ジョン・モナシュの生涯(仮題) ⑧世界大戦 4月25日まで

 1914年6月28日、かつて軍艦「カイゼリン・エリーザベト」に乗艦して訪豪したこともあったオーストリア皇位継承者、フランツ・フェルディナント大公夫妻がサラエヴォで暗殺された。外交交渉を経た7月28日、オーストリアセルビアに宣戦する形で戦争は開始され、ドイツやロシア、フランスも次々と参戦していったが、イギリスでも戦争熱は高まりを見せていた。ヨーロッパから遠く離れた自治領オーストラリアは、9月に予定されている連邦議会選挙に向けたキャンペーンの最中だったが、労働党アンドリュー・フィッシャー党首は「最後の一人、最後の一シリングまで」本国を支持すると宣言、自由党ジョゼフ・クック首相も「帝国が戦争状態にあるならば、オーストラリアもまた然り」と述べ、双方ともイギリス帝国に対する忠誠を強調した(※選挙は労働党が勝利し、9月からはフィッシャーが首相を務めた)。

 

 8月4日、ドイツがベルギーを侵犯したことを理由に、ついにイギリスも参戦を決定した。イギリス本国における戦争熱の現象は、必ずしも一枚岩なものではなかったという見解も強くなってきているとはいえ[井野瀬、2014]、参戦に対する反対意見は多数を占めるには至らず、戦争を避ける唯一の手段があるとすれば、それはカイザーによる世界の覇権を受け入れることに他ならないと見なされた(※大戦中のポスター)。自治領であるオーストラリアも、本国の意向に従って自動的に戦争状態に入ることになった。本国のドイツに対する宣戦布告の知らせが伝えられた8月5日の午後(イギリス時間では5日の夜明け前)、モナシュもかつての勤務先として慣れ親しんでいたポートフィリップ湾のネピアン堡塁から、湾外に脱出しようとしていたドイツ商船「プファルツ」号に対して警告射撃が実施された。「プファルツ」号は脱出を諦めて拿捕されたが、オーストラリアの人々は後年、これを第一次世界大戦におけるイギリス帝国の軍隊による最初の発砲であると強調することになった。

 

 参戦に際してオーストラリアの人々の多くは、イギリス帝国の「偉大な文明」を「野蛮な国」ドイツから防衛することは当然の責務であると考えた。アイルランド自治問題が深刻化していた時期ではあったが、カトリック教会も戦争の大義自体を否定するには至らなかった。「帝国の戦争」参加への懐疑論やジンゴイズムへの反感、反戦的思潮は一部の労働組合社会主義者、女性運動家たちを中心に見られたものの、世論全体においてはかき消されてしまった。モナシュもまた「自由の国オーストラリアを脅かす危難を打倒して帝国に貢献する」防衛戦争であることを、従弟のカール・ロスに宛てた手紙の中で語り、戦争の大義を強く支持していた。またアメリカ在住の従兄弟の一人でドイツへのシンパシーを感じていたグスタフ・モナシュ(※古くから手紙のやり取りをしていたレオ・モナシュの弟。姓のスペルはMonasch)に対しては、オーストラリアで生まれ育った自分にとって忠誠の対象はあくまでイギリス帝国であって、帝国のためにただ責務を果たすだけだと反論した。

 

