ジョン・モナシュの生涯(仮題) 結婚

アウターサークル鉄道事業に参加して間もない1888年4月に、モナシュは助手としてフレッド・ガブリエルという24歳の青年を雇った。便利屋かつ我が強い人物というのが、モナシュがガブリエルから受けた印象だった。ガブリエルには既に妻とゴードンという2歳の息子がいて、ハートウェルに居を構えたが、モナシュはその一室を事務所として使用した。フレッドの妻アニー・ガブリエル(※アニーとされる女性の写真)はアレンデール近くのクレメンストンに住む機関手の娘で、二人は1884年に結婚した。アニーはモナシュとは同い年で、薄茶色の髪を持ち上品で可愛らしい外見で、教養は高くないが機転が利き、従順で忍耐強い女性というのが、モナシュがアニーから受けた印象だった。

 

間もなくしてモナシュはアニーに本を贈るなど次第に彼女に好意を抱き始め、6月ごろから親密な関係を持つようになった。フレッドは7月、二人がホーソーンの川岸で行った初めての逢引を追跡した時点から、疑惑を抱くようになっていたが、その後も二人はひそかにノートを交換し合う関係を継続し(モナシュはフレッドを出し抜くことに楽しみさえ見出し、ロマンスであり恥ずべきことではないと言い聞かせていた)、8月にはモナシュは熱烈なラブレターを書くまでになった。10月下旬には二人は相互に信頼し合う関係となり、フレッドが留守の間は二人で路面鉄道に乗りブランズウィックまで出掛けることもあったが、疑惑を抱いたフレッドはアニーに乱暴にあたるようになった。間もなくアニーは心身を病むようになり、母親の家で静養となった。モナシュは6週間ほど彼女に会うことが出来なかったが、その間愛情を吐露するような手紙を書いており、二輪馬車に乗りながら手紙の文言を考えていたら衝突事故を起こしたこともあった(なおこの間も舞踏会などの社交活動は継続しており、エイミー・コリーとエヴィー・コリーという姉妹に友人以上の感情を抱いて一緒にメルボルンカップに出かけるなどしたが、長続きしなかった)。

 

アニーは11月に家に戻ることが出来た。暗号文や秘密の隠し場所、信用できる配達人、角灯での合図などを駆使し、二人は短時間なら会うことが出来たが、フレッドは形の上では愛想を振る舞いつつも警戒を持続していた。それでもモナシュはアニーに対し、情熱的かつ独りよがりな手紙を書き送り続けた。モナシュがアニーに出した手紙は115通に上り、これに自身の日記における20万語近くの記述が加わることになるが、これはオーストラリア史における密通事件としては、最も多くの量が記録された事例ではないかと言われている。アニーはフレッドに抗うことに限界を感じており、スキャンダルや不面目を犯すことへの呵責も感じるようになっていたが、「ラウラにペトラルカ、ベアトリーチェにダンテ」であるように自分にはアニーがいなければならないというモナシュの呼びかけを止めることが出来なかった。モナシュはアニーにフレッドとの離婚についても提案するが、それは同時にヴィクトリアから離れて新たな場所で生活することも想定する必要があった。アニーとの関係については友人のジョージ・ファーロウやウィル・スティールには打ち明けており、ファーロウは特にモナシュを説得しようとしなかったが、スティールはモナシュの言動に対し厳重に忠告をした。モナシュはそれを一時心に留めたようだが、1889年の初頭には既に平静を失いつつあった。

 

