の市民軍部隊でも、本国の軍隊がリー・メトフォード銃やリー・エンフィールド銃に更新していく中でも、マルティニ・ヘンリー銃の使用を続けているといった事例が見られた)。スタンリーはモナシュに、演習用に木製ダミーの後装式5インチ砲を製作することを命じた。モナシュはコストを計算し、装置および砲架の設計を行い、メカニックも呼ぶなど苦心した。完成した砲は新聞上では「スタンリー・モナシュ演習砲」と呼称されて称賛する記事が掲載され、スタンリーは前防衛相のF・T・サーグッド大佐にモナシュを紹介するなどした。当初防衛省は製作費用を出さなかったので開発は自費となったが、有用性が認められたことで防衛省は140ポンドを支払った。特許や賞与に関しては認めなかったがモナシュの評判は高まり、演習砲は重宝されてその後数年間使用されたという。間もなくしてスタンリー少佐は参謀将校の任務に就くため転属となり、後任指揮官はミラー大尉が望ましいとモナシュは考えたが、実際に就任したのは郵便局役員のアウトトリム少佐だった。モナシュのアウトトリムへの評価は、「寛大が過ぎる男で、軍隊にはとても向いていない。悪くいい加減な指揮官」という厳しいものだった。

 

結婚生活や港湾トラストでの仕事、学位取得に追われている時期のモナシュは、市民軍への労力はあまり割けず、教練に参加しないこともあった。それでも近代的銃器・火砲・爆薬・戦争における機械技術等の知識を徐々に養っていき、市民軍内では数々の講義を担当した。モナシュが担当した講義は『アーガス』記事上では適切なイラストレーションも交えた「第一級の講義スタイル」であると評され、1893年8月の大学科学クラブにおける砲兵技術の講義では幻灯機スライドを入念に準備するなどして臨んだ結果、ヴィクトリア植民地軍司令官のアレクサンダー・タロック少将からは落ち着いて講義出来ていたと称賛された。その一方で正規軍砲兵指揮官のディーン=ピット中佐には資質を認められつつも、毒舌を吐かれることがあったとモナシュは証言している。翌1894年初頭にはイングランドのシューバリネスでの砲兵課程への参加を持ち掛けられたが、政府が旅費を出せないということで実現しなかった。当時は不況による給料減額も正規軍・市民軍ともに深刻で、それは1890年代末にならないと回復しなかった。

 

モナシュはソルトウォーター川の旋開橋の設計、ヴィクトリア・ドックの上屋、道路、排水路等の設計の仕事を行った。1892年3月には水道局の欠員に応募し不採用となったものの、その後何人かの学生に給水工学の試験について指導し、大学の土木・水理工学の試験官となった。港湾トラストにおいては1892年に年俸260ポンド、正規雇用での主任製図者となり待遇は良化した。1892年4月から7月にかけては港湾トラストを離れ、前職のグレアム・アンド・ワディック社と鉄道局との間の追加請負金をめぐる訴訟の仲裁人の仕事を担当した。

 

首府メルボルンは「素晴らしきメルボルン」(階級格差の問題もまた深刻であり、「臭う町スメルボルンSmelbourne」という側面もあったのだが)とまで讃えられ繁栄を極めたヴィクトリア植民地であったが、1890年代には経済崩壊が深刻となった。1893年4月から5月にかけては殆どの銀行が支払い停止となり、モナシュもメルボルン市内はパニック状態であったと証言している。モナシュが利用していた2つの銀行も支払い停止となったが、口座への預金は少額のみだった。ヴィクトリア植民地の失業率は28%を超えていたとも言われ、公共事業は軒並み停止となった。エンジニアたちの失業も多く、若手の者たちは経験を積むためにと無給と言われても働いた。友人のルイス(プリンセス橋の事業に参加していた頃は年収700ポンドを稼いでいた)も困窮していたため、モナシュは日給10シリングの数日間の仕事を都合してあげたことがあった。親族を見ても、1893年5月にはモナシュの叔父マックス・ロス(モナシュの叔母ウルリケの夫)が負債を負ったまま亡くなったため、その息子たちはウルリケや下の妹たちの面倒を見なければならなくなっていた。モナシュはこの大不況は、農業・鉱業の改革や伝統的保護貿易の転換を通してしか解決できないと考えていた。

 

大不況下では港湾トラストも従業員、給料、仕事の削減を強いられた。モナシュは何とかそこから免れることが出来たが、1893年8月の時点で専門職として残っていたのは、彼と主任エンジニア、監査役2名だけとなっていた。しかし1894年2月、さらなる人員削減が計画されたことから、モナシュは3月にかけてコミッショナーE・L・ゾックスに対し精力的に働きかけるが上手くいかなかった。モナシュは4月13日に解雇通知を受け取り、20日に港湾トラストを去った。その後タスマニアの水力学エンジニア職や友人のミラーの薦めでブランズウィック測量士職などにあたったものの、不採用となってしまう。そのためモナシュは、以前自身のチューターを担当してくれたJ・T・ノーブル・アンダーソンと一緒に個人営業によって不況を乗り切ろうという大胆な決断をした。彼らは同い年で、1891年10月頃に会って以来親交を深めており、アンダーソンの妻エレン・アンダーソンはヴィクとも仲が良かった。1892年3月にアンダーソンは機会があれば合名会社を設立することをモナシュに提案していたが、同年11月の彼らが担当している学生たちを交えたピクニックを主催した際に、モナシュはアンダーソンの提案を承諾することにした。その後1894年6月、モナシュ・アンド・アンダーソン社は正式にエリザベス通り49番に設立された(※アンダーソンの家族との写真)。土木・鉱山・機械エンジニア、特許代理人を請け負う会社としてスタートを切った。日給は2ギニーとされ、これはロンドン土木エンジニア協会が定めた最低賃金であった。

 

娘のバーサの誕生をモナシュは喜んだが、結婚生活は容易には進まなかった。1893年4月にヴィクの肺病治療のためにデイルズフォードで3週間休暇を過ごしたときは、ヴィクと不仲であった妹のマットと衝突が生じた。ヴィクは総督官邸の舞踏会に出席した際、将校として個別に招待されたモナシュに対し苛立ちを覚えた。またモナシュがオーストリア軍の将校 (※1893年に訪豪したオーストリア海軍コルベット艦「サイダ」乗員と思われる。同年にはフランツ・フェルディナント大公も「カイゼリン・エリーザベト」に乗ってシドニーを訪問しており、オーストラリア史の文脈で第一次世界大戦を語る際にはしばしば触れられる話となっている) を接待した結果酔っ払って帰宅したため、夫妻の関係はさらに悪くなり、ヴィクは他の男性との外出をしばしば行うことになった。12月にヴィクは再び妊娠するが、この時は流産であった。翌1894年1月、ヴィクは別居を持ち掛け、義兄のマックス・シモンソンが仲裁に努めたものの4日間家を出てしまい、その後マックスが説得して何とか家に戻らせた。秋から冬にかけて関係はいくらか落ち着いたが、モナシュは日記の中で家庭内の苦悩や不満について吐露し続けた。またヴィクの振る舞いについて忠告する内容の匿名の手紙なども受け取った。なお家計が苦しい中でも、使用人は雇用し続ける必要があった。

 

1894年9月、ついに事件が起こった。ジャック・マッケイの選挙活動を手伝って夜遅く帰宅したモナシュをヴィクが強くとがめた。モナシュはヴィクを抑えようとしたが、自分に手を出そうとしていると見なしたヴィクは娘を連れてシモンソンの家へと行ってしまい、別居の準備をし始めた。モナシュも使用人を解雇した後、ホーソーンで父や妹たちと同居し始めた。モナシュはヴィクが戻ってくる場合は今までの衝突については水に流そうとする一方で、戻ってこない場合は法的権利を主張する必要があるだろうと考えた。その後父と一緒にシモンソンの家を訪問し、(半ば強引に)娘のバーサは連れ帰ることが出来た。バーサは妹のマットとルーが面倒を見ることになったが、ヴィクとの仲直りの術は模索したままだった。ファーロウに促されて、モナシュは友人たちともこの問題について話し合ったが、ヴィクやその友人たちはモナシュに強い非難を浴びせていた。それでもモナシュは仲直りできることを信じ、ラビのエイブラハムズ師に仲裁のお願いもした。しかしヴィクは12月10日、兄デイヴ・モスの手配によってイギリスに向けて出航することになった。狼狽したモナシュはヴィクにアデレードかアルバニーで下船するよう必死に呼びかけたうえ、船の船長にヴィクの様子を注意して見ていてほしいというお願いまでした。

 

ヴィクが出航して間もない12月15日、父ルイスが63歳で急死した(2日前にミラーの診察を受けたばかりだった)。メルボルンヘブライ教会が葬儀をあげ、モナシュもシナゴーグに赴いた。殆どの資産は債権者へと委ねられたが、ジェリルデリーやそのほかの資産は売却されるまでに数年かかった。遺産は殆んどなく、しかも数か月後にはモナシュと妹たちはヤラ通りの実家を抵当差し押さえで失ってしまった。家庭内がこの状態だったので、1895年前半をモナシュは取り乱した状態で過ごした。頻繁に劇場に通い、海陸軍クラブや喫煙会で多くの時間を費やした。カーノット教授やゴールドスタインの勧めで、メルボルンの教養クラブであるヨリック・クラブにも入会した。酔っ払って明け方に帰宅することもあったが、交流があったカード家やクラコウスキ家、スティールら友人たちはモナシュに好意的に接していたという。大工・チェス・写生といった趣味も再開した。様々な横道に逸れる一方で、モナシュはヴィクに戻ってきて欲しいという思いは決して捨てることがなかった。

 

7月13日、ヴィクから突然手紙が来て、戻ってくることを伝えた。モナシュはこれを勝利と思う反面、再会することへの気まずさもあり思い悩んだ。ヴィクは25日に到着した。モナシュは戻ってきた後のヴィクの愛情や作法が好転していることを感じ取り、将来の良い前兆であると考え、自身の日記にも「君を何度もキスし 君を大切に想って抱く」と彼女への愛情を再確認する内容の詩を書いた。モナシュは旧家に近いコピン・アンド・イサベラ・グローヴズに週5ポンドの家賃で近居を借り、妹のマットとルーたちと共に引っ越した。しかしその後もヴィクはモナシュの意思に反して勝手な出費をしたり、無断で友人と競馬場や劇場に出かけたりすることがあり、モナシュを悩ませ続けた。それでもヴィクが戻ってから1年間以内には、(途中で妹たちが別居をするようになったこともあり)家庭内の落ち着きや満足という点では比較的改善が見られた。

 

モナシュ・アンド・アンダーソン社の仕事に関しては、南ギップスランドを中心に各地自治体に売り込みを行っていたが、エンジニアよりもむしろコンサルタントとしての採用が目立った。ギップスランドにおいて鉱業で成功していたコールクリーク会社はモナシュたちをコンサルタントとして採用し、『エイジ』への投書を通じて地域産業保護について雄弁な宣伝活動を行った。ムールダックの粘土の委託販売を担当したときは、デヴィッド・ミッチェル(※ネリー・メルバの父親)のセメント会社のマネージャーをしていたジョン・ギブソンの知己を得た。労災事故の訴訟に関する仕事、バーウォン川の可航性についての調査、マウント・ライエル社の雇用に関する仕事、沈没船引き上げのためのシンジケートへの参加など多岐に渡る仕事を引き受け、将来のより大きな事業に参加できることに期待を寄せた。アンダーソンは快活な人柄で聡明、特に数学力はパートナーのモナシュを上回る面があり、大学では機械工学の講義も担当していた。ただしモナシュは、アンダーソンの取引面での卓越性を評価しつつも、仕事を継続的に正確に行うことには難がありビジネスマン的では無いとも評した。

 

1895年半ばより、モナシュたちは1201ポンドからの大きな契約となる、ランディズ・ドリーム産金会社の、ギップスランドのウォルハラから7マイル離れた地域のロープウェイのデザインと敷設の事業を任された。ロープウェイは長さ約1マイル、石英輸送のためのものだったが事業は苦労を伴った。設計はモナシュたちが一から行う必要があったにもかかわらず、会社は整地を十分に行っておらず、イギリスに発注したロープは到着が遅れた。途中でモナシュが痔核と下痢の症状に悩まされるなどの困難もあった。工事が完了しつつある翌1896年5月には、工期が延びてしまったことについての契約を巡って会社と対立が生じ、モナシュとアンダーソンは訴訟を起こしたが、結局12月に一部の支払金を諦めることで和解が成立した。ロープウェイの仕事は徒労が多いものとなったが、ウォルハラでは1896年2月から7月にかけてはゴールデンフリース社のボイラー輸送・設置の仕事も引き受けており、こちらは概ね順調に完了させることが出来た。この年アンダーソンはミルドューラの灌漑の仕事を見つけ、ヒルズビルの自治体とも契約を結んだ。モナシュもストルゼレッキ石炭会社のコンサルタントとなり、同社の路面線路の改良に努めた。

 

