ジョン・モナシュの生涯(仮題) 起業をする

1891年1月にアウターサークル鉄道での仕事は終わり、モナシュのグレアム・アンド・ワディック社との契約は9月で完了した。しかしこの頃、既にブームは崩壊しており建設業は振るわなくなっていた。モナシュはその後友人のジム・ルイスと一緒にスペンサー通り橋の建設に携わったが、同時にルイスは思ったよりも仕事における実務能力に欠けているとも感じ始めたという。ヴィクの兄でアメリカの生命保険会社役員をしていたデイヴはモナシュに数百ポンドのローンを提案したが、これは断った。アウターサークルでの経験や学士号の取得が自信になっていたのか、メルボルン上下水道事業に応募したり、シドニーのピアモント橋の設計に応募したり、西オーストラリアでの仕事を見つけようとした。地方支部を通じてロンドンの土木エンジニア協会への入会を希望したが、不成功に終わった。9月までは、大学で水理工学講義を担当した他は、幾つかの自治体で水道・灌漑に関する小さな事業に携わるだけであった。しかし9月にカーノット教授が港湾トラストに欠員があることを教えてくれたので、11月にそこにポストを得ることが出来た。港湾トラストはモナシュにとってあまり好ましい職場には感じられなかったようだが、不況下においてひとまず安心を得ることが出来た。

 

ヴィクとの夫婦仲は円満にはいかなかった。結婚2か月の時点で早くも別居を経験したが、間もなくして仲直りし、一緒に劇場に行ったりもした。この頃世界ツアー中のサラ・ベルナールがオーストラリアを訪れていたため、モナシュはヴィクと一緒に3度も観劇した。またメルボルン大学音楽教授に就任し、オーケストラも組織していたマーシャル=ホール教授に感銘を受けた。1890年に出来たオーストラル・サロンでのミーティングに出かけたりした。モナシュはヴィクにアイヴァンホーを読み聞かせるように言ったが、彼女は続けることが出来なかった。ヴィクは後日その代わり、ディケンズの『互いの友』は最後まで読み聞かせ、その後アラビアンナイトも読むことになった。1891年7月、ヴィクはモナシュの友人ジョー・ミラーから結核と診断されたことから、1か月ほどビーチワースで静養することになった。その間の手紙のやり取りは良好だったが、戻ってきたヴィクが静養地では「ふしだらな」ファッションで「時間を忘れるほど」知り合いと楽しく過ごしたことを話すと、モナシュは失望した。ヴィクはモナシュの日記を勝手に読むことさえあったので、モナシュはヴィクに規範を教え込む必要性をますます痛感した。

 

1892年は経済的に困難な年となり、ヴィクが持っていたインターナショナルホテルの株がなくなり、父ルイスも負債を抱えて家具を差し押さえられており、モナシュは100ポンドを支援しなければならなかった。しかし港湾トラストでモナシュの地位が昇進すると、サウスヤラのキャロライン通りに引っ越した。ヴィクとのいさかいは続き、ある時はモナシュがヴィクに脅しをかけ、ヴィクが義兄のマックス・シモンソンのもとに逃げてしまったこともあったが、この時はマックスがモナシュをなだめ、2日後にはヴィクは戻ったので事なきを得た。年半ばには両者の関係は改善し、ヴィクは妊娠するに至った。1893年の新年、モナシュは日記の中で自分の妻を誇りに思っていると証言している。そして1893年1月22日、娘のバーサが誕生した。友人たちは大いに祝福したが、モナシュはシナゴーグでの命名式は行おうとしなかった。バーサは夫妻にとって唯一の子どもとなった(※父ルイス、娘バーサと一緒に撮った写真)。

 

