ジョン・モナシュの生涯(仮題) 大学生となる

1882年3月、ジョンはメルボルン大学に入学を果たした(※16歳頃の写真)。ジョンは兼ねてから教養学士を修めつつも得意の数学を伸ばし、エンジニアになることを夢見ていた。ジョンが得た奨学金25ポンドは学費と本に充てられることになったが、父ルイスがジョンに与えることが出来る小遣いは月1ポンドに留まったので、それ以上は自活していく必要があった。その一方で、ジョンは前年度より母ベルタへの愛情や尊敬がおろそかになっていること、妹マティルド(マット)への勉強の教える際にはもっと辛抱強くなるべきことを、(ベルタからの訴えを踏まえた)ルイスから手紙の中でとがめられていたという。そのためジョンはルイスにドイツ語で手紙を書くのに煩わしさを感じるなど、家庭内の関係がややギクシャクして気持ちの動揺がある中で、大学生活を迎えることになってしまった。

 

大学の授業が始まり、古典語、数学、論理学についてH・A・ストロング、E・J・ナンソン、アレクサンダー・ローリーら教授陣から講義を受けた。しかし講義はジョンには魅力的に映らず、一学期の終わりには殆どの講義に出なくなった。ただし、ウィリアム・ジェヴォンズの『初等論理学』をマスターすることが出来たことは将来的にプラスとなった。ジョンは日記を書く習慣は継続していたが、手紙に関しても受け取ったものは徹底的に整理保管することにし、自身が書いたものは控えを取るようにした。あらゆる物事の記録を取っておくことをジョンは「ルーティーンシステム」と名付け、生涯に渡り休日の日課としていた(それ故、非常に充実した個人文書が後世に残ることになった)。コインや鉱石標本、有名人の写真をコレクションするという趣味を始め、古典文学や偉人を扱った廉価本を買うことも始めた。

 

ジョンは公共図書館に通いつめるようになり、文学や歴史を中心に読書をした。コングリーヴの『愛には愛を』、フォードの『あわれ彼女は娼婦』、ゴールドスミスの『負けるが勝ち』、フィールディング、ディケンズ、ブルワー=リットン、ハーバート・スペンサー、レッシング、スタール夫人、ヴォルテール、ポーなどを読みあさった。ギボンにならって常にペンを持って読書をし、備忘録を作成した。またマコーリーの実践にならい、読んだ本のページを閉じてその記憶力を試すなどした。週末にはウェズリー教会知識交換会での集会に参加し、1882年中には自分が書いたマクベスの小論文やロビンフッド、ハールーン・アッラシード(この頃ジョージ・セールの英語訳クルアーンを読んだことから関心を抱いていた)に関するレポートを読み上げた。スコッツ教会文学会やヴィクトリアパレード青年協会でも読書会やディベートを行った。議題はジャンヌ・ダルクシェイクスピア、電灯、火災保険など実に多様であった。議論が白熱すると無作法になることを、同じく会員だった音楽家のパルヴァーに注意されたこともあったが、それでもジョンは根気よく討論の経験を積むことで、自らの精神的成長に繋げていった。

 

教会や図書館以外ではギムナジウムで時折運動をしたほか、週に2回は必ず劇場に通い、メロドラマやコミックオペラ、バーレスクなどを鑑賞した。当時の人気俳優はジョージ・リグノルドアルフレッド・ダンピア、ジェニー・リーらで、コミックオペラ『ボッカチオ』は5回、『ペイシェンス』は2回鑑賞した。劇場に通いつめていることは母には内緒にしており、日記でも劇場については速記で書いていた。ただし、母と一緒に劇場や社交場に出かけることはあった。この年の3月、ジョンは初めてアルフレッド・ディーキンに会った。ディーキンの姉キャサリンや、ディーキンの新妻で当時19歳だったパティとも親交を深め、ジョンはパティを「私の知る最も美しい女性」と評した。ベルタの通うサークルのドイツ系の人たちとも仲良くなり、5-6月には初めて舞踏会を経験するなどし、この年の誕生日は非常に充実した形で迎えることが出来たと語った。その他ヴィクトリア植民地の議会や法廷を傍聴したり、建設現場や港湾の仕事場の周りを徘徊したりすることにも精力的だった。