この時期の市民軍勤務ではモナシュは退屈を感じることが多かった。中隊長のアウトトリムと友人のミラー大尉は退役が近く、上官のW・H・ホール少佐からはモナシュを昇進させる話が来たが、一旦は流れてしまった。1894年7月より参加したヴィクトリア軍人協会では、懇談会や陸海軍の装備の展示、講演について提案をホールに対して行った。提案は受け入れられ、10月には現代兵器の発展と題した発表を行い、モナシュの評判は高まった。植民地軍司令官のチャールズ・ホールド・スミス少将らから賛辞の言葉を貰い、協会幹事の地位を得たが、思ったよりも退屈でわずらわしい役職であると感じ、1897年に仕事のため役職を辞した際はむしろ喜んだという。

 

1895年10月14日、昇進試験から暫く待たされていたモナシュはようやく大尉に昇進し、その翌週に総督が閲兵をした際には副官をつとめた。学校長にしてメトロポリタン旅団を指揮することになったホール中佐は、10年以上に渡りモナシュのよき指導役となった。1896年7月、アウトトリムはモナシュに砲兵中隊の指揮を委ねるとし、自身は予備役になった。9月24日、モナシュはノースメルボルン要塞砲兵中隊長となった(※1896年頃のモナシュ)。10月下旬までモナシュは自身の中隊を上手く訓練し、やりがいや自信を感じる一方、12月に少佐試験を受けた。「教練」で99%、「砲兵戦術」で98%、「連隊任務」で87%の成績を収め、乗馬試験は不首尾ではあったが総合的には合格した(既に駐屯部隊での勤務が長くなっていたが、歩兵・騎兵の運用についても理解を深める機会になった)。1897年4月2日、少佐への昇進が発表された。歩みが滞った時期もあったが、31歳としては非凡なキャリアであった。

 

参考文献

Australian Dictionary of Biography

Edmund La Touche Armstrong/ James Sykes Battye/William Edward Hearn/Edward Jenks/George William Louis Marshall-Hall/David Mitchell/Ephraim Laman Zoxを参照しました。

 

オーストラリア辞典

ウォルハラ素晴らしきメルボルンミルドューラ1890年代不況、金融恐慌を参照しました。

 

Jeffrey Grey, A Military History of Australia, 3rd edition, Melbourne, Cambridge University Press, 2008[first published 1990].

Peter Andreas Pedersen, ‘The Development of Sir John Monash as a Military Commander’, Ph.D Thesis, 1982. 

Geoffrey Serle, From Deserts the Prophets Come: The Creative Spirit in Australia 1788-1972, New edition, Clayton, Monash University Publishing, 2014 [first published 1973].

Geoffrey Serle, John Monash: A Biography, Carlton, Melbourne University Press, 1982. 

藤川隆男編『オーストラリアの歴史 多文化社会の歴史の可能性を探る』有斐閣、2004年。

山本真鳥編『世界各国史27 オセアニア史』山川出版社、2000年。

ジョン・モナシュの生涯(仮題) ④結婚

アウターサークル鉄道事業に参加して間もない1888年4月に、モナシュは助手としてフレッド・ガブリエルという24歳の青年を雇った。便利屋かつ我が強い人物というのが、モナシュがガブリエルから受けた印象だった。ガブリエルには既に妻とゴードンという2歳の息子がいて、ハートウェルに居を構えたが、モナシュはその一室を事務所として使用した。フレッドの妻アニー・ガブリエル(※アニーとされる女性の写真)はアレンデール近くのクレメンストンに住む機関手の娘で、二人は1884年に結婚した。アニーはモナシュとは同い年で、薄茶色の髪を持ち上品で可愛らしい外見で、教養は高くないが機転が利き、従順で忍耐強い女性というのが、モナシュがアニーから受けた印象だった。

 

間もなくしてモナシュはアニーに本を贈るなど次第に彼女に好意を抱き始め、6月ごろから親密な関係を持つようになった。フレッドは7月、二人がホーソーンの川岸で行った初めての逢引を追跡した時点から、疑惑を抱くようになっていたが、その後も二人はひそかにノートを交換し合う関係を継続し(モナシュはフレッドを出し抜くことに楽しみさえ見出し、ロマンスであり恥ずべきことではないと言い聞かせていた)、8月にはモナシュは熱烈なラブレターを書くまでになった。10月下旬には二人は相互に信頼し合う関係となり、フレッドが留守の間は二人で路面鉄道に乗りブランズウィックまで出掛けることもあったが、疑惑を抱いたフレッドはアニーに乱暴にあたるようになった。間もなくアニーは心身を病むようになり、母親の家で静養となった。モナシュは6週間ほど彼女に会うことが出来なかったが、その間愛情を吐露するような手紙を書いており、二輪馬車に乗りながら手紙の文言を考えていたら衝突事故を起こしたこともあった(なおこの間も舞踏会などの社交活動は継続しており、エイミー・コリーとエヴィー・コリーという姉妹に友人以上の感情を抱いて一緒にメルボルンカップに出かけるなどしたが、長続きしなかった)。

 

アニーは11月に家に戻ることが出来た。暗号文や秘密の隠し場所、信用できる配達人、角灯での合図などを駆使し、二人は短時間なら会うことが出来たが、フレッドは形の上では愛想を振る舞いつつも警戒を持続していた。それでもモナシュはアニーに対し、情熱的かつ独りよがりな手紙を書き送り続けた。モナシュがアニーに出した手紙は115通に上り、これに自身の日記における20万語近くの記述が加わることになるが、これはオーストラリア史における密通事件としては、最も多くの量が記録された事例ではないかと言われている。アニーはフレッドに抗うことに限界を感じており、スキャンダルや不面目を犯すことへの呵責も感じるようになっていたが、「ラウラにペトラルカ、ベアトリーチェにダンテ」であるように自分にはアニーがいなければならないというモナシュの呼びかけを止めることが出来なかった。モナシュはアニーにフレッドとの離婚についても提案するが、それは同時にヴィクトリアから離れて新たな場所で生活することも想定する必要があった。アニーとの関係については友人のジョージ・ファーロウやウィル・スティールには打ち明けており、ファーロウは特にモナシュを説得しようとしなかったが、スティールはモナシュの言動に対し厳重に忠告をした。モナシュはそれを一時心に留めたようだが、1889年の初頭には既に平静を失いつつあった。

 

そして1889年3月16日、モナシュとアニーはキューにあるスタッドリー公園で逢引を企てるが、そこをフレッドに看破された。争いの中でモナシュはステッキと傘を壊され転倒した。フレッドはアニーを掴んでスミス通りの方へ連れて行ったが、モナシュはフレッドに抗うことはなかった(後日モナシュはアニーに対し、スキャンダルをこれ以上悪化させたくなかったからだと説明している)。アニーはフレッドからの逃走を図るものの、2日以内にまた捕まえられた。フレッドは法的手段に訴えることもちらつかせ、知らせを受けたアニーの父は、モナシュに憤怒の手紙を送った。結局アニーはフレッドに見送られ、両親の家に一時帰ることになったが、駅のプラットフォームにはモナシュが隠れていた。自棄になっていたモナシュは路面鉄道に乗ろうとしたが転倒して失敗した。フレッドとアニーが別居になったことはプラスであると自分に言い聞かせ、アニーに手紙で裁判判定による別居について提案した。フレッドは仕事を辞めることになり、モナシュの父ルイスを通じて植民地を離れるための金が欲しいと要求したが、モナシュは応じなかった。モナシュはアニーへの想いは「偉大な素晴らしきインスピレーション」に他ならないと言って諦めきれず、その後も手紙のやり取りをした。4月30日にバララットおよびバニンヨンで再会する約束もしたが、結局9週間にわたって再会することはなかった。5月下旬、フレッドはアニーを再びメルボルンに連れ戻した。アニーはモナシュとの関係を諦めようとしていたが、6月にモナシュは再び連絡を取って、7月中旬よりスタッドリー公園、ブライトンビーチ、トゥーラクといった郊外で何度か密会した。

 

同じ頃の1889年6月22日、モナシュはドイツ系クラブの舞踏会に出席し、当時20歳の美しいユダヤ系女性、ハンナ・ヴィクトリア(ヴィクトリー)・モスに会った。ヴィクトリアは1882年に社交場で一度モナシュと同席したことがあり、モナシュの名前は以前から知っていた。モナシュは直ちにヴィク(こう呼称した)に魅了され、友人となった。8月ごろまで何回か会合や舞踏会での交流を重ね、この時は礼儀作法を守って許しを得た上でヴィクに手紙を書いた。妹のマットを伴ってヴィクの家を訪問し、トランプ手品を披露するに至り、日記ではヴィクが現れたことによってアニーとの関係は少し負担になり始めたとまで告白するなど、気持ちの動揺が生じた。ヴィクは物静かであまり感情を表に出さない女性だったか、モナシュがピアノを披露した際はその腕前に驚きの反応を見せたという。

 

モナシュは8月下旬にかけてヴィクとアニーのどちらの関係を選ぶかで悩んでおり、人生における大きな危機の一つであった。程なくして衝動的になったモナシュは、アニーへの想いは自分にとって「最初の愛であり真の愛」であると言って、彼女のためなら不名誉も背負おうとまで考え、アニーに駆け落ちを提案する手紙を出してアニーの賛同を得た(行先は不明だが、他の植民地と思われる)。1889年9月13日の夜、駆け落ち(アニーの息子ゴードンも連れて)を決行するが、サウスヤラ駅で二輪馬車を降りたところで「(モナシュの日記に曰く)稲妻のように」駆けつけてきたフレッドにより阻止され、アニーは連れ戻された。目に黒あざを作るなど負傷したモナシュだが、友人が傷心の彼を慰めた。数日後、モナシュは日記の中で「スティールは正しかった。これは悪夢incubusであった」とつぶやいた。また、フレッドがアニーをシドニーへと連れていったことを知った。モナシュはアニーへの未練は薄らいでいたが、その後アニーから音信がないことを叱責する手紙が来たため、駆け落ち失敗を強く詫びる手紙を書いた。そしてもし望むなら親元か他の場所へと逃げるための手助け(シドニーにいる従弟のカール・ロスと協力して)をするという提案もしてみたが、12月に届いた返事ではアニーは既に自身の運命を諦めている様子だった。

 

ヴィクとはしばらく連絡を取っていなかったが、モナシュが「過去を振り返る時ではなく、突き進むのみ」と言って精神的に立ち直ると、再び交流が始まった。9月下旬にエヴァ・ブラシュキの結婚式に出席した際には、モナシュはヴィクとの間にシンパシーが育まれているのを感じた。彼女に会うたびに好意は高くなり、ハイドンのシンフォニーのピアノデュエットを行ったりした。この頃イプセンの『人形の家』も観劇しており、女性の家庭における地位について考えさせられた。

 

10月になるとヴィクはモナシュのことを手記で「ジャック」と表現するようになった。10月8日のドイツ系クラブの舞踏会でモナシュは決意を固め、翌9日ヴィクに手紙を書いた。ヴィクの返事が来た後、二人でヤラ川まで散歩に行き、そこでモナシュが話を持ち掛けた。二人の思いは合意に達し、婚約することになったが、この時モナシュはヴィクの様子が手紙の中よりもよそよそしく、冷たいものに感じられたという。経過としてモナシュとヴィクの婚約は双方の衝動的感情によるものであり、必ずしもロマンティックなものではなかった。それでもモナシュは、ヴィクの姉サラとその夫マックス・シモンソンとは上手く関係を築くことが出来た。父ルイスも婚約を歓迎したが、アニーとの恋愛を支持していたという妹のマットはモナシュの移り気に憤慨しており、婚約は少なくとも1年間は秘してほしいと主張した。

 

ヴィクは食糧販売・宿泊業を営む商人モートン・モス(1800-1879)とレベッカ・アレクサンダー(1829-1882)夫妻の末娘で、両親はともにロンドン出身だった。13歳までに両親とも亡くなったため、姉たちのもとで育っていた。背が高く優美な顔立ちで、音楽の素養があり、「近年のメルボルン社交界の女王の一人」と噂されたこともあった。モナシュはヴィクの教養や作法、物静かな性格には問題があると捉え、自分に相応しいように改善していく意志を抱いた。一方ヴィクはモナシュの過去のゴシップを気にしており、付き合いが続くにつれてモナシュはヴィクから冷淡さや横柄な振る舞いを感じ取るようになった。二人の婚約期間は順調には進まなかったが、結婚するまで18か月間、貞節は維持することになった。モナシュは日記でアニーについて言及することはなくなっていたが、この間出した手紙数は、ヴィク宛が41通に対し、アニー宛は51通だった。

 

