ジョン・モナシュの生涯(仮題) ⑦社会の柱石を目指して 【大戦前まで 終】

モナシュは年に1000ポンドの割合で負債の返済に努める必要があったが、1906-08年にかけてはオーストラリアの景気は好転が見られていた。強化コンクリート会社も事業を拡大しており、モナシュは妹のルーに宛てた手紙の中で「破滅の可能性はなくなった」と語った。1905年より通常のコンサルティングや訴訟関連の仕事はやめてしまったものの、1906年より会社が請け負うようになった事業は、橋梁、タンク、排水渠、大学施設、郵便局、倉庫、サイロ、貯水池など非常に多岐に及んだ。メルボルン大学出身の助手エンジニアを4人雇うなど、スタッフの強化も図られた。1908年の最初の2か月は、かつてないほどの案件を抱え、モナシュは余暇を楽しむ間もなくなってしまったが、それでも収益は上がっていった(裕福になりかつ多忙であった関係で、1907年12月に友人の政治家ジョン・マッケイJohn Mackeyからヴィクトリア警察長官のポストを持ち掛けられた際はこれを断っている)。滞納金を支払うことで、ロンドンの土木エンジニア協会へ復帰し、準会員から正会員への昇格も実現した。

 

1906年6月にはデヴィッド・ミッチェルとジョン・ギブソン、牧羊業者のC・H・アンガスの出資の下、E・H・ベイクウェルを取締役として南オーストラリアに子会社を設立した。1907年より同会社はポート・ヴィクターの鉄道橋やアデレード港の埠頭、商業施設等の事業を手がけた。モナシュはコンサルティングエンジニアの立場から、会社の収益の2.5%を獲得することが出来た。ここまでのモナシュの成功は、ミッチェルとギブソンの力によるものが大きかった。1916年にミッチェルが亡くなった際には、自身が苦境の時期に助力してくれたことを忘れることは出来ないという思いを強調し、その死を悼んでいる。ギブソン(弟のロバート・ギブソンはのち連邦銀行総裁となる)はスコットランド出身の工業化学者として1890年よりミッチェルのコンクリート事業に協力していたが、モナシュは彼に対しても、自身のビジネス再建を支援してくれたことに深く感謝する言葉を贈った。会社の職工長の立場にあったアレックス・リンチもまた、モナシュの片腕として尽力した。

 

サンフランシスコ地震の復興事業はコンクリートが主流で行われたということもあり、強化コンクリートに対する抵抗感は薄れていったが、従来の建設業者や職人たちの抵抗は未だ存在していた。モナシュは1907-08年にかけてヴィクトリアエンジニア協会や王立ヴィクトリア建築士協会、ヴィクトリア化学協会などで広報を行い、懐疑的な建築士たちに働きかけた。その際、義弟のローゼンハインはイギリスにおける強化コンクリートの使用事例を提供した。しかしプレストンの貯水池事業では、請負をめぐって大きな論争となった。建設委員会は強化コンクリート会社の入札を認めるつもりであったが、他の建設業者や建築家協会が長きに渡り反発を続けた。1908年5月の『ビルディング』誌では強化コンクリート会社は建築家や建設業者の立場を不当に奪っており、オーストラリアの建築業界は重大危機に陥っているとまで書きたてられた。建設委員会の給水工学エンジニアのE・G・リッチーも、強化コンクリートに懐疑的で欠陥が生じることを危惧していた。委員会ではモナシュの評判を落とすために、割目の入ったコンクリート写真が提出されたこともあった。しかし1910年初頭にかけてモナシュは聴聞会を闘い続け、最終的には強化コンクリート会社に有利な形で仲裁がなった。

 

メルボルン公共図書館のドーム(読書室)建設事業の件も、モナシュにとっては痛手となった。当時の図書館長で友人のエドマンド・アームストロングは、大英博物館アメリカ議会図書館のようなドーム型の読書室建設を提案し、基本設計はN・G・ピ―ブルズ (ベイツ・ピ―ブルズ・アンド・スマート社)が担当することになった。詳細構造についてはモナシュも参与しており、強化コンクリート会社の入札も認められる見込みであった。ピ―ブルズとも一緒にバッファローに出かけるなど親交を深めていた。ところが建築家協会は図書館に代理人を送り、設計の再検討と一般競争入札の実施を図書館理事に対し要求した。図書館側はモナシュに知らせることなしにこれに譲歩したため、モナシュは憤慨した。その結果1909年5月、強化コンクリート会社に替わってスワンソン兄弟とイングランドのトラスド・コンクリート・スチール社の入札が決定、カーン式建築を採用して再設計された建物は、一時的にではあるが世界最大の強化コンクリートによるドームとなった。落胆と立腹が大きかったモナシュだったか、ピーブルズとの親交は以後も継続した。なお度々批判された強化コンクリート建築であったが、1910年に特許が事実上開放され、広く浸透することになった。

