ジョン・モナシュの生涯(仮題) 少年時代

ジョン・モナシュは1865年6月27日、ウエスメルボルンに生まれた。彼の両親、ルイスとベルタはプロイセン王国からヴィクトリア植民地への移民で、ともにユダヤ系であった(※両親の写真)。ルイスはイースメルボルンシナゴーグに出生届を出すと同時に植民地政府にも届け出を出したが、何故か6月23日生まれと誤って登録されてしまった。ジョンは夫妻にとって最初の子どもであり、唯一の男子となった。

 

ジョンの父の家系は何代かに渡り、プロイセン王国ポーゼン州のブレスラウから約40マイル離れた町であるクロトシンに居住していた。中世後期よりクロトシンにはユダヤ系コミュニティが存在していた。17世紀の大洪水時代中の戦乱や、1774年および1827年の大火で大きな被害を受けたが、コミュニティは何とか存続することが出来た。クロトシンがプロイセン王国領となったのは1793年のポーランド分割からで、以後町はドイツ化が進んでいくが、この地方におけるユダヤ系の学術・文化的中心地としての役割は継続していた。1850年の段階では、人口約7500人中、3分の1ほどがユダヤ系で占められていたという。

 

ジョンの祖父にあたるベア=ローベル・モナシュ(1801-76)は学問に熱心な人物で、クロトシンで出版印刷業者をしていた。父のローベル・ヘルツ(1770-1831)がタルムードの教師をしており、息子(13人の子どもを設けたが、その多くは夭逝してしまっていた)もラビにさせるつもりだったが、ベア=ローベルはそれに反し、出版・印刷の技術を身に着けてその職へと進んだ。22歳の時、代々クロトシンでラビや官吏を務めていたズートフェルト家出身の女性マティルデ・ヴィーナー(1804-1864。シオニストのマックス・ノルダウは彼女の従甥にあたる)と結婚した。ベア=ローベルとマティルデとの間には(年少で亡くなった子どもも含め)13人の子どもが出来た(※家族のアルバム )。

 

1830年代初めより、ベア=ローベルは出版・印刷事業を軌道に乗せた。旧約聖書、タルムード、トーラーなどユダヤの宗教・歴史に関する書物を、ヘブライ語・ドイツ語・イディッシュ語で出版した。1845年にはクロトシンのシナゴーグ再建を主導する役割を果たしており、事業は一時36人の従業員を抱えるまでになった。しかしその後収入は徐々に不安定になり、1847年には負債を抱え、副業として宿屋を始める必要も生じた。1848年革命や1852年のコレラ禍における混乱にも悩まされ、その際はブレスラウで書籍商をしていた従弟のモリッツ・モナシュに援助してもらった。ベア=ローベルの次女マリー(1826-1900?)はユダヤ学者として著名になるハインリヒ・グレーツ(1817-1891)と結婚しているが、彼女を含む5人の娘たちが結婚する際の持参金を工面するのにも苦労してしまった。

 

ジョンの父であるルイス・モナシュは1831年4月5日、ベア=ローベルの次男として生まれた。当初はシュレージェンのグローガウにある学校で学んだが、学費負担が大きかったことから地元の学校で学んだ。成人後ルイスはベルリンの交易所で事務員の職を得たが、家計が傾いている一家を助けるために、ゴールドラッシュが起こっていたオーストラリアのヴィクトリア植民地(※1851年、ニューサウスウェールズ植民地より分離)へ渡ることに決めた。1853年、ハンブルクでバーク船「ヨハン・ツェーザー」号にキャビン客(※当時、船の乗客は一等・二等船客(キャビン客)と三等船客(スティアレジ客)に区分されていた。キャビン客は自分たちのことを乗客passengerと呼び、移民emigrantという語を使うことはほとんどなかった。植民地に到着すると乗客名簿が新聞に掲載されるのはキャビン客のみであり、それはリスペクタビリティの一つであった)として乗船し、1854年1月にメルボルンに到着した。ベルリンの交易所は、ルイスに2000マルク相当の商品を信用貸しすることを認めていた。ゴールドラッシュから2年が経過していた時期、植民地には商品の過剰供給が生じていたが、ルイスは同じくドイツ出身のルイス・マルティンと連携することにし、金鉱地にはいかずにメルボルンに留まった。当初ルイスは数年後には故郷に戻るつもりであったが、1856年4月25日には姓のスペルをMonaschからMonashに改める手続きを取っており、この時点でイギリス帝国に帰化する意志を示していた。