モナシュはヴィクの教養やモラルの改善のために口うるさくなり、ヴィクもモナシュに対し「難癖」をつけることがあったので、二人は口論になることがあった。翌1890年1月には、モナシュは日記において「心から愛している」と述べつつも、ヴィクの振る舞いに対して失望や辛苦が少なからず生じていることを吐露している。モナシュは7月半ば、婚約解消を持ちかけてヴィクを驚かせたことがあったが、この時はただちに仲直りをした。しかし8月になると、ヴィクはモナシュを伴わないで劇場に出かけると言いだした。9月には今度はヴィクが別れ話を持ちかけたので、モナシュは彼女の言動に干渉しないと譲歩することを強いられた。しかしヴィクは10月の海陸軍クラブの舞踏会ではモナシュと踊ろうとせずモナシュの面子を潰し、12月には他の男性と街に出かけてモナシュを狼狽させるなど、関係はなかなか改善しなかった(※1890年ごろのモナシュとヴィク)。

 

婚約が決まったことでモナシュは女性たちを追いかけるのはやめにして、学位の問題に専心するようになった。1890年8月のエンジニア学生協会の集まりで、カーノット教授はモナシュに対し工学課程のまだ残っている科目に挑戦するよう促した。これは良い刺激となって、9月にかけてモナシュはジム・ルイスたちから応用力学や土木工学、地質学のノートを借りた。年内に必要とされる各科目の試験には合格し、翌1891年1月からは、実質3週間の詰め込み式ではあるが最終試験に向けての勉強に本腰を入れた。ルイスやカーノット教授のアドバイスを受けつつ、一日中大学図書館公共図書館で過ごす日が出来るなど辛苦を重ねた。緊張の中の試験初日は手ごたえを感じたというが、試験最終日前は集中力が切れて市民軍の晩餐会に参加し、酔っ払った末に午前2時の帰宅となった。体調は最悪だったか、それでも試験はこなすことが出来た。そしてしばらく不安に過ごした後の3月24日、モナシュはアーガス奨学金を取得したうえで第二等上級学位の判定で合格していたことを知った。結婚式も控えていた4月4日、友人たちに囲まれながら、最初の学位となる土木工学学士Bachelor of Civil Engineeringの学位を勝ち取ることが出来た。「早熟の天才」としての道はかなり前に捨ててしまっていたが、それでも学んだことを通して生まれ故郷や人々のために貢献する意志は強く抱き続けていた。

 

3月以降もヴィクとの言い争いは続いており、モナシュは学位取得などの成功体験もあったとはいえ、日記の中では将来の見通しへの不安感も吐露していた。しかしそれでも、二人の成功と幸福のために絶対に必要なこととして自分に従ってほしいとモナシュはヴィクに懇願し、裕福にしてみせるとも約束した。4月の結婚式はヴィクの意向を踏まえて行われることになったが、ヴィクの持参金はなく、義兄のマックス・シモンソンが彼女の財産の受託者となった。1週間ほどモナシュは自己憐憫にふけったが、それに対しヴィクはモナシュに過去は忘れて一から出発することをお願いし、結婚前夜には彼に愛の言葉を贈った。ヴィクの性格はモナシュの母ベルタとは大きく異なっていたにもかかわらず、モナシュは自分の母が見せたような従順さをヴィクに求める独りよがりなところがあった。一方ヴィクは個性や知的素養は備えていたものの、教養の幅は狭く思慮や作法に欠けているとモナシュには映り、実利的なことや表面的な社交生活を気にするところがあった。音楽や演劇に共通の趣味とすること以外は、性格面で相容れない面があったが、それでも双方は結婚することに対して異論はなかった。婚約破棄という不面目への忌避も頭の片隅にあったとはいえ、モナシュはヴィクに対する愛情を有していた。

 

1891年4月8日、コリンズストリートイーストのフリーメイソンホールで、ラビのエイブラハムズ師の下で結婚式は行われた。友人のジョージ・ファーロウが介添え人となり、ヴィクには6人の花嫁介添え人がついた。モナシュはヴィクに金時計を贈り、フェデラルホテルで一夜を過ごした後、二人は列車でシドニーへと旅行に出かけた。出発する際にはヴィクは幸福を感じている様子だった。シドニーではグロブナーホテルに滞在し、劇場を何度か訪れ、フェリーや路面鉄道に乗り、美術館、ボンダイビーチの水族館、サイクロラマなどを楽しんだ。翌週にはブルーマウンテンやジェノランケーブに出かけるなどした。モナシュによれば旅行中、シドニーの中央駅で到着時と出発時の2度、因縁の相手であるフレッド・ガブリエルを見たのだという。メルボルンに戻った後、新郎新婦はリッチモンドのレノックス通りに新居を借りることにした。

 

 

※モナシュはアニー・ガブリエルとその後も手紙のやり取りを継続しており、後年にはメルボルンで何度か一緒に過ごしたこともあった。大戦勃発後の1914年11月、モナシュはシドニーのフレッド(この頃は私立探偵をしていた)とアニーの夫妻を訪問し、翌12月に自身が出征する際にもメルボルンでアニーと再び会い、別れの挨拶をしている。アニーの息子ゴードン・ガブリエルも工兵伍長としてガリポリ戦役に従軍した。大戦後もアニーにお金を貸したり、1929年にはシドニーで、1930年にはメルボルンで会ったりするなど交流は続いた。1931年2月、アニー・ガブリエルは死去した(モナシュが死去したのは、同年の10月8日である)。

 

 

参考文献

Monash's liaisons laid bare in lamentable period play ※近年はジョン・モナシュの女性関係をテーマにしたMonash In Love and Warという演劇も発表されている。

Geoffrey Serle, John Monash: A Biography, Carlton, Melbourne University Press, 1982.

ジョン・モナシュの生涯(仮題) ③エンジニア業を始める

母ベルタの病気は腹部のガンだった。1885年初頭に手術を受けたものの間もなく再発し、ジョンたち家族はベルタの病状が致命的であることを徐々に悟り始めた。ジョンは母の看病をし、料理をし、母のためにピアノを弾いた。しかし10月18日、母ベルタは44歳で死去した。ジョンへの最期の言葉は、妹たちを大切に世話するようにという内容のものだったという。ジョンのショックは大きく、友人女性に宛てた手紙の中でも自分に最も愛情を注いでくれた人が亡くなったことへの悲哀や孤独感を吐露した。ジョンは9か月間、日記を書くことを辞めてしまった。

 

ジョンは母の死去前後の時期から、ジム・ルイスの家族と過ごす機会が増えていた。ルイスの母は夫に棄てられても8人の子どもを育てた不屈の女性で、カールトンで寄宿舎を営んでいた。ジョンにとっても頼りになる人であったようで、34年後に世界大戦から帰還した際にも、わざわざ家を訪問したという。この頃、父ルイスは義弟マックス・ロス(妹ウルリケの夫)の助けを得て金貸し業を始めていたが、収入は少なく身体も衰えてきたので、ジョンが家族の中心となってフルタイムの仕事を見つけ、家計を支えていかなければならなくなった。妹のマティルド(マット)はプレスビテリアン女学校首席という優秀な成績をおさめ、1885年に大学入学資格試験に合格、1886年には国語の奨学金を獲得していたが、妹ルイーズ(ルー)の面倒を見て家事に専念するために、これ以上の進学は諦めなければならなかった。しかし母を喪ったことや学問上のつまずきの影響もあり、当時のジョンは衝動的な言動にかられる頻度が多くなっていた。

 

ジョンは1885年5-6月頃から時計屋・宝石細工業を営むブラシュキ家の4人の姉妹(ミニー、ジャネット、ロージーエヴァ。彼女たちの末弟のマイヤー・ブラシュキ(マイルズ・エヴァーグッド)は画家になっている)と交流を持っていた。ブラシュキ家を訪問した際、ジョンはピアノを演奏し、長女で「最も可愛らしく愛想が良い」ミニーとはすぐに仲良くなった。エヴァエドワード・ギボンの話に関心を示しており、ジョンは彼女のアルバムに詩句を書いてあげるなどした。ジョンはエヴァと手紙のやり取りをするなど魅了された面はあったが、教養面で不十分さを感じたようで、感情は一定のところで留まった。しかしながら母を亡くした前後の期間には、ジョンはエヴァに対し宗教や哲学を話題とした手紙を多く書き送っており、教養面を補うべく自分がエヴァの教師役になれないかという懇願までした。同様の手紙のやり取りはエヴァの姉ロージーともしており、その中で「ジャック」と呼称されるなどこちらも親密な仲となった。ブラシュキ家の姉妹たちへの専心は、1885年末まで継続した。哀しみから気を紛らわすために、喪った愛情の代替を探すためにジョンは苦悩したが、その言動は時として迷走も伴っていた。

 

1886年になると頻度は減少したがブラシュキ家との交流は続いた。長女ミニーとは親しい仲であったが、結果的にミニーはジョンの従兄アルベルト・ベーレントと結婚することになった。3月からは今度はジャネットと近しくなり、この時はジョンも初めて恋愛感情があったと言われている。ジョンより1歳年上のジャネットは、ジョンを「最愛のジャック」とまで呼んだ。しかしブラシュキ家中では緊張が高まっていた。8月にはエヴァがジョンに「事実上の告白」をしたため、ジョンは大いに悩むと同時に自らの愚かさも感じ、ジャネットへの感情も衰えてしまい、事態を穏やかに収拾できないものかと思索した。約30年後の妹マットの証言によれば、ブラシュキ家の姉妹たちはみなジョンとの結婚を望んでいたのだという。しかしその年のクリスマス前、父ルイスがブラシュキ夫人(ジョンを家に迎えることには好意的だった)に対し、ジョンは以前から結婚する意志を持っていないという話をしてしまったため、今まで嘘をついていたと見なされて姉妹たちとは破局となってしまった。翌1887年4月にアルベルトを訪問した時には、ジョンは姉妹たちとほとんど口をきくことが無かった。その後1888年10月にジョンはジャネットとは和解したが、ジャネットから後先を考えずに行動した点をとがめられるなど双方間のわだかまりは無くなることはなく、エヴァとはついに和解出来なかった。従兄アルベルトの妻ミニー・ベーレントに会う際も、ジョンは生涯気まずさを感じることになった。

 

困窮していたモナシュは家庭教師を続けていたが、大学の学業を続けるためにはやはり限界を感じていた。そこで友人のジム・ルイスを通して、エンジニアの求人について下調べをした。当時ヴィクトリア植民地政府や自治体による公共事業はブームを迎えており、若いエンジニアたちが経験を積む機会は多くあった。ルイスはデヴィッド・マンロウの土木会社よるプリンセス橋建設事業における契約エンジニアとして採用されていたが、1885年末には彼の勧めでモナシュもそこで契約エンジニアになることが出来た。当時マンロウはオーストラリア最大級の土木・機械業者として著名になっており、スワンストン通りとセントキルダ道を結ぶプリンセス橋 (幅約100フィート)建設の仕事も、メルボルンの繁栄を象徴するような大事業であった。この時のモナシュの週給は30シリングで、家庭教師の時と比べてもあまり割に合うものではなかったが、経験を積むために不平を言わず懸命に仕事を行った。

 

ジム・ルイスはエンジニア業におけるモナシュの知的好奇心の高さ、常に物事の原因を追究して問題を解決し、仕事を必ずやり遂げていく姿勢に強く感銘を受けたと証言している。約2年間に渡りモナシュは橋台・橋脚・擁壁などの設計・製図の補助を担当したが、時には植民地政府の官僚や高官と言葉を交わしたり、重機運用や採石に関するフィールドワーク経験を積んだりもした。努力の甲斐あって『エイジ』の記事に有能なエンジニアの一人として紹介されたことはモナシュにとって誇りとなり、ヘンリー・ロッホ総督や大学のカーノット教授、ヴィクトリアエンジニア協会が現場視察に訪れたこともあった。2年目には給料は週給2ポンドになり、御影石や青石の設置、石工の仕事も経験した。職人たちの親交を深めるためのピクニックでは会計役に抜擢され、囲い堰が崩れる事故が起こった時には、果敢にも泥の中に入っていき測量を行った(直ちに修正されたのだが、計算間違いもした)。1887年後半にはプリンセス橋はほぼ完成していたが、モナシュは引き続きヤラ川にかかるクイーンズ橋建設事業において、石工の仕事計画を担当した。その後もフッツクレイ、ムーニーポンズ、コーバーグ、フレミントン鉄道橋の仕事に加わった。一連の仕事を通して、モナシュはマンロウの下で仕事を続けていくことには限界も感じ始めたようであるが、1888年1月に週給が10シリング上昇した際には率直に喜んだ。

 

