ジョン・モナシュの生涯(仮題) ③エンジニア業を始める

母ベルタの病気は腹部のガンだった。1885年初頭に手術を受けたものの間もなく再発し、ジョンたち家族はベルタの病状が致命的であることを徐々に悟り始めた。ジョンは母の看病をし、料理をし、母のためにピアノを弾いた。しかし10月18日、母ベルタは44歳で死去した。ジョンへの最期の言葉は、妹たちを大切に世話するようにという内容のものだったという。ジョンのショックは大きく、友人女性に宛てた手紙の中でも自分に最も愛情を注いでくれた人が亡くなったことへの悲哀や孤独感を吐露した。ジョンは9か月間、日記を書くことを辞めてしまった。

 

ジョンは母の死去前後の時期から、ジム・ルイスの家族と過ごす機会が増えていた。ルイスの母は夫に棄てられても8人の子どもを育てた不屈の女性で、カールトンで寄宿舎を営んでいた。ジョンにとっても頼りになる人であったようで、34年後に世界大戦から帰還した際にも、わざわざ家を訪問したという。この頃、父ルイスは義弟マックス・ロス(妹ウルリケの夫)の助けを得て金貸し業を始めていたが、収入は少なく身体も衰えてきたので、ジョンが家族の中心となってフルタイムの仕事を見つけ、家計を支えていかなければならなくなった。妹のマティルド(マット)はプレスビテリアン女学校首席という優秀な成績をおさめ、1885年に大学入学資格試験に合格、1886年には国語の奨学金を獲得していたが、妹ルイーズ(ルー)の面倒を見て家事に専念するために、これ以上の進学は諦めなければならなかった。しかし母を喪ったことや学問上のつまずきの影響もあり、当時のジョンは衝動的な言動にかられる頻度が多くなっていた。

 

ジョンは1885年5-6月頃から時計屋・宝石細工業を営むブラシュキ家の4人の姉妹(ミニー、ジャネット、ロージーエヴァ。彼女たちの末弟のマイヤー・ブラシュキ(マイルズ・エヴァーグッド)は画家になっている)と交流を持っていた。ブラシュキ家を訪問した際、ジョンはピアノを演奏し、長女で「最も可愛らしく愛想が良い」ミニーとはすぐに仲良くなった。エヴァエドワード・ギボンの話に関心を示しており、ジョンは彼女のアルバムに詩句を書いてあげるなどした。ジョンはエヴァと手紙のやり取りをするなど魅了された面はあったが、教養面で不十分さを感じたようで、感情は一定のところで留まった。しかしながら母を亡くした前後の期間には、ジョンはエヴァに対し宗教や哲学を話題とした手紙を多く書き送っており、教養面を補うべく自分がエヴァの教師役になれないかという懇願までした。同様の手紙のやり取りはエヴァの姉ロージーともしており、その中で「ジャック」と呼称されるなどこちらも親密な仲となった。ブラシュキ家の姉妹たちへの専心は、1885年末まで継続した。哀しみから気を紛らわすために、喪った愛情の代替を探すためにジョンは苦悩したが、その言動は時として迷走も伴っていた。

 

1886年になると頻度は減少したがブラシュキ家との交流は続いた。長女ミニーとは親しい仲であったが、結果的にミニーはジョンの従兄アルベルト・ベーレントと結婚することになった。3月からは今度はジャネットと近しくなり、この時はジョンも初めて恋愛感情があったと言われている。ジョンより1歳年上のジャネットは、ジョンを「最愛のジャック」とまで呼んだ。しかしブラシュキ家中では緊張が高まっていた。8月にはエヴァがジョンに「事実上の告白」をしたため、ジョンは大いに悩むと同時に自らの愚かさも感じ、ジャネットへの感情も衰えてしまい、事態を穏やかに収拾できないものかと思索した。約30年後の妹マットの証言によれば、ブラシュキ家の姉妹たちはみなジョンとの結婚を望んでいたのだという。しかしその年のクリスマス前、父ルイスがブラシュキ夫人(ジョンを家に迎えることには好意的だった)に対し、ジョンは以前から結婚する意志を持っていないという話をしてしまったため、今まで嘘をついていたと見なされて姉妹たちとは破局となってしまった。翌1887年4月にアルベルトを訪問した時には、ジョンは姉妹たちとほとんど口をきくことが無かった。その後1888年10月にジョンはジャネットとは和解したが、ジャネットから後先を考えずに行動した点をとがめられるなど双方間のわだかまりは無くなることはなく、エヴァとはついに和解出来なかった。従兄アルベルトの妻ミニー・ベーレントに会う際も、ジョンは生涯気まずさを感じることになった。