 開戦後間もなくして、オーストラリア海軍艦艇はイギリス海軍の指揮下に置かれると同時に、2万人規模の海外派兵を本国から認められ、その準備が進められた。市民軍部隊を直接海外派兵することは制度上禁止されていたため、志願兵による海外派遣軍を新たに組織することになった。欧州に向けての海外派遣軍は、ウィリアム・ブリッジズ少将によってオーストラリア帝国軍Australian Imperial Force, AIFと命名された(※オーストラリアが帝国のために捧げる軍隊という意味合いで命名された。カナダやニュージーランドは通常の派遣軍Expeditionary Forceという呼称であるため、オーストラリアの独自性を示すものとしてしばしば強調される)。ブリッジズは当初AIF司令官にかつての上官でオーストラリア陸軍司令官を務めたエドワード・ハットン中将を推薦していたが、これは実現せず、自らが司令官に就任した。ブリッジズの参謀には、オーストラリア陸軍将校として初めて本国のキャンベリー幕僚学校で学んだことで知られるブルドネル・ホワイト中佐が就任した。またウィリアム・ホームズ大佐を司令官とするオーストラリア海陸派遣軍Australian Naval and Military Expeditionary Force, AN&MEFも編成され、こちらはドイツ領ニューギニアの占領任務にあたることになった。募兵は8月10日より開始され、1914年中には52,561人を集めるに至った。これは開戦時の熱狂として喧伝されることもあるが、実際に募兵状況がピークとなったのは、ガリポリ戦役開始後の1915年(※7月が最高で約36,000人が志願、年内では165,912人が志願)のことである。また内陸部のブッシュ出身の兵士が「生まれながらに卓越した射手・騎手」であるとして、オーストラリア兵の典型的人物像として提示されることがあるが、当時オーストラリアは世界でも有数の都市への人口集中が進んだ地域であったため、必然的に都市出身者が多数を占めていた。志願兵たちの入隊動機も、帝国に対する忠誠や責務といった愛国的なものに限らず、初めて参加する戦争に冒険心やロマンを感じたから、給料目当ての経済的な理由(※「日給6シリングのツーリスト」という冗談も生まれた)、日々の退屈で苦痛な仕事から脱却したいから、友人に誘われたから、あるいは(イギリス本国出身者たちにとっては)本国まで無銭旅行が出来るからなど実に多様であった[Gammage,1974][Stanley, 2005]。

 

 派遣軍第一陣の志願兵たちは、3個歩兵旅団(※第1旅団はニューサウスウェールズ、第2旅団はヴィクトリア、第3旅団は他の4州の志願兵で編成)と1個乗馬旅団へと編成された。各歩兵旅団によってオーストラリア第1師団が編成され、AIF司令官ブリッジズが師団長を兼ねた。ブリッジズは南ア戦争に少佐として従軍した経験はあったものの、経歴としては参謀畑での活躍の方が目立っており、前線指揮官としての実力は未知数であった。第1~第3旅団長にはそれぞれヘンリー・マクローリン大佐(※法律家で市民軍将校、36歳で旅団長としては最年少)、ジェイムズ・マッケイ大佐(市民軍将校で元防衛相、モナシュの友人)、イーウェン・シンクレア=マクラガン大佐(※本国正規軍将校であったがブリッジズに招聘され、ダントルーン士官学校教官をしていた)が就任した。また第1乗馬旅団長には、1896年より正規軍勤務で南ア戦争に従軍経験があるハリー・ショヴェル大佐が就任した。派遣軍第一陣は、NZ派遣軍第一陣 (※「メインボディ」Main Bodyと呼称された。タスマン海を渡る際には、日本の巡洋戦艦「伊吹」も護衛を務めた)と共に西オーストラリアのアルバニーに集結し、11月1日に出発するに至った。派遣軍第一陣は当初、イギリス本国で訓練を受ける予定だったが、冬季のソールズベリーの演習場はこれ以上の部隊を受け入れる余裕がなくなっていたこと、またオスマン帝国の参戦が決まりスエズを防衛する必要があったことが関係して、12月3日にエジプトに到着したところでここに留まり、訓練を行うことになった。

 

 8月初旬よりモナシュは市民軍の召集に備えていたが、当初は英国科学振興協会の会議に関する懸案事項や、訪豪していた義弟のローゼンハイン一家を歓待することに追われていた。すると8月9日、友人のマッケイから電話で連絡があり、自らがAIFの旅団長に選出される見込みである旨を伝えられると同時に、この時自身が就いていた検閲部長(※本国陸軍省が戦時警戒を強化していたことを踏まえ、ブリッジズが提案した)の後任ポストを持ちかけられた。モナシュはAIFの他のポストまでの繋ぎの役職と判断した上で17日にこれを承諾し、交戦国に関するあらゆる通信や新聞報道の統制を管轄することになったが、マッケイには決して閑職ではない職務だと念を押された。就任後モナシュは妹のマットに対して、ドイツやオーストリアの親族に手紙を出したりしないようにと注意した。モナシュは戦時中の検閲や情報統制は必要不可欠であると見なしていたが、英国科学振興協会のために訪豪していたドイツの学識者たちを一時拘禁する心苦しい職務にも関与しなければならず、自らの出自の関係もあって仕事内容には緊張感や不安も強く感じたという。結局モナシュは4週間後には、検閲部長職をホール大佐と交替することになった。

 