ヴィクがビーチワースで静養中の1891年8月よりモナシュは測量士の勉強に努めており、1892年1月からは給水工学エンジニアの試験勉強も行っていた。チューターにはダブリンで工学学位を取り1889年にヴィクトリア植民地に移住してきたJ・T・ノーブル・アンダーソンについてもらった。アンダーソンが過去問を準備してくれたこともあり、モナシュは給水工学エンジニア試験において3科目で満点を取る成績をおさめた。さらにモナシュは友人のスティールとファーロウの指導の下、法律の勉強に着手する。当時、事業の最終決算等をめぐって政府・自治体と請負業者との間で仲裁裁判がしばしば発生しており、将来のキャリアの成功のためには法律学の素養が不可欠であるとモナシュは考えていた。1892年は仕事の予定を一部変更しつつ、短期間の勉強で財産法・債券法・ローマ法(ローマ法は18時間勉強した日を含めて3日間という詰め込み式であった)の試験に合格、12月にはブラックストンの法釈義に加えてウィリアム・ハーンエドワード・ジェンクス(両名ともメルボルン大学教授)の著作を読みこみ、憲政史と法制史の試験に合格した。翌1893年は、試験が6週間前に迫った9月から勉学に本腰を入れた。講義には出ることなく、学費の工面や過去問の入手などにおいてファーロウやスティールの支援を受け、勉強法のアドバイス講義ノートエドマンド・アームストロングJ・S・バッティ(両名とものち図書館員)、ジャック・マッケイらから得ることが出来た。10月以降はかなり気持ちが張り詰めた状態で勉強し続けたため苦悩も多く伴ったが、本番の試験では衡平法・訴訟手続・国際法に合格した。さらに12月には長年の天敵であったラテン語にも合格し、教養学士Bachelor of Artsの資格を満たすことに成功した。この間、1893年初頭の時点で工学修士の取得条件も満たすことが出来ていた。しかし必要な学費を納める関係で教養学士および法学学士LL. B.を取得したのは1895年のことになった。(初年度から向学心がありフルタイムで学業に努めていれば数学をより究められたかも知れないという見方もあるとは言え)ともあれ、パートタイムで行っていた学業の成果としては、十分すぎる到達点であった。

 

モナシュは市民軍においては1889年1月に海陸軍クラブに入会して社交場の基盤とし、6月には大尉試験に合格し昇進を待った。要塞砲兵隊の教練を行う中で教授スキルも向上し、1889年末にノースメルボルンの中隊事務室で講義を行って好評を得た。中隊舞踏会での食事は将校とは隔てて行うべきではないという下士官たちの要望を支持するなど、下士官兵士たちとの関係も良好であった。以前は悩みの種であったスタンリー大尉との仲は、互いが理解を進めていく中で改善された。1889年7月よりスタンリーは少佐となってゴールドスタインの後任中隊長となり、友人のジョー・ミラーは大尉、モナシュは准大尉となったが、この時モナシュはスタンリーを「活発な良い指揮官」と評価していた。1880年代当時の植民地部隊の装備は旧式で、未だ前装式砲の使用を続けていた(※他植民地の市民軍部隊でも、本国の軍隊がリー・メトフォード銃やリー・エンフィールド銃に更新していく中でも、マルティニ・ヘンリー銃の使用を続けているといった事例が見られた)。スタンリーはモナシュに、演習用に木製ダミーの後装式5インチ砲を製作することを命じた。モナシュはコストを計算し、装置および砲架の設計を行い、メカニックも呼ぶなど苦心した。完成した砲は新聞上では「スタンリー・モナシュ演習砲」と呼称されて称賛する記事が掲載され、スタンリーは前防衛相のF・T・サーグッド大佐にモナシュを紹介するなどした。当初防衛省は製作費用を出さなかったので開発は自費となったが、有用性が認められたことで防衛省は140ポンドを支払った。特許や賞与に関しては認めなかったがモナシュの評判は高まり、演習砲は重宝されてその後数年間使用されたという。間もなくしてスタンリー少佐は参謀将校の任務に就くため転属となり、後任指揮官はミラー大尉が望ましいとモナシュは考えたが、実際に就任したのは郵便局役員のアウトトリム少佐だった。モナシュのアウトトリムへの評価は、「寛大が過ぎる男で、軍隊にはとても向いていない。悪くいい加減な指揮官」という厳しいものだった。

 

結婚生活や港湾トラストでの仕事、学位取得に追われている時期のモナシュは、市民軍への労力はあまり割けず、教練に参加しないこともあった。それでも近代的銃器・火砲・爆薬・戦争における機械技術等の知識を徐々に養っていき、市民軍内では数々の講義を担当した。モナシュが担当した講義は『アーガス』記事上では適切なイラストレーションも交えた「第一級の講義スタイル」であると評され、1893年8月の大学科学クラブにおける砲兵技術の講義では幻灯機スライドを入念に準備するなどして臨んだ結果、ヴィクトリア植民地軍司令官のアレクサンダー・タロック少将からは落ち着いて講義出来ていたと称賛された。その一方で正規軍砲兵指揮官のディーン=ピット中佐には資質を認められつつも、毒舌を吐かれることがあったとモナシュは証言している。翌1894年初頭にはイングランドのシューバリネスでの砲兵課程への参加を持ち掛けられたが、政府が旅費を出せないということで実現しなかった。当時は不況による給料減額も正規軍・市民軍ともに深刻で、それは1890年代末にならないと回復しなかった。

 