 

モナシュの年収は1907年には約2000ポンドほどであったが、1909年には約7000ポンドにまでなった。モナシュは収支計算を入念にまとめており、1908年には3146ポンド、1910年には14097ポンド、1913年には30000ポンド以上の財産を有するに至った。メルボルンのオースティン病院や救世軍への寄付も始めた。経済的に余裕が出てきたこともあり、モナシュは1907年2月、当時ノイローゼ気味になっていたマットをルーたちがいるヨーロッパへと旅行させることにした。ルーの夫ローゼンハインは、弱冠30歳で国立物理学研究所の冶金・冶金化学部の部長になっていた。憂うつや嫉妬の感情から当初はルーの夫妻と上手くいかなかったが、関係は次第に良いものになっていった。マットをヨーロッパに長期滞在させる話も出たがモナシュは却下し、渡欧は2~3年おきに行うことになった。しかしこの時のマットの滞在は18か月に及んだ。

 

1907年のモナシュの市民軍勤務は、要塞砲兵隊司令官に就任できなかったことから不満を伴ったものとなった。しかし旧友で連邦防衛相も務めたことがあるジェイムズ・マッケイJames McCay大佐は1907年12月、新設のオーストラリア陸軍情報部(市民軍将校で構成され、マッケイが指揮していた)のヴィクトリア管区長のポストをモナシュに持ちかけてきた。モナシュは市民軍のキャリアに新たな可能性が見いだせると考え、上官のホール大佐とも相談したうえでこれを快諾した。1908年3月7日付けでモナシュは中佐に昇進し(「モナシュ少佐」としての期間が長かったので、その通称がすっかり定着してしまっていた)、砲兵隊司令官のハンビー中佐に新たなポストに就くことを几帳面に報告した。モナシュの後任の中隊指揮は親友のファーロウがとることになり、ノースメルボルンの将校たちは喫煙会を開いてモナシュを見送った。喫煙会の中のスピーチでは、モナシュは要塞砲兵隊に21年間勤務したことを感慨深げに語った。結果的に要塞砲兵隊勤務は、モナシュにとってオーストラリアの市民軍兵士たちの性格を把握し、如何にして彼らを指揮するべきかを考えさせる場所としての役割を果たし、軍隊指揮官モナシュの原点の一つとなった。

 

オーストラリア陸軍情報部は1905年に情報部長に就任したW・T・ブリッジズ中佐の提案によって設立された。ブリッジズはH・G・ショヴェル中佐やC・B・B・ホワイト少佐ら正規軍将校たちとエドワード・ハットン少将以後の軍制改革を主導していた。1907年植民地会議における帝国参謀部の設立に基づいて、ブリッジズは将来的には参謀部設立を構想していたが、情報部はその布石と見なされていた。情報部の主要任務は、オーストラリア内外の地誌や軍事的資源に関する情報を集め、戦略戦術上の地図作製および計画の立案を行うことであったが、特に本格的な軍用地図にも事欠いていた点は、深刻な事態であった。1909年に参謀部(初代参謀部長はブリッジズが就任)が設立されると、情報部はその影響下に置かれることになる。モナシュは1913年半ばまで、そのヴィクトリア管区長の役職に留まることになった。

 

1909年1月、メルボルンで初めて情報部のオーストラリアの防衛に関する講義が行われ、その殆どをブリッジズとマッケイが担当した。4月には最初のキャンプが実施され、情報日誌や教範の準備、輸送と補給に関するデータ収集が行われた。モナシュは各種文書の整理にその能力を充分に発揮する一方で、主な仕事として地図の作製を担当した。当初モナシュは自治体のエンジニアたちに余暇に地図を作製できないかと呼びかけたが、間もなくしてパートタイムの市民軍勤務ではより広範で本格的な地図作製は期待できないことをマッケイに伝え、結局正規軍の作製班が組織された。

 

1909年12月~1910年2月のホレイショ・キッチナーの訪豪以前でも、南ア戦争以後の本国における議論に触発されて、急ごしらえのオーストラリア軍制の改革は活性化していた。1907年9月、モナシュの働きかけでヴィクトリア軍人協会が再開され、毎月の講義や演習が実施された。1909年10月、モナシュを含めた将校たちはブルッヘ少佐の防衛・動員計画について協議する機会を得た。またシドニー大学軍事学を担当していたヒューバート・フォスター大佐の教育課程に参加し、参謀としての任務や戦術について学んだ。フォスターの講義はモナシュにとって良い刺激となった様で、大戦中に師団や軍団を率いることになった時にも彼に対して感謝の手紙を送っている。義弟のローゼンハインから近年の本国における航空技術の発展について聞いていたこともあり、同年にはオーストラリア航空連盟の設立委員会にも参加した。ベルリンの書店に軍事学・地誌・兵站・戦史・戦略戦術教範に関する本のカタログおよび新刊情報を問い合わせるという、ドイツ語に通じたモナシュならではのことも行った。