そして1889年3月16日、モナシュとアニーはキューにあるスタッドリー公園で逢引を企てるが、そこをフレッドに看破された。争いの中でモナシュはステッキと傘を壊され転倒した。フレッドはアニーを掴んでスミス通りの方へ連れて行ったが、モナシュはフレッドに抗うことはなかった(後日モナシュはアニーに対し、スキャンダルをこれ以上悪化させたくなかったからだと説明している)。アニーはフレッドからの逃走を図るものの、2日以内にまた捕まえられた。フレッドは法的手段に訴えることもちらつかせ、知らせを受けたアニーの父は、モナシュに憤怒の手紙を送った。結局アニーはフレッドに見送られ、両親の家に一時帰ることになったが、駅のプラットフォームにはモナシュが隠れていた。自棄になっていたモナシュは路面鉄道に乗ろうとしたが転倒して失敗した。フレッドとアニーが別居になったことはプラスであると自分に言い聞かせ、アニーに手紙で裁判判定による別居について提案した。フレッドは仕事を辞めることになり、モナシュの父ルイスを通じて植民地を離れるための金が欲しいと要求したが、モナシュは応じなかった。モナシュはアニーへの想いは「偉大な素晴らしきインスピレーション」に他ならないと言って諦めきれず、その後も手紙のやり取りをした。4月30日にバララットおよびバニンヨンで再会する約束もしたが、結局9週間にわたって再会することはなかった。5月下旬、フレッドはアニーを再びメルボルンに連れ戻した。アニーはモナシュとの関係を諦めようとしていたが、6月にモナシュは再び連絡を取って、7月中旬よりスタッドリー公園、ブライトンビーチ、トゥーラクといった郊外で何度か密会した。

 

同じ頃の1889年6月22日、モナシュはドイツ系クラブの舞踏会に出席し、当時20歳の美しいユダヤ系女性、ハンナ・ヴィクトリア(ヴィクトリー)・モスに会った。ヴィクトリアは1882年に社交場で一度モナシュと同席したことがあり、モナシュの名前は以前から知っていた。モナシュは直ちにヴィク(こう呼称した)に魅了され、友人となった。8月ごろまで何回か会合や舞踏会での交流を重ね、この時は礼儀作法を守って許しを得た上でヴィクに手紙を書いた。妹のマットを伴ってヴィクの家を訪問し、トランプ手品を披露するに至り、日記ではヴィクが現れたことによってアニーとの関係は少し負担になり始めたとまで告白するなど、気持ちの動揺が生じた。ヴィクは物静かであまり感情を表に出さない女性だったか、モナシュがピアノを披露した際はその腕前に驚きの反応を見せたという。

 

モナシュは8月下旬にかけてヴィクとアニーのどちらの関係を選ぶかで悩んでおり、人生における大きな危機の一つであった。程なくして衝動的になったモナシュは、アニーへの想いは自分にとって「最初の愛であり真の愛」であると言って、彼女のためなら不名誉も背負おうとまで考え、アニーに駆け落ちを提案する手紙を出してアニーの賛同を得た(行先は不明だが、他の植民地と思われる)。1889年9月13日の夜、駆け落ち(アニーの息子ゴードンも連れて)を決行するが、サウスヤラ駅で二輪馬車を降りたところで「(モナシュの日記に曰く)稲妻のように」駆けつけてきたフレッドにより阻止され、アニーは連れ戻された。目に黒あざを作るなど負傷したモナシュだが、友人が傷心の彼を慰めた。数日後、モナシュは日記の中で「スティールは正しかった。これは悪夢incubusであった」とつぶやいた。また、フレッドがアニーをシドニーへと連れていったことを知った。モナシュはアニーへの未練は薄らいでいたが、その後アニーから音信がないことを叱責する手紙が来たため、駆け落ち失敗を強く詫びる手紙を書いた。そしてもし望むなら親元か他の場所へと逃げるための手助け(シドニーにいる従弟のカール・ロスと協力して)をするという提案もしてみたが、12月に届いた返事ではアニーは既に自身の運命を諦めている様子だった。

 

ヴィクとはしばらく連絡を取っていなかったが、モナシュが「過去を振り返る時ではなく、突き進むのみ」と言って精神的に立ち直ると、再び交流が始まった。9月下旬にエヴァ・ブラシュキの結婚式に出席した際には、モナシュはヴィクとの間にシンパシーが育まれているのを感じた。彼女に会うたびに好意は高くなり、ハイドンのシンフォニーのピアノデュエットを行ったりした。この頃イプセンの『人形の家』も観劇しており、女性の家庭における地位について考えさせられた。