 

二学期になってもジョンは数週間に渡り大学に行かない日があった。講義に出ても遅刻がしばしばあり、10時からの講義にも遅刻した。8月の休暇中は勉強せず、9月下旬になってからは定期的には勉強するようになったが、化学実験にふけり地方紙への投稿記事や小説を書こうとするなど、脱線が甚だしかった。10月には父ルイスがメルボルンに戻り、ナランデラの店舗を引き払って新居を建てる計画を立てるなど、家庭内の動きが慌ただしくなった。大学試験の4日前には叔母ウルリケの夫婦が海外から戻ってきたが、そのせいもあってジョンはますます勉強に身が入らなかった。

 

初年度の試験は数学初級、論理学、化学、鉱物学、植物学で及第したものの、ラテン語ギリシア語、数学上級が不合格という散々な結果となった。成績のことをジョンは家族に翌日にならないと話すことが出来ず、嘆き悔やんだジョンは挽回することを日記の中で誓った。後年(1889年)になってジョンは、初年度の失敗の原因は劇場に夢中になり過ぎたことであったと告白している。1882年12月にかけてジョンはスコッチ・カレッジを何度か訪れ、モリソン兄弟や恩師たちにも報告と相談をした。しかし追試に対してもジョンは必ずしも身が入らず、劇場通いは継続し、ピアノや素描をした。ジョージ・エリオットの『ミドルマーチ』『アダム・ビード』『フィーリクス・ホルト』、ブルワー=リットンの『ケネルム・チリングリー』を読んで感銘を受け、スコットやディケンズパスカルテニスンを再読した。『ジェリルデリー・ヘラルド』という地方紙の編集者になっていた恩師のウィリアム・エリオットには数シリングで雑多なゴシップ記事を掲載してもらうなどし、友人のアーサー・ハイドが当時働いていたベンディゴの『インディペンデント』紙にも投稿した。この年の10月からは数千語に及ぶ「煽情的な愛と殺人の物語」なる小説も書いており、独仏の小説を翻案して新聞に投稿することも構想していたという。

 

父ルイスは今までのリッチモンドの住居から2マイル東に離れた、ヤラ通りのホーソーンに土地を購入した。近隣にはドイツ系の友人も多く居住しており、建築家のJ・A・B・コッホに煉瓦造りの家をデザインしてもらったが、ジョンは設計に意見を述べたり建設業者との契約に立ち会うなどして、土木エンジニア業の一端に触れる体験をした。1883年1月にかけてジョンは追試の勉強を必死に行ったものの、友人のハイドに宛てた手紙では不安や憂うつの気持ちを伝えた。追試の結果、5科目は及第したものの必修のラテン語を落としてしまった。ラテン語はその後長きに渡り、ジョンの学問上の強敵となった。

 

初年度は大失敗となったジョンだが、決して挽回できない失敗ではなく、また大学を諦めるというのも(※ハイドにはジャーナリスト業の可能性について相談したことはあったが)結局は自身の道徳が許さなかった。1883年3月28日の日記では、再スタートをしてより賢明な人間に成長しようという意志を示した。メルボルン大学には1883年より工学学位が導入され、W・C・カーノットが最初の工学教授に就任した。カーノット教授はその後、ヴィクトリア測量協会やヴィクトリアエンジニア協会でも要職に就くことになる。工学課程は最初の数年間は数学や物理学の比重が高く、ジョンはH・M・アンドリュー教授からそれらの指導を受け、「メルボルン大学で最も素晴らしい教授」と評するなど強く感銘を受けた。妹のマットや従弟のカール(※叔母ウルリケの息子)の勉強を見つつ、複数の生徒を受け持つ家庭教師業を始め、週に約20時間はそれらに費やされた。6月から7月にはウエスメルボルン女学校で授業も経験した。