 

訪豪したキッチナーは、オーストラリアはヨーロッパにおけるドイツの台頭、太平洋における日本の膨張の双方に対応できる防衛力を有するべきであることを提言した。これを論拠の一つとして、ディーキン政権では青少年に市民軍としての教練義務を課す法が制定された。また訓練担当官は、1911年6月に連邦首都予定地に新設されたダントルーン士官学校(アメリカのウエストポイントをモデルとした)の修了者が望ましいとされた。キッチナーが視察する演習に向けての準備を、モナシュたち情報部はクリスマス休暇を返上して必死に行った。しかし演習の際に「ハルツームの英雄」たるキッチナーに示すシーモア~アヴェネル区域の軍用地図は、3週間の突貫工事で準備されたものを用いなければならなかったという。それでも演習の判定や戦術上の議論を行う過程で正規軍の将校たちと交流を深めたり、参謀将校としての研鑽を積んだりすることは出来た。

 

ジュリアス・ブルッヘ少佐は両親ともドイツ系(ユダヤ系ではなかった)でメルボルン出身、モナシュより7歳年下、スコッチ・カレッジの後輩でもあったため良き友人となった。モナシュはブルッヘを「正規軍将校における真の先進的な人物」であるとしてその情熱的な性格や教養を称賛しており、不成功に終わったが数度に渡りブルッヘの警察長官職への挑戦を支援したこともあった。要塞砲兵隊時代の上官でヴィクトリア州司令官となったジョン・スタンリー大佐との仲も良好だった。スタンリーの後任司令官で、1914年からはダントルーン士官学校長を務めることになるJ・W・パーネル大佐とも親交を結んだ。

 

この頃、モナシュは運動不足による肥満も意識し始めていた。1908年12月にロンドンのボディビルダー、ユージン・サンドウに、エンジニアは座業が続いて運動の機会が減っていること、胆汁症や消化不良の傾向があること、自身の体重が100キロに達しつつあることなどを相談する手紙を送った。サンドウからはエクササイズメニューが届き、モナシュはそれを実践はしてみたものと思われるが、それに対するレポートの返信は行わなかった。自身の体型に関しては、1909年8月にメルボルンの『パンチ』上で「(情報部勤務でヘルメットを被っていたので)大きなキノコ」のようであると揶揄される羽目になった。加齢に伴い、読書や仕事をする際はメガネをかける必要も生じてきた。

 

モナシュには40歳を過ぎても未だに海外経験がなかった。しかし事業は安定し収入も増えており、欧米の文化や産業の中心地をぜひとも見聞しておく必要があるという思いもあって、1910年にようやく初めての家族での海外旅行をすることになった。会社の業務はギブソンたちに代行してもらい、旅行時期は3月から10月を選び、船旅は一等客、ヨーロッパ大陸での鉄道は二等客を利用、ヨーロッパ大陸12週間、イギリス8週間、アメリカ2週間という日程を計画した。長旅ということもありモナシュは荷造りから入念に行い、カバン18個分の荷物の内容はパイプクリーナーやハンカチに至るまで全て箇条書きした。また旅の間は、チップ、切手・新聞代、ホテル代の比較、468点に及ぶという土産物まで、あらゆる事柄のリストを几帳面に作成した。

 

「オトラント」号での船旅はモナシュにとって快適なものとはならなかったが、ジョージ・メレディスの小説を読んで過ごした。他の乗客たちの人当たりも良く、産婦人科医のフェリックス・マイヤーと知り合いになった。ヨーロッパに至ってからはローマ、フィレンツェベネチア、パリで各々3日間を過ごし、名所を訪問し、交通機関を入念に観察し、写真を撮り、あらゆるものに熱中するという模範的なツーリストぶりを見せた。ドイツ語やフランス語の会話が通用したことも、モナシュを喜ばせた。次に訪れたロンドンでは、折しもエドワード7世の葬儀が行われており、モナシュ一家はホース・ガーズ・パレードで葬列を見つめた。6-7月はヨーロッパ大陸に戻り、パリではヴィクと一緒にフォリー・ベルジェールムーラン・ルージュに行った。さらにその後ブリュッセル、ケルン、ベルリン、ドレスデン、ブレスラウ、ウィーン、ミュンヘンを旅行していった。シュテティーンでは母方の先祖であるマナセ家の墓参りをした。ブレスラウ滞在時は、1日だけクロトシンでも過ごすことが出来、祖父母が住んでいた家を訪れ(その際、かつて仕事で用いられた手引き印刷機や活字も見ることが出来たという)、祖父母の墓所にあった木の葉を持ち帰ることにした。次いでアルプス地域では4週間をルツェルン、ツェルマット、シャモニーで過ごし、モナシュはウォーキングや登山を楽しむ一方で、様々な登山鉄道に強い感銘を受けた。それから6週間をイギリスで過ごした。そのうち1週間はワイト島でローゼンハイン一家と過ごし、1週間はスコットランドで過ごした。イギリス滞在中、劇場には十数回も訪れた。モナシュはローゼンハイン夫妻に手紙を送る際は「ウォルタールーWalterlou」と宛名を書いていたが、一方のルーはいつまでも子ども扱いしてくることに不満も感じたという。モナシュはウォルターに関しては、軽率な性格という過去の印象は無くなっており、親しみやすく愛情がある人物であるとマットに宛てた手紙の中で語った。夫妻の娘モナは非常に聡明で、モナシュが語ったジョークも全て理解した。もう一人の娘ナンシーについても、「非常に愛らしい」とモナシュは語っている(※姪たちと撮った写真)。ウォルターの自然科学における業績や個人的性格も相まって、モナシュは彼らの家庭生活を非常に魅力的に感じた。