 9月、募兵が順調であったことから派遣軍第二陣の準備として、新たに第4旅団が編成されることになった。モナシュは企業や大学、各種委員会・団体の役職を数多く抱えていたことを理由に、当初は旅団長のポスト就任のために主体的に動くことはなかったが、実際に旅団長候補に推されると、9月15日にこれを受け入れた。陸軍参謀長のJ・G・レッグ大佐は候補者として49歳のモナシュと56歳のニューサウスウェールズ市民軍のG・R・キャンベル大佐をジョージ・ピアース防衛相に提案していたが、結果的には年少のモナシュの方が選出された。市民軍第13旅団長時代を知る将校の中には、モナシュの選出を歓迎する者も見られた。義弟のローゼンハインは、「戦争が終わる頃にはサー・ジョン・モナシュ少将となっていることでしょう」と冗談交じりに語った。

 

 第4旅団の出立準備には約7週間を要するだろうと見なされたが、モナシュはまず旅団副官としてニューサウスウェールズの市民軍将校のJ・P・マクグリン中佐、幕僚として正規軍将校のC・H・ジェス大尉を選出し、彼らを自宅「アイオナ」での夕食会に招待して協議を行った。モナシュはマクグリンとはエンジニア仲間ということもあってただちに友人となり、彼の資質や熱情を認めるに至った(※モナシュと並んで撮った写真)。第4旅団を構成する大隊は、第13大隊(大隊長グランヴィル・バーネイジ)はニューサウスウェールズ、第14大隊(大隊長リチャード・コートニー)はヴィクトリア、第15大隊(大隊長ジェイムズ・カナン)はクイーンズランドタスマニア、第16大隊(大隊長ハロルド・ポープ)は西オーストラリアと南オーストラリアと編成地がバラバラであり、連邦成立からまだ14年目であることもあり、当初は部隊としての連帯感が希薄だった。各大隊の編成先では銃剣術、筋力トレーニング、手旗信号、長距離行軍、射撃の基礎訓練が行われ(※第15大隊の兵員は、85%が市民軍の訓練も経験していなかった)、その際のメソッドには軍事ジャーナル記事も参照された。

 

 第4旅団の編成や人事が進められる一方、10月になると「モナシュはドイツ生まれドイツ育ちで英語が上手く話せず、姓のスペルをMonashに改めたのはごく最近のことである」から旅団長としては不適任であると主張する、荒唐無稽な内容の手紙がピアース防衛相に(※果ては本国のキッチナー陸相にも)届けられたことがあった。ピアースはモナシュに信頼を寄せておりこれを一笑に付したが、モナシュの指揮官就任に対する懐疑や中傷の動きはごく一部では発生していた。ドイツ系の人々への圧力はモナシュに限らず、ブルッヘやジェスら将校、その他の下士官兵士たちも直面した問題となった。本来戦時統制ではイギリス帝国臣民であるか否かが問われ、その出自は問題とされるべきではなかったのだが、メルボルン市内では人々が反ドイツの示威行進を実施したり、ドイツ系体育協会Turnvereinの窓が破壊される事件が報告されるなど[Williams, 2003]、世論においてはドイツ系に対するヒステリックな敵意は確実に存在していた。モナシュ自身は偏見やゴシップには動揺しないよう努めていたが、従兄のアルベルト・ベーレントの一家や叔母のウルリケ・ロス(※家庭内ではドイツ語も使用していた)のことは常に気がかりであった。

 