モナシュはソルトウォーター川の旋開橋の設計、ヴィクトリア・ドックの上屋、道路、排水路等の設計の仕事を行った。1892年3月には水道局の欠員に応募し不採用となったものの、その後何人かの学生に給水工学の試験について指導し、大学の土木・水理工学の試験官となった。港湾トラストにおいては1892年に年俸260ポンド、正規雇用での主任製図者となり待遇は良化した。1892年4月から7月にかけては港湾トラストを離れ、前職のグレアム・アンド・ワディック社と鉄道局との間の追加請負金をめぐる訴訟の仲裁人の仕事を担当した。

 

首府メルボルンは「素晴らしきメルボルン」(階級格差の問題もまた深刻であり、「臭う町スメルボルンSmelbourne」という側面もあったのだが)とまで讃えられ繁栄を極めたヴィクトリア植民地であったが、1890年代には経済崩壊が深刻となった。1893年4月から5月にかけては殆どの銀行が支払い停止となり、モナシュもメルボルン市内はパニック状態であったと証言している。モナシュが利用していた2つの銀行も支払い停止となったが、口座への預金は少額のみだった。ヴィクトリア植民地の失業率は28%を超えていたとも言われ、公共事業は軒並み停止となった。エンジニアたちの失業も多く、若手の者たちは経験を積むためにと無給と言われても働いた。友人のルイス(プリンセス橋の事業に参加していた頃は年収700ポンドを稼いでいた)も困窮していたため、モナシュは日給10シリングの数日間の仕事を都合してあげたことがあった。親族を見ても、1893年5月にはモナシュの叔父マックス・ロス(モナシュの叔母ウルリケの夫)が負債を負ったまま亡くなったため、その息子たちはウルリケや下の妹たちの面倒を見なければならなくなっていた。モナシュはこの大不況は、農業・鉱業の改革や伝統的保護貿易の転換を通してしか解決できないと考えていた。

 

大不況下では港湾トラストも従業員、給料、仕事の削減を強いられた。モナシュは何とかそこから免れることが出来たが、1893年8月の時点で専門職として残っていたのは、彼と主任エンジニア、監査役2名だけとなっていた。しかし1894年2月、さらなる人員削減が計画されたことから、モナシュは3月にかけてコミッショナーE・L・ゾックスに対し精力的に働きかけるが上手くいかなかった。モナシュは4月13日に解雇通知を受け取り、20日に港湾トラストを去った。その後タスマニアの水力学エンジニア職や友人のミラーの薦めでブランズウィック測量士職などにあたったものの、不採用となってしまう。そのためモナシュは、以前自身のチューターを担当してくれたJ・T・ノーブル・アンダーソンと一緒に個人営業によって不況を乗り切ろうという大胆な決断をした。彼らは同い年で、1891年10月頃に会って以来親交を深めており、アンダーソンの妻エレン・アンダーソンはヴィクとも仲が良かった。1892年3月にアンダーソンは機会があれば合名会社を設立することをモナシュに提案していたが、同年11月の彼らが担当している学生たちを交えたピクニックを主催した際に、モナシュはアンダーソンの提案を承諾することにした。その後1894年6月、モナシュ・アンド・アンダーソン社は正式にエリザベス通り49番に設立された(※アンダーソンの家族との写真)。土木・鉱山・機械エンジニア、特許代理人を請け負う会社としてスタートを切った。日給は2ギニーとされ、これはロンドン土木エンジニア協会が定めた最低賃金であった。

 

娘のバーサの誕生をモナシュは喜んだが、結婚生活は容易には進まなかった。1893年4月にヴィクの肺病治療のためにデイルズフォードで3週間休暇を過ごしたときは、ヴィクと不仲であった妹のマットと衝突が生じた。ヴィクは総督官邸の舞踏会に出席した際、将校として個別に招待されたモナシュに対し苛立ちを覚えた。またモナシュがオーストリア軍の将校 (※1893年に訪豪したオーストリア海軍コルベット艦「サイダ」乗員と思われる。同年にはフランツ・フェルディナント大公も「カイゼリン・エリーザベト」に乗ってシドニーを訪問しており、オーストラリア史の文脈で第一次世界大戦を語る際にはしばしば触れられる話となっている) を接待した結果酔っ払って帰宅したため、夫妻の関係はさらに悪くなり、ヴィクは他の男性との外出をしばしば行うことになった。12月にヴィクは再び妊娠するが、この時は流産であった。翌1894年1月、ヴィクは別居を持ち掛け、義兄のマックス・シモンソンが仲裁に努めたものの4日間家を出てしまい、その後マックスが説得して何とか家に戻らせた。秋から冬にかけて関係はいくらか落ち着いたが、モナシュは日記の中で家庭内の苦悩や不満について吐露し続けた。またヴィクの振る舞いについて忠告する内容の匿名の手紙なども受け取った。なお家計が苦しい中でも、使用人は雇用し続ける必要があった。