大学では1886年前半はほとんど勉強をしていなかったが、モナシュは学士課程を終えることには望みを持っており、9月初めからは友人のオハラのアドバイスも得て数学・物理学・地質学・古生物学を猛勉強した。しかし試験では失敗し、数学以外を落としてしまう。翌1887年2月の追試にはこれらに政治経済学(友人のジョージ・ファーロウからノートを借り、12月からはアダム・スミス、J・S・ミル、ハーバート・スペンサーなどを読んでいた)の科目も加えて臨むことにしたが途中で気が緩んでしまい、地質学を落としてしまった。パートタイム学生で全ての科目を学ぶこと自体が困難を伴うものであったことに加え、自身の能力を過信していたことが失敗の背景にあった。そのためモナシュは1887年度は早期から勉学の準備を行い(7月の学生会の親睦会にはしっかりと参加した)、友人のウィル・スティールとともに地質学に加えて経済学・法学を学んだ。10月のほとんどは女性との社交や市民軍での試験に費やしたがそこから腰を据え、しっかり時間割を作り勉強した。仕事を一旦休んで試験に臨んだ結果、物理学や数学を含む5科目に合格し、スティールやファーロウらと喜びを分かち合った。しかし1888年2月には、地質学および初年度のラテン語に合格することで、教養学士と工学学士の課程を満たす必要があった。数学の優等試験にも挑戦(在学期間を満たしていれば修士号の授与にも繋がるため)してみてはという励ましもあったが、モナシュは既に数学者になるには実力が不足していると考えており、数学を探究してアカデミアの道を歩むことは諦めることにした。そのかわり「うんざりする仕事」であるラテン語試験に臨まなければならなかった。この時の試験勉強は以前に増してはかどり、カトゥルスの詩に親しむ喜びもあったようであるが、結局市民軍での案件や友人との宿泊、観劇に熱中してしまい、2月のラテン語試験はまたしても不合格となった。これには流石にモナシュも自責の念にかられ、面目を失った。

 

1886年6月30日に大学中隊を辞めた後、モナシュは一時的に市民軍の勤務に魅力を感じなくなっていた(5月には工兵の採用も受けていたが、不採用だった)。しかし大学中隊の人員の多くはメトロポリタン旅団の要塞砲兵隊・ノースメルボルン砲兵中隊に移っており、モナシュの友人である医学生、ジョー・ミラー准大尉やジョージ・ファーロウもそこに所属していた。8月頃よりモナシュは考えを改め、新たな出世が狙えるかも知れないということで砲兵中隊への入隊をミラーに相談した。ミラーたちは中隊長のジェイコブ・ゴールドスタイン少佐にかけあったが、正式に加入が認められたのは約半年後の1887年3月3日になってからだった。4月5日に試験を経て少尉候補生となり、ポートフィリップ湾にある要塞砲兵駐屯地に赴いた。敵艦隊が侵攻してきた際にはネピアン堡塁の海岸砲を自らが指揮し、最初の一発を撃つことになるかもしれないと、当時のモナシュは空想することがあったという。市民軍への参加は社会的ステータスや社交機会のため、あるいは華やかな制服に魅力を感じたためといった動機もあったが(※1888年頃のモナシュ)、軍事の理論・技術への関心は次第に強くなっており、非常時にはヴィクトリア植民地を防衛することへの責務自体には強く共鳴していた。モナシュはもしもエンジニア業が挫折したときは、正規軍人としてのキャリアを見出そうとさえ考えていたという。

 

上官のゴールドスタイン少佐は当時48歳、アイルランド生まれだが父親はユダヤポーランド人で、メルボルンの慈善団体主催者としても知られていた(※左から二人目がゴールドスタイン少佐)。娘にはのち女性参政権論者として著名になるヴァイダ・ゴールドスタインがいた。ゴールドスタインは寛大さが目立つ人物でモナシュを厚遇し、1887年6月22日には総督官邸の舞踏会に彼を連れて行ったこともあり、モナシュを大いに喜ばせた(※総督はイギリス国王の代理として植民地ソサエティの頂点にあることから、総督主催の舞踏会やパーティは特に重要なものと見なされていた)。ブリティッシュではなくユダヤ系の出自のモナシュが社会的成功をおさめるためには、ゴールドスタインは模範となりうる人物であった。一方で、もう一人の35歳の上官ジョン・スタンリー大尉については、モナシュは親切心(ミラーと共にメルボルンの教養クラブであるヨリック・クラブに連れて行ってもらったことがあった)と残酷さを伴った人物であるとして、当初は好印象を抱かなかった。勤務が始まるとモナシュはゴールドスタインの指示に従って、演習室では絵入りの地図を用意するなど尽力した。砲兵中隊の舞踏会では幹事を務め、6月以降はパレードを指揮するなどして信頼を高めていった。拳銃・小銃射撃はまだ不得意であったが、部下にレクチャーすることには喜びを見出した。ゴールドスタインはモナシュに対して、「筋の通ったおべっかhumbugを伴いつつも非常に聡明な男」なる印象を抱いたというが、両者はよき友人となった。1888年3月末には9インチ砲の射撃訓練で初めて隊を指揮し、夜間の模擬戦闘では強い印象を抱いた。7月にモナシュはファーロウ宛ての手紙の中で、部下とも上官とも関係は良好で中隊内に確固たる地位を築けている旨を伝えた。

 

モナシュはフルタイム学生ではなくなったこともあり、1886年1月より従兄のアルベルト・ベーレントが幹事を務めるヴィクトリアドイツ人協会Deutscher Verein von Victoriaにも加入していた。会話はドイツ語で行われ、喫煙会smoke-night(午前3時まで飲み明かすこともあった)や舞踏会、ピクニック、スポーツなど3年のうちに十数回の社交イベントに参加した。しかし毎年のピクニックに退屈を感じたり、カイザーの誕生日の祝賀会に対しては「自分には合わない」という感想を漏らしたりした。あくまでイギリス本国にシンパシーを感じていたこと、パンゲルマン主義的思潮の高まりに反感を覚えたことを理由に、次第にドイツ系クラブに対する熱意を失うようになった。ただし、ローゼンハイン家(のち妹のルイーズが嫁ぐことになる)やハンツマン家などの家族とは、親しい交流を継続していた。1886年にはダンスの練習にも力を入れ、ワルツをマスターして社交イベントに役立てようとした。1886-87年にかけてはプライベート、市民軍、大学、ドイツ系クラブ、自転車クラブ、各種舞踏会など、モナシュの社交関係は非常に多岐に渡っていた。

 

1886-87年にかけては、ピアニストとしてもモナシュの腕前はピークに達しており、メンデルスゾーンウェーバーベートーヴェンショパンを嗜んだ。1886年7月にはメンデルスゾーンのコンチェルトが気に入っていると言っているが、ハイドンベートーヴェンのシンフォニーのピアノデュエットも、アルベルトら親戚・友人と演奏するなどしたためお気に入りであった。初見演奏は容易に行うことが出来、社交場でもしばしばピアノを披露して多くの称賛を受けた。モナシュは高度な音楽をマスターすることは個々の人格を素晴らしいものにする効果があると考えており、文学や演劇と同様に、音楽は強い修養の力を有していると確信していた。

 

1886年12月-87年1月にかけて、モナシュはマーティン・シモンセンのオペラカンパニーによるイタリアオペラを10回以上鑑賞し、鑑賞の際には山高帽を被っていき友人たちを驚かせた。アルフレッド・セリアーのコミックオペラ『ドロシー』には感銘を受け、楽譜を購入して練習を行うほどだった。『プリンセス・イーダ』『テンペスト』を鑑賞したほか、エッシー・ジェニンズが演じる『空騒ぎ』を好んだ。読書面ではオリヴァ―・メンデル・ホームズの『朝食テーブル』シリーズに感銘を受け、ジョージ・エリオットの『ロモラ』については友人のウィル・スティールと長時間議論し、メルボルンを舞台としたファーガス・ヒュームの小説『二輪馬車の秘密』が発表された際には、即座にそれを読むなどした。絵画も時折行っており、グローヴナー・ギャラリーの展示会を見に行ったこともあった。

 

モナシュはウィル・スティールや少年時代からの付き合いであるアーサー・ハイドとは、政治や哲学の議論をするなどして親交を深めた。法学課程をパートタイムでこなしていたジョージ・ファーロウとも気が合い、要塞砲兵隊での勤務を共に楽しみ、行軍任務を念頭に入れた徒歩旅行に出かけることもあった。1886年のクリスマスにはギップスランドのウォラガル~ドルアン~プオンのルートを踏破した。翌1887年にはリリーデイル~ヒールズヴィル~ファーンショウのルートを往復し、1888年のクリスマスにはヒールズヴィル~メアリーズヴィルウォーバトンを踏破した。1889年以降はファーロウと共にマウントバッファローまでしばしば出かけ、キャンプを楽しんでアルプスの自然や神秘に魅了されるなどした。ファーロウによれば、モナシュは旅行先の地勢や人々の生活、エンジニアの仕事の可能性について熱心に観察し、最適のルートを見つけるのが上手い「よきブッシュマン」の資質を有していたという。しかし一方で、モナシュは3マイルも歩けばペースが落ちてしまったことも指摘した。徒歩旅行にはしばしば出かける一方で、モナシュはフットボールクリケットに関心を覚えることはなかった。テニスには挑戦してみたことはあったが、自分向きではないとしてすぐに諦めてしまった。毎年11月の競馬のメルボルン・カップには足を運ぶようにはなったが、馬券を買うことはなかった。

 

ブラシュキ家の姉妹たちと破局した後も、女性遍歴については多彩となっており、舞踏会や晩餐会に出かけては女性たちと交流した。1886-87年間の日記には実に50人以上の女性が言及されており、中にはピクニックや劇場に一緒に出掛ける付き合いをした女性もいた。教養のある女性にはとりわけ好印象を抱く傾向にあり、のちジャーナリストとなるアグネス・マーフィーや、ゴールドスタイン少佐の娘であるヴァイダとも知り合った(ヴァイダからは、当初は良い印象を持たれなかったようだが)。1887年冬にはエイダ・クラコウスキやロージー・シルドという女性たちに魅了され、ロージーの家を訪問してショパンの演奏やトランプ手品を披露した。しかし次第にロージーに「移り気な」性格を見出して喧嘩がしばしば生じ、結局翌1888年4月には心は離れてしまった。この時期は、いわゆる「ソーシャルライオン」の道を目指すばかりに社交や恋愛で心身をすり減らしていた他にも、学業の問題や仕事のプレッシャーで上手くいかないことがあり、日記の中で悩みを吐露して珍しくウイスキーを深酒したこともあった。しかし仕事をすることが不幸から逃れる最良の手段であると認識するに至った。友人のウィリアム・スティールからも手紙のやり取りを通して、助言や励ましを受けた。

 

モナシュは1888年3月、ジム・ルイスから「冗談交じりに」メルボルンのアウターサークル鉄道建設事業の仕事を持ちかけられ、参加することに決めた。試用期間3か月+12か月の雇用期間、週給7ポンドという好条件だったが、器具準備や助手の雇用は自腹であったので実質週給4ポンド程度だった。一方でモナシュはこの時期マンロウとは不和になっており、彼からは「恩知らず」とまで言われたが、4月には彼の会社を離れることになった。モナシュの雇用主は過去に幾つかの鉄道事業を手がけていたグレアム・アンド・ワディックという建設会社だった。アウターサークル鉄道はオークリー~キャンバーウェル~フェアフィールド間の事業で、のち公共事業ブーム期間における「無駄な投資」と評されることになるが、当時はギップスランド~スペンサー通り駅を繋ぐ実用的なルートと見なされていた。モナシュはその後3年間で線路(約11マイル)・道路(約15マイル)・鋼製高架橋・下水渠等に関する17万ポンド相当の事業に参画し、下請け人らと共に作業計画立案、仮設工作物の設計、機械調達等を担うことになった(※当時の仕事風景)。モナシュは同僚たちや植民地政府の土木監督官と交流することで自身の資質を認めさせた。エンジニアとして職人たちを監督することは、軍隊における将校と下士官の関係に通じるものがあると実感するようになった。一方で11月末に工夫達が賃上げストライキを起こした際はこれにシンパシーを感じることは少なく、深酒に代表される彼らの不品行をとがめたこともあった。モナシュ自身も雇用主とは3年間で10回近く問題が生じたことがあったが、概ね彼の満足する形に解決することが出来た。若手の助手であるジャック・グレイやW・B・ショー(ジョージ・バーナード・ショーのいとこにあたる)と親交を深め、1889年中頃になると仕事に対するプレッシャーも軽減された。1889年9月には、監督したフェアフィールドの架橋工事でロープが切れて巨石が落下する事故があったが、九死に一生を得た(石工が一人重傷を負ってしまい、モナシュが病院に連れて行った)。

 

最終契約年の1890年6月、キャンバーウェル~オークリー間の鉄道が開通した。モナシュは11月、自身が監督したフェアフィールド橋を土砂降りの中ではあったが試験し、喜びを得た。3年間で膨大かつ広範囲の経験を積むことが出来たので、後悔はないと振り返った。契約上の諸問題への対処や、仕事の駒かな役割分担指示は見事なものであると評価された。業務日誌は毎日正確に記述し、各種文書には日付を記入してコピーを保管し、常にノートや明細書を携帯し、文書のファイリングは徹底すること、契約が満了するまではいかなる文書も廃棄しないことを心がけていた。資材調達においては1ヤード毎に各資材がどれほど必要かを計算し、天候の変化、工夫達の作業効率の判断などにも気を配った。運に助けられた要素もあったとはいえ、学位取得前の学生エンジニアとしては、申し分ない働きぶりであった。グレアム・アンド・ワディック建設会社の完全な契約満了は結局1891年9月まで延びることになったが、同社は退職の際、モナシュに推薦状を用意してくれた。

