ジョン・モナシュの生涯(仮題) ⑥試行錯誤

1897年冬にかけてモナシュたちの事業は好転し、モナシュは法律関連legal-engineeringの仕事の主導者的役割を担うようになった。その後の2年間はおよそ4分の3の時期を他植民地で過ごすことになり、クイーンズランドに4回、ニューサウスウェールズに6回、西オーストラリアに2回出張した。最初の仕事はクイーンズランドバンダバーググラッドストン間の鉄道を請け負い、植民地政府と契約について争っていたバクスター・アンド・サドラー社で、モナシュは1897年6月よりクイーンズランドに出張し、V・J・サドラーと共にバンダバーグ地域を視察した。9月以降にかけて20件・総計25000ポンド相当の請求訴訟をまとめ上げ、モナシュはヴィクに対し自身が大きな仕事に従事しており、将来成功を勝ち得ることへの自信を語った。

 

この時期モナシュの痔の症状は良化していたが、憂うつや嘔吐、下痢に悩まされていた。訴訟関係でブリスベンに出張した際、モナシュはヴィクの助言に基づき飲酒を避け、その結果11-12月頃には体調は良化した。パイナップルその他の果物を食べることで食事の節制も始め、着替えやシャワーの頻度も高くした。11月10日から始まった訴訟ではモナシュは日給5ギニーを得たが、仕事は10週間ほどの長期間に及んだ。当初鉄道局はモナシュの参与に批判的で、クイーンズランド法曹界の長アーサー・ラトレッジも反対意見に立っていたが、モナシュはシドニーW・H・ウォーレン教授らと懇意となり専門家証言を集め、訴訟は成功に終わった。モナシュはヴィクに年収2000ポンドを得られそうであることを伝え、その日暮らしではあったが、ピアノを55ポンドで購入するように言った。ただし訴訟の結果はバクスター・アンド・サドラー社が7722ポンドを得る(モナシュは最低でも8000ポンドを予想していた)に留まり、モナシュへのボーナスも支払われなかった。

 

1897年後半から1898年初頭にかけては、モナシュはジェリルデリー地域の農民・市民たちのアドバイザーの仕事、牧畜業者のマコーイ兄弟(デヴィッドとサミュエル)によるビラボングよびコロンボ・クリークの灌漑事業の訴訟の仕事も抱えていた。モナシュは1897年7月~10月の間、クイーンズランド出張の合間にジェリルデリーの周辺を乗馬や軽馬車で視察して水路やダムを調査し、クリスマス前にはシドニーの法廷に工事を再検討することに関する証拠を提出した。1898年3月にはシドニー最高裁における賠償請求訴訟「ブラックウッド対マコーイ裁判」の準備をリヴェリナで行い、弁護士のジュリアン・サロモンズに助言をした。5月に訴訟が再開され、マコーイたちは総計12000ポンドの賠償に加え、これ以上水を引く工事を控えることになった。

 

モナシュがアンダーソンよりも収益を挙げている時期には両者の間には緊張も生じたが、1898年にアンダーソンはミルドューラとバララトで新たに仕事を得ることが出来た。一方で二人ともメルボルンに不在のことがあるため、部下を雇わざるを得なかった。アンダーソンはヴィクトリア鉄道に対してヒールズヴィル~ウッズポイントのルートについて提案をし、モナシュに対しては飛行気球の可能性についても強調した。モナシュはアンダーソンの手腕の才走っている傾向を心配したが、モナシュもアンダーソンに自身の説教癖を詫びることがあった。アンダーソンは1897年9月、シドニーのカーター・ガモウ社のエンジニア、F・M・ガモウに会った。ガモウはメルボルン大学で工学を学んでエンジニアとなり、カーター・ガモウ社としてシドニーアデレード上下水道等の仕事を手がけた後、オーストラリアにおけるモニエ式強化コンクリート建造についての特許を取得していた。交渉の結果モナシュ・アンド・アンダーソン社は、ヴィクトリア植民地におけるモニエ式の特許代理人となることが出来た。これはヤラ川に架かるアンダーソン通り橋(モレル橋)やジロング近くのバーワン川に架かるフィアンズフォード橋などの建設事業に繋がることになった。モナシュは西オーストラリアに出張していたため、当初これらの事業に参加していなかったが、1898年3月にはシドニーでガモウと会うことが出来、そこでモニエ式について教授を受けた。

 

モナシュはバクスター・アンド・サドラー社と西オーストラリア植民地政府のマラウォーキュー間の200マイルの鉄道事業に関する訴訟に従事するために、1898年7月にサドラーと共に今度はパースへと旅立った。モナシュはパースまでの船旅でバクスターやその友人たちとトランプ遊びに興じた。当初は5週間程度の仕事と思っていたが、西オーストラリアでは12か月を過ごすことになった。到着後バクスターが競馬や飲酒などで遊んでしまったため仕事開始は遅れたが、1週間以内にはモナシュは路線を視察して仕事に着手した。バクスター・アンド・サドラー社はモナシュにパースの社交界に入ることを許可しており、ジョン・フォレスト首相ら要人が出席する晩餐会に参加し、首相夫妻には個人開催のパーティに招待されたこともあったが、次第に社交疲れも感じるようになった。