 

ウィル・スティールという3歳年上だが初年度を失敗した学生とは、哲学、宗教観、音楽、チェスなどの話題で意気投合したため、長きに渡りジョンのよき友人となった。1883年2月頃より手紙のやり取りを始め、その中で自らが思っていることを気兼ねなく語れる仲となった。アメリカのミネソタに住むいとこのレオ・モナシュ(※ルイスの兄イジドル(1829-1912)の息子)とも文章力の修練も兼ねて文通をしていた。1883年5月の手紙の中では、ジョンはレオの汎ゲルマン的な傾向を批判し、ドイツ語は母語ではなく言語として学んでいると主張するなどしている。30年後に大戦が勃発するとレオは親ドイツの立場を取っているが、ユダヤ系ドイツ移民という立場で育ったジョンにとって、ドイツに対する政治的・文化的な忠誠心にまで染まることはなく、忠誠の対象はあくまでイギリス帝国であり、生まれ育ったオーストラリアであった。ジョンは一時的には植民地ナショナリズムの言説を唱えることもあり、アルフレッド・ディーキンと懇意ではあったものの、オーストラリア出生者協会には参加しなかった。

 

2年目も読書欲は相変わらず旺盛で、お気に入りのブルワー=リットンだけはなくヒューム、ブライト、カーライル、テニソン、ヴィクトール・ユゴーを読んだ。3月にはプロイセンに住む叔父からゲーテ全集30巻とレッシング全集16巻が送られてきた。公共図書館では雑誌『ヴァニティフェア』の似顔絵やアレクサンダー・ウォーカーの著作の女性画を真似して描くなどした。絵画のレッスンは受けていたものの、ピアノは一時的にやめて、劇場へは時折しか行かなくなった。この年のジョンの社交はささやかな範囲で、舞踏会やパーティも主にドイツ系の人たちが中心で、日記中では女性たちへの言及は少なかった。7月に家族が完成した新居に引っ越した際は、ジョンは数週間に渡り大工仕事や庭造りに精を出した(※1884年頃の住居。ジョンと母ベルタが写っている)。ウェズリー教会知識交換会へはまだ参加しており幹事を務めていた。5月にはテニソンのついての小論文を作成し、教会コンサートでは妹のマットと一緒にデュエットをしたが、次第に活動に煩わしさを感じて9月には協会を辞めることにした。

 

アンドリュー教授の指導の下でジョンは物理学の面白さに目覚め、力学や水力学の勉強に精力的になり、ジョン・ティンダルやバルフォア・ステュアート、W・H・ベサントの著書を読み進めた。8月末にはウォルター・スコットの小説や『インゴルズビー伝説集』を一日中読んでいる日もあったが、三学期を控えると真剣になり、午前9時までには大学に通うようになった。ティンダルをはじめとする物理関連の読書の成果に自信を得ていたというジョンは、第一等の成績も狙えるのではないかと高望みした。しかし結局2年目の成績は5科目で合格したものの、優等試験では失敗してしまい、おまけにラテン語をまたしても落としてしまったことが重なり、第三等の成績となった。

 

メルボルン大学は1870年代半ばにはH・B・ヒギンズ(弁護士・政治家)、アイザック・アイザックス(裁判官・のちオーストラリア総督)、アルフレッド・ディーキン、サミュエル・アレクサンダー (哲学者)ら著名人を輩出していたが、ジョンが入学した時期、大学は転機を迎えていた。1880年代半ばには学生数500人を超え、うち三分の一は医学生であった。入学年齢は15-16歳だったが、経済的に裕福でない適齢の学生については、パートタイムで学ぶ道もあった。大学教員たちの委員会で改革が行われ、功利主義の立場から古典に加えて専門的・技術的教育が重要視されるようになった。科学関連の教育の本格的充実は1880年代後半まで待たなければならなかったが、1882年の段階では物理学、化学、工学、英語、ドイツ語、フランス語の講座が設けられた。1880年には女性の入学が認められ、1882年にはウィルソン・ホールが完成するなどの画期的出来事もあった。しかし大学評議会、卒業生、教員の各間における派閥問題も生じており、新聞上で書きたてられるなどして大学の評判を損ねている面もあった。