 

参考文献

Australian Dictionary of Biography

Miles Evergood/Vida Jane Goldstein/Elizabeth Esther Helen Jennings/Henry Brougham Loch/David Munroを参照しました。

 

オーストラリア辞典

ウォーバトンウォラガルゴウルドスティーン(ゴールドスタイン)、ヴァイダ(ヴィーダ)・メアリー・ジェーンメアリーズヴィルメルボルン・カップを参照しました。

 

Peter Andreas Pedersen, ‘The Development of Sir John Monash as a Military Commander’, Ph.D Thesis, 1982. ※軍歴関連の典拠

Geoffrey Serle, John Monash: A Biography, Carlton, Melbourne University Press, 1982. ※主要典拠

藤川隆男編『オーストラリアの歴史 多文化社会の歴史の可能性を探る』有斐閣、2004年。※通史

山本真鳥編『世界各国史27 オセアニア史』山川出版社、2000年。 ※通史

ジョン・モナシュの生涯(仮題) ②大学生となる

1882年3月、ジョンはメルボルン大学に入学を果たした(※16歳頃の写真)。ジョンは兼ねてから教養学士を修めつつも得意の数学を伸ばし、エンジニアになることを夢見ていた。ジョンが得た奨学金25ポンドは学費と本に充てられることになったが、父ルイスがジョンに与えることが出来る小遣いは月1ポンドに留まったので、それ以上は自活していく必要があった。その一方で、ジョンは前年度より母ベルタへの愛情や尊敬がおろそかになっていること、妹マティルド(マット)への勉強の教える際にはもっと辛抱強くなるべきことを、(ベルタからの訴えを踏まえた)ルイスから手紙の中でとがめられていたという。そのためジョンはルイスにドイツ語で手紙を書くのに煩わしさを感じるなど、家庭内の関係がややギクシャクして気持ちの動揺がある中で、大学生活を迎えることになってしまった。

 

大学の授業が始まり、古典語、数学、論理学についてH・A・ストロング、E・J・ナンソン、アレクサンダー・ローリーら教授陣から講義を受けた。しかし講義はジョンには魅力的に映らず、一学期の終わりには殆どの講義に出なくなった。ただし、ウィリアム・ジェヴォンズの『初等論理学』をマスターすることが出来たことは将来的にプラスとなった。ジョンは日記を書く習慣は継続していたが、手紙に関しても受け取ったものは徹底的に整理保管することにし、自身が書いたものは控えを取るようにした。あらゆる物事の記録を取っておくことをジョンは「ルーティーンシステム」と名付け、生涯に渡り休日の日課としていた(それ故、非常に充実した個人文書が後世に残ることになった)。コインや鉱石標本、有名人の写真をコレクションするという趣味を始め、古典文学や偉人を扱った廉価本を買うことも始めた。

 

ジョンは公共図書館に通いつめるようになり、文学や歴史を中心に読書をした。コングリーヴの『愛には愛を』、フォードの『あわれ彼女は娼婦』、ゴールドスミスの『負けるが勝ち』、フィールディング、ディケンズ、ブルワー=リットン、ハーバート・スペンサー、レッシング、スタール夫人、ヴォルテール、ポーなどを読みあさった。ギボンにならって常にペンを持って読書をし、備忘録を作成した。またマコーリーの実践にならい、読んだ本のページを閉じてその記憶力を試すなどした。週末にはウェズリー教会知識交換会での集会に参加し、1882年中には自分が書いたマクベスの小論文やロビンフッド、ハールーン・アッラシード(この頃ジョージ・セールの英語訳クルアーンを読んだことから関心を抱いていた)に関するレポートを読み上げた。スコッツ教会文学会やヴィクトリアパレード青年協会でも読書会やディベートを行った。議題はジャンヌ・ダルクシェイクスピア、電灯、火災保険など実に多様であった。議論が白熱すると無作法になることを、同じく会員だった音楽家のパルヴァーに注意されたこともあったが、それでもジョンは根気よく討論の経験を積むことで、自らの精神的成長に繋げていった。

 

教会や図書館以外ではギムナジウムで時折運動をしたほか、週に2回は必ず劇場に通い、メロドラマやコミックオペラ、バーレスクなどを鑑賞した。当時の人気俳優はジョージ・リグノルドアルフレッド・ダンピア、ジェニー・リーらで、コミックオペラ『ボッカチオ』は5回、『ペイシェンス』は2回鑑賞した。劇場に通いつめていることは母には内緒にしており、日記でも劇場については速記で書いていた。ただし、母と一緒に劇場や社交場に出かけることはあった。この年の3月、ジョンは初めてアルフレッド・ディーキンに会った。ディーキンの姉キャサリンや、ディーキンの新妻で当時19歳だったパティとも親交を深め、ジョンはパティを「私の知る最も美しい女性」と評した。ベルタの通うサークルのドイツ系の人たちとも仲良くなり、5-6月には初めて舞踏会を経験するなどし、この年の誕生日は非常に充実した形で迎えることが出来たと語った。その他ヴィクトリア植民地の議会や法廷を傍聴したり、建設現場や港湾の仕事場の周りを徘徊したりすることにも精力的だった。

 

二学期になってもジョンは数週間に渡り大学に行かない日があった。講義に出ても遅刻がしばしばあり、10時からの講義にも遅刻した。8月の休暇中は勉強せず、9月下旬になってからは定期的には勉強するようになったが、化学実験にふけり地方紙への投稿記事や小説を書こうとするなど、脱線が甚だしかった。10月には父ルイスがメルボルンに戻り、ナランデラの店舗を引き払って新居を建てる計画を立てるなど、家庭内の動きが慌ただしくなった。大学試験の4日前には叔母ウルリケの夫婦が海外から戻ってきたが、そのせいもあってジョンはますます勉強に身が入らなかった。

 

初年度の試験は数学初級、論理学、化学、鉱物学、植物学で及第したものの、ラテン語ギリシア語、数学上級が不合格という散々な結果となった。成績のことをジョンは家族に翌日にならないと話すことが出来ず、嘆き悔やんだジョンは挽回することを日記の中で誓った。後年(1889年)になってジョンは、初年度の失敗の原因は劇場に夢中になり過ぎたことであったと告白している。1882年12月にかけてジョンはスコッチ・カレッジを何度か訪れ、モリソン兄弟や恩師たちにも報告と相談をした。しかし追試に対してもジョンは必ずしも身が入らず、劇場通いは継続し、ピアノや素描をした。ジョージ・エリオットの『ミドルマーチ』『アダム・ビード』『フィーリクス・ホルト』、ブルワー=リットンの『ケネルム・チリングリー』を読んで感銘を受け、スコットやディケンズパスカルテニスンを再読した。『ジェリルデリー・ヘラルド』という地方紙の編集者になっていた恩師のウィリアム・エリオットには数シリングで雑多なゴシップ記事を掲載してもらうなどし、友人のアーサー・ハイドが当時働いていたベンディゴの『インディペンデント』紙にも投稿した。この年の10月からは数千語に及ぶ「煽情的な愛と殺人の物語」なる小説も書いており、独仏の小説を翻案して新聞に投稿することも構想していたという。

 

父ルイスは今までのリッチモンドの住居から2マイル東に離れた、ヤラ通りのホーソーンに土地を購入した。近隣にはドイツ系の友人も多く居住しており、建築家のJ・A・B・コッホに煉瓦造りの家をデザインしてもらったが、ジョンは設計に意見を述べたり建設業者との契約に立ち会うなどして、土木エンジニア業の一端に触れる体験をした。1883年1月にかけてジョンは追試の勉強を必死に行ったものの、友人のハイドに宛てた手紙では不安や憂うつの気持ちを伝えた。追試の結果、5科目は及第したものの必修のラテン語を落としてしまった。ラテン語はその後長きに渡り、ジョンの学問上の強敵となった。

 

初年度は大失敗となったジョンだが、決して挽回できない失敗ではなく、また大学を諦めるというのも(※ハイドにはジャーナリスト業の可能性について相談したことはあったが)結局は自身の道徳が許さなかった。1883年3月28日の日記では、再スタートをしてより賢明な人間に成長しようという意志を示した。メルボルン大学には1883年より工学学位が導入され、W・C・カーノットが最初の工学教授に就任した。カーノット教授はその後、ヴィクトリア測量協会やヴィクトリアエンジニア協会でも要職に就くことになる。工学課程は最初の数年間は数学や物理学の比重が高く、ジョンはH・M・アンドリュー教授からそれらの指導を受け、「メルボルン大学で最も素晴らしい教授」と評するなど強く感銘を受けた。妹のマットや従弟のカール(※叔母ウルリケの息子)の勉強を見つつ、複数の生徒を受け持つ家庭教師業を始め、週に約20時間はそれらに費やされた。6月から7月にはウエスメルボルン女学校で授業も経験した。

 

ウィル・スティールという3歳年上だが初年度を失敗した学生とは、哲学、宗教観、音楽、チェスなどの話題で意気投合したため、長きに渡りジョンのよき友人となった。1883年2月頃より手紙のやり取りを始め、その中で自らが思っていることを気兼ねなく語れる仲となった。アメリカのミネソタに住むいとこのレオ・モナシュ(※ルイスの兄イジドル(1829-1912)の息子)とも文章力の修練も兼ねて文通をしていた。1883年5月の手紙の中では、ジョンはレオの汎ゲルマン的な傾向を批判し、ドイツ語は母語ではなく言語として学んでいると主張するなどしている。30年後に大戦が勃発するとレオは親ドイツの立場を取っているが、ユダヤ系ドイツ移民という立場で育ったジョンにとって、ドイツに対する政治的・文化的な忠誠心にまで染まることはなく、忠誠の対象はあくまでイギリス帝国であり、生まれ育ったオーストラリアであった。ジョンは一時的には植民地ナショナリズムの言説を唱えることもあり、アルフレッド・ディーキンと懇意ではあったものの、オーストラリア出生者協会には参加しなかった。

 

2年目も読書欲は相変わらず旺盛で、お気に入りのブルワー=リットンだけはなくヒューム、ブライト、カーライル、テニソン、ヴィクトール・ユゴーを読んだ。3月にはプロイセンに住む叔父からゲーテ全集30巻とレッシング全集16巻が送られてきた。公共図書館では雑誌『ヴァニティフェア』の似顔絵やアレクサンダー・ウォーカーの著作の女性画を真似して描くなどした。絵画のレッスンは受けていたものの、ピアノは一時的にやめて、劇場へは時折しか行かなくなった。この年のジョンの社交はささやかな範囲で、舞踏会やパーティも主にドイツ系の人たちが中心で、日記中では女性たちへの言及は少なかった。7月に家族が完成した新居に引っ越した際は、ジョンは数週間に渡り大工仕事や庭造りに精を出した(※1884年頃の住居。ジョンと母ベルタが写っている)。ウェズリー教会知識交換会へはまだ参加しており幹事を務めていた。5月にはテニソンのついての小論文を作成し、教会コンサートでは妹のマットと一緒にデュエットをしたが、次第に活動に煩わしさを感じて9月には協会を辞めることにした。

 

アンドリュー教授の指導の下でジョンは物理学の面白さに目覚め、力学や水力学の勉強に精力的になり、ジョン・ティンダルやバルフォア・ステュアート、W・H・ベサントの著書を読み進めた。8月末にはウォルター・スコットの小説や『インゴルズビー伝説集』を一日中読んでいる日もあったが、三学期を控えると真剣になり、午前9時までには大学に通うようになった。ティンダルをはじめとする物理関連の読書の成果に自信を得ていたというジョンは、第一等の成績も狙えるのではないかと高望みした。しかし結局2年目の成績は5科目で合格したものの、優等試験では失敗してしまい、おまけにラテン語をまたしても落としてしまったことが重なり、第三等の成績となった。

 

メルボルン大学は1870年代半ばにはH・B・ヒギンズ(弁護士・政治家)、アイザック・アイザックス(裁判官・のちオーストラリア総督)、アルフレッド・ディーキン、サミュエル・アレクサンダー (哲学者)ら著名人を輩出していたが、ジョンが入学した時期、大学は転機を迎えていた。1880年代半ばには学生数500人を超え、うち三分の一は医学生であった。入学年齢は15-16歳だったが、経済的に裕福でない適齢の学生については、パートタイムで学ぶ道もあった。大学教員たちの委員会で改革が行われ、功利主義の立場から古典に加えて専門的・技術的教育が重要視されるようになった。科学関連の教育の本格的充実は1880年代後半まで待たなければならなかったが、1882年の段階では物理学、化学、工学、英語、ドイツ語、フランス語の講座が設けられた。1880年には女性の入学が認められ、1882年にはウィルソン・ホールが完成するなどの画期的出来事もあった。しかし大学評議会、卒業生、教員の各間における派閥問題も生じており、新聞上で書きたてられるなどして大学の評判を損ねている面もあった。

 