 

パースではアウターサークル鉄道時代の友人W・B・ショーが舗装用の割石に有望な採石場の権利を有していたが、資金が足りずにいた。モナシュはそれに自身の所持金から200ポンドを投資したが、共有の基金からの更なる100ポンド以上の投資については、リスクを冒したくないアンダーソンと衝突した。アンダーソンとは互いの意見を強い口調でやり取りすることがしばしばあったが、「攻撃的」までにはならなかったという。モナシュはアンダーソンを説得できずに残念がったが、それでも約30%の権利および年間500ポンドの収入が見込めることから満足した。しかしのちこの事業は失敗に終わったため、結果的にはアンダーソンの判断の方が正しかった。

 

パースでの仕事は長引いたが、交際費も限られてきたのでモナシュは社交界を避け、図書館などに通うようになった。日曜日は旧い付き合いのエイダ・クラコウスキ(この時は結婚しエイダ・ベンジャミン)とその夫と過ごし、過去にエイダと不仲だったヴィクにはこのことは話さなかった。ピアノを1日1時間は練習するようになり、アマチュアオーケストラで伴奏をすることもあった。結婚してから中断していたヴィクとのピアノデュエットも、再開したいという思いも抱いた。一方で9月半ばにはサドラーがパース駅で他のビジネスマンと喧嘩騒ぎを起こし、モナシュも巻き込まれるという災難にも遭った。10月には小さな顧問業務のためカルグァリーを訪問して旅行記をしたため、のちアンダーソンから出版の価値があると評せられた(現存せず)。モナシュはヴィクとバーサをパースに連れてくることを提案し、喜んだヴィクはバーサと一緒に12月にパースに到着、6か月をここで過ごすことになった。ヴィクは総督官邸やフォレスト家といったパースの社交界に参加、新年競馬には着飾った衣装で足を運び、生地屋のハリー・ボーン夫妻と仲良くなった。パース市長から良いレセプションを受けたこともモナシュに自慢した。匿名でダイヤモンドの指輪が届けられたこともあったという。

 

案件は長引いていたが1899年1月、モナシュは西オーストラリア政府に対する最後の要求にあたった。2月は余暇を過ごすなどして平穏に過ごし、審理に入ったのは4月末から5月にかけてであった。仲裁人は西オーストラリア植民地の主任エンジニアであるオコナーで、モナシュは弁護士で連邦運動家のウォルター・ジェイムズと協力して法務官や政治家のセプティマス・バートに対抗した。結局バクスター・アンド・サドラー社は最高裁に入る前に45000ポンドでの示談が成立し、悪くない結果となったが、モナシュへのボーナスは無く徒労も大きかった。それでも1000ポンド以上の年収は達成することが出来た。

 

1899年7月にメルボルンに戻った時、アンダーソンはヤラ川、フィアンズフォード、クレズウィックの3か所のモニエ式橋梁の仕事をガモウの教授を受けて担当しており、モニエ式の導入についてはヴィクトリア公共事業部のエンジニアであるウィリアム・デヴィッドソンカルロ・カタニの承認を得ていた。ヤラ川に架ける95フィートのアーチを3つ備えたアンダーソン通り橋は、ガモウも経験したことがない大掛かりなものであった。アーチの強度の面で懸案事項があったが、モナシュがメルボルンに戻った2週間後の7月20日には15トンのスチームローラーによる強度テストが行われ、成功裏に終わった。モナシュはこの事業への参加は僅かであったが、それでもこの橋をヤラ川に架かる橋では最もエレガントなものであるとして誇りに思った。

 

モナシュはモニエ式橋梁を鉄製の橋よりも効率的なものと考え、カーター・ガモウ社の主任設計者であるW・G・バルツァーの助言も得て、その方式をマスターに努めた。バルツァーはドイツ系移民で元はニューサウスウェールズ公共事業部に務めていたが、ドイツにおいてモニエ式橋梁について学んだ後、カーター・ガモウ社において新技術をオーストラリアに浸透させるべく奔走していた。またモニエ式のコンクリートパイプ生産も有望な業界であったことから、シドニーにあるガモウの工場製のパイプを見本として取り寄せ、メルボルン・メトロポリタン建設委員会に働きかけた結果、アンダーソンとガモウはメルボルンにパイプ工場を造る計画を立てるに至った。モナシュはセメント生産・建設業者として成功しネリー・メルバの父としても著名であったデヴィッド・ミッチェルと連絡を取り、そのマネージャーであるジョン・ギブソンを通して、パイプ生産に必要なセメントを供給することの約束を取り付けた。モナシュはドーマン・ロング社の鉄道橋建設の監督、土地建設委員会訴訟の仲裁人といった仕事をした後、さらに1900年にかけてはベンディゴウの8つの小規模橋、ブラセンの大規模橋の建設、メアリーバラ近くの鉱山に機関台設置等の仕事を請け負ったが、公私ともに多忙さを感じてしまった。