 

ヨーロッパを離れてアメリカへと向かう際には、銀行手形が遅れるというトラブルもあった(後年の証言ではヨーロッパ滞在時、ドイツとの戦争は不可避であることを感じ取ったというが、同時代の認識としてどこまで正確なのかは不明)。短期間であるが訪れたアメリカでは、まずニューヨークでは旧友のアーサー・カードの夫妻と共に過ごし、次いでナイアガラの滝とシカゴを経て、ミネアポリスで5日間、いとこのレオ・モナシュとその親族とともに過ごした。カナダのバンフとロッキー山脈を経てバンクーバーに至り、そこから船でホノルル、スバ、ブリスベンを経由してメルボルンに戻った。船旅中、モナシュはチェス大会で、ヴィクはデッキ輪投げ大会で優勝した。世界を見聞して戻ってきたモナシュは、オーストラリアを「全てがみすぼらしい」「田舎の地」に感じてしまったという。とりわけヨーロッパと比較したアメリカの都市や産業の発展ぶりには強い印象を受け、ニューヨークの街の前ではロンドンやベルリンも霞んでしまうとローゼンハインに宛てた手紙で興奮気味に語った。暖房機、トースター、広告塔など、電気による様々な機器の普及にも感化された(同時にアメリカ英語のスラングにも)。一方で土木エンジニアとしては、ロンドンやパリ、ニューヨーク、ベルリンの地下鉄の発展にも注目し、現代社会では電気は特に交通に利用されるべきで、従来の蒸気機関は淘汰されるだろうと公言した。

 

モナシュが帰郷した時、コンクリート事業の方は特許独占権が失われ、ライバル企業も台頭してきたことから収益は減少傾向にあった。強化コンクリート使用に対する建築家協会の反対は未だ続いており、パイプ事業の方もテイラーのセメント会社が廉価のものを生産し始めたことから伸び悩んでいた。1911年にかけてモナシュはミッチェルを説得し、ギブソンのシェアを増やすことで会社への出資比率は3人とも同じとすることを認めさせた。同じ頃、シドニーのガモウとの公式な提携も解消となっていた。それでも会社の事業自体は、タウンホール、メルボルン病院、エリザベス通りにある州銀行本店、センターウェイアーケード、メアリバーノン川やフレミントン、ジェンヴェールの橋梁、ホーソーンの道路側溝を手がけるなど拡張が見られた。1911年のコリンズハウスの建設事業では、ベイリュースやロビンソンズなどから資本提供を受けた。1912年初頭にはそれまでのエリザベス通り49番から9つの部屋を有するより豪華なオフィスへと移転、友人のジェイムズ・マッケイとは向かい側同士となり互いに「ジャック」「ジム」と呼び合った。その年には土木工学教授ジョージ・ヒギンズの住居の建設事業を担当し、強化コンクリートによるものとしてはおそらくヴィクトリア初となった。1913年には事業は一時不振になったが持ち直し、南オーストラリア会社も新たな部門を展開するなど順調であった。訴訟や特許関連の仕事は行わなくなっていたが、法廷へのエビデンスを提供したり、ウィリアム・クレスウェル海軍少将に対しシドニーの石油貯蔵タンクに関して助言を行ったりもした。新首都キャンベラの都市計画にも強い関心を抱いており、ウォールター・バーリー・グリフィンのプランが選ばれた際には、国家の発展にふさわしい首都として建設されることを期待した。

 