 

大学における闘争は学生間にも影響を与えた。ジョンは大学学生会の設立委員に選ばれ、1883年8月14日の教養課程学生たちによる懇談会では設立の動議の承認を行った。学生会は1884年6月2日、アテナイオンホールにおいて暫定的に発足し、約150人が集まった。オクスフォード・ユニオンをモデルとした組織で、ディベートや演説の研鑽、学生たちに集会の場を提供することを狙いとしたが、9月には掲示板や読書室、浴場、軽食提供、チェス対局場を備えたクラブハウスも設置され、社交場としての役割を果たした。ジョンは1884-85年にかけて学生会誌『メルボルン大学レビュー』委員としても編集や寄稿を行った。これは『ケンブリッジレビュー』をモデルとしており、1884年7月26日に第1号が出た後、年内に4号まで刊行した。その一方で、医学生たちは1879年から既に独自の学生会を設立しており、『レビュー』よりも数日早く『スペキュラム』という学生会誌も創刊していた。ジョンは医学生たちとも交流の機会を得ていたが、『レビュー』第2号で『スペキュラム』を批判する論評が掲載されると両学生会間で不和が生じ(実際は違ったのだが、医学生たちは論評を書いたのはジョンであると考え、ジョンを大学の池に放り込もうという陰謀まで企てられたという)、ジョンはその仲裁に苦労した。学生会の活動では同じスコッチ・カレッジ出身のジム・ルイスの他、C・J・ジチー=ウォイナースキ(のち裁判官)、J・B・オハラ(のち詩人・学校教員)、ジョン・マッケイ(のち法律家・政治家)らと親交を結んだ。友人たちとは講義ノートの貸し借りをすることもあり、これは何かと課外活動が多いジョンにとって非常にありがたいことであった。

 

1870年代以降ヴィクトリア植民地は英露関係の悪化、アジア系移民に対する脅威などによる防衛意識の高まりを背景として、防衛政策を強化していた。砲兵や工兵の充実が図られ、砲艦「サーベラス」が新たに就役するなど海軍は強化され、ポートフィリップ埠頭も要塞化された。1883-84年にかけては植民地政府に防衛省が設置され、初代防衛相にはF・T・サーグッドが就任、防衛相が管轄する防衛委員会も設置された。1883年軍紀法に基づいて市民軍は再編され、T・R・ディズニー大佐が指揮官となり、約200人の常備軍、約4000人の市民軍を組織するに至った。またイギリス軍在籍将校たちは、市民軍の指揮官的役割を担っていた。

 

市民軍のヴィクトリアンライフルズは4個大隊が編成されており、うち第4大隊D中隊はメルボルン大学で編成された。ジョンは1884年7月8日、兵卒としてここに入隊する。34年後には西部戦線でオーストラリア軍団を率いることになるジョンであるが、これが事実上の軍歴としての第一歩となった。ジョンの入隊の具体的動機は明らかではなく、従軍記者アーチボルド・フォーブズの講演を聞いたからとも、歴史関連の本を読んでいたことからとも言われるが、友人のジョージ・ファーロウらが入隊したことに促されてという見解もある。ともあれジョンは熱意をもって入隊したことを、いとこのレオに宛てた手紙の中で語った。ニュージーランド戦争を経験したというサリヴァン軍曹が上官となり、身長約175センチながら細身であったジョンを教練した。最初の射撃訓練においては、興奮のあまり卒倒した同僚が出たという。ジョンは伍長試験を特筆すべき成績で合格し、10月14日に任官した。

 