 

モナシュとアンダーソンはしかし、自治体の業務不履行の問題を過小評価していた。アンダーソンはフィアンズフォードにおける4つのアーチを備えた橋の建設をガモウおよび現地のセメント業者リチャード・テイラーと協議し、1897年末に設計を行った。コライオおよびバノックバーン自治体のエンジニアやセメント工場の支持は取り付けたが、自治体議会は植民地政府からの補助金を得るのに苦労し、1899年2月まで契約にサインすることが出来なかった。工事自体はスムーズに進み、契約日前の11月に完成見込みであった。しかし自治体は負債利子を抱えていたために報酬支払いを意図的に延期した。アンダーソンは何度か工事を中断したが、自治体の議員から反感を買い、支払いを遅らせるために橋のテストも延期されてしまった。モナシュとアンダーソンは仲裁人を呼んでテスト日の折り合いをつけてもらわなければならなかった。結局1900年2月16日、多くの観衆が見守る中、18トンのローラーを用いてテストが行われた。

 

当初の契約は4507ポンドでこちらは支払われたが、モナシュとアンダーソンは監督エンジニアと協議し、追加工事費を併せて6142ポンドの報酬とするよう説得した。しかし2か月後、自治体はエンジニア間での公約は無効としており、最終の報酬支払いを行うつもりはないと考えていることをモナシュたちは知り憤慨した。自治体が支払いを認めたのは5250ポンドまでだった。モナシュとアンダーソン追加請負金等約2000ポンドの支払いを求めて訴訟準備を起こしたが、審議開始は14か月たってからで、その間アンダーソンが腸チフスに倒れ、モナシュはヴィクとの関係も再び悪くなり、従弟のルイス・ロス(※叔母ウルリケの息子)が横領で起訴されるなど、公私ともに苦難が続いた。

 

クレズウィックから7マイル離れた場所にあるウィーラーズクリーク橋も、1898年にガモウの監督のもとアンダーソンが設計したものであった。モナシュは1899年9月より架橋事業に加わっており、工事は概ね順調で1900年3月に行われたテストも満足いくものだった。しかしその年の8月までに橋は崩落の危険が指摘されるようになった。理由はモニエ式の設計そのものではなく、コンクリートの質が良くなかったためと考えられたが、結局修復代の大半は会社が受け持つことが取り決められ、殆ど収益が得られない事業となってしまった。1900年のブラセンのタンボ川に架かる橋の建設では、植民地政府の監督官から妨害を受けた。440フィートの大きな木製の架橋事業だったが、木材の質をめぐってC・クリステンセン親方(ウォルハラで一緒に仕事をして以来懇意だった)と監督官との間で諍いが生じた。モナシュもメルボルンの公共事業部のカタニ技師に直接訴えかけるなどして、最終的には事態を収拾させたものの、ブラセンには8回以上も出向いて、監督官やカタニの主張に耳を傾けなければならず、事業の利益率も減退してしまった。

 

1900年10月にベンディゴウに小規模のモニエ式橋を8か所、7000ポンドの費用で建設する事業が、自治体議員たちの承認を得た。翌年初頭から工事は始まり、コンクリートは二人の主要な融資者であるミッチェルの会社およびフィアンズフォードのテイラー社から調達された。ところが1901年5月14日、キングスブリッジのアーチが試験中に崩落してしまう。モナシュは間一髪無事だったが、牽引車が転落して、見守っていた同僚一人が死亡する惨事となった。モナシュは妹マットに宛てた手紙の中で「我々にとって非常に悪い事態」と吐露しつつ、「それと向き合い、償っていくのみ」と語った。調査では橋の基本的デザインは非常にオーソドックスで問題ないとされたが、アーチの曲がり方が過度で、橋台の一か所に圧力が集中し過ぎていたこと、あまり用いない25トンローラーで試験を行ったことが挙げられ、モニエ式の設計に問題がある訳ではなかった。しかしモナシュとアンダーソン設計の橋は、モナシュの監督下でベンディゴウ自治体のエンジニアによって再設計された。自腹で橋の再建をすることに同意し、その費用は約1000ポンドとなったが、ミッチェルとガモウは引き続き彼らを後援した。同年10月、ベンディゴウの委員会で契約解消が提案された時にはモナシュは不安にかられたが、キングスブリッジの再建工事は翌1902年1月に無事完了した。

 