 第4旅団の訓練開始は予定よりも先延ばしとなったので、モナシュは短期間ではあるがマウントバッファローに出かけたり、義弟のローゼンハインと一緒に過ごすことが出来た。11月下旬にかけて、第4旅団の隷下部隊がヴィクトリアへの集結が完了した。しかしモナシュは第13・第14大隊を視察した際、ヒゲや髪の手入れをせず、酷く汚れた制服を着たままで行進するなど、身だしなみがいい加減な兵士たちも含まれていることに気づいた。大隊指揮官たちは再発防止を約束したものの、戦闘部隊としての軍紀徹底を重んじるモナシュは、将兵たちの教育を行う必要性を痛感した。その後11月末にモナシュたち第4旅団はメルボルンから約10マイル離れたブロードメドウズの訓練キャンプへと移動した。はじめにトイレや水道の設備準備に時間を要したり、シラミの発生が報告されるなど、訓練キャンプの環境は良好ではなかったが、第一陣と同様に第1師団のホワイト参謀長のプログラムに基づいて訓練が行われた。基礎訓練に加えて野戦築城、射撃、戦闘隊形、夜間の作戦行動にも重きが置かれた。将校・下士官たちには地図の読み方を含めた任務の指導が行われ、大隊長たちとは時折協議を開いた。その際モナシュ自身のパンフレット「中隊指揮官への100のヒント」が活用され、軍紀を徹底させるために第4旅団の全ての将校・下士官に配布されるに至った。12月15日に大隊間の模擬戦闘を行ったが、戦前の市民軍での演習と同様、偵察の不徹底、連絡通信の緩慢さといった課題が出た。12月17日にはブロードメドウズ~メルボルンの22マイルの距離を往復行軍した(※行軍の様子)。連邦総督のロナルド・マンロウ=ファーガソンは旅団兵士たちの身体や軍紀が良好であることを評価し、後日イアン・ハミルトン大将に対して「第4旅団の兵士たちは新兵ではなく古参兵のように見える」と通知を送った。海外への出発を前にして、モナシュは強化コンクリート会社のギブソンメルボルン・ルナパークの重役たち、ワラビー・クラブ会員たちとは送別の食事会を開いた。そして出立の直前には、かつて駆け落ちを企てた相手であるアニー・ガブリエルとも再会し、別れの挨拶を交わした。

 

 12月22日、第4旅団はブロードメドウズの訓練キャンプを引き上げ、海外に向けて出航するべくメルボルンまで行軍した。しかし雨後の泥の中行軍を実施したため、一部兵士たちの中にはエジプトやアンザック・コーヴに着いてからでも、制服にブロードメドウズの泥の跡がついたままの者もいたという。同日、第4旅団を含めた派遣軍第二陣はNZ派遣軍増援と合流するため、西オーストラリアに向けて出発した。メルボルン港には約4000人が集まって第4旅団の出航を見送った。この時点では想定できなかったことだが、以後5年間に渡りモナシュはオーストラリアの外で過ごすことになった。第二陣はモナシュが乗る輸送船「ユリシーズ」号を旗艦に、第4旅団、グランヴィル・ライリー准将の第2乗馬旅団、ブリッジズの第1師団補充兵による約10500人、輸送船16隻で構成された。アルバニーからはNZ派遣軍補充兵約2000人、輸送船3隻が加わったが、ココス諸島でオーストラリア巡洋艦「シドニー」によりドイツ巡洋艦「エムデン」が撃破された後であったので(※戦中の代表的愛国歌であるAustralia Will be Thereの2番は、この戦いについて歌っている)、護衛戦闘艦には潜水艦AE2(のちガリポリ戦役においてダーダネルス海峡突破を達成するが、4月30日にマルマラ海で沈没)が1隻ついているだけだった。船旅ではトイレが流れないなど多くの困難を伴い、モナシュは船外に落ちてしまうのではないかという不安に駆られたこともあった。一方で兵士たちの座学や小銃訓練、将校・下士官たちの教育は継続され、モナシュも参謀任務や戦術教範の確認のため、将校たちに講義や討論を実施する機会があり、第13大隊のW・A・フォーサイス大尉からは「今までの経験でこれほど効率的に講義が出来る将校には会ったことがない」と賞讃された。翌1915年1月5日の講義では、西部戦線におけるイギリス軍の戦闘報告書も扱った。

 

 1月13日には寄港地のコロンボに到着し、現地司令官のH・H・L・マルコム准将から歓迎を受けた。兵士たちは許可なく下船することが禁止されていたが、翌14日の朝、水上警察が目を離したすきに210人ほどの兵士が勝手に錨鎖を下り、船団の周りに集まっていた現地住民の小舟に乗り移って、酒場やホテルがある陸地に向かってしまうというトラブルが発生した。15日の夜明けまでに下船者の多くが確保され船団は出航したが、20人は戻ってこなかった。不品行に走った兵士たちの多くはモナシュ指揮下の兵士ではなく第1師団の補充兵たちで、モナシュも第二陣の将兵全体から見れば少数の割合であることを強調したが、マルコム准将の報告書では兵士たちが深酒や上官への暴力に走ったとして悪行が誇張されて伝えられていたこともあり、後日モナシュはその弁明に苦労してしまった。その後の航海中の生活は、将兵たちにとっては想定したよりも退屈なものにはならなかった様で、教練の合間にはチェスや船上クリケットに興じたり、(軍楽隊員は)演奏練習をしたり、読書や物思いにふけったり、甲板でくつろいだりした。モナシュも日々の職務で多忙を極める一方、若干ホームシック気味になり、エジプトの駐屯部隊として戦争を終えてしまうのではないか、留守中にヴィクは家計をちゃんと切り盛りするだろうかといった不安にかられるなどした。