 

1894年9月、ついに事件が起こった。ジャック・マッケイの選挙活動を手伝って夜遅く帰宅したモナシュをヴィクが強くとがめた。モナシュはヴィクを抑えようとしたが、自分に手を出そうとしていると見なしたヴィクは娘を連れてシモンソンの家へと行ってしまい、別居の準備をし始めた。モナシュも使用人を解雇した後、ホーソーンで父や妹たちと同居し始めた。モナシュはヴィクが戻ってくる場合は今までの衝突については水に流そうとする一方で、戻ってこない場合は法的権利を主張する必要があるだろうと考えた。その後父と一緒にシモンソンの家を訪問し、(半ば強引に)娘のバーサは連れ帰ることが出来た。バーサは妹のマットとルーが面倒を見ることになったが、ヴィクとの仲直りの術は模索したままだった。ファーロウに促されて、モナシュは友人たちともこの問題について話し合ったが、ヴィクやその友人たちはモナシュに強い非難を浴びせていた。それでもモナシュは仲直りできることを信じ、ラビのエイブラハムズ師に仲裁のお願いもした。しかしヴィクは12月10日、兄デイヴ・モスの手配によってイギリスに向けて出航することになった。狼狽したモナシュはヴィクにアデレードかアルバニーで下船するよう必死に呼びかけたうえ、船の船長にヴィクの様子を注意して見ていてほしいというお願いまでした。

 

ヴィクが出航して間もない12月15日、父ルイスが63歳で急死した(2日前にミラーの診察を受けたばかりだった)。メルボルンヘブライ教会が葬儀をあげ、モナシュもシナゴーグに赴いた。殆どの資産は債権者へと委ねられたが、ジェリルデリーやそのほかの資産は売却されるまでに数年かかった。遺産は殆んどなく、しかも数か月後にはモナシュと妹たちはヤラ通りの実家を抵当差し押さえで失ってしまった。家庭内がこの状態だったので、1895年前半をモナシュは取り乱した状態で過ごした。頻繁に劇場に通い、海陸軍クラブや喫煙会で多くの時間を費やした。カーノット教授やゴールドスタインの勧めで、メルボルンの教養クラブであるヨリック・クラブにも入会した。酔っ払って明け方に帰宅することもあったが、交流があったカード家やクラコウスキ家、スティールら友人たちはモナシュに好意的に接していたという。大工・チェス・写生といった趣味も再開した。様々な横道に逸れる一方で、モナシュはヴィクに戻ってきて欲しいという思いは決して捨てることがなかった。

 

7月13日、ヴィクから突然手紙が来て、戻ってくることを伝えた。モナシュはこれを勝利と思う反面、再会することへの気まずさもあり思い悩んだ。ヴィクは25日に到着した。モナシュは戻ってきた後のヴィクの愛情や作法が好転していることを感じ取り、将来の良い前兆であると考え、自身の日記にも「君を何度もキスし 君を大切に想って抱く」と彼女への愛情を再確認する内容の詩を書いた。モナシュは旧家に近いコピン・アンド・イサベラ・グローヴズに週5ポンドの家賃で近居を借り、妹のマットとルーたちと共に引っ越した。しかしその後もヴィクはモナシュの意思に反して勝手な出費をしたり、無断で友人と競馬場や劇場に出かけたりすることがあり、モナシュを悩ませ続けた。それでもヴィクが戻ってから1年間以内には、(途中で妹たちが別居をするようになったこともあり)家庭内の落ち着きや満足という点では比較的改善が見られた。

 

モナシュ・アンド・アンダーソン社の仕事に関しては、南ギップスランドを中心に各地自治体に売り込みを行っていたが、エンジニアよりもむしろコンサルタントとしての採用が目立った。ギップスランドにおいて鉱業で成功していたコールクリーク会社はモナシュたちをコンサルタントとして採用し、『エイジ』への投書を通じて地域産業保護について雄弁な宣伝活動を行った。ムールダックの粘土の委託販売を担当したときは、デヴィッド・ミッチェル(※ネリー・メルバの父親)のセメント会社のマネージャーをしていたジョン・ギブソンの知己を得た。労災事故の訴訟に関する仕事、バーウォン川の可航性についての調査、マウント・ライエル社の雇用に関する仕事、沈没船引き上げのためのシンジケートへの参加など多岐に渡る仕事を引き受け、将来のより大きな事業に参加できることに期待を寄せた。アンダーソンは快活な人柄で聡明、特に数学力はパートナーのモナシュを上回る面があり、大学では機械工学の講義も担当していた。ただしモナシュは、アンダーソンの取引面での卓越性を評価しつつも、仕事を継続的に正確に行うことには難がありビジネスマン的では無いとも評した。