一方、コンクリートパイプ事業ではモナシュたちは前進が見られた。1901年1月、モナシュはオーストラリア連邦の成立式典をシドニーでガモウと一緒に迎えたが、商談の方も良い方向へと向かった。モナシュとアンダーソンはミッチェルと共にヴィクトリア・モニエパイプ会社を設立し、互いが40%のシェアを得るということで合意した。またガモウはヴィクトリア植民地における特許の権利を500ポンドで売却することになった(権利の完全購入は1903年末)。メルボルン郊外のバーンリーの工場におけるミッチェルの代理人は、ギブソンやE・A・ニュービギン、A・リンチの面々が担当した。1902年初頭、小規模の売り込みが公共事業部とプラーラン自治体に行われたが、建設委員会や鉄道業界とはまだ契約が出来なかった。この年の後半、モナシュは工場でパイプ技術の習得に努めたが、10月にはミッチェルの娘でオペラ歌手として有名となっていたネリー・メルバに工場を案内するという機会も得た。

 

ファンスフォードの架橋事業の報酬をめぐる問題は深刻であった。1年以上も遅配が続いていたためモナシュたちは自治体を訴え、1901年6月より審理が行われた。司法官はハートリー・ウィリアムズで、追加請負金を支払うべきだというモナシュたちの主張に好意的であったが、自治体側は大法廷に訴えかけた。モナシュたちの側にはレオ・カッセンが立ち、自治体側にはエドワード・ミッチェルアイザックアイザックスが立った。1902年2月に上訴は受理されたが、判決は延期され6か月先のことになった。裁判の費用は約4000ポンドに及んでいたが、判決ではモナシュたちは主張の5分の1の金額しか得られなかった。ミッチェルやサドラーは憤慨し、アンダーソンもさらに闘う姿勢を見せたが、モナシュはこれ以上裁判費用をかけるのは適切ではないと考え譲歩することにし、1903年4月に大法廷のものよりも若干穏健な内容で妥協した。しかしモナシュは終生、ファンスフォードの橋を訪れることを避けてしまったという。モナシュたちは裁判で3000ポンド以上の損失を出しており、ミッチェルやガモウらに対し少なくとも1000ポンドの負債を抱えてしまった。大家族を養う必要があったアンダーソンは1902年5月、ニュージーランドダニーデンに下水道建設の仕事を見つけ旅立ってしまった。ただしビジネスパートナーとしての関係は継続しており、短期間メルボルンに戻ってくることはあった。

 

モナシュも事業で負債を抱えることになったことについては自尊心を傷つけられる面が多く、数年間は返済の工面や事務弁護士の手紙に悩まされ、家賃や生命保険料、各種協会やクラブの会費をしばしば滞納してしまい、妹のマットの誕生日プレゼントを買えない年さえあった。この時期、健康面でもモナシュは不安を抱えた。1898年に皮膚病を患った後、1899年8月にはインフルエンザに襲われ、7度も医者が往診にきた。次の4年間も冬季はインフルエンザや悪性の風邪を患っていた。1897年にグレートオーストラリアンアルプスにあるヴィクの療養地を訪れて以降はまとまった夏期休暇は取っておらず、定期的な運動の習慣はなく市民軍のパレード以外では乗馬も行わなかった(自転車についても、モナシュはヴィクともども乗らなかった)。日々の業務と市民軍勤務がかろうじてモナシュを肥満から救っている状態だった。一方でヒゲが濃くなって、頭髪が後退し始めたことは認めていた。

 

一人娘バーサの養育にもモナシュは力を注いだ。バーサの書きものは全て日付付きで保管しており、バーサが4歳の時からモナシュは聖書物語を読み聞かせ、5歳からはピアノの稽古を始めた。12歳になった時は、英語の古典文学20冊を読ませるなら何が適切かを妹のマットに相談している。バーサはストラサーン校で学んだ後プレスビテリアン女学校で学び、さらにフィニッシングスクールで学ばせる予定であった。後年の手紙では、バーサは父が辛抱強く自分の教育に力を注いでくれたこと、特に音楽を身に着け、寛大な心を持つように育ったことに強く感謝の意を示している。教育が熱心かつ厳格であった一方で、バーサの誕生日の際には、いつも新しい遊戯や余興が用意されていたという(※1908年頃の家族写真)。

 