 

困窮していたモナシュは家庭教師を続けていたが、大学の学業を続けるためにはやはり限界を感じていた。そこで友人のジム・ルイスを通して、エンジニアの求人について下調べをした。当時ヴィクトリア植民地政府や自治体による公共事業はブームを迎えており、若いエンジニアたちが経験を積む機会は多くあった。ルイスはデヴィッド・マンロウの土木会社よるプリンセス橋建設事業における契約エンジニアとして採用されていたが、1885年末には彼の勧めでモナシュもそこで契約エンジニアになることが出来た。当時マンロウはオーストラリア最大級の土木・機械業者として著名になっており、スワンストン通りとセントキルダ道を結ぶプリンセス橋 (幅約100フィート)建設の仕事も、メルボルンの繁栄を象徴するような大事業であった。この時のモナシュの週給は30シリングで、家庭教師の時と比べてもあまり割に合うものではなかったが、経験を積むために不平を言わず懸命に仕事を行った。

 

ジム・ルイスはエンジニア業におけるモナシュの知的好奇心の高さ、常に物事の原因を追究して問題を解決し、仕事を必ずやり遂げていく姿勢に強く感銘を受けたと証言している。約2年間に渡りモナシュは橋台・橋脚・擁壁などの設計・製図の補助を担当したが、時には植民地政府の官僚や高官と言葉を交わしたり、重機運用や採石に関するフィールドワーク経験を積んだりもした。努力の甲斐あって『エイジ』の記事に有能なエンジニアの一人として紹介されたことはモナシュにとって誇りとなり、ヘンリー・ロッホ総督や大学のカーノット教授、ヴィクトリアエンジニア協会が現場視察に訪れたこともあった。2年目には給料は週給2ポンドになり、御影石や青石の設置、石工の仕事も経験した。職人たちの親交を深めるためのピクニックでは会計役に抜擢され、囲い堰が崩れる事故が起こった時には、果敢にも泥の中に入っていき測量を行った(直ちに修正されたのだが、計算間違いもした)。1887年後半にはプリンセス橋はほぼ完成していたが、モナシュは引き続きヤラ川にかかるクイーンズ橋建設事業において、石工の仕事計画を担当した。その後もフッツクレイ、ムーニーポンズ、コーバーグ、フレミントン鉄道橋の仕事に加わった。一連の仕事を通して、モナシュはマンロウの下で仕事を続けていくことには限界も感じ始めたようであるが、1888年1月に週給が10シリング上昇した際には率直に喜んだ。

 

大学では1886年前半はほとんど勉強をしていなかったが、モナシュは学士課程を終えることには望みを持っており、9月初めからは友人のオハラのアドバイスも得て数学・物理学・地質学・古生物学を猛勉強した。しかし試験では失敗し、数学以外を落としてしまう。翌1887年2月の追試にはこれらに政治経済学(友人のジョージ・ファーロウからノートを借り、12月からはアダム・スミス、J・S・ミル、ハーバート・スペンサーなどを読んでいた)の科目も加えて臨むことにしたが途中で気が緩んでしまい、地質学を落としてしまった。パートタイム学生で全ての科目を学ぶこと自体が困難を伴うものであったことに加え、自身の能力を過信していたことが失敗の背景にあった。そのためモナシュは1887年度は早期から勉学の準備を行い(7月の学生会の親睦会にはしっかりと参加した)、友人のウィル・スティールとともに地質学に加えて経済学・法学を学んだ。10月のほとんどは女性との社交や市民軍での試験に費やしたがそこから腰を据え、しっかり時間割を作り勉強した。仕事を一旦休んで試験に臨んだ結果、物理学や数学を含む5科目に合格し、スティールやファーロウらと喜びを分かち合った。しかし1888年2月には、地質学および初年度のラテン語に合格することで、教養学士と工学学士の課程を満たす必要があった。数学の優等試験にも挑戦(在学期間を満たしていれば修士号の授与にも繋がるため)してみてはという励ましもあったが、モナシュは既に数学者になるには実力が不足していると考えており、数学を探究してアカデミアの道を歩むことは諦めることにした。そのかわり「うんざりする仕事」であるラテン語試験に臨まなければならなかった。この時の試験勉強は以前に増してはかどり、カトゥルスの詩に親しむ喜びもあったようであるが、結局市民軍での案件や友人との宿泊、観劇に熱中してしまい、2月のラテン語試験はまたしても不合格となった。これには流石にモナシュも自責の念にかられ、面目を失った。