 

1895年半ばより、モナシュたちは1201ポンドからの大きな契約となる、ランディズ・ドリーム産金会社の、ギップスランドのウォルハラから7マイル離れた地域のロープウェイのデザインと敷設の事業を任された。ロープウェイは長さ約1マイル、石英輸送のためのものだったが事業は苦労を伴った。設計はモナシュたちが一から行う必要があったにもかかわらず、会社は整地を十分に行っておらず、イギリスに発注したロープは到着が遅れた。途中でモナシュが痔核と下痢の症状に悩まされるなどの困難もあった。工事が完了しつつある翌1896年5月には、工期が延びてしまったことについての契約を巡って会社と対立が生じ、モナシュとアンダーソンは訴訟を起こしたが、結局12月に一部の支払金を諦めることで和解が成立した。ロープウェイの仕事は徒労が多いものとなったが、ウォルハラでは1896年2月から7月にかけてはゴールデンフリース社のボイラー輸送・設置の仕事も引き受けており、こちらは概ね順調に完了させることが出来た。この年アンダーソンはミルドューラの灌漑の仕事を見つけ、ヒルズビルの自治体とも契約を結んだ。モナシュもストルゼレッキ石炭会社のコンサルタントとなり、同社の路面線路の改良に努めた。

 

この時期の市民軍勤務ではモナシュは退屈を感じることが多かった。中隊長のアウトトリムと友人のミラー大尉は退役が近く、上官のW・H・ホール少佐からはモナシュを昇進させる話が来たが、一旦は流れてしまった。1894年7月より参加したヴィクトリア軍人協会では、懇談会や陸海軍の装備の展示、講演について提案をホールに対して行った。提案は受け入れられ、10月には現代兵器の発展と題した発表を行い、モナシュの評判は高まった。植民地軍司令官のチャールズ・ホールド・スミス少将らから賛辞の言葉を貰い、協会幹事の地位を得たが、思ったよりも退屈でわずらわしい役職であると感じ、1897年に仕事のため役職を辞した際はむしろ喜んだという。

 

1895年10月14日、昇進試験から暫く待たされていたモナシュはようやく大尉に昇進し、その翌週に総督が閲兵をした際には副官をつとめた。学校長にしてメトロポリタン旅団を指揮することになったホール中佐は、10年以上に渡りモナシュのよき指導役となった。1896年7月、アウトトリムはモナシュに砲兵中隊の指揮を委ねるとし、自身は予備役になった。9月24日、モナシュはノースメルボルン要塞砲兵中隊長となった(※1896年頃のモナシュ)。10月下旬までモナシュは自身の中隊を上手く訓練し、やりがいや自信を感じる一方、12月に少佐試験を受けた。「教練」で99%、「砲兵戦術」で98%、「連隊任務」で87%の成績を収め、乗馬試験は不首尾ではあったが総合的には合格した(既に駐屯部隊での勤務が長くなっていたが、歩兵・騎兵の運用についても理解を深める機会になった)。1897年4月2日、少佐への昇進が発表された。歩みが滞った時期もあったが、31歳としては非凡なキャリアであった。

 

参考文献

Australian Dictionary of Biography

Edmund La Touche Armstrong/ James Sykes Battye/William Edward Hearn/Edward Jenks/George William Louis Marshall-Hall/David Mitchell/Ephraim Laman Zoxを参照しました。

 

オーストラリア辞典

ウォルハラ素晴らしきメルボルンミルドューラ1890年代不況、金融恐慌を参照しました。

 

Jeffrey Grey, A Military History of Australia, 3rd edition, Melbourne, Cambridge University Press, 2008[first published 1990].

Peter Andreas Pedersen, ‘The Development of Sir John Monash as a Military Commander’, Ph.D Thesis, 1982. 

Geoffrey Serle, From Deserts the Prophets Come: The Creative Spirit in Australia 1788-1972, New edition, Clayton, Monash University Publishing, 2014 [first published 1973].

Geoffrey Serle, John Monash: A Biography, Carlton, Melbourne University Press, 1982. 

藤川隆男編『オーストラリアの歴史 多文化社会の歴史の可能性を探る』有斐閣、2004年。

山本真鳥編『世界各国史27 オセアニア史』山川出版社、2000年。