モナシュとヴィクのいざこざは相変わらずであり、倹約嫌いで気まぐれな傾向があるヴィクは、自分を子ども扱いしてくるとしてモナシュに憤慨し、モナシュも自分にシンパシーを感じてくれないことに不平を言ったので、ピアノデュエットをすることはなくなってしまった。一方でモナシュはヴィクを自分の意のままに教育することは既にやめており、また後年義弟のウォルター・ローゼンハインには、当初うんざりするものだった関係性は徐々に緩和していったと語っている。1898年頃よりヴィクは結核やその他の病気を患い体重の減少も著しかったので、生活環境を変えるために何度か引っ越しを繰り返した。負債を抱えて倹約が必要であるにもかかわらず、モナシュとヴィクは舞踏会や観劇などの社交行事は一定量キープし続けた。この頃はジェームズ・カシウス・ウィリアムソンの劇場会社、リカード・ティボリ会社のヴァラエティーショーに多く足を運び、マーシャル=ホールのオーケストラやメルボルン男声合唱団の後援にも力を注いだ。演劇のチケットは全てコレクションブックに貼りつけて保管すると同時に、観劇した演目の包括的なリストの作成は、学生時代より継続していた。1901年5月の連邦議会の開会式、1902年のネリー・メルバの帰郷祝賀行事にも参加した。1897年8月にはリカードのヴァラエティーショーで初めてヴィクトリア女王の即位記念式典の映画を視聴し、女王陛下や本国および植民地の軍隊の映像に強い感銘を受けた。

 

モナシュは妹のマティルド(マット)とルイーズ(ルー)に対しては週3ポンドの援助を行った。マット(※1908年頃の写真)とは不仲になった時期もあったが、30代になると関係は落ち着いていた。マットはモナシュと同様の聡明さがある一方、社交に関しては不得手で遠慮しがちであり、兄よりはラディカルな考えの持ち主だったといわれる。マットはユニヴァーシティ高校などでフルタイムの国語教員を務めたことがあったが、身体が弱かったことから長く続かず、個人教授の仕事に専念することが多かった。末妹のルー(※写真)はモナシュよりも8歳年少で、12歳の時からはマットが面倒を見ていた。プレスビテリアン女学校で学んだ後、体育教員を目指してハリエット・エルフィンストン=ディックのギムナジウムにも3年間通った。その間タイピングや速記法も学習しており、モナシュの仕事を手伝ったこともあった。マットと同様定職を見つけるのには苦労したが、社交的な性格はマットよりも大きく勝っており、友人は容易に出来るほうだったという。メルボルン大学で工学を学びユダヤ系ドイツ移民の出自でもあったウォルター・ローゼンハイン(※写真)と交際し、ローゼンハインがケンブリッジに移ってからも手紙のやり取りをしていたが、1901年3月に結婚の承認についてモナシュに相談した。モナシュは初めてあった時の印象が「非礼」に映っていたこともあり、当初はローゼンハインの「気取り屋」な性格を嫌っていたが、冶金学における彼の業績に感服し、結婚を認めるに至った。1901年末に二人は結婚し、モナシュは祝福の手紙を送っている(負債を抱えていたため、結婚式の祝電は送れなかった)。ルーが初めて妊娠した時は暗号文でそのことが伝えられたため、モナシュは解読するのに1時間以上かかったという。

 

ルーがイギリスに渡った一方で、マットは経済的事情もあり叔母のウルリケ・ロスと一緒に住むことになった。モナシュはマットとヴィクを再び同居させることも考えたが、不首尾に終わっている。ウルリケの健康状態は1902年頃より悪化しており、手術も受けた。それでもモナシュはルーに対し、叔母は年齢よりも力強く若々しい印象を受けると書き送っている。しかしウルリケの3人の息子(カール、ルイス、ハーマン)たちはいずれも問題を抱えていた。カールはニューサウスウェールズで薬剤師としての仕事に失敗してこの頃は行商人をしており、ウルリケやモナシュにも援助を懇願するまでになっていた。ルイスは1900年に横領のため告発され、18か月の実刑となり、モナシュは保釈金を払わなければならなかった。釈放後のルイスは、西オーストラリアに渡って再出発を誓い、事務員の職を見つけモナシュへの借金返済に努めた。1903年には、今度はモナシュが事務員として数年間雇っていたハーマンの横領罪が明らかとなり、家族の衝撃は大きくハーマンは家から放逐されてしまった。ロス家のこのような状況もあってか、叔母ウルリケにとってモナシュは心の支えのような存在に映っていたという。また従兄のアルベルト・ベーレントとはしばらく疎遠になっていたが、1897年にアルベルトが家族とヨーロッパに戻ろうと決めた時にはモナシュは驚かされた。アルベルトと家族はウィーンに移って仕事を探したが失敗し、結局4年後には戻ってきた。かつて自分の教師役も担ってくれたアルベルトに関しても、モナシュは支援をする必要があった。

 

モナシュは市民軍のパレード後は海陸軍クラブによく出入りし、ビリヤードやスヌーカーをして大いに楽しんだ。スコッチ・カレッジの卒業生クラブへの参加も歓迎された。メルボルンのジェントルマンクラブであるヨリック・クラブでは1896年に監査役になったが、こちらは会費未納のため1902年からは続けることが出来なくなった。メルボルン大学(卒業生)クラブでは主催者としての役割を果たし、資金計画を立て、チェスや印刷機をクラブに寄贈した。1902年には委員会で最多得票数を得たものの、翌年には副会長のポストを辞した。大学クラブはモナシュにとって主要な社交場の一つとなった。