 

マルティンとルイスは仲介業を兼ねた商人として、1854-58年はフリンダーズレーンに、ついでリトルコリンズ通りに店舗を置いた。ルイスは1862年初頭まではエミール・トッドという彫刻家と一緒に住んでいたが、のちセントキルダに居を構えた。1858年よりルイスはドイツ系協会の役員となっており、彼の事務所はドイツ系移民たちにとっての情報センターの役割を果たした。商売は軌道に乗り、1861年にルイスは16歳の弟マックス(1845-1920)に手助けを要請すると同時に旅費を送った。マックスはルイスの甥にあたるアルベルト・ベーレント (1845-1917。ルイスの姉ジュリー(1824-1891)の息子)とともに同年12月に到着した。ルイスの店舗では、「ファンシーグッズやおもちゃ(ニュルンベルクおよびフランクフルトで製造)、櫛、ブラシ、紙と封筒、ボヘミアガラス製品、食卓食器、楽器類、ベルリン刺繍、喫煙パイプ、嗅ぎタバコ入れ、トランプ、ビーズ類」といった商品を取り扱った。

 

ルイスは1863年、家族との再会や花嫁探しを兼ねて、商品買い付けのためプロイセンに戻った。この時期父のベア=ローベルは息子たちの負債まで背負うことを余儀なくされており、これはルイスにとってショックだったが、それでも父を支えていくことを誓った。ベア=ローベルは1864年に妻を亡くしたのみならず、家を売ることになってしまった。しかし出版印刷業は娘夫婦が引き継いで行い、ベア=ローベルが亡くなる1876年までには何とか負債を無くすことが出来た。彼の子どもたちのうちポーゼン州に留まったのは2人だけで、ルイスを含めた4人はオーストラリアへ、2人はアメリカへ旅立った。他の親族の中にもオーストラリアやアメリカ、西欧に移住した者は多く、クロトシンのユダヤ系コミュニティ事体は、19世紀後半には衰退傾向にあった。

 

ルイスはプロイセンに戻って間もなくしてベルタ・マナセという21歳のユダヤ系女性と出会った。ベルタはルイスの弟ユリウス(1835-1887)の妻の妹にあたり、ポンメルン地方の町ドラムブルクの商人の家庭出身であった。ルイスはベルタのピアノの腕前と容姿、魅力的な眼差しに夢中になり、彼女を「黒い目のクサンティッペ」と形容した。二人は恋愛関係となったが、当初マナセ家の人々は、「妙なオーストラリア人」Odd Australianがベルタを世界の果て(=対蹠地Antipodes)に連れ去ろうとしていると言って必ずしもルイスを歓迎しなかった。またマナセ家はゲットーからは離れた、シナゴーグがなくユダヤ系も少ない地域に居住していたため、モナシュ家に比べると文化慣習的にドイツ化が進んでいたという相違点もあった。とは言えそういった諸問題は、二人の恋愛を断念させるものには成りえなかった。手紙をやり取りするのも禁止されたこともあったが、最終的には結婚することは了承された。

 

1863年11月15日、シュテティーンで二人は民事・ユダヤ式両方の結婚式を挙げ、パリとロンドンで新婚旅行を楽しんだ後、1864年2月11日、リヴァプールより「エンパイア・オブ・ピース」号に乗ってメルボルンに向けて出発した。ベルタは家族には5年以内には一度戻ると約束したが、結局戻ることはなかった。航海は124日に及んだが、必ずしも快適な旅にはならなかったという。船には夫妻の他にキャビン客8人、スティアレジ客259人が乗船していた。ベルタは船旅を「収監された」ように感じたようだが、その間に英語の学習に努めることは出来た。メルボルン港に到着した際は、マックスとアルベルトが夫妻を出迎えた。夫妻はセントキルダに住むことになり、当初は懸念されたもののベルタは地元のユダヤ系の人びととも打ち解け始めた。しかしビジネスパートナーのマルティン脳卒中に倒れ、療養のためヨーロッパに戻ることになったので、商売の方は一時中断してしまった。その後夫妻はウエスメルボルンのダドリー通り、リッチヒルテラスに引っ越すことになり、ジョンが誕生したのはこの地となった。