大学における闘争は学生間にも影響を与えた。ジョンは大学学生会の設立委員に選ばれ、1883年8月14日の教養課程学生たちによる懇談会では設立の動議の承認を行った。学生会は1884年6月2日、アテナイオンホールにおいて暫定的に発足し、約150人が集まった。オクスフォード・ユニオンをモデルとした組織で、ディベートや演説の研鑽、学生たちに集会の場を提供することを狙いとしたが、9月には掲示板や読書室、浴場、軽食提供、チェス対局場を備えたクラブハウスも設置され、社交場としての役割を果たした。ジョンは1884-85年にかけて学生会誌『メルボルン大学レビュー』委員としても編集や寄稿を行った。これは『ケンブリッジレビュー』をモデルとしており、1884年7月26日に第1号が出た後、年内に4号まで刊行した。その一方で、医学生たちは1879年から既に独自の学生会を設立しており、『レビュー』よりも数日早く『スペキュラム』という学生会誌も創刊していた。ジョンは医学生たちとも交流の機会を得ていたが、『レビュー』第2号で『スペキュラム』を批判する論評が掲載されると両学生会間で不和が生じ(実際は違ったのだが、医学生たちは論評を書いたのはジョンであると考え、ジョンを大学の池に放り込もうという陰謀まで企てられたという)、ジョンはその仲裁に苦労した。学生会の活動では同じスコッチ・カレッジ出身のジム・ルイスの他、C・J・ジチー=ウォイナースキ(のち裁判官)、J・B・オハラ(のち詩人・学校教員)、ジョン・マッケイ(のち法律家・政治家)らと親交を結んだ。友人たちとは講義ノートの貸し借りをすることもあり、これは何かと課外活動が多いジョンにとって非常にありがたいことであった。

 

1870年代以降ヴィクトリア植民地は英露関係の悪化、アジア系移民に対する脅威などによる防衛意識の高まりを背景として、防衛政策を強化していた。砲兵や工兵の充実が図られ、砲艦「サーベラス」が新たに就役するなど海軍は強化され、ポートフィリップ埠頭も要塞化された。1883-84年にかけては植民地政府に防衛省が設置され、初代防衛相にはF・T・サーグッドが就任、防衛相が管轄する防衛委員会も設置された。1883年軍紀法に基づいて市民軍は再編され、T・R・ディズニー大佐が指揮官となり、約200人の常備軍、約4000人の市民軍を組織するに至った。またイギリス軍在籍将校たちは、市民軍の指揮官的役割を担っていた。

 

市民軍のヴィクトリアンライフルズは4個大隊が編成されており、うち第4大隊D中隊はメルボルン大学で編成された。ジョンは1884年7月8日、兵卒としてここに入隊する。34年後には西部戦線でオーストラリア軍団を率いることになるジョンであるが、これが事実上の軍歴としての第一歩となった。ジョンの入隊の具体的動機は明らかではなく、従軍記者アーチボルド・フォーブズの講演を聞いたからとも、歴史関連の本を読んでいたことからとも言われるが、友人のジョージ・ファーロウらが入隊したことに促されてという見解もある。ともあれジョンは熱意をもって入隊したことを、いとこのレオに宛てた手紙の中で語った。ニュージーランド戦争を経験したというサリヴァン軍曹が上官となり、身長約175センチながら細身であったジョンを教練した。最初の射撃訓練においては、興奮のあまり卒倒した同僚が出たという。ジョンは伍長試験を特筆すべき成績で合格し、10月14日に任官した。

 

ジョンは1884年10月に親友のウィル・スティールに宛てた手紙の中で、家庭教師や学生会誌の編集作業、市民軍など課外活動が非常に充実していることを機嫌よく語っていた。大学3年目の試験は詰め込み学習の感が否めなかったものの、高等数学と自然哲学、フランス語、ドイツ語、実用化学は合格した。優等試験では第二等下位に位置づけられ前年より良化し、エンジニアにとって欠くことのできない測量に関する科目にも合格していた。第一等になれなかったことについてはルイスやジチー=ウォイナースキ、オハラらに慰めてもらった。オハラにはオーモンド・カレッジの奨学金試験にも挑戦することを勧められため、ジョンは翌1885年2-3月にこれを受験し、学寮長からは文学・言語を専攻することも期待された。しかしこの頃ジョンは、自身は本質的には数学学徒であると認識していたため、オーモンド・カレッジに進むことはなかった。

 

1885年度になると学生会の加入者は増え、ジョンは隔週でディベートや集会、コンサートの手配をするなど多忙になった。各種講演を企画して、『アーガス』に紹介記事を掲載させたこともあった。『レビュー』においては「図書館にドイツ語やフランス語の本が不足している」「ウィルソン・ホールの鳥たちが受験者の妨げになっている」「奨学金が不充分だ」「数学の講師に不満がある」といった学生たちの申し立てを取り上げた。『レビュー』はこの頃にはルイスやジチー=ウォイナースキが編集者となっていたが、ジョンも過去に書いた文章を寄稿するなどした。しかし500人を期待した購読者は250人しか得られないなど必ずしも学生たちの後援は受けず、広告者も集まらなかった。12か月間の印刷費のうち3分の1しか支払えないなど印刷業者とのトラブルも発生し、結局1886年初頭に一時休刊となってしまった。それでも植民地政府に入閣していたアルフレッド・ディーキンからは『レビュー』の出来について褒めてもらえたことは、ジョンにとって喜びであった。

 

大学中隊においては1885年1月に赤色の歩兵制服を受け取り、ジョンは非常に嬉しがった。同僚の中にはジョンの事をポタシュ伍長Corporal Potashというあだ名で呼ぶ者もいた。2月にチャールズ・ゴードン将軍がハルツームで戦死したニュースが伝わるとオーストラリアの人々は復讐をすべきだと熱狂したが、これに対してジョンは慎重な態度を取っており、ヴィクトリア植民地が提案した派兵も結局却下されてしまった(ニューサウスウェールズは派兵を認められ、1885年3月3日に遠征隊が出発している)。2月には模擬戦闘を、4月にはフランクストンで初めての宿営を経験した。ジョンは教練に関して面白みや有益さを感じる一方で、その質的内容については稚拙な印象を抱いたという(ただし射撃に関しては、この頃はジョンも上手くなかった)。7月に軍曹の試験を受けて中隊の中では初めての合格者となった。洞察力のある下士官という評判を得て手旗信号をマスターしたが、同時に単調さも感じた。9月4日には軍旗軍曹となり、パレードの際は点呼や上官への報告を担当することになった(※当時の写真)。しかし市民軍の質的な評価が芳しくなかったこともあり、最終的には大学中隊は1886年7月23日に解隊されてしまった。ジョンはその前の6月30日付けで勤務を終えており、最初の軍隊経験はごく短期間なものとなった。

 

16歳ごろからジョンは徒歩旅行を楽しむようになっており、1884年3月にはダンデノングまで2日間の徒歩旅行をした。1885年の夏には女性たち7人とピクニックに出かけたほか、妹のマットとその友人女性と3日間宿泊をした。ある時にはボックス・ヒル駅からマウント・ダンデノングまでの道のりを往復(45マイル)する旅行をした。1884と1885年の夏はカールトンに住むジム・ルイスと親交を深める時期にもなり、互いを訪問し合うようにもなった。1885年度は読書の機会が減った分、チェスとピアノに熱中した。大学チェスクラブの設立を主導して教養課程学生の代表選手となり、ピアノに多くの練習時間を割き、6月までは日曜の朝、ウィーンから戻っていた従兄のアルベルトと一緒に練習した。友人のジム・ルイスからは、演奏の力強さが非凡であることを評価されている。7月以降は学生会や医学学生協会などの社交場でピアノを披露するようになり、ショパンの「ポロネーズ」やスッペの「詩人と農夫」を演奏した。メルボルンの合唱団やヴァイオリニストのジョン(ヨハン)・クルーズ (この頃は歌手のミセス・アームストロング(※のちネリー・メルバ)の支援を受けていた) のコンサートにもしばしば出かけた。

 

親友の一人ジョージ・ファーロウの証言では、ジョンは女性たちの関心を集めるような話をしたり、エスコートをするのが誰よりも上手だったという。またジム・ルイスの妹ケイト・ルイスは、ジョンはからかい好きであると同時に機知に富んで頼れる人でもあったと証言している。ただし20歳になるまでは、女性と緊密な関係を持つことはなかった(1884年8月よりマットの友人クララ・ストックフェルドという女性と懇意になったことがあったが、手紙では友人としての言及のみに留まっている。ただし手紙類は他の女性たちとは分けてファイリングしていた)。しかし1885年初頭より日記には、友人たちと過ごす折での女性についての言及が増えた。ジョンはトランプ手品の技術を磨き、ピアノと共に社交場で人々を楽しませるための手段とした。

 

しかしながらジョンの大学4年目は、学生会活動や社交活動において労苦があったことに加え、1885年2月より母ベルタの健康状態が悪化したことが重なり、一学期、二学期ともにほとんど講義に出ず、学問には次第に手がつかなくなった。市民軍での昇進など成功体験もあったのだが、その年の半ばにより日記で人の無情さに言及するなど情緒不安定になった。三学期には講義に出るようにはなったが、気持ちが完全に落ち着くことはなかった。また家計も苦しくなっており、懸命に行った家庭教師では年間50ポンドの収入を得ていたが、自身の時計を質屋に入れなければならなかった。さらに学費を払えないことから、翌1886年2月以降は学業を一時中断する決断を迫られており、家計改善のためには学業はパートタイムで行った上でフルタイムの仕事を見つけることも念頭に入れなければならなくなった。当初の計画―1885年に教養学士の要件を満たし、数学と英語で奨学金試験を受けた後、1886年に工学学位を満たす、コブデンクラブメダルやシェイクスピア奨学金も狙いに行く―は破たんしてしまった。

 

参考文献

Australian Dictionary of Biography

Samuel Alexander/ Henry Martyn Andrew/ Alfred Dampier/ Thomas Robert Disney/William Charles Kernot/ John Augustus Bernard Koch/ Johann Secundus Kruse/Henry Bournes Higgins/Sir Isaac Alfred Isaacs/Sir John Emanuel Mackey/Edward John Nanson/George Richard Rignall/Sir Frederick Thomas Sargoodを参照しました。

 

オーストラリア辞典

オーストラリア出生者協会、オーストラリアン・ネイティヴズ・アソシエーションスーダン遠征ヒギンズ、ヘンリー・バーンズを参照しました。

 

三脚檣

「地獄の番犬ケルベロス」を参照しました。

 

Jeffrey Grey, A Military History of Australia, 3rd edition, Melbourne, Cambridge University Press, 2008[first published 1990]. ※通史(軍事史)

Peter Andreas Pedersen, ‘The Development of Sir John Monash as a Military Commander’, Ph.D Thesis, 1982. ※ジョン・モナシュの軍事指揮官としての能力を検証した博論

Geoffrey Serle, From Deserts the Prophets Come: The Creative Spirit in Australia 1788-1972, New edition, Clayton, Monash University Publishing, 2014 [first published 1973].※伝記著者による文化史研究

Geoffrey Serle, John Monash: A Biography, Carlton, Melbourne University Press, 1982. ※主要典拠

 藤川隆男『オーストラリア歴史の旅』朝日選書、1990年。※172-178頁、スーダン派兵について

ジョン・モナシュの生涯(仮題) ①少年時代

ジョン・モナシュは1865年6月27日、ウエスメルボルンに生まれた。彼の両親、ルイスとベルタはプロイセン王国からヴィクトリア植民地への移民で、ともにユダヤ系であった(※両親の写真)。ルイスはイースメルボルンシナゴーグに出生届を出すと同時に植民地政府にも届け出を出したが、何故か6月23日生まれと誤って登録されてしまった。ジョンは夫妻にとって最初の子どもであり、唯一の男子となった。

 

ジョンの父の家系は何代かに渡り、プロイセン王国ポーゼン州のブレスラウから約40マイル離れた町であるクロトシンに居住していた。中世後期よりクロトシンにはユダヤ系コミュニティが存在していた。17世紀の大洪水時代中の戦乱や、1774年および1827年の大火で大きな被害を受けたが、コミュニティは何とか存続することが出来た。クロトシンがプロイセン王国領となったのは1793年のポーランド分割からで、以後町はドイツ化が進んでいくが、この地方におけるユダヤ系の学術・文化的中心地としての役割は継続していた。1850年の段階では、人口約7500人中、3分の1ほどがユダヤ系で占められていたという。

 

ジョンの祖父にあたるベア=ローベル・モナシュ(1801-76)は学問に熱心な人物で、クロトシンで出版印刷業者をしていた。父のローベル・ヘルツ(1770-1831)がタルムードの教師をしており、息子(13人の子どもを設けたが、その多くは夭逝してしまっていた)もラビにさせるつもりだったが、ベア=ローベルはそれに反し、出版・印刷の技術を身に着けてその職へと進んだ。22歳の時、代々クロトシンでラビや官吏を務めていたズートフェルト家出身の女性マティルデ・ヴィーナー(1804-1864。シオニストのマックス・ノルダウは彼女の従甥にあたる)と結婚した。ベア=ローベルとマティルデとの間には(年少で亡くなった子どもも含め)13人の子どもが出来た(※家族のアルバム )。

