ジョン・モナシュの生涯(仮題) ⑩世界大戦 遠すぎた高地 【ガリポリ 後編】

 第1オーストラリア師団の戦区では8月6日午後4時30分に「ローン・パイン」のオスマン帝国第16師団に対する砲撃が行われ、1時間後の午後5時30分、第1師団隷下第1旅団は前進が開始した。しかし準備砲撃は不充分で、対するローン・パインを守るオスマン帝国第16師団隷下第47連隊の塹壕は、鉄条網を敷設して砲撃や手榴弾の攻撃軽減のための木材の屋根を設けるなど強固だった。アンザック側はそれらの撤去に苦労しつつも午後6時頃には塹壕に突入、銃剣や手榴弾(※この時期もジャム缶手榴弾がまだ主流だった)による白兵戦となった。アンザック側は約30分で塹壕の第一線を制圧したが、オスマン側は増援としてオスマン帝国第5師団隷下第15連隊が到着、午後11時からは再三に渡る反撃に直面した。翌日以降もオスマン側の増援の到来に苦しめられたが、アンザック側も予備の諸大隊を順次投入して死闘を繰り広げ、奪取した主要な塹壕は維持するに至った。敵軍の陽動という戦術的目的は(※完全ではないが)達成されたという点では、8月攻勢においては最も成功した局面であったという評価もなされており、7人がヴィクトリア十字章を受章した。しかし第1師団のホワイト参謀長が同時代の日記の中でローン・パインを「死体安置所のような場所」と形容したことが象徴的であるように、アンザック側の死傷者数は約2,300人(※大戦中の一般的な戦闘とは異なり、砲撃による死傷よりも小銃・銃剣・手榴弾による死傷の方が多かったという)と甚大で、予備戦力も殆ど使い果たしてしまった(※ローン・パインの戦いを象徴する写真の一つ塹壕上の戦死者を見つめているのは第1旅団隷下第2大隊のレスリー・モースヘッド大尉で、のち第二次世界大戦では「トブルクのネズミ」で知られる第9オーストラリア師団を率いることになる)。オスマン側の損害も戦死1,520人、負傷4,750人、行方不明760人、捕虜134人に上り、死傷者の中には連隊長も含まれていたローン・パインの戦い。ヘレス岬地区でも8月6日午後2時過ぎより陽動攻勢が展開されたが、オスマン側の銃砲火は強力なものとなり、第29師団は損耗が激しかった。翌7日には国防義勇軍第42師団とフランス軍師団が攻撃を担当したがオスマン側の守りは固く、大きな犠牲を出した一方で(8月13日までの死傷者数はイギリス側3,335人、オスマン側約7,500人)オスマン側のアンザック地区に対する増援を妨げるには至らなかった[Prior, 2009][Erickson, 2010][Cameron, 2011]。

 

 スヴラ湾地区にオスマン側は約4,000人の兵力しかあてていなかったが、8月6日午後9時30分、第9軍団の第10・第11師団隷下の各旅団(※オーストラリアからも海軍架橋隊が作戦に参加している)は当地に上陸を開始した。上陸に際しては上陸用舟艇「Xライター(ビートルズ)」が活用されたが、夜間の進軍は混乱が激しく内陸への前進はなかなか行えなかった。新編の新陸軍師団は訓練不足で機動戦を行うことも考慮されておらず、兵士たちの間では作戦前からコレラ等の疾病が流行していた。第9軍団長のフレデリック・ストップフォードの司令部は当初スループ艦「ジョンキル」上にあったため、前線部隊との連絡にも問題が生じた。また作戦計画では海岸堡を築いて補給拠点を拡大すると同時に、サリ・ベアでの攻勢を支援するために上陸地点周辺のオスマン側火砲を排除することは決められていたが、より内陸の高地にはいつまでに進出するべきか明言されていなかった。ストップフォードは補給拠点の確保を優先し、8月7日午前までには浜辺周辺のララ・ババや「10高地」までを確保したが、当日の気温は高く水の補給も深刻化していた。「チョコレート・ヒル」の確保は午後になり、内陸の「Wヒルズ」やアナファルタ高地への前進は実施できず、各旅団の戦力分散が進んでしまった。その間にオスマン側は第7・第12師団を派遣して防衛線を整えようとした[Prior, 2009][Erickson, 2010]【スヴラ湾への上陸】

 

 主攻であるサリ・ベア方面では8月6日午後8時30分、右翼援護部隊を担当するNZ乗馬旅団およびマオリ分遣隊駆逐艦の砲撃支援のもと前進を開始した。午後10時頃にオークランド馬連隊がオスマン側の前哨拠点を攻略(※乗馬連隊に配属されていたマオリ小隊の兵士たちは、オスマン側の塹壕を制圧後にハカを披露したという)、次いでウェリントン馬連隊が「テーブル・トップ」の丘を午後11時までに、オタゴおよびカンタベリー馬連隊が「ボウチョップス・ヒル」の丘を7日午前1時までに、オスマン側の抗戦に遭いつつも確保した。左翼援護部隊を担当する第40旅団隷下の2個大隊も午前1時30分頃にはダマクジェリク・ベアまで到達して主攻部隊の進軍路を確保したが、当初の作戦計画よりも約2時間遅れる結果となった[Kinloch, 2005][Cameron, 2011]。

 

 左翼攻撃縦隊はモナシュの第4旅団とコックスの第29インド旅団、インド第21山砲中隊などで編成され、総指揮はコックスが執った。左翼攻撃縦隊の道案内はパーシー・オーヴァートン少佐が担当し、8月6日午後9時35分に開始地点を離れた。アジル・デアに11時15分頃を、アブデュル・ラフマン・ベアから971高地への強襲開始は7日午前1時30分頃を、頂上への到達は午前3時頃を予定した。しかし装備を所持した上での夜間行軍は困難を極め、出発当初から遅延が生じた。遅れを取り戻すためにオーヴァートンは現地のギリシア系住民の助言に従い、アジル・デアへ出る近道として当初の海側にまわって進む道ではなく、ボウチョップス・ヒルの北にある「テイラーズ・ギャップ」の峡谷を進む道を選ぶことにいた。しかしこれは裏目に出てより狭く険しい道に入ってしまい、第13大隊から工兵を派遣して道を切り開かなければならなくなり、オスマン側の銃撃にも直面した。結局アジル・デアに到着したのは午前2時近くで、約600メートルの道を進むのに2時間以上を費やす結果となった。進軍路も計画より北にずれてしまい、第4旅団だけでなく後続の第29インド旅団にも遅延が生じ、当初の行軍スケジュールは破綻してしまった。月がのぼるにつれてオスマン側による攻撃の兆しが高まったため第13・第14大隊は側面の援護にまわったが、ダマクジェリク・ベア周辺を守っていたオスマン帝国第14連隊隷下大隊との小戦闘によって疲弊を早めた。モナシュ自身はテイラーズ・ギャップの東500ヤード、ダマクジェリク・ベアの地点に司令部を設け、後続の第15・第16大隊にアジル・デア~ダマクジェリク・ベア~アスマ・デア~アブデュル・ラフマン・ベアを経て971高地まで向かわせようとしたが、時刻は既に7日午前3時を過ぎていた。

 