1911年3月9日、メルボルン『パンチ』に成功者としてのモナシュの経歴に関する記事が掲載された。書き手は「コンクリートの英雄」「彼の能力を超えられるエンジニアは世界でもごく僅か」「市民軍将校として模範的」とモナシュの卓越した点を挙げる一方で、彼の性格はドイツ系、ユダヤ系特有の気質や思考に由来するものであると説明され、太った外見はロマンティックではないと揶揄されるなど、悪意ある表現も見られた。モナシュは世界旅行をした頃から腰痛に見舞われており、パンと砂糖の量を減らすなど肥満対策の食事は心がけてはいたが、これといった効果は見られなかったという。この頃にはデュワーズウイスキーを愛飲するようにもなっていた。

 

ヴィクは以前から自動車を欲しがっていたため、モナシュは1911年7月にエンジン業者のE・シュルツに4気筒15-20馬力のベルリエを575ポンドで注文した。車体は黒色と濃緑色のストライプが塗られ、車内も濃緑色、後部ドアには金メッキでJMとイニシャルが書かれていた。自動車は9月に到着し、運転手が雇われた。ヴィクは大喜びし、競馬場に行くときなどはこれに乗って楽しんだ。モナシュも運転の練習はしたが上手くいかず、途中で諦めてしまった。一方娘のバーサは間もなくして運転のライセンスを取ることが出来た。それでもモナシュはのち、自動車クラブや道路協会の中心人物にはなった。

 

当時居住していたイースメルボルンの住居は満足いくものではあったが、ヴィクは生活の煩わしさや体調面での不安を抱えるようになったため、新居を探すことになった。1912年5月にモナシュは『エイジ』および『アーガス』に新居の賃貸ないし購入を求める広告を出した結果、故F・W・プレル氏の遺産となるトゥーラクの住居を4750ポンドで購入することにした。住居はメルボルン郊外の高台に位置しており、外見的にはあまり見るものがなく庭は荒れ果てており、非芸術的な外観というのがモナシュの当初の印象だったが、18-24平方フィートの部屋が4つあり、地下室、ガス電気も使用することが出来た。モナシュはリフォームすれば総合的に立派な家にすることが出来るという思いに至った。友人のアーネスト・ライトと共に新居の装飾を検討し、家具を新調した。購入して6週間のうちに引っ越しと装飾のし直しは完了したが、引っ越しの過程で焼き物やガラス絵の多くが壊れてしまい、額縁や本、手紙の一部がネズミの被害に遭ってしまうという災難もあった。新居は「アイオナ」と命名され(※写真)、料理人とメイドが雇われ、娘のバーサは記念のダンスパーティを開いて楽しんだ。フロントガーデンにはバラが200本植え直され、玄関や舗装にはモニエ式コンクリートが活用された。裏庭には菜園、テニスコート、温室を用意し、焼却場はコンクリート製であった。1913年半ばよりモナシュは日記上で園芸について言及することが増え、作業場を設けて陶芸の趣味も始めた。蔵書を充実させることにも熱心で、ディケンズ、リットン、モーパッサンメレディスなどの全集、各種辞典、百科事典、法律書をそろえた(※「アイオナ」の書斎)。ノーマン・リンジーやフィリップ・フォックス、ドーラ・ミーソンらオーストラリアの画家の作品を含めた絵画も購入した。結婚生活も20年以上が過ぎると満足を感じるものとなり、夫妻でJ・C・ウィリアムソンの劇場に出かけた際は常に一等席で鑑賞し、グレガン・マクマホンの劇団も愛好した。1911年のネリー・メルバのグランドオペラ公演は、全て初日に見に行って楽しんだ。チェコ出身のピアニストであるエドワード・ゴル(1914年に帰化する)に手紙を書き、彼の腕前を評価した。レーニッシュのベビーグランドピアノを新たに購入し、自家用映写機も購入してフィルムを取りそろえた。新たな趣味としてはドライブも行っており、1912年のクリスマスはメアリーズヴィルからバララトまでを自動車で5日間かけて旅行した。

 

この時期妹のマットはパートタイム教員の仕事を継続しており、優秀な生徒を育てることにやりがいを見出している様子だった。モナシュは1912年に再びマットを海外へ行かせたことがあったが、この時はルーとは必ずしも円満には過ごさなかった。叔母ウルリケ・ロスの体調は悪化していたので、療養にと娘ソフィーと一緒にセイロンまで旅行に行かせた。この頃、従兄アルベルト・ベーレントの家族も苦労を伴っていたが、息子たちは歯医者、電気エンジニア、労働党運動家(モナシュの自動車を選挙運動に使えないかと聞いてきたことがあった)になって独立していた。ヴィクの姉サラとマックス・シモンソン夫妻の子どもたちとモナシュは親しくなった。姪にあたるヴェラにはダイヤの指輪をプレゼントし、甥のエリックに関しては工学課程に進むための勉学を手助けするなどした。一方で1914年にサラが心臓の異常に、マックスが錯乱と視力低下に襲われると、モナシュも憂うつな感情に襲われた。ドイツやアメリカにいる親族とはこの頃も連絡を取っており、エンジニア仲間の従弟ブルノ(叔父マックス・モナシュの息子)には、ドイツやオーストリアでの徴兵から逃れるためにイギリス帝国に帰化するのを支援してほしいという難題を頼まれたが、不首尾に終わった。