 

10月になるとヴィクはモナシュのことを手記で「ジャック」と表現するようになった。10月8日のドイツ系クラブの舞踏会でモナシュは決意を固め、翌9日ヴィクに手紙を書いた。ヴィクの返事が来た後、二人でヤラ川まで散歩に行き、そこでモナシュが話を持ち掛けた。二人の思いは合意に達し、婚約することになったが、この時モナシュはヴィクの様子が手紙の中よりもよそよそしく、冷たいものに感じられたという。経過としてモナシュとヴィクの婚約は双方の衝動的感情によるものであり、必ずしもロマンティックなものではなかった。それでもモナシュは、ヴィクの姉サラとその夫マックス・シモンソンとは上手く関係を築くことが出来た。父ルイスも婚約を歓迎したが、アニーとの恋愛を支持していたという妹のマットはモナシュの移り気に憤慨しており、婚約は少なくとも1年間は秘してほしいと主張した。

 

ヴィクは食糧販売・宿泊業を営む商人モートン・モス(1800-1879)とレベッカ・アレクサンダー(1829-1882)夫妻の末娘で、両親はともにロンドン出身だった。13歳までに両親とも亡くなったため、姉たちのもとで育っていた。背が高く優美な顔立ちで、音楽の素養があり、「近年のメルボルン社交界の女王の一人」と噂されたこともあった。モナシュはヴィクの教養や作法、物静かな性格には問題があると捉え、自分に相応しいように改善していく意志を抱いた。一方ヴィクはモナシュの過去のゴシップを気にしており、付き合いが続くにつれてモナシュはヴィクから冷淡さや横柄な振る舞いを感じ取るようになった。二人の婚約期間は順調には進まなかったが、結婚するまで18か月間、貞節は維持することになった。モナシュは日記でアニーについて言及することはなくなっていたが、この間出した手紙数は、ヴィク宛が41通に対し、アニー宛は51通だった。

 

モナシュはヴィクの教養やモラルの改善のために口うるさくなり、ヴィクもモナシュに対し「難癖」をつけることがあったので、二人は口論になることがあった。翌1890年1月には、モナシュは日記において「心から愛している」と述べつつも、ヴィクの振る舞いに対して失望や辛苦が少なからず生じていることを吐露している。モナシュは7月半ば、婚約解消を持ちかけてヴィクを驚かせたことがあったが、この時はただちに仲直りをした。しかし8月になると、ヴィクはモナシュを伴わないで劇場に出かけると言いだした。9月には今度はヴィクが別れ話を持ちかけたので、モナシュは彼女の言動に干渉しないと譲歩することを強いられた。しかしヴィクは10月の海陸軍クラブの舞踏会ではモナシュと踊ろうとせずモナシュの面子を潰し、12月には他の男性と街に出かけてモナシュを狼狽させるなど、関係はなかなか改善しなかった(※1890年ごろのモナシュとヴィク)。

 

婚約が決まったことでモナシュは女性たちを追いかけるのはやめにして、学位の問題に専心するようになった。1890年8月のエンジニア学生協会の集まりで、カーノット教授はモナシュに対し工学課程のまだ残っている科目に挑戦するよう促した。これは良い刺激となって、9月にかけてモナシュはジム・ルイスたちから応用力学や土木工学、地質学のノートを借りた。年内に必要とされる各科目の試験には合格し、翌1891年1月からは、実質3週間の詰め込み式ではあるが最終試験に向けての勉強に本腰を入れた。ルイスやカーノット教授のアドバイスを受けつつ、一日中大学図書館公共図書館で過ごす日が出来るなど辛苦を重ねた。緊張の中の試験初日は手ごたえを感じたというが、試験最終日前は集中力が切れて市民軍の晩餐会に参加し、酔っ払った末に午前2時の帰宅となった。体調は最悪だったか、それでも試験はこなすことが出来た。そしてしばらく不安に過ごした後の3月24日、モナシュはアーガス奨学金を取得したうえで第二等上級学位の判定で合格していたことを知った。結婚式も控えていた4月4日、友人たちに囲まれながら、最初の学位となる土木工学学士Bachelor of Civil Engineeringの学位を勝ち取ることが出来た。「早熟の天才」としての道はかなり前に捨ててしまっていたが、それでも学んだことを通して生まれ故郷や人々のために貢献する意志は強く抱き続けていた。