 

姓のスペルを改めていたことからも分かるように、ルイスとベルタの夫妻はオーストラリアに移住する意志を固めており、その点では弟のマックスや甥のアルベルトと相違が見られた。ルイスは弟のユリウス、末妹のウルリケ(1840頃?-1928)にも移住を呼びかけた結果、二人とも1865年末にメルボルンに到着した。そのためベルタは母親としての仕事に関して、ウルリケから手助けを得ることが出来た。ウルリケはベルリン出身でリヴェリナにある町デニリイクウィンで商売をしていたマックス・ロスと結婚するまでの3年間、夫妻と同居することになる。アルベルトの妹ヒルダも夫のモリッツ・ブラントを伴ってやってきた。幼児期のジョンはこういった親族たちの中で、新天地における新たな世代の子どもとして、大切に養育されることになった。ユリウス夫妻がオーストラリアに居住したのは7年間に留まり、マックス・モナシュも1879年に帰郷してしまった。アルベルトは二度ヨーロッパに戻ったことがあったが、結局オーストラリアで家族を養うことにした。モリッツ・ブラントは公立学校教員やバララトのヘブライ系学校の校長を短期間務めたが1889年に亡くなり、ヒルダの家族はその際ヨーロッパに戻ってしまった。ジョンは父親の家系だけで実に35人ものいとこを、三大陸にまたがって有していた。

 

幼児期のジョンの逸話はいくつか伝わっており、後年のエンジニアとしての業績を踏まえると、「三つ子の魂百まで」と感じさせるようなものもある(※2歳の頃の写真)。叔母にあたるウルリケ(タンテ・ウルリケと呼称されている)は、ジョンは2歳の頃には機関車の絵を描くことがあったと証言している。またベルタのメイドを務めたエマ・アーノットという女性は、ウエスメルボルンの操車場の列車を見るためにジョンを乳母車に乗せて連れて行ったと証言した。一家はリッチヒルテラスに3年間住んだ後、1868年にイースメルボルンのヴィクトリアパレート、1869年にリッチモンドのチャーチ通り、1871年リッチモンドのクリフトン通り(この時は住居を示唆的にも「ジャーマニアコテージ」と命名した)と引っ越しを繰り返した。その間、1869年10月18日には長女マティルド(マット)・モナシュがチャーチ通りの住居で誕生している。自身も優れたピアニストだったベルタは1870年よりジョンにピアノを教え始め、男声合唱(Liedertafel)コンサートに連れて行ったこともあった。妹マットが後年に回顧した話によれば、1871年の父の誕生日の際、6歳前のジョンは父のためにサプライズでピアノ曲を演奏してみせたという。1873年8月5日には、次女ルイーズ(ルー)が「ジャーマニアコテージ」において誕生した。

 

ルイスとベルタは英語をよくし、ベルタは子どもたちに対しても英語で読み聞かせを行った。しかしジョンはドイツ語にも堪能になり、バイリンガルとなった。ジョンは大学入学頃までは、英語に僅かなドイツ語なまりがあることを気にしていたという。就学して英語力が上達してからも、両親はドイツ語力も維持するべきだと薦めていた。ただしジョンは、イディッシュ語は解さなかった(なおルイスはイディッシュ語で父とやり取りすることがあった。一方ベルタはイディッシュ語を解さなかった)。

 

ジョンは6歳の時からリッチモンドにある聖スティーブンズ教会小学校に通った。同級生でのち仲裁裁判所首席裁判官になるジョージ・デスリッジは、ジョンはよく絵を描いて他の児童を喜ばせていたと証言しており、国語や図画を得意としていた。ジョンは2年次の時、初めて優等を取る。3年間通ったのち学校を離れる際、学校長のジョンに対する評価は「非常に聡明で将来の学歴有望、勤勉さは彼の代表的性格、品行は素晴らしい」というものだった。