 8月7日午前4時30分頃までに第15・16大隊はインド軍2個大隊(第14シク・第1/6グルカ大隊)とともに、途中でオスマン帝国第32連隊隷下大隊の攻撃を受けつつも前進したが、銃剣で闘う白兵戦となり第15大隊では112名の死傷者が出た。それでもオスマン側から複数の捕虜を獲得し(※モナシュ自らもオスマン軍兵士2名を捕虜にする武功をあげたという)、野営地を占拠して折り畳み式ベッドや風呂桶を含む装備品を鹵獲するという戦果も得た。モナシュはこの戦利品の折り畳み式ベッドを心地よく感じたのか、大戦を通して使用し続けた。しかし夜が明け始めるとオスマン側は後退を止め、第4旅団の前面地域に増援を送り込みつつあった。第16大隊長のポープはこの時、縦隊の現在地を971高地から約1キロの地点であると勘違いしており、午前5時過ぎには右翼部隊はアスマ・デアを越えた地点にいると報告した。モナシュはこれをゴッドリーの司令部にも報告してしまったが、実際にはまだダマクジェリク・ベアを抜けておらず、目標からは約2キロ離れた位置であった。

 

 ポープと第15大隊長のカナンは夜間の行軍や戦闘によって既に将兵たちの疲労は限界にきていることをモナシュに報告し、これを受けてモナシュもコックスに対し、前進をやめて現地で壕を掘って守りに努めさせるべきことを提案した。当初コックスはモナシュに午前11時から第14シク大隊とともに971高地を攻撃することを要請したが、程なくしてそれも実行困難な計画であることが明らかとなったため、提案は受け入れられた。午前9時、モナシュは大隊長たちと協議した結果、第4旅団は7日中が現在地に留まることを決めた。補給の確保と負傷者の後送が命令され、前線の右翼は狙撃や砲撃の危険があるため、後退させることにした。各大隊の兵員は作戦前から健康を害していた者も多く、何か月も長距離行軍の訓練を受けていなかったため、装備を伴った移動や塹壕掘りによってすっかり疲弊してしまった。またこの時、前線の左翼にある「60高地」には、飲料水確保のため井戸を探していた第4旅団の分隊が立ち寄っていた。モナシュは補給を円滑に行うためにも60高地を確保する必要があると考え、左翼援護部隊の第5ウィルトシャー大隊に占領するよう要請もしたが、不首尾に終わった。

 

 この日第29インド旅団の第1/6グルカ大隊を率いていたC・J・L・アランソン少佐は1936年の証言で、午前7時ごろにモナシュにあった際、モナシュが作戦に狂いが生じ将兵たちが疲弊してしまったことに受けて「兵たちを指揮できると思っていたのに」と叫んで狼狽し、アランソンが自らの大隊を予備戦力として使うことを提案しても「君では何の助けにもならない」と言われたとして、モナシュを強く批判している。[Rhodes James, 1965]はこの証言を採用しており、「(ロイド=ジョージのモナシュ評を逆手にとって)彼に欠けているものがあったとすれば、それは機略であった」として、8月攻勢で前線指揮を執る指揮官としては不適材不適所であったと評しているが、オーストラリアの歴史家たちは、同時代の段階ではこれを裏付けるような証言が見られないため事実としての信憑性は疑わしいとしている(※なぜ約20年経ってからアランソンがこのように発言したのかについても推論が成されており、モナシュ死去後の1934年に出版された戦時書簡集の中で第29インド旅団に低評価を下している箇所があり、それに憤慨したためではないかという説がある[Serle, 1982]。なお[Rhodes James, 1965]が批判したアラン・ムーアヘッドの戦記叙述にも問題点があり、ロイド=ジョージのモナシュ評を引用しつつ「スヴラ湾作戦の指揮官はモナシュが担当するべきであった」という壮大なイフを語る一方で、実際の8月攻勢のモナシュに関しては「サリ・ベアの高地を目標とした一縦隊を率いる任務を与えられていた」と簡潔に触れるのみで何の評価も下していない)。1917年のダーダネルス委員会の報告書の中では、アランソンはサリ・ベアでの作戦失敗の責任は新陸軍の旅団指揮官(※第38旅団長アンソニーボールドウィン准将)や諸大隊にあると主張しているが、モナシュの責任は特に追及していなかった。また8月下旬にアランソンは従軍記者のビーンのインタビューに応じているが、この時もモナシュについては何も言及していなかった(※8月攻勢中のビーンの日記ではモナシュや第4旅団の作戦経過が批判されているので、アランソンがモナシュについて発言していれば書き留められていても不思議ではない)。

 

 第4旅団に続く形で進軍した左翼攻撃縦隊の第29インド旅団は(※オーヴァートン少佐は第4旅団と別れた後は第29インド旅団の道案内に移っていたが、8月7日早朝に戦死してしまう)、テイラーズ・ギャップを経た後は第4旅団側のダマクジェリク・ベアからNZ歩兵旅団側のロードデンドロン・リッジにかけて、大隊ごとに分散が進んでしまった。7日未明の時点でアランソンの第1/6グルカ大隊はQ高地から約500ヤードの地点に達しつつあったが、(※モナシュの第4旅団が現在地を間違えていたことも影響して)第2/10グルカ大隊は南下しすぎてQ高地ではなく、チュヌク・ベアを目指すNZ部隊と接近してしまった。

 

 右翼攻撃縦隊はジョンストンのNZ歩兵旅団やインド第26山砲中隊などで編成され、出発は遅延したが左翼攻撃縦隊に比べると進軍は比較的順調に進み、8月7日夜明けには先導のオタゴ大隊がロードデンドロン・リッジとチュヌク・ベアを結ぶ地点「エーペックス」の丘に達した。チュヌク・ベアの頂上まで約500ヤードに迫っていたが、後続のカンタベリー大隊には道に迷って出発点に戻ってしまった部隊も出た。しかしバードウッドが後続部隊の到着に関係なく直ちに攻撃することを要求していたにもかかわらず、NZ歩兵旅団長のジョンストンは頂上に達する前に自らの旅団の戦力集中を待つことにし、前線兵士たちには朝食を摂らせた(※オーストラリア乗馬部隊のネクに対する攻撃は、この間に実施された)。一方オスマン側では、ヘレス岬側から第9師団隷下第64連隊が午前6時30分にQ高地に到着、第25連隊もそれに続き、当初からこの地域に配置されていた第5師団隷下第14連隊の諸大隊を補強した。

 

 アンザック地区では8月6日~7日の夜にかけて、支攻の一つとして第2旅団隷下第6大隊(※大隊長H・G・ベネット中佐。のち第二次世界大戦シンガポールで第8オーストラリア師団を率いることになる)による、スティールズ・ポストからジャーマンオフィサーズ・トレンチに対する攻撃が実施された。6日午後11時過ぎより坑道の爆破が実施されたが、爆破によるオスマン側の損害は少なくアンザック側の塹壕への砲撃で応えたため、第6大隊の攻撃開始は遅れてしまった。7日午前0時30分過ぎに攻撃は開始されたが、兵士たちはオスマン側の塹壕にほとんど入ることが出来ずに撃退された。憤慨した第1師団のホワイト参謀長は再度の攻撃を命じ、午前4時に再度攻撃が実施されたがこれも失敗に終わった。結局ウォーカー師団長とバードウッドが正式に攻撃中止を認めるのは午前9時になってからで、それまでの戦闘で第6大隊は戦死80、負傷66の損害を出していた【ジャーマンオフィサーズ・トレンチの戦い】

 