 

1886年6月30日に大学中隊を辞めた後、モナシュは一時的に市民軍の勤務に魅力を感じなくなっていた(5月には工兵の採用も受けていたが、不採用だった)。しかし大学中隊の人員の多くはメトロポリタン旅団の要塞砲兵隊・ノースメルボルン砲兵中隊に移っており、モナシュの友人である医学生、ジョー・ミラー准大尉やジョージ・ファーロウもそこに所属していた。8月頃よりモナシュは考えを改め、新たな出世が狙えるかも知れないということで砲兵中隊への入隊をミラーに相談した。ミラーたちは中隊長のジェイコブ・ゴールドスタイン少佐にかけあったが、正式に加入が認められたのは約半年後の1887年3月3日になってからだった。4月5日に試験を経て少尉候補生となり、ポートフィリップ湾にある要塞砲兵駐屯地に赴いた。敵艦隊が侵攻してきた際にはネピアン堡塁の海岸砲を自らが指揮し、最初の一発を撃つことになるかもしれないと、当時のモナシュは空想することがあったという。市民軍への参加は社会的ステータスや社交機会のため、あるいは華やかな制服に魅力を感じたためといった動機もあったが(※1888年頃のモナシュ)、軍事の理論・技術への関心は次第に強くなっており、非常時にはヴィクトリア植民地を防衛することへの責務自体には強く共鳴していた。モナシュはもしもエンジニア業が挫折したときは、正規軍人としてのキャリアを見出そうとさえ考えていたという。

 

上官のゴールドスタイン少佐は当時48歳、アイルランド生まれだが父親はユダヤポーランド人で、メルボルンの慈善団体主催者としても知られていた(※左から二人目がゴールドスタイン少佐)。娘にはのち女性参政権論者として著名になるヴァイダ・ゴールドスタインがいた。ゴールドスタインは寛大さが目立つ人物でモナシュを厚遇し、1887年6月22日には総督官邸の舞踏会に彼を連れて行ったこともあり、モナシュを大いに喜ばせた(※総督はイギリス国王の代理として植民地ソサエティの頂点にあることから、総督主催の舞踏会やパーティは特に重要なものと見なされていた)。ブリティッシュではなくユダヤ系の出自のモナシュが社会的成功をおさめるためには、ゴールドスタインは模範となりうる人物であった。一方で、もう一人の35歳の上官ジョン・スタンリー大尉については、モナシュは親切心(ミラーと共にメルボルンの教養クラブであるヨリック・クラブに連れて行ってもらったことがあった)と残酷さを伴った人物であるとして、当初は好印象を抱かなかった。勤務が始まるとモナシュはゴールドスタインの指示に従って、演習室では絵入りの地図を用意するなど尽力した。砲兵中隊の舞踏会では幹事を務め、6月以降はパレードを指揮するなどして信頼を高めていった。拳銃・小銃射撃はまだ不得意であったが、部下にレクチャーすることには喜びを見出した。ゴールドスタインはモナシュに対して、「筋の通ったおべっかhumbugを伴いつつも非常に聡明な男」なる印象を抱いたというが、両者はよき友人となった。1888年3月末には9インチ砲の射撃訓練で初めて隊を指揮し、夜間の模擬戦闘では強い印象を抱いた。7月にモナシュはファーロウ宛ての手紙の中で、部下とも上官とも関係は良好で中隊内に確固たる地位を築けている旨を伝えた。

 

モナシュはフルタイム学生ではなくなったこともあり、1886年1月より従兄のアルベルト・ベーレントが幹事を務めるヴィクトリアドイツ人協会Deutscher Verein von Victoriaにも加入していた。会話はドイツ語で行われ、喫煙会smoke-night(午前3時まで飲み明かすこともあった)や舞踏会、ピクニック、スポーツなど3年のうちに十数回の社交イベントに参加した。しかし毎年のピクニックに退屈を感じたり、カイザーの誕生日の祝賀会に対しては「自分には合わない」という感想を漏らしたりした。あくまでイギリス本国にシンパシーを感じていたこと、パンゲルマン主義的思潮の高まりに反感を覚えたことを理由に、次第にドイツ系クラブに対する熱意を失うようになった。ただし、ローゼンハイン家(のち妹のルイーズが嫁ぐことになる)やハンツマン家などの家族とは、親しい交流を継続していた。1886年にはダンスの練習にも力を入れ、ワルツをマスターして社交イベントに役立てようとした。1886-87年にかけてはプライベート、市民軍、大学、ドイツ系クラブ、自転車クラブ、各種舞踏会など、モナシュの社交関係は非常に多岐に渡っていた。