 

1870年より父ルイスの商売は傾き出しており、負債も抱えるようになって使用人を常時雇うことも難しくなっていた。1875年、ジョンが9歳の時、一家はニューサウスウェールズのリヴェリナにある町ジェリルデリーに移ることになった。マックスとユリウスがナランデラやワンガネラの町に店を開いて生計を立てていたので、ルイスもこれにならってジェリルデリーに店を開いた。当時のジェリルデリーには約250人の入植者が居住していたが、当地域の交通の岐路に位置しており発展が期待されていた。一家は唯一のユダヤ系ドイツ移民であったので、程なくして町では有名人となった。しかし町の発展は想定したよりも進まず、商売としてはあまり成功しなかった。

 

ジョンは現地に新しく出来た公立小学校に通うことになったが、その学校長のウィリアム・エリオットはジョンの資質に着目し、課外授業として高等数学をジョンに教えることにした。小学校には牧畜労働者や鉱山労働者、職人、公務員など様々な家庭の子どもたちが通っており、ジョンは彼らと交流したが、中には「ラリキン」な子どもたちもいたという。余暇は折句や算数パズルをして楽しむことが多かったが、同時に近隣の駅や農地、ブッシュ(ワラビーやカンガルー、オウムCockatooも多く生息していた)を馬車に乗って散策したり、母と一緒に乗馬をしたりした。町の内外にいた先住民たちについては後年の証言では「哀れな」人々と表現しているが、彼らの一人からワディ(※先住民が用いる棍棒)を貰うなど、交流の機会もあった。ジョンは妹のマティルド(マット)と一緒に内職で商品用のおもちゃの服セットを作ったりする一方で、10歳になってからはマットに対し読み書きの勉強(フランス語まで扱い始めた)を教えたりもした。

 

ベルタはジェリルデリーでの教育環境に不安を感じたようで、1876年初頭に子どもたち3人を連れてメルボルンに戻った。ジョンは1876年2月よりサウスヤラ・カレッジに通ったものの、母子は事情によりすぐに再びジェリルデリーに戻ってしまう。しかし学校長のエリオットは、ジョンがより良い教育が受けられるためにも、メルボルンの学校に通わせるよう両親に勧めた。「ブッシュの学校」はマティルドには合わないだろうという懸念もあったため、ベルタはこれに同意した。エリオットは後年、地方新聞の主催者などを務めたが、自身の教え子が偉人として成功をおさめたことを生涯の誇りとしたという(エリオットや母ベルタの教育への熱意がなければ、ジョン・モナシュの生涯における成功も保証されることはなかったのではないか、という主張もある)。なお1879年2月にネッド・ケリーがジェリルデリーを襲撃した際、ジョンはケリーと出会い、ブッシュレンジャーとしてのレクチャーを受けたという伝説があるが、この時にはジョンは既にジェリルデリーを離れているため、これは信ぴょう性の無い話となっている。1877年、ベルタは子ども3人と一緒に再びメルボルンに戻った。ルイスだけがジェリルデリーに残り、のちナランデラに移った。一家はその後1883年までは別居生活となった(商売が好転したルイスがメルボルンに戻ってからは、ホーソーンに居を構えている)。

 

1877年10月9日、ジョンはイースメルボルンの著名な長老派教会学校であるスコッチ・カレッジに入学した。スコッチ・カレッジは当時のオーストラリアの教会学校としては最大規模のもので生徒は300-350人、ユダヤ系生徒も約30人所属しており、ヘブライ語旧約聖書の授業も開講されていた。ジョンはアバディーン大学出身の古典学者アレクサンダー・モリソン博士の下で学ぶことになった。モリソンの指導は規律やジェントルマンとしての資質を重要視するもので、時にはむち打ちなど体罰を伴うこともあった。ジョンはモリソン博士から地理や歴史を、博士の弟で副学長のロバート・モリソンから数学と自然科学を、フランク・ショーから国語と古典を学び、正統派ユダヤ教徒のモーゼズ・モーゼズからは大学進学に関する指導を受けることになった。エルギン・アカデミーを模範として設立されたスコッチ・カレッジは、伝統的パブリックスクールと同様に古典や数学を重視しつつも、化学実験など実学的な教授方法も導入している点において当時は画期的で、これはジョンの興味関心にも合致したものになった。スノバリの性格や階級・財産・民族出自に必ずしもとらわれておらず、強いスコットランド気質な校風もまたプラスに働いた。