 

30代になると交友関係にも変化が生じた。モナシュはビジネス・市民軍・各種クラブの社交界で広く関係を築いていく一方で、大学以前の旧友たちとは疎遠になりがちとなった。ジョージ・ファーロウとは市民軍の同僚や法律相談相手として未だ親密さを維持していたものの、ウィル・スティールは30歳前に父親から婚約した女性との結婚を反対されると塞ぎがちになり、モナシュに自殺をほのめかしたが慰留された。しかしその後は疎遠となり、隠遁状態になってしまったというスティールは1912年に死去した。市民軍の同僚だったジョー・ミラーも1902年に死去し、「学生時代の最も近しい親友」であったことを想い出してモナシュは悲しみに暮れた。『ヘラルド』のジャーナリストのアーサー・ハイドとも音信不通だった。ジム・ルイスは仕事のためタスマニアに渡ってしまっていた。

 

負債を抱えた時期、モナシュは読書に思うように時間とお金をかけられなかった。それでも1899年から1904年にかけては、ブリタニア百科事典一式、名画集、著名文学双書、アラビアンナイトなどを購入予約している。1901年からは写真を始めたが、スキルとしては上達しなかった。大工や陶芸、素描といった趣味も機会が大きく減ってしまった。結婚して以降はドイツ系クラブには行かなくなってしまい、1899年には所持していたドイツ語小説400冊を体操協会へと寄贈した。ドイツにゆかりがある知人や親族に宛てた手紙も殆ど英語で書いており、ドイツ語による会話力や作文力が低下していることを従弟のブルノ(叔父マックス・モナシュの息子でウィーン在住)への手紙では吐露している。ヴィクは贖罪の日にはシナゴーグに行くようにしていたが、モナシュは行こうとはせず、ヴィクに断食はちゃんとしているのかと揶揄われることもあった。メルボルンヘブライ会には席を置いていたが、1896年頃より会費を払わなくなった。1905年に一度除名されるが、結局滞納金を払うことで1907年に復帰している。ユダヤ教基金ユダヤ文学協会にも登録のみはしていた。ただしユダヤ系の典型的な気風や慣習には、批判的とも取れる表現を用いたこともあった。

 

モナシュの政治観はスコッチ・カレッジやメルボルン大学、市民軍の各間での交流や経験を経る中で培われた。リベラルの『エイジ』ではなく保守系の『アーガス』を購読し、オーソドックスな自由貿易論者であり、反社会主義者(1895年に砲兵の講義を行った際に、社会主義者を敵視する発言をしている)であった。下層階級にシンパシーを感じることは少なかったというが、慈善活動そのものには好意的であった。1890年代のパターソン政権の緊縮財政や土地政策は支持しており、1894年の選挙で敗北すると落胆は大きかった。1897年の選挙ではダンカン・ギリースフレデリック・サーグッドら保守派を支持しており、ディーキンやアイザックスとは対立する立場にあった(ただし選挙の半年後にシドニーで二人に会った時は、好意的な雰囲気だった)。モナシュは決してイデオロギーの戦士ではなく、選挙期間以外は政治運動にかかわることはなかったが、マッケイやJ・A・ボイドら友人を支援することには精力的であった。1900年にディーキンがオーストラリア憲法の制定のために渡英したときはそれを見送った。ヴィクトリア女王崩御したときは追悼式典に参加し、帝国連合連盟会員も一時務めていたが、活動は不活発だった。中国系住民に対しては彼らの文化慣習を揶揄する発言を残しつつも、鉱業において優れたスキルを有していることに感心するなど、当時としてはリベラルな視点も持ち合わせていた。1900年よりモナシュはメルボルン大学の改革運動にも参加し、人事の改善や理工学教員の待遇改善などを訴えかけた。1903年6月からは3か月間、水理工学の授業も担当し、その年末には土木エンジニアⅠ・Ⅱの授業についての名誉試験官に指名された。

 

モナシュの手紙の整理は非常に几帳面で、休日の日課として行い続けていた。綺麗に折りたたんだ上で書き手や受け取った日付を裏面に記入し、紐でくくって日付順に束にしていった。自身が手紙を書くときは速書きで、修正したり草稿を準備したりすることは殆んどなかったという。1900年頃までは殆どの手紙を透写しておいたが、のちにタイプライターに替わった。各種コンサート・演劇・喫煙会・晩餐会・舞踏会のプログラムやチケット、招待状は全て記念本を作成し、入念にファイリングすることにした。

 