 

モナシュの主な社交場はメルボルン大学クラブ(1909-12年は会長)と海陸軍クラブ(1908年より副会長)となっていたが、1906年からはスコッチ・カレッジクラブの副会長も務めた。1911年にスコッチ・カレッジ60周年記念晩餐会がタウンホールで開催され、乾杯の音頭を取った。フェリックス・マイヤーに誘われたことがきっかけで、1913年にはメルボルンのウォーキングクラブであるワラビークラブに入会した。ヴィクトリアレーシングクラブ、ヴィクトリアアマチュア競馬クラブ、メルボルンクリケットクラブなどにも参加した。学術ではヴィクトリア王立協会、王立オーストラレ―シア地理学協会、顕微鏡協会などに参加した。各クラブからは講義や講演を依頼されることが多く(モナシュはスライドを作成してそれに臨んだ)、イギリス医学協会からは主賓として夕食会に招待されたこともあった。1912年はメルボルン大学評議会の構成員に就任し、以後生涯を通じてその役職を務めた。また1908-09年にかけてはヴィクトリアでも帝国ボーイスカウトが設立されていたが、友人のW・E・L・ウェアーズが委員長であったこともあり、モナシュは1910年より委員会に参加した。1911年には再編された管理理事会副会長となり、1912年5月にロバート・ベイデン=パウエルが訪豪した際はこれを歓迎した。モナシュはスカウト運動が軍事目的ではないことを承知していたが、軍事教練に対する予備的な役割を見出していた。

 

メルボルン大学の運営を主導することはモナシュにとって夢であり、エンジニアの試験官や水理工学や強化コンクリートについての講義も継続して行っていた。1907年には計画倒れに終わったものの、大学50周年に合わせて大学工学部の歴史を叙述することも承諾していた。1909年に恩師のカーノット教授が死去した際、大学は彼の後任をヴィクトリアエンジニア協会に相談したが、モナシュは後任選出の協議に参加してヘンリー・ペインの選出を支持した。1911年、大学は社交よりも学術に重きを置いた新たな卒業生協会を立ち上げることになった。グランドホテルでの晩餐会には260人が集まり、その後の委員会会議においてモナシュが会長に選出された。1912年4月の年会ではモナシュが司会をして乾杯の音頭を取ったが、のちに会長はJ・G・レイサムに譲った。この頃、動物学を教えるジョージナ・スウィートとも親交を結んでおり、結果は不首尾に終わったが彼女が西オーストラリアの教授職に応募した際は推薦状を作成した。1912年には大学クラブの会長を辞任し、試験官の役職も諦めることになったが、1912-14年にかけてはヒギンズ教授の手助けとして強化コンクリート関連の講義を6つ担当して喜びを得た。当時講義を受けたウォルター・バセットからは、「今まで受けた中で最良の講師」であったとその内容を称賛された。1913年に社会教育家のアルバート・マンスブリッジが訪豪した際には、労働者教育協会の活動支持を快く表明した。

 

モナシュは1906年よりヴィクトリアエンジニア協会の委員会に所属しており、1908年には副会長に就任した。1909年にカーノット教授が死去した際は、大学の友人たちは彼を銘板で顕彰することを提案したが、モナシュは銅像を建てることが相応しいと考え、その主催者となった。結果的にはオーストラリアの土木工学に非凡な業績を上げた人に授与する記念メダルの制定ということで決着した。1911年のエンジニア協会では、モナシュは建築法規や新首都関連の会議、委員会の庶務で多忙であった。翌1912年も取締役のギブソンが不在ということもあり会社のビジネスが忙しかったが、モナシュはエンジニア協会会長に選出された。拝命したモナシュは、エンジニア・事業家として着実に成功の道を歩んでいることを妹たちに自信を持って語った。モナシュは将来的にはオーストラリア全体のエンジニア協会を設立することを支持しており、それは1919年のオーストラリアエンジニア協会の設立で実現を見た。またオーストラリアのエンジニアの養成制度や科学技術への貢献は海外に比べれば発展途上で、メルボルン交通機関港湾施設、道路、水道も未熟である点を指摘、エンジニアは探究心を持って海外で見聞を広めるべきことを訴えた。

 