 

1830年代初めより、ベア=ローベルは出版・印刷事業を軌道に乗せた。旧約聖書、タルムード、トーラーなどユダヤの宗教・歴史に関する書物を、ヘブライ語・ドイツ語・イディッシュ語で出版した。1845年にはクロトシンのシナゴーグ再建を主導する役割を果たしており、事業は一時36人の従業員を抱えるまでになった。しかしその後収入は徐々に不安定になり、1847年には負債を抱え、副業として宿屋を始める必要も生じた。1848年革命や1852年のコレラ禍における混乱にも悩まされ、その際はブレスラウで書籍商をしていた従弟のモリッツ・モナシュに援助してもらった。ベア=ローベルの次女マリー(1826-1900?)はユダヤ学者として著名になるハインリヒ・グレーツ(1817-1891)と結婚しているが、彼女を含む5人の娘たちが結婚する際の持参金を工面するのにも苦労してしまった。

 

ジョンの父であるルイス・モナシュは1831年4月5日、ベア=ローベルの次男として生まれた。当初はシュレージェンのグローガウにある学校で学んだが、学費負担が大きかったことから地元の学校で学んだ。成人後ルイスはベルリンの交易所で事務員の職を得たが、家計が傾いている一家を助けるために、ゴールドラッシュが起こっていたオーストラリアのヴィクトリア植民地(※1851年、ニューサウスウェールズ植民地より分離)へ渡ることに決めた。1853年、ハンブルクでバーク船「ヨハン・ツェーザー」号にキャビン客(※当時、船の乗客は一等・二等船客(キャビン客)と三等船客(スティアレジ客)に区分されていた。キャビン客は自分たちのことを乗客passengerと呼び、移民emigrantという語を使うことはほとんどなかった。植民地に到着すると乗客名簿が新聞に掲載されるのはキャビン客のみであり、それはリスペクタビリティの一つであった)として乗船し、1854年1月にメルボルンに到着した。ベルリンの交易所は、ルイスに2000マルク相当の商品を信用貸しすることを認めていた。ゴールドラッシュから2年が経過していた時期、植民地には商品の過剰供給が生じていたが、ルイスは同じくドイツ出身のルイス・マルティンと連携することにし、金鉱地にはいかずにメルボルンに留まった。当初ルイスは数年後には故郷に戻るつもりであったが、1856年4月25日には姓のスペルをMonaschからMonashに改める手続きを取っており、この時点でイギリス帝国に帰化する意志を示していた。

 

マルティンとルイスは仲介業を兼ねた商人として、1854-58年はフリンダーズレーンに、ついでリトルコリンズ通りに店舗を置いた。ルイスは1862年初頭まではエミール・トッドという彫刻家と一緒に住んでいたが、のちセントキルダに居を構えた。1858年よりルイスはドイツ系協会の役員となっており、彼の事務所はドイツ系移民たちにとっての情報センターの役割を果たした。商売は軌道に乗り、1861年にルイスは16歳の弟マックス(1845-1920)に手助けを要請すると同時に旅費を送った。マックスはルイスの甥にあたるアルベルト・ベーレント (1845-1917。ルイスの姉ジュリー(1824-1891)の息子)とともに同年12月に到着した。ルイスの店舗では、「ファンシーグッズやおもちゃ(ニュルンベルクおよびフランクフルトで製造)、櫛、ブラシ、紙と封筒、ボヘミアガラス製品、食卓食器、楽器類、ベルリン刺繍、喫煙パイプ、嗅ぎタバコ入れ、トランプ、ビーズ類」といった商品を取り扱った。

 

ルイスは1863年、家族との再会や花嫁探しを兼ねて、商品買い付けのためプロイセンに戻った。この時期父のベア=ローベルは息子たちの負債まで背負うことを余儀なくされており、これはルイスにとってショックだったが、それでも父を支えていくことを誓った。ベア=ローベルは1864年に妻を亡くしたのみならず、家を売ることになってしまった。しかし出版印刷業は娘夫婦が引き継いで行い、ベア=ローベルが亡くなる1876年までには何とか負債を無くすことが出来た。彼の子どもたちのうちポーゼン州に留まったのは2人だけで、ルイスを含めた4人はオーストラリアへ、2人はアメリカへ旅立った。他の親族の中にもオーストラリアやアメリカ、西欧に移住した者は多く、クロトシンのユダヤ系コミュニティ事体は、19世紀後半には衰退傾向にあった。

 

ルイスはプロイセンに戻って間もなくしてベルタ・マナセという21歳のユダヤ系女性と出会った。ベルタはルイスの弟ユリウス(1835-1887)の妻の妹にあたり、ポンメルン地方の町ドラムブルクの商人の家庭出身であった。ルイスはベルタのピアノの腕前と容姿、魅力的な眼差しに夢中になり、彼女を「黒い目のクサンティッペ」と形容した。二人は恋愛関係となったが、当初マナセ家の人々は、「妙なオーストラリア人」Odd Australianがベルタを世界の果て(=対蹠地Antipodes)に連れ去ろうとしていると言って必ずしもルイスを歓迎しなかった。またマナセ家はゲットーからは離れた、シナゴーグがなくユダヤ系も少ない地域に居住していたため、モナシュ家に比べると文化慣習的にドイツ化が進んでいたという相違点もあった。とは言えそういった諸問題は、二人の恋愛を断念させるものには成りえなかった。手紙をやり取りするのも禁止されたこともあったが、最終的には結婚することは了承された。

 

1863年11月15日、シュテティーンで二人は民事・ユダヤ式両方の結婚式を挙げ、パリとロンドンで新婚旅行を楽しんだ後、1864年2月11日、リヴァプールより「エンパイア・オブ・ピース」号に乗ってメルボルンに向けて出発した。ベルタは家族には5年以内には一度戻ると約束したが、結局戻ることはなかった。航海は124日に及んだが、必ずしも快適な旅にはならなかったという。船には夫妻の他にキャビン客8人、スティアレジ客259人が乗船していた。ベルタは船旅を「収監された」ように感じたようだが、その間に英語の学習に努めることは出来た。メルボルン港に到着した際は、マックスとアルベルトが夫妻を出迎えた。夫妻はセントキルダに住むことになり、当初は懸念されたもののベルタは地元のユダヤ系の人びととも打ち解け始めた。しかしビジネスパートナーのマルティン脳卒中に倒れ、療養のためヨーロッパに戻ることになったので、商売の方は一時中断してしまった。その後夫妻はウエスメルボルンのダドリー通り、リッチヒルテラスに引っ越すことになり、ジョンが誕生したのはこの地となった。

 

姓のスペルを改めていたことからも分かるように、ルイスとベルタの夫妻はオーストラリアに移住する意志を固めており、その点では弟のマックスや甥のアルベルトと相違が見られた。ルイスは弟のユリウス、末妹のウルリケ(1840頃?-1928)にも移住を呼びかけた結果、二人とも1865年末にメルボルンに到着した。そのためベルタは母親としての仕事に関して、ウルリケから手助けを得ることが出来た。ウルリケはベルリン出身でリヴェリナにある町デニリイクウィンで商売をしていたマックス・ロスと結婚するまでの3年間、夫妻と同居することになる。アルベルトの妹ヒルダも夫のモリッツ・ブラントを伴ってやってきた。幼児期のジョンはこういった親族たちの中で、新天地における新たな世代の子どもとして、大切に養育されることになった。ユリウス夫妻がオーストラリアに居住したのは7年間に留まり、マックス・モナシュも1879年に帰郷してしまった。アルベルトは二度ヨーロッパに戻ったことがあったが、結局オーストラリアで家族を養うことにした。モリッツ・ブラントは公立学校教員やバララトのヘブライ系学校の校長を短期間務めたが1889年に亡くなり、ヒルダの家族はその際ヨーロッパに戻ってしまった。ジョンは父親の家系だけで実に35人ものいとこを、三大陸にまたがって有していた。

 

幼児期のジョンの逸話はいくつか伝わっており、後年のエンジニアとしての業績を踏まえると、「三つ子の魂百まで」と感じさせるようなものもある(※2歳の頃の写真)。叔母にあたるウルリケ(タンテ・ウルリケと呼称されている)は、ジョンは2歳の頃には機関車の絵を描くことがあったと証言している。またベルタのメイドを務めたエマ・アーノットという女性は、ウエスメルボルンの操車場の列車を見るためにジョンを乳母車に乗せて連れて行ったと証言した。一家はリッチヒルテラスに3年間住んだ後、1868年にイースメルボルンのヴィクトリアパレート、1869年にリッチモンドのチャーチ通り、1871年リッチモンドのクリフトン通り(この時は住居を示唆的にも「ジャーマニアコテージ」と命名した)と引っ越しを繰り返した。その間、1869年10月18日には長女マティルド(マット)・モナシュがチャーチ通りの住居で誕生している。自身も優れたピアニストだったベルタは1870年よりジョンにピアノを教え始め、男声合唱(Liedertafel)コンサートに連れて行ったこともあった。妹マットが後年に回顧した話によれば、1871年の父の誕生日の際、6歳前のジョンは父のためにサプライズでピアノ曲を演奏してみせたという。1873年8月5日には、次女ルイーズ(ルー)が「ジャーマニアコテージ」において誕生した。

 

ルイスとベルタは英語をよくし、ベルタは子どもたちに対しても英語で読み聞かせを行った。しかしジョンはドイツ語にも堪能になり、バイリンガルとなった。ジョンは大学入学頃までは、英語に僅かなドイツ語なまりがあることを気にしていたという。就学して英語力が上達してからも、両親はドイツ語力も維持するべきだと薦めていた。ただしジョンは、イディッシュ語は解さなかった(なおルイスはイディッシュ語で父とやり取りすることがあった。一方ベルタはイディッシュ語を解さなかった)。

 

ジョンは6歳の時からリッチモンドにある聖スティーブンズ教会小学校に通った。同級生でのち仲裁裁判所首席裁判官になるジョージ・デスリッジは、ジョンはよく絵を描いて他の児童を喜ばせていたと証言しており、国語や図画を得意としていた。ジョンは2年次の時、初めて優等を取る。3年間通ったのち学校を離れる際、学校長のジョンに対する評価は「非常に聡明で将来の学歴有望、勤勉さは彼の代表的性格、品行は素晴らしい」というものだった。

 

1870年より父ルイスの商売は傾き出しており、負債も抱えるようになって使用人を常時雇うことも難しくなっていた。1875年、ジョンが9歳の時、一家はニューサウスウェールズのリヴェリナにある町ジェリルデリーに移ることになった。マックスとユリウスがナランデラやワンガネラの町に店を開いて生計を立てていたので、ルイスもこれにならってジェリルデリーに店を開いた。当時のジェリルデリーには約250人の入植者が居住していたが、当地域の交通の岐路に位置しており発展が期待されていた。一家は唯一のユダヤ系ドイツ移民であったので、程なくして町では有名人となった。しかし町の発展は想定したよりも進まず、商売としてはあまり成功しなかった。

 

ジョンは現地に新しく出来た公立小学校に通うことになったが、その学校長のウィリアム・エリオットはジョンの資質に着目し、課外授業として高等数学をジョンに教えることにした。小学校には牧畜労働者や鉱山労働者、職人、公務員など様々な家庭の子どもたちが通っており、ジョンは彼らと交流したが、中には「ラリキン」な子どもたちもいたという。余暇は折句や算数パズルをして楽しむことが多かったが、同時に近隣の駅や農地、ブッシュ(ワラビーやカンガルー、オウムCockatooも多く生息していた)を馬車に乗って散策したり、母と一緒に乗馬をしたりした。町の内外にいた先住民たちについては後年の証言では「哀れな」人々と表現しているが、彼らの一人からワディ(※先住民が用いる棍棒)を貰うなど、交流の機会もあった。ジョンは妹のマティルド(マット)と一緒に内職で商品用のおもちゃの服セットを作ったりする一方で、10歳になってからはマットに対し読み書きの勉強(フランス語まで扱い始めた)を教えたりもした。

 

ベルタはジェリルデリーでの教育環境に不安を感じたようで、1876年初頭に子どもたち3人を連れてメルボルンに戻った。ジョンは1876年2月よりサウスヤラ・カレッジに通ったものの、母子は事情によりすぐに再びジェリルデリーに戻ってしまう。しかし学校長のエリオットは、ジョンがより良い教育が受けられるためにも、メルボルンの学校に通わせるよう両親に勧めた。「ブッシュの学校」はマティルドには合わないだろうという懸念もあったため、ベルタはこれに同意した。エリオットは後年、地方新聞の主催者などを務めたが、自身の教え子が偉人として成功をおさめたことを生涯の誇りとしたという(エリオットや母ベルタの教育への熱意がなければ、ジョン・モナシュの生涯における成功も保証されることはなかったのではないか、という主張もある)。なお1879年2月にネッド・ケリーがジェリルデリーを襲撃した際、ジョンはケリーと出会い、ブッシュレンジャーとしてのレクチャーを受けたという伝説があるが、この時にはジョンは既にジェリルデリーを離れているため、これは信ぴょう性の無い話となっている。1877年、ベルタは子ども3人と一緒に再びメルボルンに戻った。ルイスだけがジェリルデリーに残り、のちナランデラに移った。一家はその後1883年までは別居生活となった(商売が好転したルイスがメルボルンに戻ってからは、ホーソーンに居を構えている)。