 

ジョンはジェリルデリーの父に定期的に手紙(この頃はドイツ語で書いていた)を出す一方、1878年の夏休みにはロス夫妻や叔父のマックスと交流し、ボタニック・ガーデンズやロイヤルパークでピクニックを楽しみ、サーカスやタウンホールでのコンサート、海岸にも出かけた。この頃、ベルタは子どもたちの読書指導にも熱心だった。ジョンのお気に入りは『アラビアンナイト』、『世界の驚異』、『チェンバーズ文集』、ジュール・ヴェルヌアレクサンドル・デュマなどで、ジョン・リーチによる『パンチ』カリカチュアもとても気に入った。以後ディケンズ、スコット、ブルワー=リットン、ジョージ・エリオットサッカリーの作品、その他独仏文学も読み進めていった。図画も継続して愛好しており、記念本にはこの頃に描いた花の絵などが残されている。

 

1880年頃のメルボルンには約3000人のユダヤ系の人びとが住んでおり、その約半数はイギリスからで、ドイツからの割合がそれに次いで多かった。その約10年後にはロシアにおけるポグロムの影響もありユダヤ系の人々は倍近くとなり、その中にはイディッシュ語話者も多く含まれていた。ユダヤ系の人々の多くは商人の仕事に就いたが、独自の本格的コミュニティを築くには人数が少なく、出自がバラバラに過ぎた。バーク通り、イースメルボルン、セントキルダの3か所にユダヤ教の集会場所が出来たが、ユダヤ系ドイツ移民の間では正統派教義は廃れて自由な傾向に向かい、安息日や食事規定の遵守、ヘブライ語教育は低調となっていた。ただし、宗教意識は薄れていても、その他の文化やエスニック的要素においては、ユダヤ系の出自を意識する人は多かった。

 

ルイスもベルタも基本的に正統派ユダヤ教の教義を捨てて礼拝等はしなくなっていたが、子どもたちをシナゴーグに連れていくことがしばしばあった。ジョンはイースメルボルンシナゴーグに行って聖歌を歌うことがあり、ルイス・パルヴァーという音楽家の下の合唱団にも入った(※ジョンより4歳年長のネリー・メルバプレスビテリアン女学校に通っており、この時期からジョンは彼女を認知していた可能性はあるという)。パルヴァーはベルタと演奏会を行うなどモナシュ家と親交があり、ジョンは成人後も彼に敬意を抱いていた。またラビのイザドア・マイヤーズ師は兼ねてからジョンのためのバルミツヴァーを準備しており、1878年の13歳の誕生日の数日後、イースメルボルンシナゴーグで祝われることになった。父ルイスは参加することが出来なかった(ユダヤ教の慣習としては異例であった)が、ジョンの従兄のアルベルト・ベーレント、叔父のマックス・モナシュとモリッツ・ブラントらは参加し、母ベルタや妹たちは儀式を見守った。両親や親族からは顕微鏡、シェイクスピアの本、伯父ハインリヒ・グレーツのユダヤ史の著書(フランス語版、サイン入り)、金時計(叔父マックスより)、金の飾りボタン(叔母ウルリケより)、化学実験セット(アルベルトより)、ハイドンソナタ集、切手アルバム、ナイフといったプレゼントが贈られ、ジョンは非常に喜んだ。

 