 そして8月7日の早朝、第3乗馬旅団部隊による、ラッセルズ・トップベイビー700間にある尾根、ネク塹壕への攻撃(※NZ歩兵旅団のベイビー700攻略に合わせて実施するものから、NZ歩兵旅団がチュヌク・ベアに到達と同時に実施するものに変更された)は惨劇となった。7日午前4時より実施されたネクに対する準備砲撃は、砲兵将校と前線将校の時計があっていなかったため予定より7分早く終了し、オスマン側が態勢を整える時間を与えてしまった。そのため午前4時30分に実施された第8乗馬連隊の第一列による攻撃は、オスマン帝国第19師団隷下第18・第27連隊の攻撃により10メートルも進むことが出来ずに壊滅的な損害を受け、連隊長のA・H・ホワイト中佐も戦死した。第二列の攻撃も実施されたが同じ結果に終わり、戦闘継続は致命的であることは明白となった。第10乗馬連隊長のノエル・ブレイザー中佐は第3乗馬旅団司令部に攻撃中止の申し立てをしたが、旅団副官のJ・M・アンティル中佐の指示は攻撃の継続であった。そのため第10乗馬連隊による第三・第四列の攻撃も実施され、さらなる犠牲が生じることになった。第8・第10乗馬連隊の参加兵力600人中、死傷者数は372人に達し、テニスコートほどの広さの戦地は死傷者で一杯となったネクの戦いポープズ・ヒルからは第1乗馬連隊、クインズ・ポストからは第2乗馬連隊による攻撃も実施されていたが、いずれも不首尾に終わっていた。一連の攻撃はオスマン側のチュヌク・ベア方面への増援を若干遅延させたものの、乗馬部隊全体での死傷者数は参加兵力1250人中650人におよび、実際に得られた戦果に比べるとあまりにも大きすぎる犠牲となった。

 

 ゴッドリーは8月7日早朝には各旅団の攻撃計画が完全に行き詰ったことを認めざるを得なくなったが、午前6時頃に予備戦力だった新陸軍第39旅団の投入を決め、第29インド旅団とNZ歩兵旅団の戦力補強を図ろうとした。ジョンストンも午前6時30分にNZ歩兵旅団の前進を再開させた。既に乗馬部隊による攻撃失敗が明らかになっていることを踏まえ、当初ジョンストンは左翼攻撃縦隊と同様に現地に留まることを提案したが、ゴッドリーの命令はあくまでチュヌク・ベアへの攻撃継続であった。午前10時30分、途中で合流した第2/10グルカ大隊の2個中隊と併せて、高地に対する攻撃が開始された。しかし攻撃を担当したオークランド大隊はオスマン側の機関銃やアブデュル・ラフマン・ベアからの砲撃により20分ほどの間に死傷者約300人の大損害を受け、グルカ兵たちも有効な援護を行うことが出来ず後退した。12時30分頃、ジョンストンはマロン中佐のウェリントン大隊にも攻撃を命じたが、マロンは攻撃は日中ではなく夜間でなければならないとしてこれを拒否、カンタベリー大隊は攻撃を実施したものの100人以上の死傷者を出して芳しい結果は得られなかった。ゴッドリーは諸大隊によるさらなる攻撃を要求したが、ジョンストンが日中の頂上確保は不可能である旨を報告したため、やむを得ず攻撃の延期に同意した。

 

 主攻を担う各旅団の損耗が著しい一方で、オスマン側はさらに増援を送りつつある情勢だったが、ゴッドリーは翌8月8日以降のさらなる攻勢を検討した。第29インド旅団は第39旅団隷下の4個大隊、NZ歩兵旅団も第39旅団隷下の2個大隊(※第8ウェールズ大隊および第7グロスターシャー大隊) およびNZ乗馬旅団隷下の連隊、マオリ分遣隊で増強された。作戦計画としては、8日午前3時30分から約45分間の準備砲撃後、午前4時15分より各旅団が高地への攻撃を行うものとされた。ゴッドリーは第4旅団がより目標に近い地点にいるという誤報を受けて楽観的になっていたため、第4旅団に対しても971高地の強襲・占領が命じられた。

 

 モナシュは第14・第15・第16大隊で971高地を攻撃することを決め、コックスには増援も要請した結果、第38旅団隷下の第6ロイヤルランカスター大隊が第13大隊とともに援護を務めることになった。8月7日午後7時、コックスから翌日の攻撃命令の詳細を受け取ったが、モナシュ自身は旅団司令部を動かず、前線での直接指揮は第16大隊長のポープ中佐に任せ、連絡は電話を通じて行うことにした。しかし自身の大隊のみならず旅団全体に気を配らなければならなくなったポープに対して、不可解なことにモナシュは指揮や連絡のために必要とされる要員を十分に配置しなかった。作戦計画では8日午前3時にアスマ・デアを通過後アブデュル・ラフマン・ベアに入り、午前4時15分に971高地に到達する予定だった。しかしモナシュや幕僚たちはこの時正確な現在地を把握しておらず、アスマ・デアの一つ手前にあるカイアジク・デアの峡谷をアスマ・デアであると誤認していた。オスマン側はその北方の高地を既に確保して部隊を展開し、前日までに第4旅団に損害を与えていた。

 

 8月8日午前3時過ぎ、先導の第14・第15大隊は前進を開始したが、先日に引き続き夜間行軍は困難なものとなった。アスマ・デアであると誤認していたカイアジク・デアを進み始めると、午前4時過ぎよりオスマン側の機関銃射撃や971高地からの砲撃にさらされた。死傷者が多数生じて部隊は混乱し、アスマ・デアの方面へ前進することが出来なくなった。アブデュル・ラフマン・ベアに展開していたオスマン軍部隊は前進し、第4旅団の背後を脅かそうとしたが、第16大隊が救援にまわってこれを阻止した。しかし旅団将兵たちの疲労は限界に達しており、小隊・中隊間の連絡もままならならず、もはや行軍も戦闘も困難な状況となった。負傷者の増加に伴って応急救護所が設置されたものの、医療面の準備不足に関しては、後年の公刊戦史において批判にさらされることになった。モナシュは前線のこのような危機的状況に対処すべき立場にあったのだが、夜明け頃のオスマン側の砲撃により電話線が切断されていたため、午前7時まで各大隊と連絡を取ることが出来なかった。電話線の復旧後、ポープは既に各大隊は971高地に到達出来るような状況ではなくなっているとモナシュに報告した。モナシュはこれをコックスに伝え、コックスもこれ以上の前進は見込めないと判断したため、撤退命令が出された。

 

 援護として第4旅団の機関銃隊が到着したため、オスマン軍部隊のこれ以上の前進は阻止することが出来た。多くの負傷者の後送が果敢に実施され、午前8時30分までにカイアジク・デアまでの撤退が完了した。午前の段階で第4旅団は約750人の死傷者が出ており、その半分が第15大隊の兵員であったが、結局この日はこれ以上の作戦行動を取ることが出来なかった。計画段階での混乱、将兵たちの疲弊の状況、不十分過ぎる偵察、戦場の地形誤認、通信の脆弱さ、非現実的なタイムテーブル、その他「戦場の霧」fog of war要素など、ありとあらゆる問題点(※「模範的勝利」として賞賛された1918年7月4日のアメルの戦いなどと比べると、著しく対照的であった)が顕在化した中での敗北となった。第4旅団による971高地奪取が完全に破綻した1915年8月8日は、モナシュの軍歴においても、オーストラリア帝国軍の戦歴においても「暗黒の日」と見なされた。そしてこの日は奇しくも、モナシュや彼が率いるオーストラリア軍団にとっての「最も輝かしい勝利」の一つとなった1918年8月8日のアミアンの戦い(※ドイツ軍のエーリヒ・ルーデンドルフにとってこの日は「暗黒の日」だったのだが)の、ちょうど3年前であった。

 