 

 1月29日午前、派遣軍第二陣はモナシュが「帝国の驚異」と表現したスエズ運河に到着した。船団の到着は英仏の艦艇が護衛し、両岸に配置されていたグルカ、シク、ベンガル槍騎兵、本国のランカシャー国防義勇軍Territorial Forceの兵士たちは歓呼の声をあげた。今までオーストラリア大陸を出たことがなかった兵士たちにとって、多種多様な出自からなる帝国の軍隊(※いわゆる「帝国の総力戦」[木畑, 1987, 2014])を目の当たりにした衝撃は大きく、帝国のグローバルな性格を実感する瞬間となった。1月31日にはアレクサンドリアに上陸、翌日にはカイロに至り、その後第4旅団はカイロから5マイル離れたヘリオポリスに宿営地を置いた。オーストラリア第1師団は、そこから15マイル離れたメナを宿営地としていた。

 

 第4旅団とショヴェルの第1乗馬旅団、NZ歩兵旅団(※旅団長はフランシス・ジョンストン大佐。NZ出身だがイギリス正規軍将校)およびNZ乗馬旅団(※旅団長はアンドリュー・ラッセル大佐。NZ出身で若い頃にサンドハースト士官学校で学んだ経験はあったが、戦前はNZ市民軍乗馬部隊指揮官・農場経営者をしていた)は、アレクサンダー・ゴッドリー少将(※ニュージーランド派遣軍NZEF司令官。戦前はNZ陸軍司令官として市民軍の組織に尽力していた)を師団長とするニュージーランド・オーストラリア師団New Zealand and Australian Division, NZ&Aを編成した。しかしながらNZ&A師団は、オーストラリア兵たちの間では「“オーストラリア”・ニュージーランド師団」と、NZ兵たちの間では「5000人のオーストラリア兵を含むニュージーランド師団」と呼称されたりもした[Stanley, 2005]。同師団はオーストラリア第1師団と共に、オーストラリア・ニュージーランド軍団Australian and New Zealand Army Corpsを編成、軍団長には南ア戦争時にはキッチナーの参謀を務め、大戦前は英印軍を率いていたウィリアム・バードウッド中将が就任した。軍団の正式名称はオーストラリア・ニュージーランド軍団であるが、軍団司令部の書類では「アンザック」ANZACという略称が用いられるようになり、次第に兵士たちやメディアの間でも浸透していった。そして「アンザック」という言葉は間もなくして、部隊名という領域を超えた意味合いを持ち始めることになる。

 

 バードウッドとゴッドリーは第4旅団到着後の最初の日曜日にこれを観閲しモナシュを丁重に出迎えた。モナシュはバードウッドに初めて会った際、小柄で軍人らしくない、神経質なところもある印象を抱く一方で、軍人としての職務は充分に把握していると評した。一方バードウッドはモナシュに対し、知識や観察眼は非凡ではあるが、指揮官として「充分な身体的な活発さを有しているとは思えない」ため実戦でその知見を活かせるかは疑わしいという印象を抱いた(モナシュのドイツ系のルーツに関しては若干の調査はしたが、不問とした)。モナシュはゴッドリーに対しては、上品さや大らかさを見出す一方、軍人精神はバードウッドには及ばず、技能面は性格で補っていると評した。ゴッドリーはモナシュに対し、非常に精力的で有能な指揮官という印象を抱き、第4旅団を自らの指揮下に置けることを非常に喜んだという。モナシュは友人のマッケイの話などから、オーストラリア第1師団は激務に加えて将校間の関係が良好でないように映っていたようで、NZとの合同軍ではあったが、NZ&A師団所属となったこと自体は幸運であると感じた。

 