1911-12年の情報部での勤務は地図作製に専念しており、諜報活動は限定的であった。1911年に1インチ1マイル縮尺の地図を作製し、翌年にはメルボルン近隣2000平方マイルの地図が完成しつつあった。参謀勤務としては義務化された軍事教練の問題点についてヴィクトリア管区代表として協議会に参加し、オーストラリア航空連盟の主導者となって、現代戦争における航空機利用について関心を持つなどした。パートタイムの市民軍の性格上、将校の中には軍事学の研鑽に熱心ではない者もいた一方で、この頃のモナシュは以前に増して戦史の学習に熱心であった。ナポレオン戦争南北戦争普仏戦争などを主な関心事としており(その他日露戦争における鴨緑江作戦や遼陽会戦についても、1911年3月に情報部内で検討する機会があった)、南北戦争に関してはG・F・R・ヘンダーソンの著書『ストーンウォール・ジャクソンと南北戦争』を特に愛読していた。ビジネス以外にも時間をさけるようになったこともあり、陸軍の懸賞論文に応募し、「1864年荒野作戦の戦訓」と題した論文(南北戦争をテーマに選択したのは、アメリカ旅行の影響も大きかったと見られる)で見事金メダルを獲得し、論文は1912年4月の『連邦軍事ジャーナル』に掲載された。モナシュは荒野の戦いを南北戦争におけるターニングポイントと捉えており、南北戦争の戦略・戦術的展開や地理的要素、市民軍による戦争であった点、ウエストポイントにおける将校養成制度などがオーストラリアにおける軍制・防衛政策のプロトタイプになりえると主張した。論文審査員のJ・G・レッグ大佐やショヴェルからは、多くの要点を提示しており際立って優れていると称賛されたが、一方で(後年の軍事史研究から見れば)その内容は、歩兵戦術への言及が不正確、南北戦争の包括的叙述に欠けている、騎兵、鉄道、経済の破壊への評価が弱いといった問題点も抱えていた。

 

正規軍・市民軍の調停役にあたっていたマッケイは1912年半ば、正規軍の上官たちとの折り合いがつかなくなってしまい、情報部は市民軍による統括から離れてしまった。マッケイの部長職は1913年3月31日で終わるが、その前に海外に出張してしまう。モナシュも情報部の再編には不満を感じたものの、既に情報部には明るい将来は見いだせなくなっていた。その一方で、正規軍将官たちはモナシュに旅団長のポストを薦めてきた。長い市民軍勤務においてモナシュは歩兵・野戦部隊の指揮経験が未だ無かったが、11月18日には結局承諾することにした。情報部での勤務は事実上1912年12月で終わったが、ヴィクトリア管区には翌1913年半ばまでは所属することになり、時間を持て余す結果となった。モナシュは大戦後の証言で、情報部の任務は市民軍スタッフに任せるには荷が重いもので、再編されてしまうことは不可避であったと漏らしている。その一方でヴィクトリア州軍司令官を務めたスタンリーは、モナシュの能力や熱情によって将校たちの資質はめざましいものとなったと1912年中の報告の中で語っており、新聞報道の中には情報部はヴィクトリア管区に関しては成功をおさめることが出来たと評価しているものも見られた。

 

1913年7月1日、モナシュは市民軍第13旅団長に就任した。8月には軍情報部で送別会が開かれ、この時はマッケイが乾杯の音頭を取ってくれた。モナシュは第13旅団を勤務先としては申し分ないと喜んだが、軍歴としては最後の勤務地になるかも知れないとも語った。旅団・連隊指揮官同士の関係は当初は円滑ではなかったが、モナシュは彼らとの親交に努め、協議の際は将校たちを「アイオナ」に招待したこともあった。この頃、モナシュは余暇の際、参謀部のためにドイツの騎兵ジャーナルKavalleristische Monatshefteの翻訳も手掛けた。旅団長就任に伴ってモナシュは大佐に昇進することになったが、正式な昇進は1913年9月(書類では7月1日付と遡及して書かれた)と遅れた。第13旅団は編成されて日が浅いため将兵たちの練度は低く、装備や兵站についての問題点も抱えていた。モナシュは旅団を効率的な部隊に仕上げるべく、中隊指揮官たちに対しては実戦を意識した任務や責務に関する講義を行った。その際、単なる畏怖に基づく命令服従ではない、上官との意志の調和に基づく軍紀を重視しており、将校は自制、自信、勇気、迅速さ、決断力、正当な視座について研鑽する必要があるとも説いた。各種教範や操典、軍事史に学び、それらを要約出来るようになることを強調し、逆境に打ち勝つ模範的指揮官としてはロバート・リーやストーンウォール・ジャクソンを挙げた。モナシュは自身の講義をまとめて「中隊指揮官への100のヒント」と題したパンフレットとして発行し、さらに1914年1月には「軍人精神の発達」、3月には「戦闘計画における3原則」と題した小論を発表した。

 