 8月8日の第29インド旅団およびNZ歩兵旅団の攻撃は第4旅団のものに比べれば、いくらか成功が見られるものとなった。第29インド旅団は行軍路に困難が生じて目標に対してなかなか前進することが出来なかったが、それでもアランソン少佐の第1/6グルカ大隊は8月8日午前にQ高地の頂上から100ヤードの地点に達した(※アランソン大隊の左翼を支援していた第9ウォリックシャー大隊には、のち陸軍元帥・オーストラリア総督として著名になるウィリアム・スリム中尉がいた。この時スリムはアランソンと糧食のレーズンを分け合ったといわれているが、間もなくして負傷してしまった[Stanley, 2015])。しかしオスマン側の砲撃によりそれ以上の前進は阻まれ、他の新陸軍大隊と合流したうえで態勢を立て直そうとした。

 

 NZ歩兵旅団のマロン中佐のウェリントン大隊は陸海からの砲撃や第39旅団の2個大隊、第8ウェールズ大隊および第7グロスターシャー大隊に支援され、8日午前4時45分頃には大きな抵抗なく(※なぜこの時チュヌク・ベアの防備が手薄だったのかについては不明な点も多い)チュヌク・ベアの頂上まで達した。兵士たちは頂上から念願のダーダネルス海峡を遠くに見ることが出来たというが、岩山のため塹壕を掘ることが出来ず、身を隠すすべがない中でバトルシップ・ヒルやQ高地からの激しい砲撃にさらされることになった。オスマン側の各連隊による反撃も間もなくして開始され、手榴弾や銃剣による再三の歩兵攻撃にウェリントン大隊は耐え続けたが、損害は甚大となり弾薬も枯渇し始めた。マロン大隊長は「グルカ兵の援軍が来る」と言って大隊将兵たちを激励し続けたといわれているが、オスマン側の砲撃は激しく増援の派遣も負傷者の後送も不可能となった。そして午後5時40分頃、マロンは友軍砲兵と思われる攻撃によって戦死を遂げた。この日の戦闘を経てウェリントン大隊は兵員760人のうち、無傷・軽傷で済んだ者は70人のみとなっており、ほぼ全員の軍服が血や汗、粉塵にまみれていたが、マロンの前線指揮官としての果敢さや大隊将兵たちの死闘は、ニュージーランドでは「英雄的悲劇」として伝説化されることになった(※75周年の際に描かれた戦争画)。ウェリントン大隊とともに戦った新陸軍大隊の死傷者数も、ウェールズ大隊は417人、グロスターシャー大隊は350人にのぼっていた。その後夜間にオタゴ大隊やウェリントン馬連隊がようやく増援として到着し疲弊した諸大隊と交替、チュヌク・ベアの頂上は確保し続けることになったが、戦力は不足したままで敵味方の距離はわずか20~30ヤードしか離れていなかった。オスマン側の損害もこの時までに師団長2名が負傷、連隊長2名が戦死するなど深刻だったが、各所から増援を到着させて反撃準備を着実に進めていた[Pugsley, 1984][Kinloch, 2005]。

 

 翌8月9日にもゴッドリーはチュヌク・ベアの稜線の堅持とQ高地への攻撃を命じたが、この日の作戦計画ではモナシュの第4旅団の状況を鑑みて、971高地への攻撃は断念された。この日は早朝よりオスマン帝国第7師団によるダマクジェリク・ベアに対する反攻が実施されていたが、第4旅団隷下の第13大隊は、新陸軍第40旅団隷下大隊と協力してこれを阻止することが出来た。しかし午後に新陸軍大隊と交替した第16大隊は大きな損害を受け、60高地の周辺を確保することもかなわなかった。モナシュはこれ以上の反撃に対処するのは兵士の増援と機関銃が必要であると判断したが、総指揮を担うコックスの側でも混乱が生じていたため、弾薬・水・食糧の補給は深刻化したままだった。第4旅団の将兵たちの間では疲労の蓄積から気管支炎などの疾患も生じ始めており、部隊内の平静さが失われているようにも感じられたが、それでも何とか壕を築いて前線を膠着状態に持ち込むことは出来た。

 

 引き続き攻勢を行うことになった第29インド旅団の左翼は第39旅団隷下大隊によって強化され、中央はアンソニーボールドウィン准将の第38旅団(※新兵で戦場にも不慣れだったが、アンザック軍団の他の予備戦力はローン・パイン等で既に投入されてしまっていた)で強化された。第38旅団はQ高地攻撃の主戦力を担うはずだったが、夜間行軍となった上に案内人が道を間違えてしまい、本隊の前線への到着は遅れてしまった(※たとえ前線に間に合ってQ高地を占領出来ても、それを維持したうえでバトルシップヒル方面に攻撃を行うには戦力不足だっただろうという見解もある[Cameron, 2011])。そのため増援を待てなかったアランソンの第1/6グルカ大隊は、第39旅団隷下、第6サウスランカシャー大隊の3個中隊とともに攻撃をかけ、9日午前5時30分頃にQ高地に到達した。アランソンは後日作成した報告書の中で、頂上からはダーダネルス海峡やアチババの方角に向かう輜重隊を見ることが出来たと証言している。しかしボールドウィンの援軍は間に合わなかったためオスマン側の反撃に対して戦力不足は否めず、アランソン自身も白兵戦の中銃剣で負傷した。そして間もなくして友軍のものと思われる砲撃(※かつては海軍駆逐艦・砲艦のものと主張されていたが、アンザック地区のNZ軍砲兵隊の榴弾砲によるものという見解もあり、論争が続いている)により部隊は混乱してしまい、頂上からの撤退を余儀なくされた。

 

 チュヌク・ベアでも8月9日午前4時よりオスマン側の攻撃が展開された。頂上付近にいたNZ部隊は、ウェリントン馬連隊長のウィリアム・メルドラム中佐を総指揮官として何とか持ちこたえ、「ニュージーランドの栄光の時finest hour」とも評されるような敢闘を見せたが、午後になっても増援や補給は不充分なままだった。午後11時、疲弊していたNZ部隊(※ウェリントン馬連隊はこの時までに兵員173人中100人が死傷していた)は最終的には新陸軍の第6ノースランカシャーおよび第5ウィルトシャー大隊と交替した。8月攻勢開始時、NZ歩兵旅団は約3,000人、NZ乗馬旅団は約1,550人の戦力を有していたが、この時点ではそれぞれ1,700人、960人にまで損耗しており、その多くが負傷している状態だった。8月6日~12日におけるNZ軍の戦死・行方不明者の総数は、887人にのぼっていた[Pugsley, 1984][Kinloch, 2005][Cameron, 2011]。

 

 翌8月10日午前4時30分、新編のアナファルタ集団司令官となっていたムスタファ・ケマルは、約6000人の兵力を投入してチュヌク・ベアに総攻撃をかけた。オスマン将兵たちによる果敢な銃剣突撃に新陸軍大隊は不意を突かれ、間もなくして頂上は奪回された。その後オスマン軍はイギリス側の陸海からの砲撃や機関銃による応戦で犠牲を出しつつも(※この戦いではケマルにも銃弾が飛んできたが、懐中時計により救われた)、午前10時頃にはチュヌク・ベアの下方に位置し、第38旅団やグルカ大隊など約3,000人が展開していた「ファーム」の台地も奪回した(※この時イギリス側の戦死者は1,000人以上にのぼったとされ、第38旅団長のボールドウィンも戦死している)。一連の戦闘を経てオスマン側に甚大な損害が出ていたことは事実であるが、地中海派遣軍の主攻を担った各旅団は、10日午後の時点で500~1500メートルの後退を強いられていた。サリ・ベアの高地に対する脅威は完全に取り除かれる形となり、高地奪取を目標とした地中海派遣軍の作戦が失敗に終わったことは、これで明らかとなった[Erickson,2010][Cameron, 2011]【チュヌク・ベアの戦い】

 