 第4旅団を含めたNZ&A師団は2月10日と2月12日に本格的演習を実施し、忍耐力や自己犠牲、イギリス帝国やオーストラリアへ尽くすことへの教化も図られ、モナシュはその成果に手ごたえを感じた。マクグリンやジェスといった部下たちへの信頼感も高め、モナシュは特にマクグリンの副官としての資質を高く評価した。その一方で、両者とも「オープンカーからはみ出てしまいそうな」肥満体であったことから、後年のホワイト参謀長の証言では「トゥイードルダムとトゥイードルディー」のようであると揶揄されたりもした。2月15日にNZ&A師団がカイロに移動した際には、「第4旅団はオーストラリア軍最良の旅団である」というバードウッドの評価をゴッドリーから聞かされた。3月29日には地中海派遣軍Mediterranean Expeditionary Force, MEF司令官に就任していたイアン・ハミルトン大将がNZ&A師団を視察し、モナシュとは1年前にリリーデイルの演習で協議した想い出について語り合うなど好印象を得た。2月下旬から3月にかけては乗馬部隊や砲兵を交えた機動戦や陣地攻撃を意識した演習を行い、複数の課題点を挙げつつも先に編成された第1師団との能力差を埋めることが出来たと感じた。しかしNZ&A師団の訓練は南ア戦争の経験を踏まえた戦前のオーソドックスな内容をベースとしており、歩兵と砲兵の協同強化など、当時直面していた西部戦線の報告・戦訓を十分に反映させた訓練を実施出来たとは言い難かった。野戦築城の訓練は実施されてはいたが、手榴弾やペリスコープといった装備は用意されず、長期塹壕戦を戦うことは考慮されていなかった。また本国の軍需産業がまだ整備段階にあったこともあり、この時点では訓練で使用する弾薬にも制限をかけざるを得ず、アンザック軍団長のバードウッドは砲兵が特に未熟練である点を嘆いた。ごく短期間で編成されたことに伴う師団内の装備の不足、給与支払いの遅延など、問題点が山積していたことは明らかであった。

 

 オーストラリアやニュージーランドの兵士たちにエジプトの社会や文化がどのように映ったのかについては、既に多くの証言が紹介されている[Gammage,1974][Adam-Smith, 1978][Pugsley, 1984]。聖書世界や古代遺跡に対する憧憬から、兵士たちの中には訓練の合間にラクダに乗ってスフィンクスの前で記念写真を撮ったり、ピラミッドに登頂して(※従軍記者のビーンも登頂した)自らの名前を刻んだりする者(※既にナポレオン軍の兵士たちのものが刻まれていたという)もいたが、その一方で市街の様子や現地住民に対する幻滅や偏見の感情もまた存在していた。モナシュもエジプトを「砂と罪悪、悲哀、梅毒の地」「全てのものが汚らしく悪習を放つ地」であり、「劇場もオペラも華やかさもない」とヴィクに宛てた手紙の中で吐露し、メンフィスを訪れた時もアラブ人ガイドやベドウィンたちへの不快感を露わにした。一方でカイロ市内のユダヤ教ラビと交流したり、各種博物館を訪れるなど新鮮な体験もした。またこの時期、モナシュはオーストラリアジャーナリスト協会から選出された公式従軍記者で、のち公刊戦史の編纂や戦争記念館設立を主導することになるC・E・W・ビーンに初めて会った。しかしビーンの関心や交友関係は第1師団に偏っており(※とりわけホワイトに関しては「模範的な参謀将校」であると絶賛していた)第4旅団への関心は薄かったため、モナシュは派遣軍第二陣に出発の時点から同行していた『アーガス』記者のC・P・スミスらと交流することの方が多かった。3月下旬、モナシュは副官たちとルクソールに出かけたが、この時はエジプト社会への幻滅の感情を伴いつつも、「今まで見た中で最も素晴らしく印象深い光景」であったとして古代の歴史や文化に強い感銘を受け、ヴィクに対しても是非ともこの光景を見ておくべきだと力説した。メルボルンの銃後では、ヴィクとバーサは当時司法長官だったウィリアム・モリス・ヒューズと交流する機会を得る一方で、ヴィクは負傷馬のためのパープルクロス基金の運動に参加したり、ベルギー国旗の日の準備のために積極的に活動しており、バーサも大戦中は看護助手として働くことになった。ギブソンから仕事関係の連絡が来ないことにモナシュは不安になったが、所望した母娘の小写真が届いた時は大いに喜んだ。

 