1913年末よりモナシュは、翌1914年2月に実施される大規模演習への準備を進め、12月には演習場所としてリリーデイルが相応しいと判断した。その際、演習はイギリス海外軍監察官イアン・ハミルトン大将も視察することを知り、モナシュはローゼンハイン夫妻に対して若干不安を感じていることを吐露した。1914年2月初旬は暑い気候でリリーデイル周辺では山火事も起こっており、苛酷な条件ではあったが2500人が参加する8日間の大規模演習が実施された。演習初日には監察官のハミルトンや総督たちが見守った。昼食時にはハミルトンと協議する機会を得たが、ハミルトンは自身の意見を率直に述べるモナシュに強い印象を持った。のち地中海派遣軍司令官としてガリポリ戦役を指揮することになるハミルトンであるが、大戦を経た後年もモナシュに手紙を出す際には、1914年の演習時にユーカリの木の下で協議した想い出について必ず言及したという。ハミルトンはオーストラリアの軍隊は組織面においては実戦に対する備えやディシプリンが足りないと感じつつも、参加将兵たちの身体の卓越性には賛辞を送った。他の将校たちの中にも、辺境の植民地市民たちによる軍隊の働きぶりに感銘を受けた者がいたという。モナシュも兵站面で課題が生じたこと、砲兵や乗馬兵を伴わない内容であったことなどは認めつつも、中隊指揮官たちとの信頼関係は良好であったとして演習の成果には強く満足し、2-3月にかけてはタスマニアで短い休暇を楽しんだ。演習は報道でも大きく取り上げられたが、『エイジ』はモナシュが参加兵士たちの疲労を無視して演習を継続したことを問題視していた。実際には多くの部隊では休憩は充分に取られていたことや、モナシュもブルッヘに宛てた手紙の中で「ピクニックではなく」あくまで長距離行軍や実戦を意識した演習を行ったと強調していたことから、この評価は不当であると見なされた。監察官のハミルトンも演習の遂行を支持する立場を取っていた(※1914年のモナシュ)。

 

英国科学振興協会がオーストラリアで初めて会議を開催することも、1914年に控えていた大きなイベントの一つであった。モナシュはその実行委員会役員として準備に努め、ヴィクトリア州についての便覧作成では、ヴィクトリアの公共事業に関する自身の見解も交えた概説を担当した。会議にはローゼンハインの家族もぜひ招待したいと考えていたが、その際の旅費の一部は工面してあげる必要があった。一方で50歳を前にしたモナシュはローゼンハインに対し、何かを成し遂げるには少し年を取り過ぎていると打ち明けたり、市民軍と大学以外のいくつかの社会的ポジションから身を引きたいことも示唆したりもしていた。それでもモナシュは日本を経由してアメリカやヨーロッパを再び旅行し、人々の社会や文化について見聞を広めたいと考えており、予定では世界エンジニア会議開催に合わせた1915年3月に出発するつもりだった(周知のように1914年半ば以降の国際情勢は、この旅行の実施を許さなかったのだが)。今後の人生への一抹の不安はあったものの、社会的成功者となり相応の名声を得ていたモナシュは各界に友人も増え、以前よりも温厚で利他的になる余裕も出来ていた。市民軍の旅団長を最後まで務めあげ、大学総長のポストに就くことが出来れば、バス勲章とナイトの称号を得ることが出来るかも知れないという夢も抱いていた。

 

【少年時代~大戦前まで 終】

 

 

参考文献

Australian Dictionary of Biography

Sir Walter Eric Bassett/Sir William Throsby Bridges/Sir Henry George (Harry) Chauvel/Sir William Rooke Creswell/Hubert John Foster/Sir Robert Gibson/Edward Goll/Sir John Greig Latham/James Gordon Legge/Norman Alfred Lindsay/Gregan McMahon/Dora Meeson/Felix Henry Meyer/John William Parnell/Henry Payne/Georgina Sweet/Sir Cyril Brudenell Bingham Whiteを参照しました。

 

オーストラリア辞典

キャンベラクレスウェル、ウィリアム・ルーク植民地会議、帝国会議ブリッジズ、ウィリアム・スロズビーを参照しました。

 

Jeffrey Grey, A Military History of Australia, 3rd edition, Melbourne, Cambridge University Press, 2008[first published 1990].

John Lee, A Soldier's Life: General Sir Ian Hamilton 1853-1947, London, Pan Books, 2001[first published 2000].

Peter Andreas Pedersen, ‘The Development of Sir John Monash as a Military Commander’, Ph.D Thesis, 1982.

Geoffrey Serle, From Deserts the Prophets Come: The Creative Spirit in Australia 1788-1972, New edition, Clayton, Monash University Publishing, 2014 [first published 1973].

Geoffrey Serle, John Monash: A Biography, Carlton, Melbourne University Press, 1982. 

竹田いさみ『物語オーストラリアの歴史 多文化ミドルパワーの実験』中公新書、2000年。

藤川隆男編『オーストラリアの歴史 多文化社会の歴史の可能性を探る』有斐閣、2004年。

山本真鳥編『世界各国史27 オセアニア史』山川出版社、2000年。