 スヴラ湾地区では8月8日、第9軍団は休養と補給に時間を費やそうとしていたが、正午頃にスヴラ湾に到着した参謀将校のセシル・アスピノール大佐(※のちイギリスのガリポリ公刊戦史著者)は、「作戦が停滞しており絶好の機会golden opportunitiesが失われつつある」旨をハミルトンに報告した。ハミルトンはテッケ・テペの高地(※オスマン側の兵力が展開していないことを偵察で確認していた)へのより早期の攻撃催促をするべく自らスヴラ湾まで出向いたが、前進開始は翌朝まで遅れた。しかし翌9日午前4時頃、戦力を集結していたオスマン側の反撃が実施され、第9軍団は後退を強いられた(※たとえテッケ・テペまで到達出来ても、第9軍団の現状では兵站線を確保することは不可能だったとする見方もある[Prior, 2009])。その後第9軍団側は態勢を整え、新たに国防義勇軍第53・第54師団も加わって翌10日以降も戦い続けたが、スヴラ湾地区でも戦線は膠着化することになった。補給拠点の強化という目標のみ達成する形となったストップフォードは、結局8月21日に軍団長を解任されてしまった。ハミルトンやアスピノールらは、戦役における自らの判断の正当性を主張するためにストップフォードの責任を強く追及したため(※モナシュも同時代のヴィクや義弟のローゼンハインに宛てた手紙の中では、8月攻勢が頓挫した要因は新陸軍部隊の弱体やスヴラ湾での作戦失敗にあると力説しており、そういった意味では共謀関係にあった)、後年にはスヴラ湾作戦は「ヨークタウンやシンガポールに匹敵する大敗北」とまで評されるようになってしまった(※[Prior, 2009]ではスヴラ湾の戦いは「スケープゴート・バトル」と表現されている)【スヴラ湾の戦い】。8月6日-10日における双方の死傷者数は、地中海派遣軍約25000人、オスマン側約20,000人におよんでいた[Erickson, 2010]。

 

 地中海派遣軍による8月攻勢は結果として、主攻においてはサリ・ベアのいずれの高地も占領することが出来ず、支攻においてもいずれも失敗に終わるか、実際に得られた戦果に比べて高い代償を支払う結果となった。サリ・ベアの主攻に関しては、アジル・デアの進軍で遅延を生じさせた第4旅団のモナシュだけでなく、「エーペックス」に留まってチュヌク・ベアへの到達を延期したジョンストン、8月9日のQ高地への攻撃に間に合わなかったボールドウィン、前線の状況を正確に把握しないまま作戦指示を続けたゴッドリーらも、作戦失敗の要因あるいはターニングポイントとしてしばしば取り上げられている。しかしその一方で、主攻部隊や予備戦力の実情を踏まえると、8月攻勢の作戦目標はあまりにも野心的・楽観的に過ぎ、個々の将兵たちが作戦に従事する以前の段階、つまりバードウッドが作戦を立案した段階において既に敗北は運命づけられていたという見解も強くなっている[Prior, 2009][Cameron, 2011]。第9軍団がスヴラ湾に上陸後、内陸の高地を確保していれば戦局が変わったというイフもしばしば語られるが、スヴラ湾作戦は本来、主攻として想定されたものではなかった。また万が一サリ・ベアの高地を占領出来たとしても、ダーダネルス海峡を制圧するためにはキリド・バハルの台地までを確保する必要があったが、実際の地中海派遣軍はそれを達成するために必要な戦力も兵站能力も有していなかった[Prior, 2009][Cameron, 2011]。

 

 8月下旬、モナシュの第4旅団はもう一度作戦に従事する必要があった。8月攻勢失敗後もハミルトンは本国に増援を要請する一方でスヴラ湾地区でのさらなる攻勢を計画しており、エジプトから到着したヨーマンリー第2乗馬師団を予備戦力としたうえで、第11師団およびヘレス岬から転出した第29師団に「Wヒルズ」と「シミター・ヒル」をそれぞれ攻撃させる計画が立てられた。この攻勢の支援として、アンザック地区からは971高地の北西に位置する60高地に対する攻勢が実施されることになった。スヴラ湾地区とアンザック地区の連絡路を強化し、のちのアナファルタ高地を攻撃する上での拠点とすることを目的であり、スヴラ湾地区を含めれば参加兵力自体は多数にのぼったが、8月攻勢に比べると作戦目標はかなり限定的であった。皮肉なことに60高地は8月攻勢の際、井戸を探していた第4旅団の分隊が一時立ち寄った地であり、8月9日以降はオスマン側が確保していた。第4旅団やNZ乗馬旅団、第29インド旅団の隷下部隊もこの作戦に加わることになったが、先の攻勢での疲弊は著しく、作戦当初において第4旅団は第13・第14大隊の約500人、NZ乗馬旅団はカンタベリーおよびオタゴ乗馬連隊の約400人しか投入することが出来なかった。アンザック地区からの攻勢の総指揮はコックスが執ることになり、モナシュは19日にコックスやNZ乗馬旅団のラッセルとともに作戦協議を行った。

 

 第4旅団は右翼、NZ乗馬旅団は中央、第29インド旅団は左翼にそれぞれ配置され、8月21日午後3時30分より60高地への攻撃は実施された。左翼ではグルカ大隊や第10師団隷下の第5コンノート・レンジャーズ大隊が目標の井戸の一つを確保するなどの戦果を得たものの、オスマン帝国第7師団隷下部隊の塹壕はサリ・ベアの戦い以降強化されており、激しい砲撃にも晒されたため、間もなくして各旅団の前進は阻まれた。オスマン側のアナファルタ集団からは増援も到着し始めたため、モナシュは午後5時頃、ラッセルにこれ以上の前進が困難であることを連絡した。日没までの隷下部隊の死傷者数は173人に及んでいた。翌8月22日には増援として未熟練の第5オーストラリア旅団隷下第18大隊が到着、明け方より攻撃を担当したが午前9時頃には反撃を受け、戦力の約半数にあたる383人が死傷する甚大な損害を受けた。コックス指揮下の部隊は60高地の南から西にかけての約200メートルの塹壕を確保したに留まった。

 

 第4旅団の前線に投入できる攻撃部隊はもはや350人程度となっていたが、戦果に満足していなかったバードウッドは再度60高地への攻撃を命じた。モナシュとラッセルは夜間の攻撃を主張したが、結局攻撃は8月27日の午後4時の準備砲撃の後、午後5時より第4旅団の各大隊とNZ乗馬旅団の各連隊(※オークランドおよびウェリントン馬連隊が加わったが、軽い傷病者を含めても約300人しか投入できなかった)、コンノート・レンジャーズ大隊(約250人)、第18大隊(約100人)によって実施されることになった。しかし準備砲撃の効果は薄くかえってオスマン側に警戒を与えてしまった。第4旅団の兵士たちはオスマン側の銃火を直接受けて多くの損害を出し、NZ乗馬兵たちも必死の白兵戦を展開したが前進は滞った。28-29日にかけてはオーストラリア第9・第10乗馬連隊も加わって戦闘が行われ(※ニュージーランドヘレン・クラーク元首相の大おじにあたるフランク・クラークはオークランド馬連隊に所属していたが、28日の戦闘で戦死している)、苦闘の末占領区域を増やすことは出来たが、60高地の頂上はオスマン側の手にあった。スヴラ湾との連絡路自体はある程度確保され、バードウッドは戦術的成功を主張したものの、コックス指揮下部隊のこれまでの死傷者数は約1,300人に上っており、犠牲に見合った戦果が得られたとは言い難かった【60高地の戦い】。8月21日より展開されていたスヴラ湾地区におけるWヒルズおよびシミター・ヒルへの攻勢も、既にオスマン側が前線の各師団を支援する砲兵戦力を強化していたため、6500人以上の死傷者を出しながら芳しい成果は得られなかった。