 

1886-87年にかけては、ピアニストとしてもモナシュの腕前はピークに達しており、メンデルスゾーンウェーバーベートーヴェンショパンを嗜んだ。1886年7月にはメンデルスゾーンのコンチェルトが気に入っていると言っているが、ハイドンベートーヴェンのシンフォニーのピアノデュエットも、アルベルトら親戚・友人と演奏するなどしたためお気に入りであった。初見演奏は容易に行うことが出来、社交場でもしばしばピアノを披露して多くの称賛を受けた。モナシュは高度な音楽をマスターすることは個々の人格を素晴らしいものにする効果があると考えており、文学や演劇と同様に、音楽は強い修養の力を有していると確信していた。

 

1886年12月-87年1月にかけて、モナシュはマーティン・シモンセンのオペラカンパニーによるイタリアオペラを10回以上鑑賞し、鑑賞の際には山高帽を被っていき友人たちを驚かせた。アルフレッド・セリアーのコミックオペラ『ドロシー』には感銘を受け、楽譜を購入して練習を行うほどだった。『プリンセス・イーダ』『テンペスト』を鑑賞したほか、エッシー・ジェニンズが演じる『空騒ぎ』を好んだ。読書面ではオリヴァ―・メンデル・ホームズの『朝食テーブル』シリーズに感銘を受け、ジョージ・エリオットの『ロモラ』については友人のウィル・スティールと長時間議論し、メルボルンを舞台としたファーガス・ヒュームの小説『二輪馬車の秘密』が発表された際には、即座にそれを読むなどした。絵画も時折行っており、グローヴナー・ギャラリーの展示会を見に行ったこともあった。

 

モナシュはウィル・スティールや少年時代からの付き合いであるアーサー・ハイドとは、政治や哲学の議論をするなどして親交を深めた。法学課程をパートタイムでこなしていたジョージ・ファーロウとも気が合い、要塞砲兵隊での勤務を共に楽しみ、行軍任務を念頭に入れた徒歩旅行に出かけることもあった。1886年のクリスマスにはギップスランドのウォラガル~ドルアン~プオンのルートを踏破した。翌1887年にはリリーデイル~ヒールズヴィル~ファーンショウのルートを往復し、1888年のクリスマスにはヒールズヴィル~メアリーズヴィルウォーバトンを踏破した。1889年以降はファーロウと共にマウントバッファローまでしばしば出かけ、キャンプを楽しんでアルプスの自然や神秘に魅了されるなどした。ファーロウによれば、モナシュは旅行先の地勢や人々の生活、エンジニアの仕事の可能性について熱心に観察し、最適のルートを見つけるのが上手い「よきブッシュマン」の資質を有していたという。しかし一方で、モナシュは3マイルも歩けばペースが落ちてしまったことも指摘した。徒歩旅行にはしばしば出かける一方で、モナシュはフットボールクリケットに関心を覚えることはなかった。テニスには挑戦してみたことはあったが、自分向きではないとしてすぐに諦めてしまった。毎年11月の競馬のメルボルン・カップには足を運ぶようにはなったが、馬券を買うことはなかった。

 

ブラシュキ家の姉妹たちと破局した後も、女性遍歴については多彩となっており、舞踏会や晩餐会に出かけては女性たちと交流した。1886-87年間の日記には実に50人以上の女性が言及されており、中にはピクニックや劇場に一緒に出掛ける付き合いをした女性もいた。教養のある女性にはとりわけ好印象を抱く傾向にあり、のちジャーナリストとなるアグネス・マーフィーや、ゴールドスタイン少佐の娘であるヴァイダとも知り合った(ヴァイダからは、当初は良い印象を持たれなかったようだが)。1887年冬にはエイダ・クラコウスキやロージー・シルドという女性たちに魅了され、ロージーの家を訪問してショパンの演奏やトランプ手品を披露した。しかし次第にロージーに「移り気な」性格を見出して喧嘩がしばしば生じ、結局翌1888年4月には心は離れてしまった。この時期は、いわゆる「ソーシャルライオン」の道を目指すばかりに社交や恋愛で心身をすり減らしていた他にも、学業の問題や仕事のプレッシャーで上手くいかないことがあり、日記の中で悩みを吐露して珍しくウイスキーを深酒したこともあった。しかし仕事をすることが不幸から逃れる最良の手段であると認識するに至った。友人のウィリアム・スティールからも手紙のやり取りを通して、助言や励ましを受けた。