ジェリルデリーの父ルイスとは手紙でのやり取りとなった。ルイスはジョンの教育に気をかける一方で、高圧的でそっけない傾向があり、ジョンは父を冷淡な人物と感じることが多かった。父と別居していた12歳から17歳までの間、ジョンはベルタと妹たちと一緒に暮らした。母ベルタはジョンの事をJonnychenと呼び、プロイセン式の影響を受けつつ、ジョンを大人物にするためにと教育に力を注いだ。また使用人を常時雇えなかった事情もあって、家事には非常に熱心であった。ベルタは社交力にも長けた女性で、リッチモンド周辺のユダヤ系コミュニティよりもむしろドイツ系の人びとの方が友人は多かった(ただしメルボルンのドイツ系コミュニティの人数は約2500人に留まった)。交友関係はドイツ系に留まらず、当時若手政治家だったアルフレッド・ディーキンやその姉キャサリン・ディーキンとも懇意になった。15歳のジョンは数学の面で、女学校で教職についていたキャサリンの手助けをしたこともあったという。キャサリンもベルタも卓越したピアニストであり、ベルタは特にショパンを好んだ。心霊研究者リチャード・ホジソン (※ディーキンは降霊術の信奉者としても知られていた)の家族とも交流を持った。

 

スコッチ・カレッジにおける1878年のジョンの成績は数学で1番、その他の教科の学習も順調であった。この頃のジョンのノートには、演算やラテン語翻訳の練習、エッセイ(休日の過ごし方、ネルソンとウェリントンについてのもの)などに加えて、大学に進学することへの意志も書かれていた。1879年からは大学進学のためのクラスに編入され、6月からは日記をつけ始めたジョンは、その中で放課後や休日の過ごし方について詳細な計画を記している。同年の大学入学資格試験(Matriculation)を受験したジョンは、9科目(算術・代数・ユークリッド・英語・ラテン語・フランス語・ドイツ語・歴史・地理)で合格し、弱冠14歳で見事入学資格を獲得した。9科目を合格した受験者は5人だけで、うち3人はスコッチ・カレッジの生徒であった。この年の学校成績は、ドイツ語で1番、数学で4番、フランス語で7番、オーストラリアの探検家に関する小論文で賞を受賞するなどした。年末はメルボルン大学の学年暦を見ながら、学士課程がどのような内容になっているのか思いをはせていたという。

 

1880年度(post-matriculationとしての年次)の学校成績は、総合で6番、数学と論理学で2番、フランス語で5番、ラテン語で6番だった。この年度の首席は、ジョンより7か月の年長でのち政治家・市民軍将官として著名になるジェイムズ・ホワイトサイド・マッケイ (1864-1930)で、学外試験で古典学と数学の奨学金を獲得した上でメルボルン大学オーモンド・カレッジに入学を果たしている。マッケイとジョンは以後長きにわたり公私ともに関係性が続き、よき友人にしてライバルとなった。この年の3月には、ジョンは父ルイス宛の手紙の中でレッシングの作品をドイツ語で、フェヌロンの『テレマック』をフランス語で、エウリピデスプラトンギリシア語で読み、マコーリーの論考のドイツ語訳に挑戦したと報告しており、非常に勉強熱心であった。

 

ジョンの友人ジョージ・ファーロウは、スコッチ・カレッジでの彼は勉強好きで物静かな生徒で、喧嘩が起こった際はそれを口論で退けていたと証言している(幸い、スコッチ・カレッジではいじめ行為は頻繁ではなく、ユダヤ系の出自であることも大きな問題にはならなかった)。ジョンは球技や反射神経が求められる運動には親しまなかったが、年度によってはヨット競技を経験したことがあった。13歳になってからはアーサー・ハイドという生徒とも親友となった。ハイドは文学知識が非凡な生徒で、ジョンは一緒に文芸雑誌を作ることを夢見たり、1880年にジョンがおたふく風邪に倒れた時は連日お見舞いに来てもらうなどした。

 