 

 結果的に60高地およびシミター・ヒルの戦いは、ガリポリ戦役における最後の主要戦闘となったが、既に疲弊が著しい部隊を投入したこと、効果の薄い準備砲撃など、作戦の立案と遂行において問題点が数多かった。モナシュも日記の中で「酷く杜撰な作戦」であったと強く批判し、コックスとは作戦の是非や犠牲をめぐって口論も生じていたという。しかしその一方で、ビーンは公刊戦史において戦力を損耗し尽くしても最後まで敢闘したNZ乗馬旅団をはじめとする将兵たちを評価するなどした。またアンザックやイギリス本国の将兵たちの中には、インド軍部隊と共闘を重ねたことに伴い、グルカおよびシク教徒の兵士たちの武勇に賛辞を贈ったり、言語や慣習の壁を越えて彼らとの戦友愛(※チャパティやカレーの糧食を分け合ったという者もいたという)を実感したと証言する者が少なからず見られた[Pugsley, 1984][Stanley, 2015]。

 

 9月14日より第4旅団はようやくレムノス島にて休養を取ることになったが、モナシュと共にメルボルンを出発した兵員のうち健在な者は、既に十分の一ほどにまで減っていた。モナシュもこの頃、激しい下痢に襲われており、持病の腰痛も悪化していた。それでも輸送船での旅においてビールを飲み、熱い風呂に入った結果、体調は良化したという。レムノス島でモナシュは秋の穏やかな気候の下、乗馬や散歩を楽しんだ。果樹園を訪問してブドウやイチジク、ザクロ、マルメロを味わい、つかの間ではあるが戦争中であることを忘れることが出来た。モナシュはヴィクへの手紙の中で「アイオナ」の庭のことに言及するなど、ノスタルジックな感情にも襲われた。故郷で記念として植えるためにと、ガリポリのセイヨウヒイラギの実を郵送したりもした。しかし兵士たちの健康状態の回復は遅く、9月27日の時点で第4旅団の兵員は2,171人と未だ定数の半分程度となっているなど、補充兵もなかなか到着しなかった。旅団の宿営地のコンサートではモナシュはスピーチを披露したが、第15大隊の部隊史によれば、兵士たちはその内容に魅了されたという。一方でレムノス島まで着いた郵便物が前線の将兵たちに届くまで10日を要している点に苦言を呈したりもした。

 

 モナシュはその後エジプトへと向かい、3週間をここで過ごした。カイロで5日間を過ごした以外はアレクサンドリアのサヴォイ・パレス・ホテルに滞在し、補充兵や補給状況について協議し、戦傷・戦病者を訪問するなどした。部下たちとはミュージックホール、ヴァラエティーショー、カジノ、映画、ボクシング試合など「夜遊び」にも出かけた。甥のエリック・シモンソンにも会って、5~6マイルの散歩に出かけた。愛乗馬は「トム」と名付け、(※馬はオーストラリアに輸送することは出来ないので)記念品に蹄鉄を故郷に郵送した。モナシュはカイロに滞在時、ウォーカーやマッケイと並んで自身もバス勲章(Companion of the Order of the Bath)の受章が決まったことを知り大きな喜びを得た。受勲についてはショヴェルやラッセルからも祝福を受けたが、モナシュは同じ旅団長であるラッセルのナイト叙任が決まったことを知ると、不満の感情をマッケイに対して漏らした。また負傷や病気により離脱したウォーカーやレッグの代理として、ショヴェルが第1師団を、ホームズが第2師団を指揮することになったが、これに対してもモナシュは自身の立場が不当に評価されているのではないかと動揺した。

 

 9月になるとアンザック地区では新戦力の第2オーストラリア師団隷下部隊の配置が進み、砲撃や狙撃は相変わらず続いたが、本格的戦闘の機会は減少した。兵士たちには「ジャム缶手榴弾」ではない工場製手榴弾がようやく行きわたるようになったが、エジプトの工場製のものには粗悪品も含まれていたという。9月下旬になってもハエはまだ残存しており、赤痢患者は依然発生していた。フランス軍部隊によるアジア側への上陸作戦、海軍による再度の攻撃計画が検討されたこともあったが、10月になるとブルガリアが同盟国側で参戦するに至り、外交戦略上でもイギリス帝国の敗北は濃厚となった。ブルガリア軍の動員が報じられると、地中海派遣軍からも2個師団をギリシアのサロニカへ派遣しなければならなくなり、またセルビアにおける戦況悪化を踏まえると、ドイツやオーストリアが重砲を含めたさらなる戦力をオスマン帝国に派遣してくる可能性も高まりを見せた。

 

 かねてから地中海派遣軍司令部に不満を覚えていた従軍記者のアシュミード=バートレットは、9月初旬にガリポリを訪れていたオーストラリアのジャーナリスト、キース・マードック(※ルパート・マードックの父)と相談し、作戦批判の書簡をイギリス首脳に提出することにした。マードックマルセイユに到着した際、アシュミード=バートレットから託された書簡を憲兵に押収されてしまうが、マードックはロンドンに到着後の9月23日、自ら新たに作成した書簡をオーストラリアのフィッシャー首相宛に送ることにした。マードックは書簡の中でオーストラリア兵たちが前線で見せた卓越性を賞讃しつつも派遣軍司令部の作戦指揮や医療の問題については強く糾弾しており、その内容は10月初旬までにはイギリス本国の報道関係者や首脳陣にも届くことになった。またこれより以前、9月初旬に状況報告のため本国に派遣されていた地中海派遣軍のガイ・ダウニー少佐がダーダネルス委員会のメンバーたちと会見した時点から、8月攻勢の失敗や今後の戦略転換、撤退をめぐる議論が始められていた。10月14日、ダーダネルス委員会はハミルトンと参謀長ブレイスウェイトの解任を決定し、以後ハミルトンは前線指揮官の職に就くことは出来なかった。後任司令官にはチャールズ・モンローが就任し、10月28日にガリポリに到着した。

 

 11月8日、モナシュはガリポリ半島に戻り、第4旅団は比較的平穏なボウチョップス・ヒルに配置された。モナシュは13日にバードウッドと協議のためアンザック・コーヴへ召集され、同時に本国から視察に訪れたキッチナー元帥を出迎えた。帝国の英雄であるキッチナーと集まった将官たちを兵士たちは歓呼の声で迎え、バードウッドはキッチナーをラッセルズ・トップの前線に案内した。自ら語りかけることは少なかったというキッチナーの視察は2時間半ほどで終了したが、モナシュはこの時点では、戦役の終わりが近くなっていることを感じることは無かったという。第4旅団の地区では大規模戦闘は発生しなかったが、同時にそれは軍紀の弛緩を生むことになった。小銃の手入れが疎かになったり、装備が乱雑に散らかったり、記章をつけていない者、トランプ遊びに興じる歩哨などが見受けられたため、これらに関してはモナシュも厳しく叱責を行わなければならなかった。

 

 11月のアンザック地区では既に攻勢は実施されていなかったが、冬季戦闘に備えて塹壕の強化を行う必要があり、兵士たちは中間地帯において優勢を確保すべく、威力偵察を行って捕虜を得たこともあった。バードウッドやゴッドリーが第4旅団の前線を訪問した際には、防備が徹底出来ているという評価を得たりもした。一方、オスマン側には11月初旬よりオーストリアやドイツから臼砲榴弾砲中隊が新たに到着し始め、前線兵士たちにとっての脅威は増加していた。11月下旬にはガリポリ半島に降雪が見られた。兵士たちの中には雪が初体験となる者も少なからずいたが、中には雪景色に美しさを見出したり、少年のように雪合戦に興じたりする者もいた。気候が冬になるにつれてハエはいなくなり(※ただしノミやシラミは引き続き兵士たちを悩ませた)赤痢患者は減少していたが、代わってリウマチや霜焼け、凍傷になる兵士が増加を見るようになり、それらによる離脱者はアンザック地区では約3,000人にのぼったという。モナシュもまた2日間熱で寝込み、黄疸にも苦しめられた。