 

3月以降もヴィクとの言い争いは続いており、モナシュは学位取得などの成功体験もあったとはいえ、日記の中では将来の見通しへの不安感も吐露していた。しかしそれでも、二人の成功と幸福のために絶対に必要なこととして自分に従ってほしいとモナシュはヴィクに懇願し、裕福にしてみせるとも約束した。4月の結婚式はヴィクの意向を踏まえて行われることになったが、ヴィクの持参金はなく、義兄のマックス・シモンソンが彼女の財産の受託者となった。1週間ほどモナシュは自己憐憫にふけったが、それに対しヴィクはモナシュに過去は忘れて一から出発することをお願いし、結婚前夜には彼に愛の言葉を贈った。ヴィクの性格はモナシュの母ベルタとは大きく異なっていたにもかかわらず、モナシュは自分の母が見せたような従順さをヴィクに求める独りよがりなところがあった。一方ヴィクは個性や知的素養は備えていたものの、教養の幅は狭く思慮や作法に欠けているとモナシュには映り、実利的なことや表面的な社交生活を気にするところがあった。音楽や演劇に共通の趣味とすること以外は、性格面で相容れない面があったが、それでも双方は結婚することに対して異論はなかった。婚約破棄という不面目への忌避も頭の片隅にあったとはいえ、モナシュはヴィクに対する愛情を有していた。

 

1891年4月8日、コリンズストリートイーストのフリーメイソンホールで、ラビのエイブラハムズ師の下で結婚式は行われた。友人のジョージ・ファーロウが介添え人となり、ヴィクには6人の花嫁介添え人がついた。モナシュはヴィクに金時計を贈り、フェデラルホテルで一夜を過ごした後、二人は列車でシドニーへと旅行に出かけた。出発する際にはヴィクは幸福を感じている様子だった。シドニーではグロブナーホテルに滞在し、劇場を何度か訪れ、フェリーや路面鉄道に乗り、美術館、ボンダイビーチの水族館、サイクロラマなどを楽しんだ。翌週にはブルーマウンテンやジェノランケーブに出かけるなどした。モナシュによれば旅行中、シドニーの中央駅で到着時と出発時の2度、因縁の相手であるフレッド・ガブリエルを見たのだという。メルボルンに戻った後、新郎新婦はリッチモンドのレノックス通りに新居を借りることにした。

 

 

※モナシュはアニー・ガブリエルとその後も手紙のやり取りを継続しており、後年にはメルボルンで何度か一緒に過ごしたこともあった。大戦勃発後の1914年11月、モナシュはシドニーのフレッド(この頃は私立探偵をしていた)とアニーの夫妻を訪問し、翌12月に自身が出征する際にもメルボルンでアニーと再び会い、別れの挨拶をしている。アニーの息子ゴードン・ガブリエルも工兵伍長としてガリポリ戦役に従軍した。大戦後もアニーにお金を貸したり、1929年にはシドニーで、1930年にはメルボルンで会ったりするなど交流は続いた。1931年2月、アニー・ガブリエルは死去した(モナシュが死去したのは、同年の10月8日である)。

 

 

参考文献

Monash's liaisons laid bare in lamentable period play ※近年はジョン・モナシュの女性関係をテーマにしたMonash In Love and Warという演劇も発表されている。

Geoffrey Serle, John Monash: A Biography, Carlton, Melbourne University Press, 1982.