 オーストラリアからの派遣軍第三陣が到着した3月初旬になると、派遣軍第二陣の兵士たちはコロンボ以外の寄港地でも乱痴気騒ぎを起こしていたのではないか、という誇張された噂が流れ始めた。モナシュはこれについて指摘されるとピアース防衛相に対し、コロンボでの一件は認めつつも、それ以降はエジプトに到着するまでの間、旅団の軍紀は徹底しており問題は生じていないことを力説するメッセージを送った。しかし駐屯が長くなるにつれて、オーストラリア兵たちの間ではエジプトでの軍隊生活は次第に倦怠的なものとなっていた。兵士たちによる深酒や暴力、無断離隊、性病の拡散といった諸問題も発生しており、2月には131名の軍紀違反者と24名の性病罹患者がまだ戦場に赴く前の段階でオーストラリアに帰還するという事態になった[Gammage, 1974]。

 

 モナシュは4月初旬に発生した「ワジルの戦い」Battle of the Wazzir(Wozzer, Wassa)の裁定という不本意な仕事にも苦労させられた。4月2日の聖金曜日の夕方、酒の値段や性病をめぐる問題に憤慨し、酔っ払ったオーストラリアとNZの兵士たちが、カイロの売春街で略奪や建物の破壊・放火行為を行った。現地消防隊が出動したが兵士たちはホースを切断するなどして消化を妨害し、出動した騎馬憲兵隊にまで攻撃を加えたため、着剣した国防義勇軍ランカシャー連隊の兵士たちまで動員される事態となった[Gammage, 1974]。オーストラリア兵はNZ兵に(※従軍記者のビーンも日記の中で暴動の原因はNZ兵にあると主張した)、NZ兵はオーストラリア兵に責任があると言って譲らなかった。モナシュも一員となって軍法廷が直ちに開かれ、約30の目撃証言の審議や現場調査が行われた。モナシュはこのような事態は前代未聞だと憤慨したが、軍法廷での真相調査は遅れてしまった。被害総額は1700ポンド相当とされ、オーストラリアとニュージーランドが賠償を行った。

 

 1915年1月にロシアからオスマン帝国に対する攻勢を求められたことを契機に、ダーダネルス海峡を対象とした作戦準備が進められていた。膠着した戦局の打開のためにオスマン帝国を戦争から脱落させ、ロシアの負担を軽減してバルカン諸国を協商国側に引き込むという遠大な計画であった。しかし海軍力でダーダネルス海峡を制圧してコンスタンティノープルに圧力を加える作戦は、3月18日の攻撃失敗で頓挫してしまった(※翌日も攻撃を継続していれば、砲弾が枯渇していたオスマン側を降伏させることが出来たという伝説も発生した[Erickson. 2010])。そのためアンザック軍団を含めた5個師団・約75000人からなる地中海派遣軍と海軍による協同作戦が立案されることになった。司令官に就任したイアン・ハミルトン大将が地中海に到着した3月半ば以降から、兵士たちの間では新たな作戦が実施されるという噂が生じ始めており、第4旅団でも装備や物資の整備確認が進められた。3月22日、ハミルトンは戦艦「クイーン・エリザベス」上で海軍のジョン・デ・ロベック提督と協議し、陸海協同による上陸作戦は正式決定された。

 

 上陸作戦の主攻担当には正規軍第29師団が選ばれた。ガリポリ半島の先端、ヘレス岬の5箇所に部隊を上陸させ、セド・エル・バハルとクリシアをおさえた上でアチババの高地を占領することが目標とされた。同時に支攻としてヘレス岬地区から10数マイル北方のガバ・テペアルブルヌ間の地区にアンザック軍団を上陸させて海岸堡を確保後、チュヌク・ベアから「971高地」(コジャ・チェメン・テペKoja Chemen Tepe)にかけての高地を占領、各師団はガバ・テペから内陸にマル・テペまで進出し、オスマン側のヘレス岬地区への連絡を分断するものとされた。アジア側のクム・カレにはフランス東方派遣軍Corps Expeditionnaire d'Orientの第1植民地師団が、半島北方のサロス湾のブレアにはイギリス海軍師団(※著名な参加者としては詩人のルパート・ブルック、のち第二次世界大戦でNZ派遣軍司令官となるバーナード・フレイバーグなどがいた。ブルックは作戦開始直前の4月23日に病死してしまうが、後世に「英雄的でロマン主義的な」ガリポリ戦役を象徴する存在としてしばしば取り上げられることになる)が陽動作戦を行うものとされた。