 

 季節が変わっても兵士たちの前線生活が倦怠的なものであることは変わりなかったが、慰問小包が届いたり酒保で買い物をしたりして楽しみを得ることもあった。兵士たちの中にはイラストや文章、詩句などを自作して創造性を発揮する者もいたが、間もなくして従軍記者のビーンはそれらを編集して『アンザック・ブック』と題した記念本(※当初はクリスマスから新年にかけてアンザック地区で越冬する兵士たちの士気高揚のための雑誌編集プロジェクトとして始まったが、撤退作戦が決まると、これまでの戦場での功績を讃える記念本という意図に変わった)を作成した。1916年に出版された『アンザック・ブック』は大戦中に約10万部を売り上げてソルジャーズ・カルチャーの傑作として評価されると同時に、その中で示された兵士たちの姿はオーストラリアの理想的兵士像・国民像と結び付けられ、ガリポリ経験の伝説化の一端を担うことになった(※ただし戦場の過酷さや悲哀を直接的に表現した投稿は、ビーンによる編集の段階でリジェクトされていたことも明らかになっている[Kent, 1985])。

 

 戦場の状況を踏まえてモンローは10月31日に既に撤退作戦を本国に提案しており、11月に前線視察したキッチナーも、戦役の行き詰まりが明らかであることを認識したことから、11月22日にそれを認めるに至った。同じ頃アンザック軍団参謀長になっていたホワイトは、オスマン側に全く銃砲射撃を行わない日時を設ける「サイレント・スタント」と呼ばれる任務を兵士たちに課した。静寂な時間が定期的に生じることに慣れさせることで、撤退が開始された際にオスマン側に悟られないようにすることが目的であったが、クインズ・ポストなど一部地点では小戦闘が継続していた。12月8日、本国の戦時内閣は撤退作戦を正式に認めた。アンザック・コーヴからの撤退作戦の責任はバードウッドが担い、立案にはホワイトとアスピノール、第9軍団参謀長H・L・リードが参与した。モナシュは12月12日になって撤退作戦の事実を聞いた時は寝耳に水となり、既に3万人近い死傷者が出ている中で撤退することをオーストラリアの人々はどのように思うだろうかと不安にもなったが、命令には従うほかないと考えた。12月16日には下士官兵士たちも撤退について知らされた。兵士たちの戦意は維持されていたことから、多くの者は亡くなった戦友たちを現地に残して撤退することへの落胆や憤りを感じたが、前線の過酷な現状から脱却できることを率直に喜ぶ者も中にはいた。

 

 アンザック・コーヴでは12月初頭に約42,000人だった駐屯部隊は段階的に減らされ、12月18-19日の時点で約20,000人、撤退作戦最終日の19‐20日の時点で約10,000人が残っていた。モナシュは後日、アンザック・コーヴにおけるこの最後の2日間が、これまでで最も緊迫した時間であったと語った。最前線の塹壕には無人になったことを悟られないために、時限式自動発射装置付きの小銃も配置された(※作戦成功の原動力であるとして過大評価されているが、実際には「サイレント・スタント」の方がオスマン側を欺く要因としては大きかったと考えられている[Stanley, 2005][Stevenson, 2013])。師団間の最終協議では、バードウッドが指揮官たちを握手してまわり、作戦が成功することを祈った。最終日の天気は霧が出て撤退には好条件となった。午後9時に最後の哨戒部隊が異常なしを伝え、モナシュは最終部隊に次ぐ第二陣部隊425人の一員となって浜辺を離れた。最後まで残る約2000人の兵のうち、170人は第4旅団の兵士たちとなった。しかしその際、モナシュは日記や手紙、作戦書(本来は破棄すべきなのだが)を入れたカバンを旅団司令部に忘れるという不注意極まりない失態を犯してしまい、当番兵に取りに行かせる羽目になった。自動発射装置やブービートラップを設置したうえで、20日午前2時までにすべての塹壕からの撤収が終わり、午前4時頃には最後の兵士の乗船が完了した。午前7時にオスマン側による攻撃が行われ、塹壕無人となっていることを初めて知ることになった。アンザック・コーヴでの長い苦難の戦いはこうして終わり、スヴラ湾地区からの撤退も1時間後には完了した。(※4月25日の上陸作戦の経過とは対照的であることが皮肉な話ではあるが)約1か月前から参謀将校たちが入念に準備を進めてきた結果、アンザックおよびスヴラ湾地区からは20日までに約83,000人の兵員が、大きな犠牲が生じる事なく撤退することが出来た。モナシュもまた、撤退作戦は立案から遂行に至るまで全てが見事であったと賞讃した。

 

 アンザック・スヴラ湾からの撤退からの約3週間後の1916年1月8~9日、ヘレス岬側でも約35,000人の兵員の撤退し、ガリポリ戦役は終わった。連合国軍は戦役を通して延べ489,000人を動員したが、人的損害は戦死46,006人、負傷86,169人にのぼり、そのうちオーストラリアは戦死7,825人、負傷17,900人、ニュージーランドは戦死2,445人、負傷4,752人であった。戦病者・戦病死者を含めた際の人的損害は約260,000人にのぼるとされ、傷病によりガリポリ以降は兵役に就くことが出来なかった者も多く見られた。ダーダネルス海峡を制圧したのちオスマン帝国を降伏に導くという戦略目標は何ら達成できず、戦役としては惨憺たる結果に終わった。オスマン側の人的損害も戦死約56,000人、戦病死約20,000人を含む約250,000人にのぼるという統計があり、連合国軍の戦略目標を阻止した一方で多くの代償を支払った[Prior, 2009][Erickson, 2010][Macleod, 2015]。

 

 しかしながら戦略・作戦上の問題点を批判することと、将兵たちが戦場で示した卓越性や帝国への貢献を賞賛することは併存しうるものと見なされ、同時代の段階からオーストラリアやニュージーランドでは国家としての成熟を示す「アンザック神話」として、イギリス本国では(※『ローランの歌』を引用してガリポリ戦役を悲劇や敗北ではない偉業として表現した桂冠詩人ジョン・メイスフィールドらを嚆矢として)ガリポリ経験の美化・擁護にも繋がりうる「英雄主義・ロマン主義的な」ガリポリ・イメージとして、急速に伝説化が進んでいくことになった[Macleod, 2004, 2015][津田、2012]。公式従軍記者で大戦後は公刊戦史の編纂に携わったビーンは、1924年に著した公刊戦史の第2巻の中で、「オーストラリアの国民意識が誕生したのは1915年4月25日である」と早くも結論付けた(※客観的な叙述が求められる公刊戦史においてここまで断言されるのは、特筆すべき点であると言える)。モナシュもまたヴィクに宛てた手紙の中で、自分たちがアンザック・コーヴに上陸したことは「バラクラヴァの軽騎兵突撃も霞んでしまうような」英雄的偉業であるとまで断言していた。加えてモナシュはチャーチルと同様、ガリポリ戦役は戦略的には正しい判断であり、その準備と具体的な遂行の段階において問題点があったとする見解を強く抱いており、エジプトに対するオスマン帝国の本格的攻勢をなくしたこと、ブルガリアの参戦を遅らせたこと、オスマン帝国の主戦力を引きつけて消耗させたことなどを根拠として、完全な敗北では決してなかったことをあくまで主張した。そのためモナシュは「アンザック神話」のみならず、イギリス本国における「英雄的・ロマン主義的な」ガリポリ・イメージの浸透にも間接的に加担する形となった。