 

モナシュは1888年3月、ジム・ルイスから「冗談交じりに」メルボルンのアウターサークル鉄道建設事業の仕事を持ちかけられ、参加することに決めた。試用期間3か月+12か月の雇用期間、週給7ポンドという好条件だったが、器具準備や助手の雇用は自腹であったので実質週給4ポンド程度だった。一方でモナシュはこの時期マンロウとは不和になっており、彼からは「恩知らず」とまで言われたが、4月には彼の会社を離れることになった。モナシュの雇用主は過去に幾つかの鉄道事業を手がけていたグレアム・アンド・ワディックという建設会社だった。アウターサークル鉄道はオークリー~キャンバーウェル~フェアフィールド間の事業で、のち公共事業ブーム期間における「無駄な投資」と評されることになるが、当時はギップスランド~スペンサー通り駅を繋ぐ実用的なルートと見なされていた。モナシュはその後3年間で線路(約11マイル)・道路(約15マイル)・鋼製高架橋・下水渠等に関する17万ポンド相当の事業に参画し、下請け人らと共に作業計画立案、仮設工作物の設計、機械調達等を担うことになった(※当時の仕事風景)。モナシュは同僚たちや植民地政府の土木監督官と交流することで自身の資質を認めさせた。エンジニアとして職人たちを監督することは、軍隊における将校と下士官の関係に通じるものがあると実感するようになった。一方で11月末に工夫達が賃上げストライキを起こした際はこれにシンパシーを感じることは少なく、深酒に代表される彼らの不品行をとがめたこともあった。モナシュ自身も雇用主とは3年間で10回近く問題が生じたことがあったが、概ね彼の満足する形に解決することが出来た。若手の助手であるジャック・グレイやW・B・ショー(ジョージ・バーナード・ショーのいとこにあたる)と親交を深め、1889年中頃になると仕事に対するプレッシャーも軽減された。1889年9月には、監督したフェアフィールドの架橋工事でロープが切れて巨石が落下する事故があったが、九死に一生を得た(石工が一人重傷を負ってしまい、モナシュが病院に連れて行った)。

 

最終契約年の1890年6月、キャンバーウェル~オークリー間の鉄道が開通した。モナシュは11月、自身が監督したフェアフィールド橋を土砂降りの中ではあったが試験し、喜びを得た。3年間で膨大かつ広範囲の経験を積むことが出来たので、後悔はないと振り返った。契約上の諸問題への対処や、仕事の駒かな役割分担指示は見事なものであると評価された。業務日誌は毎日正確に記述し、各種文書には日付を記入してコピーを保管し、常にノートや明細書を携帯し、文書のファイリングは徹底すること、契約が満了するまではいかなる文書も廃棄しないことを心がけていた。資材調達においては1ヤード毎に各資材がどれほど必要かを計算し、天候の変化、工夫達の作業効率の判断などにも気を配った。運に助けられた要素もあったとはいえ、学位取得前の学生エンジニアとしては、申し分ない働きぶりであった。グレアム・アンド・ワディック建設会社の完全な契約満了は結局1891年9月まで延びることになったが、同社は退職の際、モナシュに推薦状を用意してくれた。

 

参考文献

Australian Dictionary of Biography

Miles Evergood/Vida Jane Goldstein/Elizabeth Esther Helen Jennings/Henry Brougham Loch/David Munroを参照しました。

 

オーストラリア辞典

ウォーバトンウォラガルゴウルドスティーン(ゴールドスタイン)、ヴァイダ(ヴィーダ)・メアリー・ジェーンメアリーズヴィルメルボルン・カップを参照しました。

 

Peter Andreas Pedersen, ‘The Development of Sir John Monash as a Military Commander’, Ph.D Thesis, 1982. ※軍歴関連の典拠

Geoffrey Serle, John Monash: A Biography, Carlton, Melbourne University Press, 1982. ※主要典拠

藤川隆男編『オーストラリアの歴史 多文化社会の歴史の可能性を探る』有斐閣、2004年。※通史

山本真鳥編『世界各国史27 オセアニア史』山川出版社、2000年。 ※通史