ジョンは1884年10月に親友のウィル・スティールに宛てた手紙の中で、家庭教師や学生会誌の編集作業、市民軍など課外活動が非常に充実していることを機嫌よく語っていた。大学3年目の試験は詰め込み学習の感が否めなかったものの、高等数学と自然哲学、フランス語、ドイツ語、実用化学は合格した。優等試験では第二等下位に位置づけられ前年より良化し、エンジニアにとって欠くことのできない測量に関する科目にも合格していた。第一等になれなかったことについてはルイスやジチー=ウォイナースキ、オハラらに慰めてもらった。オハラにはオーモンド・カレッジの奨学金試験にも挑戦することを勧められため、ジョンは翌1885年2-3月にこれを受験し、学寮長からは文学・言語を専攻することも期待された。しかしこの頃ジョンは、自身は本質的には数学学徒であると認識していたため、オーモンド・カレッジに進むことはなかった。

 

1885年度になると学生会の加入者は増え、ジョンは隔週でディベートや集会、コンサートの手配をするなど多忙になった。各種講演を企画して、『アーガス』に紹介記事を掲載させたこともあった。『レビュー』においては「図書館にドイツ語やフランス語の本が不足している」「ウィルソン・ホールの鳥たちが受験者の妨げになっている」「奨学金が不充分だ」「数学の講師に不満がある」といった学生たちの申し立てを取り上げた。『レビュー』はこの頃にはルイスやジチー=ウォイナースキが編集者となっていたが、ジョンも過去に書いた文章を寄稿するなどした。しかし500人を期待した購読者は250人しか得られないなど必ずしも学生たちの後援は受けず、広告者も集まらなかった。12か月間の印刷費のうち3分の1しか支払えないなど印刷業者とのトラブルも発生し、結局1886年初頭に一時休刊となってしまった。それでも植民地政府に入閣していたアルフレッド・ディーキンからは『レビュー』の出来について褒めてもらえたことは、ジョンにとって喜びであった。

 

大学中隊においては1885年1月に赤色の歩兵制服を受け取り、ジョンは非常に嬉しがった。同僚の中にはジョンの事をポタシュ伍長Corporal Potashというあだ名で呼ぶ者もいた。2月にチャールズ・ゴードン将軍がハルツームで戦死したニュースが伝わるとオーストラリアの人々は復讐をすべきだと熱狂したが、これに対してジョンは慎重な態度を取っており、ヴィクトリア植民地が提案した派兵も結局却下されてしまった(ニューサウスウェールズは派兵を認められ、1885年3月3日に遠征隊が出発している)。2月には模擬戦闘を、4月にはフランクストンで初めての宿営を経験した。ジョンは教練に関して面白みや有益さを感じる一方で、その質的内容については稚拙な印象を抱いたという(ただし射撃に関しては、この頃はジョンも上手くなかった)。7月に軍曹の試験を受けて中隊の中では初めての合格者となった。洞察力のある下士官という評判を得て手旗信号をマスターしたが、同時に単調さも感じた。9月4日には軍旗軍曹となり、パレードの際は点呼や上官への報告を担当することになった(※当時の写真)。しかし市民軍の質的な評価が芳しくなかったこともあり、最終的には大学中隊は1886年7月23日に解隊されてしまった。ジョンはその前の6月30日付けで勤務を終えており、最初の軍隊経験はごく短期間なものとなった。

 

16歳ごろからジョンは徒歩旅行を楽しむようになっており、1884年3月にはダンデノングまで2日間の徒歩旅行をした。1885年の夏には女性たち7人とピクニックに出かけたほか、妹のマットとその友人女性と3日間宿泊をした。ある時にはボックス・ヒル駅からマウント・ダンデノングまでの道のりを往復(45マイル)する旅行をした。1884と1885年の夏はカールトンに住むジム・ルイスと親交を深める時期にもなり、互いを訪問し合うようにもなった。1885年度は読書の機会が減った分、チェスとピアノに熱中した。大学チェスクラブの設立を主導して教養課程学生の代表選手となり、ピアノに多くの練習時間を割き、6月までは日曜の朝、ウィーンから戻っていた従兄のアルベルトと一緒に練習した。友人のジム・ルイスからは、演奏の力強さが非凡であることを評価されている。7月以降は学生会や医学学生協会などの社交場でピアノを披露するようになり、ショパンの「ポロネーズ」やスッペの「詩人と農夫」を演奏した。メルボルンの合唱団やヴァイオリニストのジョン(ヨハン)・クルーズ (この頃は歌手のミセス・アームストロング(※のちネリー・メルバ)の支援を受けていた) のコンサートにもしばしば出かけた。