 

 ガリポリ戦役の期間、とりわけ8月攻勢におけるモナシュの軍隊指揮官としての評価は議論を生むことになった。先述のようにバードウッドの作戦計画自体に難があったことを踏まえれば、一旅団長のモナシュが奮闘したところで戦局に影響を及ぼすことには限界があったとする見解も一理あるとはいえ、攻勢前に旅団将兵たちの健康状態を正しく把握していなかったこと、攻勢中も前線の状況把握や通信に困難を生じさせたことなど、モナシュ自身の作戦指揮にも問題点は少なからず生じており、これらに関しては後年に至るまで公刊戦史・部隊史等で批判を完全に免れることは出来なかった。ビーンは8月攻勢中の日記の中で、(※この時点では戦闘の経過や前線の様相を詳しく知らなかったことの影響もあるとは言え)「ローン・パインやジャーマンオフィサーズ・トレンチで犠牲を出しつつも陽動作戦は成功していたにもかかわらず、モナシュは敵軍に阻止される前に自ら旅団を停止させ好機を逃した。ウォーカーやシンクレア=マクラガン、マクローリン、マッケイであればそのようなことをしたとは思えない」と主張してモナシュを辛辣に批判し、後日の日記でも前線指揮官としてモナシュは高齢過ぎて活力に欠けると表現した。ビーンの批判は公刊戦史の中ではトーンダウンが見られるものの継続し、第2巻ではモナシュが従事した任務は(※前線で果敢さを示すウォーカーらとは異なるタイプの指揮官であるにもかかわらず)南北戦争におけるストーンウォール・ジャクソンやJ・E・B・ステュアートのような気質が要求されるものであったとして、「旅団よりは師団を、師団よりは軍団を」率いるほうが向いていると結論付けた。

 

 ただしモナシュや第4旅団をめぐる評価は、同時代の段階から必ずしも全てが厳しいものとは限らなかった。師団長のゴッドリーは1915年11月にピアース防衛相に対し、モナシュは最も卓越した旅団長の一人であり、第4旅団は困難な戦場でも最大限の勇敢さをもって戦ったと報告していた。ただし8月攻勢後の夫人宛の手紙の中では、各部隊は最善を尽くして戦い戦果としてはこれが精一杯であっただろうと結論しつつも、モナシュの第4旅団の実力はNZ歩兵旅団や第29インド旅団に比べて不十分な面があったと説明している[Pugsley, 1984]。作戦をめぐる議論でしばしばモナシュと衝突したコックスも、8月11日に夫人に宛てて書いた手紙の中では第4旅団の能力を評価し、前線にもっとオーストラリア兵が欲しいとまで語っていた。そして公刊戦史を著したビーンも、大戦終結後の1919年にガリポリ半島を再訪して8月攻勢の戦場を実際に調査したり、史料や証言を収集して公刊戦史の叙述を行う段階になると、第4旅団に対する見方を改めるようになった。公刊戦史の第2巻ではモナシュに対しては先述したような言及を加えつつも、971高地を占領する任務は立案段階から非常に困難なものであったとして、8月攻勢におけるモナシュや第4旅団の責任を深く追及することはなかった。また1933年に刊行された西部戦線を扱った第4巻(※第二次ブレクールの戦いにおける第6旅団を扱った箇所)では、ガリポリ戦役において第4旅団がモナシュ・ヴァリーの前線を確保し続けたことは、アンザック・コーヴへの上陸やローン・パインに比肩されるオーストラリア帝国軍にとっての偉業であったと表現した。なおモナシュ自身は「8月攻勢における自らの旅団の働きぶりには満足しており自身の指揮には落ち度は無く」「サリ・ベアでの戦いは最も達成感ある任務であった」とガリポリ戦役中にヴィクに宛てた手紙の中で語るなど、同時代から批判には向き合いつつも自らの正当性を主張する立場を見せていた。

 

 アンザック軍団の旅団長たちの大多数(※パートタイムの市民軍しか経験がない者はもちろんであるが、正規軍のシンクレア=マクラガンやジョンストン、ショヴェルらであっても部隊指揮の経験は限られていた。例外的に正規軍出身のウォーカー師団長は前線指揮官としての果敢さや卓説性が評価されているが、ジャーマンオフィサーズ・トレンチへの攻撃中止をなかなか決定しなかったなどの失策も生じた)にとってガリポリ戦役は大きな試練となり、モナシュ一人が挫折を経験したわけではなかった[Roberts, 2018]。「活発さに欠ける」という批判が一部ではみられるものの、傷病のために離脱した指揮官が少なくなかったガリポリ戦役において、モナシュは何度か病気は経験したものの前線で過ごした期間は他の将官たちに比べて長期に渡った点は、特筆されるべきことであった。また8月攻勢の「暗黒の日」を経た後でも、上官や同僚、部下たちからのリスペクトが揺らぐようなこともなかった。戦役の後半の段階でもハミルトンやバードウッドはモナシュを旅団長として非凡・模範的であったと評しており、ホワイト参謀長も後年、モナシュは(※将官としての体型や若々しさという点は見劣りしたとしつつも)常に任務を遂行していく不屈の意志を持った人物であったと結論付けていた。副官を務めたマクグリン中佐は、旅団での勤務で不安を感じることがなかったのはモナシュの力によるものだと評し、後年に至るまでモナシュの最も強い支持者となった。バーネイジやカナン、ポープといった大隊長たちからも尊敬を集めており、彼らとの親交も深まっていた。

 

 12月20日午後4時過ぎ、ガリポリ半島から撤退した第4旅団の将兵たちはレムノス島の宿営地に到着した。将兵たちには撤退の悲壮感は少なく、むしろ安堵感やクリスマスの祝祭を楽しみにしている様子も見られたという。モナシュはそこで作戦成功のスピーチを行った後、戦いを振りかえった4,000語程度の日記調の手紙をしたためて故郷に送り、妹のマットはそれをタイプして複製を作成した。その後手紙はキャサリン・ディーキンやその弟のアルフレッド・ディーキン夫妻ら著名人にも読まれ、「ロバート・スコットの南極探検日記に比肩される」とまで言われ好評を得たという。ヴィクは検閲部長のホール大佐に手紙の出版許可を求めたが、戦時報道や検閲の関係でこれはかなわなかった。モナシュと第4旅団の将兵たちは、1915年のクリスマスをレムノス島において穏やかな形で迎えることが出来た。モナシュは後年、戦中のクリスマスの中ではこの年のものが最も印象深かったと回想している。しかし第4旅団はボクシング・デイの翌日にはエジプトに向けて慌ただしく移動し、モナシュは1916年の新年はイスマイリアで迎えた。ガリポリ戦役を経たアンザック軍団は次の戦場に向かう前に、休養や再編に努めることが何よりも急務となっていた。もはや戦争の早期終結は見込めない情勢となっていたが、それでもモナシュを含めたアンザック軍団の将兵たちは、掲げた大義や帝国への貢献のために、「最後の一人、最後の一シリングまで」戦い続けるしかなかった。

 

 

参考文献

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John Macquarie Antill/Henry Gordon Bennett/Sir Leslie James Morshead/Sir Keith Arthur Murdoch/Sir William Joseph Slim/Alexander Henry Whiteを参照しました。

 

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Meldrum, Williamを参照しました。

 

 

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