 

 船舶200隻以上が動員され、作戦・戦略次元において非常に野心的な上陸計画ではあったが、後年のノルマンディー上陸作戦などと比べると、あまりにも突貫工事の立案である点は否めなかった(※司令官に就任したハミルトンが本国を出発してから実際に上陸作戦が決行されるまでは、43日間しかなかった)。準備された軍用地図は旧いもので、エジプトでは作戦に関する情報統制も不十分なままであった。上陸作戦には新開発の上陸用舟艇「Xライター」の必要性も指摘されていたが、投入されたのは8月攻勢になってからであり、アンザック軍団の各師団やイギリス海軍師団では砲兵戦力が弱体であることが問題視されていた。エジプトやマルタ島の軍病院では約5000床が確保され、病院船4隻が動員されていたものの[Lee, 2000]、上陸作戦でどれ程の損害が生じるかを正確に予測するのはこの時点では難しく、兵站に関しても遅延や備蓄不足の問題が発生していた。しかしオスマン側の戦力を過少に見積もっていたことから、新兵の植民地部隊でも任務をこなせるだろうという楽観的な見通しや、古典古代の神話や歴史と縁深い地であることに対するロマンティシズムやヒロイズムが、参加将兵たちの間では漂っていた。司令官のハミルトンも困難な任務であることは認識しつつも、当初割り当てられた約75000人という兵力で作戦を遂行することには異議を呈さなかった。

 

 4月3日、ゴッドリーからの指令で乗馬部隊を除いたNZ&A師団のエジプトからの移動が決定した。輸送船13隻が用意されたが、ゴッドリーが乗船したのが「リュッツォウ」号であったことが示すように、その多くはドイツから接収した商船であった。モナシュは自らの旅団兵士たちの身体や規律は良好で、士気は高いことをオーストラリアのマンロウ=ファーガソン総督に報告し、来るべき任務を遂行しようという熱情を抱いた。しかし実際には、第4旅団の本格的訓練期間はわずか2か月間に留まっており、第1・第2旅団の3か月半、第3旅団・NZ歩兵旅団の2か月半よりもさらに短かった。4月11日、第4旅団は宿営地を離れてアレクサンドリアに移動した。4月13日にレムノス島に向けて出航し、兵士たちはオスマン帝国を対象にした作戦決行が近いことを悟り始めた。カルパトス島やロドス島の地域を通過するエーゲ海の船旅は平穏で、モナシュはオリンポス山の美しさを書き留めるなどした。

 

 4月15日に到着したレムノス島のムドロス港には多くの艦艇が集まっており、数日に渡り装備を持ったままでの縄梯子の昇り降り、ボートによる上陸の訓練が行われたが(※訓練の様子)、重要な作戦を控えている割には付け焼刃な訓練内容であったことは否めず、4月20日に視察したモナシュはその点には不安を抱いた。4月21日は悪天候のため会議は開けず作戦決行日の延期が決まったが、モナシュは作戦書類の作成を行った。4月22日午後7時、モナシュは第4旅団に最初の実戦作戦指令書を布告し、第1師団とNZ歩兵旅団に続く形でガバ・テペと「フィッシャーマンズ・ハット」の間の海岸に上陸する旨が確認された。4月23日、作戦開始は4月25日であることが正式に確認された。作戦を控えてモナシュの幕僚のジェスは、「人生において最も重要な日」になると高揚したという。またモナシュはこの日、待ちに待った家族からの手紙に喜ぶ一方、もし自分が戦死した場合のために、ヴィクとバーサへのメッセージを準備した。4月24日、モナシュはNZ&A師団内の会議のためにカッターに乗って出かけたが、乗り心地が悪く水しぶきですっかり濡れてしまった。それでもヴィクに宛てた手紙の中では、今度の作戦は「オーストラリアの栄光として歴史に残り、世界全体を奮起させる」ものになるだろうと力説していた。同日の午後、アンザック軍団の上陸第一波を乗せた船団がムドロスを出航し、ガリポリ半島を目指して北東に移動した。作戦を前にして懸念されるべきことは数多かったが、兵士たちの士気は高く、コンスタンティノープルまで到達せんと意気込む者さえいた。しかし実際には、ガリポリ半島の戦場における、長い8か月間が始まることになった。

 

参考文献

 

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