ジョンが13歳の時の最初の作文は、教会堂で開かれたコンサートについての批評文だった。出版物を通して最初に発表したのは16歳の時で、『タウントーク』という週刊紙に掲載された、全て頭文字”f”で始まる50語以上の文章だった。その他リッチモンドの地方紙に投稿するなどしたが、学校雑誌『青年ヴィクトリア』には投稿していなかった。ジョンの関心は決してハイカルチャーの文学に限ったものではなく、13-14歳の頃は三文小説のジャック・ハーカウェイ冒険シリーズを気に入って読んでおり、学校をずる休みしてまで書店に読みに行ったことがあったという。切手コレクションは16歳頃まで続け、大工仕事の初歩を練習することもあった。後年の妹マットの回顧によれば、ジョンは勉学を教えるのが上手い「生まれながらの先生」気質があったのみならず、花火、ジェスチャーゲーム、活人画、寸劇などパーティの演目を考えるのが得意で、戯れ心にもあふれていたという。

 

既に大学入学資格を得て、15歳を過ぎていたジョンは、スコッチ・カレッジを終えるのは1880年度末になり、翌年からはメルボルン大学に通うことになるだろうと考えていた。学校のスピーチデイでは数学とミルトンに関する小論文で表彰を受け、12月は友人のハイドとともにラテン語ギリシア語の勉強に熱心であった。ところが翌1881年1月、モリソン博士から手紙が来て、奨学金を獲得するためにもう一年学校に留まるべきだと薦めた。父ルイスもジョンの大学入学は早すぎると不安を感じており、勉強の準備期間や奨学金が得られるのは望ましいことだと考えていたため、最終的にジョンは在学して奨学金に挑戦する意志を固めた。そのためにジョンは月曜から土曜まで、午前7時から深夜まで猛勉強する時間割(達成できなかったものと思われるが)まで立てた。進学コースの授業は大学初年度レベルに引き上げられた。この年の学校の懸賞小論文のテーマの一つには、『マクベス』が選ばれていた。ジョンはこれについても何週間もかけて取り組み、精緻な小論文を作成して優勝した。しかしこれは今日から見れば剽窃行為を含んだ論考でもあった(1873年アメリカで出版された『マクベス』の注釈部分の内容や表現を、そのまま拝借している箇所があった)。

 

1881年度の学校成績は論理学、ドイツ語、フランス語、数学で1位、ジェイムズ・S・トムソンという生徒と同点首席の成績となり、二人でアーガス奨学金を分け合った。学外試験では数学・独語・仏語は第一等となり、数学に関しては目標であった奨学金を獲得することが出来た。ジョンは奨学金でJ・A・フルードのイングランド史やギボンのローマ帝国衰亡史、ウォルター・スコットのウェイヴァリー小説を購入した。ジョンは翌1882年1月より、父とナランデラ(マックスの店舗をルイスが引き継いでいた)で3週間休暇を過ごした。母ベルタは1月末にジョンに宛てた手紙の中で、キャサリン・ディーキンやルイス・パルヴァーを始めいろいろな人が祝福してくれたことを興奮気味に伝え、息子の成功を心から喜んだ。

 

 

参考文献

Australian Dictionary of Biography

Sir James Whiteside McCay/Sir John Monash/Alexander Morrisonを参照しました。

 

オーストラリア辞典

ケリー、エドワード(ネッド)ジェリルデリー長老派教会、プレスビタリアン教会ディーキン、アルフレッドデニリイクウィンナランデラメルバ、ネリィ(ネリー、ネリ)メルボルン(メルバン、メルボーン) ラリキンズ、ラリキンヴィクトリアを参照しました。

 

Geoffrey Serle, John Monash: A Biography, Carlton, Melbourne University Press, 1982. 

※主要典拠

衣笠太朗『旧ドイツ領全史 「国民史」において分断されてきた「境界地域」を読み解く』パブリブ、2020年。 ※ポーゼン州の歴史的背景

藤川隆男「大洋を渡る女たち―19世紀オーストラリアへの移民」『近代ヨーロッパの探究1―移民』ミネルヴァ書房、1998年。 ※19世紀オーストラリア移民史

藤川隆男編『オーストラリアの歴史 多文化社会の歴史の可能性を探る』有斐閣、2004年。 ※通史

山本真鳥編『世界各国史27 オセアニア史』山川出版社、2000年。 ※通史