 

親友の一人ジョージ・ファーロウの証言では、ジョンは女性たちの関心を集めるような話をしたり、エスコートをするのが誰よりも上手だったという。またジム・ルイスの妹ケイト・ルイスは、ジョンはからかい好きであると同時に機知に富んで頼れる人でもあったと証言している。ただし20歳になるまでは、女性と緊密な関係を持つことはなかった(1884年8月よりマットの友人クララ・ストックフェルドという女性と懇意になったことがあったが、手紙では友人としての言及のみに留まっている。ただし手紙類は他の女性たちとは分けてファイリングしていた)。しかし1885年初頭より日記には、友人たちと過ごす折での女性についての言及が増えた。ジョンはトランプ手品の技術を磨き、ピアノと共に社交場で人々を楽しませるための手段とした。

 

しかしながらジョンの大学4年目は、学生会活動や社交活動において労苦があったことに加え、1885年2月より母ベルタの健康状態が悪化したことが重なり、一学期、二学期ともにほとんど講義に出ず、学問には次第に手がつかなくなった。市民軍での昇進など成功体験もあったのだが、その年の半ばにより日記で人の無情さに言及するなど情緒不安定になった。三学期には講義に出るようにはなったが、気持ちが完全に落ち着くことはなかった。また家計も苦しくなっており、懸命に行った家庭教師では年間50ポンドの収入を得ていたが、自身の時計を質屋に入れなければならなかった。さらに学費を払えないことから、翌1886年2月以降は学業を一時中断する決断を迫られており、家計改善のためには学業はパートタイムで行った上でフルタイムの仕事を見つけることも念頭に入れなければならなくなった。当初の計画―1885年に教養学士の要件を満たし、数学と英語で奨学金試験を受けた後、1886年に工学学位を満たす、コブデンクラブメダルやシェイクスピア奨学金も狙いに行く―は破たんしてしまった。

 

参考文献

Australian Dictionary of Biography

Samuel Alexander/ Henry Martyn Andrew/ Alfred Dampier/ Thomas Robert Disney/William Charles Kernot/ John Augustus Bernard Koch/ Johann Secundus Kruse/Henry Bournes Higgins/Sir Isaac Alfred Isaacs/Sir John Emanuel Mackey/Edward John Nanson/George Richard Rignall/Sir Frederick Thomas Sargoodを参照しました。

 

オーストラリア辞典

オーストラリア出生者協会、オーストラリアン・ネイティヴズ・アソシエーションスーダン遠征ヒギンズ、ヘンリー・バーンズを参照しました。

 

三脚檣

「地獄の番犬ケルベロス」を参照しました。

 

Jeffrey Grey, A Military History of Australia, 3rd edition, Melbourne, Cambridge University Press, 2008[first published 1990]. ※通史(軍事史)

Peter Andreas Pedersen, ‘The Development of Sir John Monash as a Military Commander’, Ph.D Thesis, 1982. ※ジョン・モナシュの軍事指揮官としての能力を検証した博論

Geoffrey Serle, From Deserts the Prophets Come: The Creative Spirit in Australia 1788-1972, New edition, Clayton, Monash University Publishing, 2014 [first published 1973].※伝記著者による文化史研究

Geoffrey Serle, John Monash: A Biography, Carlton, Melbourne University Press, 1982. ※主要典拠

 藤川隆男『オーストラリア歴史の旅』朝日選書、1990年。※172-178頁、スーダン派兵について