 

1877年10月9日、ジョンはイースメルボルンの著名な長老派教会学校であるスコッチ・カレッジに入学した。スコッチ・カレッジは当時のオーストラリアの教会学校としては最大規模のもので生徒は300-350人、ユダヤ系生徒も約30人所属しており、ヘブライ語旧約聖書の授業も開講されていた。ジョンはアバディーン大学出身の古典学者アレクサンダー・モリソン博士の下で学ぶことになった。モリソンの指導は規律やジェントルマンとしての資質を重要視するもので、時にはむち打ちなど体罰を伴うこともあった。ジョンはモリソン博士から地理や歴史を、博士の弟で副学長のロバート・モリソンから数学と自然科学を、フランク・ショーから国語と古典を学び、正統派ユダヤ教徒のモーゼズ・モーゼズからは大学進学に関する指導を受けることになった。エルギン・アカデミーを模範として設立されたスコッチ・カレッジは、伝統的パブリックスクールと同様に古典や数学を重視しつつも、化学実験など実学的な教授方法も導入している点において当時は画期的で、これはジョンの興味関心にも合致したものになった。スノバリの性格や階級・財産・民族出自に必ずしもとらわれておらず、強いスコットランド気質な校風もまたプラスに働いた。

 

ジョンはジェリルデリーの父に定期的に手紙(この頃はドイツ語で書いていた)を出す一方、1878年の夏休みにはロス夫妻や叔父のマックスと交流し、ボタニック・ガーデンズやロイヤルパークでピクニックを楽しみ、サーカスやタウンホールでのコンサート、海岸にも出かけた。この頃、ベルタは子どもたちの読書指導にも熱心だった。ジョンのお気に入りは『アラビアンナイト』、『世界の驚異』、『チェンバーズ文集』、ジュール・ヴェルヌアレクサンドル・デュマなどで、ジョン・リーチによる『パンチ』カリカチュアもとても気に入った。以後ディケンズ、スコット、ブルワー=リットン、ジョージ・エリオットサッカリーの作品、その他独仏文学も読み進めていった。図画も継続して愛好しており、記念本にはこの頃に描いた花の絵などが残されている。

 

1880年頃のメルボルンには約3000人のユダヤ系の人びとが住んでおり、その約半数はイギリスからで、ドイツからの割合がそれに次いで多かった。その約10年後にはロシアにおけるポグロムの影響もありユダヤ系の人々は倍近くとなり、その中にはイディッシュ語話者も多く含まれていた。ユダヤ系の人々の多くは商人の仕事に就いたが、独自の本格的コミュニティを築くには人数が少なく、出自がバラバラに過ぎた。バーク通り、イースメルボルン、セントキルダの3か所にユダヤ教の集会場所が出来たが、ユダヤ系ドイツ移民の間では正統派教義は廃れて自由な傾向に向かい、安息日や食事規定の遵守、ヘブライ語教育は低調となっていた。ただし、宗教意識は薄れていても、その他の文化やエスニック的要素においては、ユダヤ系の出自を意識する人は多かった。

 

ルイスもベルタも基本的に正統派ユダヤ教の教義を捨てて礼拝等はしなくなっていたが、子どもたちをシナゴーグに連れていくことがしばしばあった。ジョンはイースメルボルンシナゴーグに行って聖歌を歌うことがあり、ルイス・パルヴァーという音楽家の下の合唱団にも入った(※ジョンより4歳年長のネリー・メルバプレスビテリアン女学校に通っており、この時期からジョンは彼女を認知していた可能性はあるという)。パルヴァーはベルタと演奏会を行うなどモナシュ家と親交があり、ジョンは成人後も彼に敬意を抱いていた。またラビのイザドア・マイヤーズ師は兼ねてからジョンのためのバルミツヴァーを準備しており、1878年の13歳の誕生日の数日後、イースメルボルンシナゴーグで祝われることになった。父ルイスは参加することが出来なかった(ユダヤ教の慣習としては異例であった)が、ジョンの従兄のアルベルト・ベーレント、叔父のマックス・モナシュとモリッツ・ブラントらは参加し、母ベルタや妹たちは儀式を見守った。両親や親族からは顕微鏡、シェイクスピアの本、伯父ハインリヒ・グレーツのユダヤ史の著書(フランス語版、サイン入り)、金時計(叔父マックスより)、金の飾りボタン(叔母ウルリケより)、化学実験セット(アルベルトより)、ハイドンソナタ集、切手アルバム、ナイフといったプレゼントが贈られ、ジョンは非常に喜んだ。

 

ジェリルデリーの父ルイスとは手紙でのやり取りとなった。ルイスはジョンの教育に気をかける一方で、高圧的でそっけない傾向があり、ジョンは父を冷淡な人物と感じることが多かった。父と別居していた12歳から17歳までの間、ジョンはベルタと妹たちと一緒に暮らした。母ベルタはジョンの事をJonnychenと呼び、プロイセン式の影響を受けつつ、ジョンを大人物にするためにと教育に力を注いだ。また使用人を常時雇えなかった事情もあって、家事には非常に熱心であった。ベルタは社交力にも長けた女性で、リッチモンド周辺のユダヤ系コミュニティよりもむしろドイツ系の人びとの方が友人は多かった(ただしメルボルンのドイツ系コミュニティの人数は約2500人に留まった)。交友関係はドイツ系に留まらず、当時若手政治家だったアルフレッド・ディーキンやその姉キャサリン・ディーキンとも懇意になった。15歳のジョンは数学の面で、女学校で教職についていたキャサリンの手助けをしたこともあったという。キャサリンもベルタも卓越したピアニストであり、ベルタは特にショパンを好んだ。心霊研究者リチャード・ホジソン (※ディーキンは降霊術の信奉者としても知られていた)の家族とも交流を持った。

 

スコッチ・カレッジにおける1878年のジョンの成績は数学で1番、その他の教科の学習も順調であった。この頃のジョンのノートには、演算やラテン語翻訳の練習、エッセイ(休日の過ごし方、ネルソンとウェリントンについてのもの)などに加えて、大学に進学することへの意志も書かれていた。1879年からは大学進学のためのクラスに編入され、6月からは日記をつけ始めたジョンは、その中で放課後や休日の過ごし方について詳細な計画を記している。同年の大学入学資格試験(Matriculation)を受験したジョンは、9科目(算術・代数・ユークリッド・英語・ラテン語・フランス語・ドイツ語・歴史・地理)で合格し、弱冠14歳で見事入学資格を獲得した。9科目を合格した受験者は5人だけで、うち3人はスコッチ・カレッジの生徒であった。この年の学校成績は、ドイツ語で1番、数学で4番、フランス語で7番、オーストラリアの探検家に関する小論文で賞を受賞するなどした。年末はメルボルン大学の学年暦を見ながら、学士課程がどのような内容になっているのか思いをはせていたという。

 

1880年度(post-matriculationとしての年次)の学校成績は、総合で6番、数学と論理学で2番、フランス語で5番、ラテン語で6番だった。この年度の首席は、ジョンより7か月の年長でのち政治家・市民軍将官として著名になるジェイムズ・ホワイトサイド・マッケイ (1864-1930)で、学外試験で古典学と数学の奨学金を獲得した上でメルボルン大学オーモンド・カレッジに入学を果たしている。マッケイとジョンは以後長きにわたり公私ともに関係性が続き、よき友人にしてライバルとなった。この年の3月には、ジョンは父ルイス宛の手紙の中でレッシングの作品をドイツ語で、フェヌロンの『テレマック』をフランス語で、エウリピデスプラトンギリシア語で読み、マコーリーの論考のドイツ語訳に挑戦したと報告しており、非常に勉強熱心であった。

 

ジョンの友人ジョージ・ファーロウは、スコッチ・カレッジでの彼は勉強好きで物静かな生徒で、喧嘩が起こった際はそれを口論で退けていたと証言している(幸い、スコッチ・カレッジではいじめ行為は頻繁ではなく、ユダヤ系の出自であることも大きな問題にはならなかった)。ジョンは球技や反射神経が求められる運動には親しまなかったが、年度によってはヨット競技を経験したことがあった。13歳になってからはアーサー・ハイドという生徒とも親友となった。ハイドは文学知識が非凡な生徒で、ジョンは一緒に文芸雑誌を作ることを夢見たり、1880年にジョンがおたふく風邪に倒れた時は連日お見舞いに来てもらうなどした。

 

ジョンが13歳の時の最初の作文は、教会堂で開かれたコンサートについての批評文だった。出版物を通して最初に発表したのは16歳の時で、『タウントーク』という週刊紙に掲載された、全て頭文字”f”で始まる50語以上の文章だった。その他リッチモンドの地方紙に投稿するなどしたが、学校雑誌『青年ヴィクトリア』には投稿していなかった。ジョンの関心は決してハイカルチャーの文学に限ったものではなく、13-14歳の頃は三文小説のジャック・ハーカウェイ冒険シリーズを気に入って読んでおり、学校をずる休みしてまで書店に読みに行ったことがあったという。切手コレクションは16歳頃まで続け、大工仕事の初歩を練習することもあった。後年の妹マットの回顧によれば、ジョンは勉学を教えるのが上手い「生まれながらの先生」気質があったのみならず、花火、ジェスチャーゲーム、活人画、寸劇などパーティの演目を考えるのが得意で、戯れ心にもあふれていたという。

 

既に大学入学資格を得て、15歳を過ぎていたジョンは、スコッチ・カレッジを終えるのは1880年度末になり、翌年からはメルボルン大学に通うことになるだろうと考えていた。学校のスピーチデイでは数学とミルトンに関する小論文で表彰を受け、12月は友人のハイドとともにラテン語ギリシア語の勉強に熱心であった。ところが翌1881年1月、モリソン博士から手紙が来て、奨学金を獲得するためにもう一年学校に留まるべきだと薦めた。父ルイスもジョンの大学入学は早すぎると不安を感じており、勉強の準備期間や奨学金が得られるのは望ましいことだと考えていたため、最終的にジョンは在学して奨学金に挑戦する意志を固めた。そのためにジョンは月曜から土曜まで、午前7時から深夜まで猛勉強する時間割(達成できなかったものと思われるが)まで立てた。進学コースの授業は大学初年度レベルに引き上げられた。この年の学校の懸賞小論文のテーマの一つには、『マクベス』が選ばれていた。ジョンはこれについても何週間もかけて取り組み、精緻な小論文を作成して優勝した。しかしこれは今日から見れば剽窃行為を含んだ論考でもあった(1873年アメリカで出版された『マクベス』の注釈部分の内容や表現を、そのまま拝借している箇所があった)。

 

1881年度の学校成績は論理学、ドイツ語、フランス語、数学で1位、ジェイムズ・S・トムソンという生徒と同点首席の成績となり、二人でアーガス奨学金を分け合った。学外試験では数学・独語・仏語は第一等となり、数学に関しては目標であった奨学金を獲得することが出来た。ジョンは奨学金でJ・A・フルードのイングランド史やギボンのローマ帝国衰亡史、ウォルター・スコットのウェイヴァリー小説を購入した。ジョンは翌1882年1月より、父とナランデラ(マックスの店舗をルイスが引き継いでいた)で3週間休暇を過ごした。母ベルタは1月末にジョンに宛てた手紙の中で、キャサリン・ディーキンやルイス・パルヴァーを始めいろいろな人が祝福してくれたことを興奮気味に伝え、息子の成功を心から喜んだ。

 

 

参考文献

Australian Dictionary of Biography

Sir James Whiteside McCay/Sir John Monash/Alexander Morrisonを参照しました。

 

オーストラリア辞典

ケリー、エドワード(ネッド)ジェリルデリー長老派教会、プレスビタリアン教会ディーキン、アルフレッドデニリイクウィンナランデラメルバ、ネリィ(ネリー、ネリ)メルボルン(メルバン、メルボーン) ラリキンズ、ラリキンヴィクトリアを参照しました。

 

Geoffrey Serle, John Monash: A Biography, Carlton, Melbourne University Press, 1982. 

※主要典拠

衣笠太朗『旧ドイツ領全史 「国民史」において分断されてきた「境界地域」を読み解く』パブリブ、2020年。 ※ポーゼン州の歴史的背景

藤川隆男「大洋を渡る女たち―19世紀オーストラリアへの移民」『近代ヨーロッパの探究1―移民』ミネルヴァ書房、1998年。 ※19世紀オーストラリア移民史

藤川隆男編『オーストラリアの歴史 多文化社会の歴史の可能性を探る』有斐閣、2004年。 ※通史

山本真鳥編『世界各国史27 オセアニア史』山川出版社、2000年。 ※通史