モナシュは既に40歳代に近づいていたが、そのことを祝賀の気持ちでは迎えることは出来なかった。結婚生活は常に困難を伴っていたこと、長男が生まれず大家族になりえなかったこと、未だ負債を抱えていたこと、市民軍勤務に物足りなさを感じていたことなどが背景にあった。1902年には妹のルーに宛てた手紙の中で、近年は成し遂げられたことが少なく熱情も減退してしまっているという悲観的な想いも述べている。1902年-1903年カイネトンやバララトなどで幾つかの小規模モニエ式橋梁の建設事業を手がけたが、利益は少なかった。特許事務の仕事でも幾らかの利益を得たが、モナシュは達成感を得られなかった。エッセンドンの路面電車の仕事が来たこともあったが、計画倒れとなってしまった。一方で、1905年頃までは月に一度は法廷に現れて助言や証言を行うなど、仲裁裁判における技術面のアドバイザーとしての仕事では活躍し、アイザックアイザックスからは「議論の要点や正否を完璧に理解しており、自身の見解は明快に表現し、対立意見の誤謬は何でも指摘する」とその手腕を評価された。1902年、モナシュ・アンド・アンダーソン社は苦境から脱するためにマーレー川のクーンドロック~バーラムを繋ぐ、鋼鉄製の270フィートの橋の建設計画に入札した。この時は資金難からサドラーが融資を取りやめたので、A・G・ショーの建設業者がこれに替わった。天候や技術面のトラブルも生じ、モナシュは約6か月間の工期延長を余儀なくされたが、州政府は予算を承認していなかったので工費支払は先送りとなった。1903年10月に橋は完成し、式典には連邦・州政府の政治家たちも出席したが、またしても利益の少ない事業となってしまった。

 

モナシュは次第にガモウやバルツァーから強化コンクリートに関する知識や技術を得ることが煩わしくなってきた。そのため1903年、モナシュはドイツで発刊されている月刊誌Beton und Eisenの購読を申し込み、ドイツ語の技術文献も揃えることにした。会話力や作文力が低下していると漏らしていたモナシュだったが、ここでは自身のドイツ語力を申し分なく活かすことが出来た。1904年にはヴィクトリアエンジニア協会で「強化コンクリート梁の諸分析」という報告を行い、1906年にも「T形鋼設計による試験の健全性」について報告した。モナシュは政府や各機関にモニエ式強化コンクリートを橋梁や排水渠、水タンク、ダム等に用いることの(金属や煉瓦、それ以前のコンクリートに比べての)コストや耐久性の良さを訴えかけた。1904年6月には入念に準備をしたうえで、ロイヤルヴィクトリア建築協会で講演を行った。

 

モニエ式パイプの契約については、1903年初頭までに建設委員会や公共事業部から小規模の受注を受けていた。モナシュはその後売り込みをかけたが、建設委員会との繋がりが出来ていたファンスフォードのテイラーのセメント会社との競合に敗れてしまい、1903年末までは工場設備やガモウへの特許料のための支払いをする必要もあった。1904-1905年の2年半の利益は3392ポンドとなったが、モナシュは他州への拡大を提案しており、のち南オーストラリアに支社が出来ることになった。しかしモナシュは強化コンクリートを橋梁やパイプよりもむしろ、通常の建物建築に活用するべきであると考えるようになった。そのため1905年にモナシュはサウスヤラの舞踏場の強化コンクリート屋根の工事、トゥーラクにある住居のポーチ(屋根付き玄関)やポルチコ(柱廊玄関)の工事を引き受け、1905-06年にかけてはバンクプレイスにある建物やオフィス(コンクリート建築の耐火性についても宣伝した)、ケンジントンにある土地投資会社の建物などを手がけるなどした。

 

既に事業がモニエ式の建築業やパイプ製造業にシフトしていたことから、1905年初頭にモナシュはそれまでの会社を改めて、強化コンクリ―ト・モニエパイプ建設会社を設立した。取締役はギブソンが務め、モナシュは監督エンジニアという役職に就いた。建築業に関しては、ガモウに手数料を支払う必要があった。そしてモナシュはアンダーソンとのパートナーシップの解消を考えた。ファンスフォードで抱えた負債の返済をアンダーソンは免除される代わりに、今後のモナシュのモニエ式事業による利益の分け前は得られないことになった。1905年4月、モナシュ・アンド・アンダーソン社は正式に解散した。

 

 

1890年代末に要塞砲兵隊はメトロポリタン旅団とジロングを根拠地とする西部地区旅団の2個旅団に再編された。メトロポリタン旅団はホール中佐が指揮し、ノースメルボルン、ウィリアムズタウン、港湾トラストの3個中隊からなった。正規軍を含めて7つの海岸砲堡と1000人弱の人員から成っており、モナシュは1896年にノースメルボルン中隊長となっていた。1897-99年にかけてモナシュは出張して市民軍を留守にする期間が長く、特に西オーストラリアへ長期出張した際にモナシュは市民軍を辞める必要があるかと悲観的になったが、上官のホール中佐は大目に見たため、留まることが出来た。1898年にはターナー政権下で市民軍が拡大され、モナシュが指揮する人員も186人、2個中隊へと再編された。モナシュは自身の中隊が1899年の教練で示した成績を「イギリスの正規軍に匹敵する第一線の中隊」としてヴィクに自慢した。市民軍の将校としては珍しいことではなかったが、南ア戦争にはモナシュは仕事上のスケジュールや家族のことが心配だったため参加することはなかった。植民地政府が砲兵よりも歩兵(乗馬歩兵)・騎兵を優先して派遣していたという事情もあった。後年は南ア戦争に参加しなかったことを残念に思っていると回顧しているが、同時代には「従軍することだけが愛国心ではない」と主張するなど、当初はむしろオーストラリアの戦争参加に懐疑的な証言も残していた。しかしながらヴィクトリアからの派兵が進み世論でも賛成意見が高まりを見せると、モナシュは当初の懐疑論を改め、従軍将兵たちの送別会や歓迎会の企画に力を注ぐようになった。

 

連邦成立後、防衛省メルボルンのヴィクトリアバラックスに置かれると同時に、かつてニューサウスウェールズ植民地軍やカナダ市民軍の司令官を務め、南ア戦争ではオーストラリア部隊を含めた乗馬旅団を指揮したエドワード・ハットン少将が総司令官に就任し、1904年に任期を終えるまで帝国全体の防衛を意識した軍制改革を実施した(改革には正規軍のW・T ・ブリッジズ中佐やC・B・B・ホワイト大尉らも寄与していた)。1903年7月にモナシュの中隊はオーストラリア要塞砲兵隊ヴィクトリア第3中隊に改編された。友人のジェイムズ・マッケイは1905年7月、リード政権の防衛相に就任し、ハットン改革を再検討して(正規軍・市民軍の海外派兵には慎重な姿勢を取った)新たに防衛委員会を設立するなど活躍したが、この時期モナシュはビジネスで懸案事項が多く市民軍での活動は副次的になり、中隊指揮は同僚や部下に任せることもあった。講義の機会は減っていたが、海陸軍クラブ、イースメルボルンやクイーンズクリフの駐屯地での将校たちとの交流は継続し、そこではモナシュは充実感を得ていた。1903年に日本の練習艦隊(司令官上村彦之丞、関連する論考)がメルボルンを訪れた時は、その歓送迎会に参加している。旅団・連隊間の舞踏会でもモナシュとヴィクはホスト役を務めることが多くなった。1905年3月に勤続章を受章し、翌年3月には義勇軍章も受章した。1906年8月-9月にかけてモナシュはジュリアス・ブルッヘ少佐ら正規軍将校による講義を受けて中佐昇進のための試験準備を行い、一次試験を突破した。1907年1月には二次試験を受験し、非凡な成績をおさめたが何故か判断はしばらく留保となったため(ただしモナシュに対する偏見や嫉妬によるものか否かについては、明確な証拠が存在しないという)、モナシュは5月と6月に抗議の手紙を書くなど不満を吐露した。その後10月にようやく昇進決定が通知された。しかしモナシュは既に40歳を過ぎており、また要塞砲兵隊で得られる経験や知識についても、限界を感じ始めていた。

 

参考文献

Australian Dictionary of Biography

James Arthur Boyd/Sir Julius Henry Bruche/Septimus Burt/Carlo Giorgio Domenico Enrico Catani/Sir Leo Finn Bernard Cussen/William Davidson/Sir John Forrest/Duncan Gillies/Sir Edward Thomas Henry Hutton/Sir Walter Hartwell James/Sir Samuel McCaughey/Sir Edward Fancourt Mitchell/Sir James Brown Patterson/Sir George Houstoun Reid/Walter Rosenhain/Sir Arthur Rutledge/Sir Julian Emanuel Salomons/Sir George Turner/William Henry Warren/Sir Hartley Williamsを参照しました。

 

オーストラリア辞典

オーストラリア連邦オーストラリア連邦憲法法カイネトンカルグァリーキューグラッドストンクレズウィック帝国連合運動バンダバーグフォレスト、ジョンベンディゴウボーア戦争マラウォーリード、ジョージ・ヒューストンを参照しました。

 

Jeffrey Grey, A Military History of Australia, 3rd edition, Melbourne, Cambridge University Press, 2008[first published 1990].

Peter Andreas Pedersen, ‘The Development of Sir John Monash as a Military Commander’, Ph.D Thesis, 1982.

Geoffrey Serle, John Monash: A Biography, Carlton, Melbourne University Press, 1982. 

藤川隆男「オーストラリア連邦の成立」木村和男編著『世紀転換期のイギリス帝国』ミネルヴァ書房、2004年。

スティーブン・ブラード「人種、ネイション、帝国:日英同盟に対する豪州の姿勢1902-23年」平成28年度戦争史研究国際フォーラム報告書